2018/11/20

「いま・ここ・わたし」を離れたことば


以下に引用するのは、下の章を使った授業を受けた院生さんの感想の一部です。


Experience and Thinking (Chapter 11 of Democracy and Education)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/11/experience-and-thinking-chapter-11-of.html





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■ OT君

第11章ではこのような表現があった。

“a mere verbal formula, a set of catchwords used to render thinking, or genuine theorizing, unnecessary and impossible”


この表現が示すように思考の伴わないあるいは伴わせることのできないような表現や言葉の使い方が現在の英語教育において非常に多いのではないかと感じる。私たちはことばを教える教師として十分なことばの使い方ができているのだろうか。ことばをただ記号として扱い、その意味をなおざりにしてはいないだろうか。

今学期は授業研究に関する授業をとっていたこともあり、公開授業研究会にできるだけ参加しようと思っていた。2学期以降このような公開授業研究会は様々な全国の様々な地域で行われており、インターネットで調べても多くの研究会の情報にアクセスできた。しかし、それらの情報を見ていて困ったことがあった。ウェブページには実施される日程、学校、研究授業のテーマなどが記されているのだが、授業のテーマの部分を見てもいまいちどのような実践を行うのかわからないのである。実践内容の例を挙げると「主体的・対話的な学びを促す授業の工夫」「知識・技能を活用した思考力・判断力・表現力の育成」「論理的思考力・表現力を身に着けさせるための指導の工夫」「生徒の主体的な学びを促す授業の工夫」などなどである。これらの文言は少なからず見られた、というよりも多くはこのような表記をしていた。公開授業研究会として行っている以上、これらは学校外の人に向けて発信されている情報である。しかし上の文言を見て「へえ、独自の実践で面白そうだな。行ってみようかな」となる人がどれぐらいいるのだろうか。僕はこれらのテーマを見たときにどのような実践なのか全く想像することができなかった。同時にどのような意味を持ってこれらのテーマを設定したのか、疑問も覚えた。

この例でも当てはまると思うのだが、ことばの上だけで成立する観念や概念ばかりが知識として教育の中で流布しており、何となくその意味もよくわからずに使用しているように感じられる。本来重要なのは、ことばが私たちの生活においてどのような意味を持っているのかということである。空気中にぽかんと浮かんだような概念としてのみことばを使っていては、ただ無味乾燥なことばとしてしか存在しないだろう。上の例でいうと、思考力は思考力でもどのような文脈(例えば文章を書くこととか)における、どのような類の思考力(例えば推敲して文章をよりよくするとか)を想定しているのか教師の方で提示できていない。したがって思考力ということばがただ存在しているだけで、見た人がそこに具体的な意味を感じ取ることができないのである。教師や学校がそれをできないでいて、生徒に求めるのは難しいのではないかと思う。(言語)教師である以上ことばに対して敏感な態度をとれるようにしなければならない。



■ MT君 

第11章の内容は、私にとって非常に耳が痛い内容でした。

 第11章でデューイは、「経験」に能動的な「試み」と受動的な「受け入れ」という二つの側面を認め、「経験から学ぶ」とは、私たちの行動とそれが導く結果をつなぎ合わせ、その関係性に異議を認めることであるとしています。さらに、その行為と結果の間に「思考」を介することによって、私たちの経験はより知的で豊かなものとなり、将来的な「ねらい(aim)」に向かって活動を続けることができると述べられていました。
 
 よく、「何事も経験だ」と言われますが、その言葉はとりあえず考えなしで行動することを推奨するものではありません。その行為とそれが導きうる結果との間に思考を巡らせず気まぐれに行動する、または惰性で行動するならば、その行為は経験と呼ぶことはできません。自身の生活を振り返って、いったいどれほどの行動が私の「経験」となっているかと考えると、少し憂鬱な気持ちになりました。
 
 教育についても同様で、例えば自身が行った授業を省みても、その中で生徒は思考を伴う「経験」をすることができていたと自信を持って言うことはできません。例えば、およそほとんどの中高で行なわれている "Repeat after me” を私も授業の中で取り入れていましたが、それは生徒の思考を働かせるどころか、生徒の身体を心から引き離す機械的な活動であったと反省しました。一斉授業の中で単なる音声復唱を繰り返し、自宅学習で音読をするよう促すことは、生徒に機械的な習慣を押し付け、英語学習とは無機質なものであるという印象を持たせることに繋がりかねません。単に "Repeat after me” とするのではなく、生徒がその例文を頭の中で描き意味を持たせられるような場面設定や言葉がけを十分にする、そして今音読をするということによって将来の自分にどのような変化が現れるかということを生徒自身が考えるきっかけを与える必要があったと今になって思いました。



■  FO君

第11章でデューイは「経験と思考」に関する議論を行っていますが、その中で彼は心身二元論を徹底的に批判しています。デューイによる心身二元論批判にはいままでの授業において私たちが批判的に見てきたものが数多く含まれているように思えます。

 心身二元論は身体と精神を2つの切り離されたものとして考えます。今までの授業の予習や復習において私が述べてきた「生徒を容れ物とみなす教育観」はまさにこの心身二元論の考えに基づいています。生徒の身体から、ないしは生徒による学びから精神が引き剥がされた途端に、彼らは中身を満たすべき空っぽの容れ物と化します。このような人間感に基づいた教育が生徒を世界に向かわせることを否定している、ということは繰り返し述べてきたとおりです。

 一方、生徒の身体と精神を切り離して考えるのではなく、それらがピッタリと重なりうるものだと捉える人間観が生徒を単なる「容れ物」とすることはありません。このような人間観においては、身体と精神はばらばらに切り離されたものとして存在するのではなく、身体そのものが世界を指向する意識である、と考えられます。ここでいう「世界を指向する」とは、デューイが第1章から繰り返し述べている通り、「生きること」や、本章でのことばを借りるなら、「経験すること」と言い換えることができると思います。

 デューイは教育を、人が人として生きるために必要なものとして考えているため、教育について議論する際に、生きること(すなわち世界へ働きかけることで享受できる変容)についてことばをかえながら何度も語っていることがわかります。本章ではデューイは「どのように世界に働きかけるのか」ということに関して詳しく述べることで、「ただ活動すること」と「経験すること」の間に明確な区分を設けています。

 これらの違いを私なりに一言でまとめるなら、前者と後者を隔てるものは思考の有無です。デューイは本章において、“Thinking, in other words, is the intentional endeavor to discover specific connections between something which we do and the consequences which result, so that the two become continuous.” と述べていますが、彼が思考をendeavor(努力)と言い換えていることには大きな意味があるように思えます。ここで言う「思考」とは明らかに何かを新しく生み出すこととは同義ではありません。デューイがここで用いている「思考」とは、上にも引用したように、私たちが何かをなすこととその結果との間の関係を明らかにし、それを継続的なものにする営みを指します。

 私たちがなすことに対するその結果はまさに今、私たちの眼の前に明らかな形で提示されているものではありません。ですから私たちがなすことがもたらす結果やそれらの関係を考えるときに、私たちは過去の記憶を引っ張ってきて、それを元にするなどして、まだ起きていないことを予想する必要があります。この時に明らかなことは、私たちはそうするときに「いま・ここ・わたし」を離れているということです。言い換えるなら、思考とは「いま・ここ・わたし」から離れた場所に自身を投射する力を意味します。いま、この場から離れた私以外のもの(過去/ 未来の私、ないしは他人)がどのように感じるのか、ということにまで意識を延長してみる、そんな力がここで言う思考である、と私は解釈しました。

 このように私たちは今この場にいる私以外のものに自身を投射して、そこから自身の行動やそれに伴う結果を思考することができるのですが、そうして思考したものは常に不確かさを身にまとっています。まだ起こっていないことに関する予測をたてることができても、それを断言することはできません。このような状況をデューイは “Where there is reflection, there is suspense.” ということばで表現しています。私たちが「単なる活動」ではなく「経験」をしようと試みるとき、あるいはその経験をより良いものにしようと試みるとき、「いまここにいるわたし」を離れて多くのことに意識を向けます。しかし、そこから得られた予測は私たちの中に確固たる真実として刻まれるのではなく、それが明らかになるときが来るまで「宙ぶらりん」の状態で保持されます。世界に働きかけ、多くのことに意識を向ければ向けるだけ私たちはこの「宙ぶらりん」を抱えて生きることになります。だからこそ私たちに必要なのは「正しい/ 正しくない」の判断を急ぐことではなく、その判断を「一時保留」にする能力であり、これがまさに「わからなさとの向き合い方」なのだと思います。



■ KK君

Dewey argues that nature of experience consists of both active and passive aspects. We take initiative to try something, and we undergo the corresponding results. Through those results which may be disappointing or delighting, we learn something that is connected with ourselves. Thus, all the experience becomes a process of learning. If we rethink the status quo of the current education from this perspective, we will realize that it is so hard to find real experience in ongoing education because active trying is absent in vast majority of the cases. Teachers are disproportionately inclined to passive instructions, so students are operated to accept certain results, bad or good. In this way, they never really get involved in the experience, for they are not the owners of their feelings, and consequences mean nothing important for them. Only when students are active to try something, can they pay attention to the corresponding result, in which they also actively find the connection among things, and learn to attach the meaning to the things.

  Another very sensational argument from Dewey is dualism of mind and body. I held a strong empathy while I was reading the comment on Japanese Education from Professor Yanase. Back in China when I was a primary school student, all the teachers told me to be quiet and remain put as much as I could because this is what a good child should behave like. So I tried my best to keep the back straight and fold my arms in front me on the desk. Apart from the pain resulted from keeping the same posture for a long time, I kept hiding my true feelings or facial expressions even when I felt something so interesting or so exciting that I wanted to shout out loud or just jump from my seat. This similar way of class education is still prevailing and ongoing, and the concept of mind-only education has got the best of teachers and students for a long time. However, as an exciting mind is ready to look for an equally exciting body, mind becomes disappointed and sorrowful because of the separation forced upon them. Thus, mind can never work well if body participation is missing. There is no such as a thing called mind-only education, for mind and body always go hand in hand.





「帰ってきたヒトラー」と「時計じかけのオレンジ」


学部一年生向けの「英語教師のためのコンピュータ入門」では、とても基本的なものではありますが、いろいろな課題をコンピュータを使ってやってもらっています。課題としては「大学時代にやりたいこと」など、学生さんの意欲や興味に即したものにしようとしています。

そういった学生さんの中に、ヒトラーについて不用意な言及をした学生さんが一人いましたので、ヒトラーの言及を無思考的にタブー化するのではなく、人間の世の中を考える上で重要な(そして危険な)ことばとして考えるように短く助言しました。

以下は、その学生さんからの授業振り返りです。学部一年生といった若い時代に、いろいろと広く(そして深く)教養をつけてくれればと願っています。



 



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今回の授業の冒頭部分でヒトラーというトピックの扱いについて指摘されたとき、無知が招いてしまう大きな誤解の危険性を垣間見たように思う。私自身としてはヒトラーがある種センシティブなトピックに分類されることは重々承知していたつもりではあったが、より詳細に誤解を招くことのない脚注をつけることを怠ることの恐ろしさを強く実感し(そもそもヒトラーの個人演説とdialecticsを同一カテゴリーの中に入れていた時点でことの繊細さを重々承知していたわけではないのではないかと思うが)、これが失敗の許される授業現場でよかったと心底安堵した。

 ここで私が先日作成したスライドにこの場を借りて注釈しておくと、私自身ヒトラーの思考に傾倒するつもりは毛頭ないし、ファシズムについて深い見識を持ち合わせているわけでもないが、彼の演説力には無知な私にもわかるほど目を見張る工夫が凝らされており、それを応用することで学級経営に必要な統率力の向上に役立つのではないかという考えのもとリストアップした。決して彼の価値観に触発されたという理由ではないことを明記しておく。

 ところで今回の授業後に彼の経歴をザッピングしてみるうちに、なぜそのようにあまりにもゆがんだ正義を遂行してしまったのか、という疑問とアドルフ・ヒトラーという人物自体に対する興味を自らのうちに感じた。彼を題材とした映画や彼の著書を通して全く自分に共通点のない思考回路を知っておくことは多様な生徒を扱ううえで必要なことであり、どんな規模であれ繰り返されかねない歴史を二度と繰り返させないためにその事例を学ぶことは重要である。長期休みの合間にでも紹介されていた「帰ってきたヒトラー」等を見て理解を深めようと思う。




映画といえば、個人的な話ではあるが「時計じかけのオレンジ」を先日借りて観てみたときに感じたことを、授業の振り返りという本筋とは外れるが覚書程度に書き留めておこうと思う。以前から興味があり、いつか観ようと思っていた映画であったので個人的に非常に楽しんで観ることができたが、作中で鮮烈に描かれていた悪人矯正のプロセスを見ているうちにいきすぎた抑制によって降り注いだ主人公の苦難は教育現場でも起きかねないのではないかという危惧が頭をもたげてきた。つい最近まで主流であった多様性を排斥した画一的な教育に、社会が今もなおとらわれているのであれば、この事態は十分起こりうる。例えば少し騒がしい子供、例えば人と話すことが苦手な子供、例えば勉強はできないが一つのことにすさまじい集中力を放つ子供たちにそれらしい病名をつけ、投薬などの治療を試みて万事解決としているケースはこれにあてはまり、現在もなおこびりついた問題であると私自身とらえている。

 作中、主人公である彼は最終的に自らの性質(ここでは自分らしさを指している)を取り戻すことができたが、はたして映画のように社会に病気というレッテルを貼られた人々は全員救われていくだろうか。個人の性格という根本的な問題をひとまとめにして掃き捨てるような扱いをしていてはいつまでたってもこの問題の解決という方向に事態が傾くことはないだろう。教員不足が叫ばれている現状ではもはや理想論にすぎないのかもしれないが、少なくとも教育現場では少しでも生徒一人一人について個別の接し方をするべきではないだろうか。「教育が変われば社会が変わる」、そんな言葉を信じてみる時代がついに訪れたのかもしれない。



2018/11/19

平成30年「教員採用セミナー」(英語教育学講座主催・広島大学後援会共催)


  3年生を対象とした「教員採用セミナー」が,吉賀忠雄先生と中川明香先生を講師にお迎えして,今年も開催されました。

吉賀先生は,広島県廿日市市立大野学園(大野西小学校・大野中学校)の校長先生を最後に定年退職されて,今年から本学の教職大学院で教鞭をとっておられます。教育委員会の要職を歴任された経験や現在のお立場から,教員の仕事の特徴や,予測不可能なこれからの時代の教員に期待されることなどを,お話くださいました。締めくくりには,AEDの普及を訴えるビデオを見せてくださり,教職というのは,何より大切な児童生徒の命を預かる仕事であることへの自覚も促されました。




 中川先生は,広島県立総合技術高等学校に勤務されてまだ数か月の,初任の先生です。「教師って大変?」「教師って楽しい?」など,3年生が最も知りたいことを取り上げて,1年目の教員生活について話してくれました。働き方改革が進みつつある学校で,いろんな場面で生徒から歓びを得ていることを紹介し,生徒のためにしていることは,「全部自分に返ってくる」と語ってくれました。そして,採用試験対策の具体例を挙げて,教員採用試験を目指す後輩を激励してくれました。

教育実習を終えたばかりのこの時期に,教職をより深く理解し,やりがいを想像することで,卒業後の進路選択に大きな弾みがついたことと思います。3年生の皆さんには,終盤に差し掛かった大学生活を,さらに充実したものにしてほしいです。

最後に,このたびの講師をお引き受けくださった吉賀忠雄先生と中川明香先生に,心からのお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

(樫葉みつ子)



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 教英を卒業し,教職について半年。毎日に必死で,先ばかり見て走ってきたところでしたが,同じ英語教師を目指す後輩に向けてお話をする機会をいただき,私も今までの自分の仕事を振り返ることができました。また,将来や英語教育について真剣に考えている後輩と話す中で,逆にこちらが刺激を受けました。

 当日は,「やっぱり教師ってブラック?」など,私自身が教員になる前に不安に思っていたこと,そして教師となった今,日々生徒からもらっているたくさんのやりがいや喜びについてお話しさせていただきました。

 後輩の皆さんに改めてメッセージを送るとしたら,やはり,私はぜひ教英で学んだあなた方に英語教師になってほしいのです。英語を学ぶ喜びや楽しさを知っていて,それを生徒に実感してもらう方法を最高の環境で学んだ皆さんと出会えたなら,生徒はきっと英語が好きになるだろうなあと思います。そして,教英卒業後全国各地でご活躍中の先輩方,皆さんと共にこれからの英語教育を担ってゆけるのなら,この未熟な卒業生にとってこれほど心強いことはありません。

(中川明香)










教員は生徒を教育する環境の一部であり、全体ではない


以下はDeweyのDemocracy and Educationの第10章を読んだ授業に参加した大学院生の振り返りの一部です。



Interest and Discipline (Chapter 10 of Democracy and Education)







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■ MT君

  私自身も含め、教師の多くが、教えることが好きで、教えたいという感情をどこかで持っています。教えやすい環境を整えるために、規則を設定し生徒の行動を制限し、宿題を課し学習進度を揃えるということが一般的に行われています。学級を集団としてとらえる場合、そのような規則や課題が有効に機能する場合ももちろんあるのでしょうが、そのような場合には、集団を構成する生徒一人一人に十分目を向けることができず、生徒一人一人「観察する」ということがおざなりになってしまうのではないでしょうか。重要なのは「教師が教える」ことではなく「生徒が学ぶ」ことです。
 
 優れた実践者の多くは「教えない」授業を行っているといいます。「教えない」と口で言うのは簡単ですが、何も考えずに「教えない」授業を実践しようとすることは、無秩序な学級を招きかねません。優れた実践者は、生徒をよく観察し、教師と生徒の間に人間的な関係性を築いているからこそ、「教えない」授業が可能になっているのだと思います。その結果、生徒一人一人の興味を尊重することができ、「こころー身体」が一体となった指導を行うことができているのではないでしょうか。我々は優れた実践者から、形骸的な授業方法を一般化して取り入れようとするのではなく、彼ら彼女らがどのような目で生徒を観察し、どのような指導の軸を持っているかということを学ぶ必要であるのではないでしょうか。



■ FO君

  第10章でデューイは主に、興味と自制について述べていますが、授業では特に学習者の興味について多く話し合いましたので、ここでは特に興味についてまとめて今回の振り返りとさせていただきます。

 デューイが学習者の興味について深く掘り下げたのは第10章が初めてですが、彼は今までの章でも興味について触れています。例えば、第2章においても、興味や関心は物理的な運搬によって学習者にもたらされるものではなく、学習者が身を投じている環境からの作用によって生まれると述べています。つまり、デューイは、興味や関心といったものは直接的な伝達や文字通りの注入は不可能である、と主張しています。この考えは第10章においても述べられている上に、現在の英語教育に目を向けるにあたって大変重要な考えになってくるように思えます。

 “Interest and concern mean that self and world are engaged with each other in a developing situation.” とデューイは第10章で述べていますが、この一文には彼が、興味や関心を「自身と世界が共に発達する中に立ち現れるもの」、として捉えていることが読み取れます。環境が教育するのであり、教員のできることはその環境を整えることだとデューイは述べていますが、より語弊のないのように言うなら、教員は生徒を教育する環境の一部であり、全体ではない、ということを主張しています。このような環境と学習者の関わりの中に彼らの興味や関心は生じうるのですが、この考えに依拠したときに私は、現在教育に限らず、多くの場面で口にされている「興味づけ」ということばに違和感を覚えるようになりました。

 先にも述べたとおり、興味とは決して「モノ」として存在し、物理的な運搬ができるようなものではなく、実感として私たちの中に浮かび上がってくるものです。しかし、「先生が生徒に興味づけをおこなう」と言ったときには、なにか先生が目に見える「モノ」を生徒に手渡しているような印象をうけます。例えば、最近ではよく英語の授業でICTを用いていたり、たくさんの活動で構成されている授業を見かけたりします。そしてこのような「ICT」や「活動」を「興味づけの道具」としている授業は数多くあります。この事自体には私はなんの違和感も抱いていません。これらは授業を作る上での工夫としてカウントされてしかるべきでしょう。私が違和感を持たずにいられないのは、このような工夫それ自体が生徒の興味としてカウントされている状況に対してです。

 学習者の興味とは与えられるものではなく、自然と立ち現れるものです。ICTを用いるなどして、生徒が学びの中に興味を見つけることは十分に起こりうる事ですし、それがICTの本来の使われ方でしょう。授業中の活動や教師が生徒にご褒美として与えるスタンプやシールなども然りです。これらを媒介に学びにまで意識が伸び、そこに興味が生まれたときに先程いくつか例に挙げた「装置」は正常に機能していると言えるでしょう(もしも、ICT、活動、スタンプ、シールに対する意識がそこから広がらないなら、それは「学び」に対する興味とは言えないでしょう)。私が感じる違和感は、教師の「関心」がICTを使うこと、活動を行うこと、それ自体にしか向いていないのではないか、という疑問に起因しているように思えます。

 授業においてICTを用いたり、多くの活動を取り入れたりすることにはもちろん意味があります。今までの章でも繰り返し述べられてきたことですが、教師が生徒を「容れ物」とみなし、一方的に一杯一杯の状態にするのでは、彼らは知識は得るかもしれませんが世界には目を向けなくなります。このような事態を避けるためにICTや活動などは大きな役割をもっています。このような舞台装置を用いて生徒が象牙の塔に籠もってしまうのではなく、世界に語りかけるように教師は促します。そして、そうして語りかけた世界と自己との交わりの中に生徒は興味を見出します。それは実物としてのなにかを掴むようなものではなく、何かにのめり込んでいるという実感として感じられるものです。このように、ICTや活動などが担える役割は「学習者を世界に向かわせる」ことであって「学習者の興味そのものになる」ことではありません。

 このことを忘れて、「活動をすること」、「ICTを用いること」それ自体に興味があるとする生徒の興味や関心に対する軽薄な理解は、それらを用いることそれ自体を目的としてしまいかねません。つまり、「ICTを使うこと」、「活動を行うこと」に意味があるという間違った考えを導いてしまう恐れがあります。手段であったはずのものが、その本来の目的を忘れ、目的と化してしまうことを私は「形骸化」と呼びますし、そうなった途端にあらゆる手段はその教育的能力を失うと強く信じています。そして、形骸化された手段を何度も押し付けられた生徒はきっと「なんでそんなことしないといけないのか」、「それをしてなんになるのか」という疑問を投げかけてくるでしょう。

 私は、このようにして教育に傷つけられてきた生徒は数多くいるのだろうな、と予習の際に思ったのですが、授業ではより恐ろしい考えが私の中に浮かび上がりました。それは、自身の行動に興味や関心が欠落しているということに気づいていない生徒が相当数いるのではないか、ということです。特に大学受験などに力を入れている進学校などにおいては「とにかくやる」という姿勢がデフォルトになっています。そのため、生徒は自身の行っていることに自身の関心や興味が無い状態に疑問を持つこともなく、「それでもやるのが普通」という態度を知らず知らずのうちにとってしまいます。この姿勢に必ずついて回る危険は、以前にも指摘したとおり、「受験」というゴールが終わった途端に学びそのものが終わってしまう、というものです。私はこのような押しつけを「抑圧」ということばを用いて表してきましたが、現在の生徒たちは自身がこのような抑圧下に身をおいている、ということにすら無自覚であることが、往々にしてあるのではないでしょうか。

 興味や関心が伴わない学びがデフォルト化してしまうことの危険性に教師は明らかに気づいておく必要があるのですが、それ以上に、その危険性に生徒自身も気づくこと、そしてそのような抑圧を受けているかもしれない、ということを彼ら自身が自覚することがこれからの教育に求められなければなりません。「興味のない学び」による抑圧からの解放は、「自身が抑圧下にある」という自己に対する気付きに始点を有します。この振り返りの冒頭でも述べたとおり、教師は生徒が学びを拾い上げる環境の一部であり、全体ではありません。そのため、教師にできること限られているはずです。教師はいかなる状況であっても、どのような生徒に対してでも、興味を直接的に与えることができる、という考えには私は賛同できません。だからこそ教師は、生徒を知識で一杯いっぱいの状態にするのではなく、「関心のない学びをしている」ということに彼ら自身が気づくことができるような、風通しの良い環境を整えることに注力する必要があるのではないでしょうか。




2018/11/12

教育における目標設定について


以下は、Deweyの Aims in Education (Chapter 8 of Democracy and Education) をテーマにした授業を受けた大学院生の振り返りです。

私は常に非人間化されるのは生徒である、と思っていましたが、デューイを読み進めるにつれて、「非人間化」の被害者は生徒だけでなく、抑圧を施している教師自身も非人間化のプロセスを歩んでいるのではないか、と思うようになりました」や「ここで問題となるのは、多くの場合、教員の怠慢が教育を非人間化のプロセスへと陥れているのではなく、彼らの勤勉さがこのような事態を引き起こしている、ということです」などというFO君の指摘などについては、いろいろと考えさせられます。






■ FO君

 第8章でデューイは教育の目的がその外部に設定されることについて激しく批判しています。また、教育の目的とはどのようなものであるべきかについても詳しく述べています。授業での皆さんの意見を参考にしながら、自身の考えをまとめて振り返りとさせていただきます。

 教育の目的が教育そのものから離れた場所に設定されることの危険性については予習や前回の振り返りでも述べたとおりです。教育の外部に措定された静的な目的(各種外部試験や大学入試など)は人の学びを終わらせる力を持っています。つまり、目的としている基準を超えてしまうと学習者は学ぶことをやめてしまいます。授業でもこういった試験などが目的となることの危うさについて話し合ったのですが、多くの意見を交わす中で、試験が存在することそれ自体ではなく、テストが持つ「学びを終了させる圧力」に教師が無自覚であることに問題の所在があるように思えてきました。

学習者に学びの終着点(そのようなものは存在しないのだけれど)を見せてしまうようなものが目的となっている教育においては、決まって学びのプロセスではなく学びのプロダクトが強調されます。このような環境では「テストで目標とする点は取れなかったけど、学ぶ過程で私のことばはこんなに豊かになりました」という発言はなんの意味も持ちません。そこで評価されるものは「どのような道を歩んだか」ではなく、「どこにたどり着いたか」のみです。

学びのプロセスではなく、プロダクトが過度に評価される教育観において生徒は常に「知識の容れ物」としての扱いをうけます。良い生徒とは黙って情報を詰め込まれる容れ物であり、良い教師とは、多くを容れ物に詰め込むことができる教師、となってしまいます。今までに何度も述べてきたように、このような「詰め込み型」の教育では、生徒にとって世界とは常に与えられるものであり、自らが関わり、変革を目ざすものではなくなってしまいます。多く詰め込まれることが良いことだという価値観は生徒の考える時間を否定します。このようにして抑圧の教育は成立してしまいます。

今までの授業の予習や振り返りで、私はこのような教育を「非人間化のプロセス」と呼びました。私は常に非人間化されるのは生徒である、と思っていましたが、デューイを読み進めるにつれて、「非人間化」の被害者は生徒だけでなく、抑圧を施している教師自身も非人間化のプロセスを歩んでいるのではないか、と思うようになりました。個人が個人として自己を表現すること、思考を巡らせ感じたものを感じたように伝えること、これらが否定されている環境が当たり前とされていることそれ自体が理不尽な暴力です。このような暴力が「全き人間であること」の条件と合致するとは私には思えませんので、この「暴力」を行っている教師も「よりよい人間であること」からは遠ざかっているように思えます。ここで問題となるのは、多くの場合、教員の怠慢が教育を非人間化のプロセスへと陥れているのではなく、彼らの勤勉さがこのような事態を引き起こしている、ということです。

パウロ・フレイレは『被抑圧者の教育学』のなかで、抑圧されるものは抑圧するものの中に人間としてのロールモデルをみてしまう、と述べています。多くの教員はおそらく今の生徒と同じような抑圧を受けてきたのではないでしょうか。私たちにとって悲劇的なことは、抑圧下にありながらも「たくさん詰め込まれた人」を聡明であると私たち自身が信じていることです。そのため、思考することをやめてでも多くを詰め込こんだ(詰め込まれた)という経験が、「成功体験」として自身の中に記録された瞬間に、自身が受けた抑圧をすっかり忘れてしまうのです。

 たくさん知っているけど考えることができないような教師が果たして自身の取り組みに批判的になれるのでしょうか。私は随分と懐疑的です。抑圧を受けながらも、その「抑圧の結果」に社会から成功体験の判を押された教師は、彼がなされてきたことを自身の生徒にも一生懸命に行うでしょう。そこには悪意はなく、善意のみがあります。教師は、「生徒の人生をめちゃくちゃにしてやろう」という破壊的感情をもって生徒と接するのではなく、多くの場合、生徒の将来を心から願って彼らと接しています。

それでもやはり「思考しないでいること」を見過ごす訳にはいきません。なぜなら私たちは多くの無思考が、私たちが耳を塞ぎ、目を閉じたくなるような悲惨な事件を引き起こしてきたことを知っているからです。

 イェルサレムでのアイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アレントは、アイヒマンの罪は思考するという営みを停止したことにある、と考えました。アウシュビッツ収容所で起きたことは今の私たちにはトラウマティックなもの、として記録されています。しかし、私たちが忘れてはいけないことはアイヒマンが平凡な人間であったという事実です。悲劇を招いたのは、決してひとつの巨悪ではなく、考えようとしなかった多くの凡人です。そして、当時、ナチスに傾倒していた人間全員がアイヒマンになり得たのです。

 アレントの例を極端だと思う方もいらっしゃるかもしれません。確かに、当時のドイツの文脈を無視してこのことについて論じることは適切では無いかもしれません。しかし、考えないでいること、考えることを放棄すること、が凶悪な事件を引き起こしてきたことは歴史が証明きたとおりです。それだけ無思考を貫くことは危険なのです。それにもかかわらず、私たちは「考えない人」を大量に作り上げようとしています。考えないようになることも、考えないことを強いることも、どちらも同じく非人間的な営みなのです。

教育の外部にその目的を設定することは、学びの終わりを告げかねません。そして、そのような目標が生徒に求めることは、往々にして「考えること」ではなく「点数をより多く摂ること」です。そして、より高得点をとることが支配的な価値観となった瞬間に「考えること」は障害物とみなされ否定されます。教育の外にその目的を設定することはこのように、教師も生徒も、その両方を非人間化する力を持っています。私たちはこの危険性を自覚しておかなければなりません。

 では教育の目的とはどのようなものであるべきなのでしょうか。それは明らかに、常に人を学びへと向かわせるものでなくてはなりません。ある発見がまた別の発見を導いたり、ある問いに対する答えがまた別の問いを生み出したりするように、教育の目的とは恒常性を持つ「固定された」ものではなく、常に変わり続ける動的なものであるはずです。今までに何度も述べてきたとおり、人が人として生きることは世界と深い関わりの中で自己の変容や世界の変容という形の学びを繰り返すことを意味します。そしてここで言う「世界」とは、動的であり、常に変わり続けるものです。このような世界との関わりの中で「学ぶ」という営みの目的が静的なものであるはずがないことは明らかです。そしてここでの「学び」とは誰かが誰かを教育するのでも、個人が個人を教育するのでもなく、世界それ自体が、その中に飛び込んだ人間に求めるものです。デューイが述べている「環境が人を教育する」という知見はここにも見て取ることができます。

 知識を詰め込まれるだけの生徒は主体的に世界との関わりを持つことを諦めるようになり、与えられた情報が世界の全てだと思うようになります。ここでいう「世界」も静的で固定されたものです。それはピタリと止まってしまっています。このような世界において、人間が自己以外のものに興味を示し、思考を巡らせ、想像力を働かせることができるとは思えません。人が自由に思考を巡らせることができるときには決まって他者との交わりがあります。言い換えるなら、人は他者との関わりにおいて初めて自由になることができます。ここで行われる学びは、絶えず変わり続ける環境と私たち人間との関わりに始点を有していて、そしてその環境に応じて絶えず変わり続ける目的によって支えられている、と言えるのではないでしょうか。




■ MT君

 我々が日常生活で使う「目標」という言葉は、多くの場合デューイが『民主主義と教育』の中でいう “end" に相当する言葉であると考えられる。 “end” は、それ単体で存在するものではなく、学習者に内在する活動のねらい(aim)に向かって活動するための1つの具体的な到達点に過ぎない。すなわち、具体的な到達目標とは本来、将来的なねらいがあって初めて設定されるものである。
 
 教育の場面のみに限らず、ビジネスや日常生活の場面でも「目標を持つ」ことは重要視されている。確かに、具体的な達成目標を立てることは、そこに向かって活動する原動力となりうるし、そこに到達した時の達成感は誰しもにとって嬉しいものである。しかし、我々は「目標を持つ」ということをあまりに賞賛するがあまり、そのことが引き起こしうる問題について盲目的になっているのではないかということを、今回の講義で考えた。
 
 目標が抱え得る問題点の1つとして、その目標が達成されたか否かでそれまでの取り組みが評価されてしまうということが考えられる。目標に向かって取り組むうちに本来のねらいを見失ってしまい、具体的到達目標を達成することにのみが活動の動機となってしまうことがしばしばある。そのような状況において、人々は、目標を達成することこそが全てで、それまでの活動は手段にすぎないという考え方に陥ってしまう。
 
 例えば、高校の吹奏楽部が「コンクールで金賞を取る」という到達目標を設定したとする。個人としては「楽しく演奏したい」というねらい(aim)を持った奏者が、コンクールで金賞を取るために日々厳しい練習にも耐え、難しいパッセージが吹けるようになるように練習する。その日々の練習は「コンクールで金賞を取る」ための手段にすぎないのである。実際にコンクールで金賞をとれたのなら日々の努力が「報われた」と感じ、結果が銀賞だったならば「報われなかった」と感じてしまう。この場合、このコンクールの一夏で奏者は成長を遂げたと言えるだろうか。
 
 これまでの章でも述べられている通り、成長(growth)とは、日々の生活で自己を変容させ続ける過程そのものであり、その成長を方向づけるものとしてねらい(aim)が存在する。デューイは、日々の活動で何かを成し遂げた結果ではなく、ねらいに向かって活動する過程そのものこそが重要であるとしている。もし、「コンクールで金賞を取る」という他者から押し付けられた到達目標により、自己のねらいが妨げられているのであれば、コンクールを終えた後に残るのは金賞/銀賞という結果のみである。そのように考えると、そもそも「報われた/報われなかった」という考え自体がデューイの主張に反しているように思える。奏者は「楽しく演奏する」というねらいに向かって日々練習をする過程そのものに意味を見出すべきである。日々の活動が個人のねらいに沿うわないのであれば、人々はその活動に意味を見出すことはできず、そこに成長は見込めない。
 
 英語教育においても、同様のことが起こり得るのではないか。学習者の現状やねらいを考慮せず、「〇〇できるようになる」という技能面の到達目標を外部から与えることは、却って学習者の成長を妨げてしまう可能性もある「〇〇できるようになる」を強調しすぎると、そこに行き着くまでの過程が手段として捉えられてしまうためである。その結果、〇〇できるようにならなかった場合、それまでの活動に意義が見出せなくなってしまう。そのような状況は、学習者自身の英語学習のねらいが、外部から与えられる到達目標と乖離している際に起こりうる。 「6年間も英語を勉強したのに話すこともできない。学校英語は意味がなかった」という人が多いのは、そこに理由があるのではないだろうか。
 
 学校(クラス)という組織において、集団としての到達目標を設定するのことは時として求められる。そのような場合、学習者のねらいを無視した到達目標を設定することは、以上に挙げた問題を引き起こしてしまう可能性がある。集団を統率する教師は、学習者一人一人の多様性を認めた上で、それらを包括する到達目標を設定し、彼らの日々の活動を豊かにするような環境を整えることが求められるのではないだろうか。


2年生が1年生向けに教英留学プログラムの説明会を開催してくれました





教英には、2年次前期にイギリスのエディンバラ大学へ約4カ月間留学するプログラムがあります。毎年、この時期から来年度にこの留学プログラムに参加する1年生を募集し始めます。7月までエディンバラ大学へ留学をしていた2年生が、留学を検討している1年生に留学体験について話をしてくれました。

エディンバラ大学での授業やホスト・ファミリーとの生活についてはもちろんのこと、エディンバラのおすすめのお店など様々なことについて話を聞かせてくれました。1年生にはとてもよい刺激になったと思います。今年度このプログラムに参加した2年生はみんな大きく成長して戻ってきてくれました。来年度参加する1年生もイギリスで様々な経験をしてきてほしいと思います。

(西原)

2018/11/02

「人は生きていることを通して学び、学ぶことを通して生きている」


以下はデューイのDemocracy and Educationの第四章を題材にした授業の振り返りです。大学院では英語教育について根底的に考え直すことを目指しています。






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■ FO君

 デューイは第四章で教育の到達点について、“educational process has no end beyond itself; it is its own end” と述べています。このことばは現在の日本の英語教育に辛辣に突き刺さるのではないでしょうか。予習でも書いたとおり、現在の日本の英語教育では、TOEICや英検、大学合格など教育からは離れたところにそのゴールが設定されているように思えます。今回の授業では、ではなぜ教育からおよそ離れた場所に教育のゴールを設定してしまうことは避けられなければならないのか、ということについて多くの意見を交わしましたので、授業を通して考えたことをまとめて振り返りとさせていただきます。

 予習でも触れたのですが、TOEIC、英検、大学入試といったゴールは静的なもので、一度学習者が目標としている点を超えると、彼らを学びに追いやる効力は途端になくなります。つまり、ある一点をもってして学びは完了してしまう、ということです。教育以外のものに教育の到達点を措定することの最初の弊害はまさにこのことに見られます。

 デューイは、教育とは発達(成長)することであり、成長することとは生きることである、と述べています。人は生きている間は成長するものである、という考えは第四章で初めて出てきた考えでではなく、第一章においては「人は絶えず自己刷新を行うことで生命を維持する」と述べられているように、言い方を変えて繰り返し述べられてきたことです。大胆な翻訳を試みるなら、「人は生きていることを通して学び、学ぶことを通して生きている」と言えるかと思います。

 この考えに反し、先程から挙げている各種テストは学習者に「どこかで学びは終わる」という考えを植え付けてしまいます。学校の定期考査などでも、テストの数週間前になるとバタバタとテストに向けた学習を始める生徒が、テストが終わった瞬間に勉強をやめてしまうことは生徒が「どこかで学びは終わる」と考えている確たる証拠であるように思えます。

 外的な要因が教育の到達点となることのもう一つの弊害は学習者の「知らないこと」に対する反応にまざまざと現れます。こちらも予習で少し触れたのですが、「テスト」という外的要因が教育の到達点となった瞬間に、そのゲームにおけるプレーヤーは「知らない」という態度を取ることが許されなくなります。なぜなら、「知らない」ということはテストにおける減点を意味するからです。「知らないでいること」や「わからないでいること」が罪とされる環境において生徒は自分自身を自由に表現できるはずがありません(「わからない」と言えば有無を言わさず減点されてしまうから)。

 そして、「自身を自由に表現できない」ということは学習者を学びの主体から引きずり下ろし、受動的に学ぶことを彼らに強いることになります。受動的に学ぶばかりでは生徒は内向的にならざるを得ない、ということは今までの授業を通しても繰り返し語られてきたとおりです。自ら環境に働きかけることを否定された生徒からすると、世界は常に与えられるものであり、与えられた世界こそが全て、となります。

 もちろんこれは学校の学びにおいても言えることです。内向的になることを義務付けられた生徒は「知識」が口元まで運ばれるのを待つようになります。デューイのことばを借りるなら、彼らは知性からはおよそ切り離された「悪い習慣」によって知識ばかりを詰め込もうとします(デューイがこのような状況を、「私たちが習慣を所有しているのではなく、習慣が私たちを所有している」と明らかな形で表現したことには強い意味を感じます)。

 教育の到達点が固定された静的なものであってはならないのと同様に、ここで言う「知性」も単に「何かを知っている」という落ちつたものではありません。それは、「自分にはまだ知らないものがある」ということを自覚した際の表情であったり、その「知らないもの」と付き合う際の所作であったりにありありと表れます。「知らないもの」を恐れ、そこから目を背けるようにして暮らしてきた人は未知との遭遇に体をこわばらせます。対して、「知らないこと」と向き合うことを恐れない人は、その遭遇に目を輝かせて思わず微笑んでしまうでしょう。

 このように、知性とは「自分の知っていること」ではなく、むしろ「自分のまだ知らないこと」にその軸足をおいています。つまり、知性とは「他人」、ないしは「知らないもの」、より大きく「環境」に自身を規定して初めて生まれる考えであって、それらとうまく付き合っていくことを指すのだと思います。

 現在の英語教育ではこの「わからなさとの付き合い方」があまりにも軽視されているように思えてなりません。人が人として生きていく限りにおいて世界は不思議なもので溢れています。その時々の自分が持ちうる度量衡でははかることができないものなど世界にはいくらでもあります。私はそれでいいのだと思います。世界は多くのwonderで溢れているからこそwonderfulであり続けます。このような世界において生涯学び続けることができる生徒を育てるためには私たち自身が「わからなさ」や「知らないでいること」に寛容になる必要があります。そして生徒たち自身もそれらに対して恐怖を覚えずにすむような環境を整えることが今の教育には必要なのではないでしょうか。



■ OT君

 学校で行われるべき学習とは”learn to learn”あるいは”habits of learning”といったような、学習習慣を身に着けることにあると学んだ。しかし学校教育という制度によって社会の浅薄な一部分にのみ学びが方向づけられているのではないか。あるいは機械的な学習を繰り返すことが学校で身に着けられる習慣になっていないか。学校教育という場の特異性から、学びの課題について考えたい。

 学校の特異性のひとつとして、教科が分けられていることが挙げられる。学校の教科は国語、数学、社会、理科などに分けられ、それぞれの教科内で学習する内容が決められている。国語では読み方書き方を学び、理科では天気や生物について学び、数学では四則演算や方程式を学ぶ。しかし本来世の中の事象というのは各教科のような独立した領域から説明されるものではなく、ひとつの物事に関して様々な要素が関連しあっている。例えば天気をひとつとっても、理科では天気図、数学では確率、国語(英語)では気象予報の表現、社会では天災など、複数の領域に関連している。

 教授効率を考慮して領域は分けられるようになったのだろう。ただ学習者にとってはそれぞれの事象は各教科内の独立した項目として存在し、諸々の事象の関連性とは、社会に実在するそれよりもずいぶん希薄なものあるいは存在しないものとなってしまう。二次関数は数学の教科書に、江戸時代は歴史の教科書に存在するものとして認識されるに終わるだろう。教科という枠組みを超えた教員間の連携がなければ、各教科で学ばれる内容は教科内でのみ成立する、社会からかけ離れた事象になりかねない。

 またテストの存在も学校教育を特異づけるもののひとつである。テストではある一定の期間に学校で教授された内容に関する知識や技能の習得度が問われる。テストは出題者が「これぐらいの知識技能は身につけておきなさいよ」と設定した目標に、生徒が到達しているかを測るものである。それらの目標は特定の人たちが、社会の一部分を切り取って決定している。そこに生徒の興味や関心といったものはほとんど反映されない。テストで社会の事象すべてを問うことなどできないから、こういった事実は仕方のないものだと認められている。

 教師もテストが測れるのは生徒の学習成果のごく一部で、テストがすべてではないことはよく知っている。しかしテストは社会において大きな意味を持っており、教師はテストで生徒がいい結果を残せるように必死に指導する。テストに向けて効率を上げるため、とにかく機械的に知識を身に着けさせる。このとき学習習慣や学びとは何かといったことなど考える余裕はなく、生徒は機械的な繰り返しのうちに学ぶことが何かわからなくなってゆく。このような悪循環の中で、habits of learningは身につくことなく、むしろ学習そのものが嫌になっていく。テストという目標を通過した生徒は次に何をすればいいのかもわからずそこで学習は終了してしまう。

 これらの事実を教師はまず意識することから始めなければならない。もしかしたら日々授業を行いながらこのことはひしひしと感じているのかもしれない。制度は変えられないが少しずつ学びを変革していく努力ができればと思う。


■ MT君

 ... 学びは教室の中のみで完結するものではない。デューイが第3節で "The inclination to learn from life itself and to make the conditions of life such that all will learn in the process of living is the finest product of schooling.” と述べていることからもわかるように、学びの本質はむしろ教室の外にあると言っても良いだろう。

  学校教育の中で教科の内容を生徒が習得する(acquire)こと自体を目的とするのではなく、その教科の内容を知ることにより、生徒が実生活の中での学びをより豊かにする(enrich)ことができる、すなわち学ぶこと学ぶ(learn to learn)ことができるような環境を整えることが教師の役割である。そのためにはまず、教師自身が教科の内容を真に楽しんでいる様子を生徒に見せることが必要であると、今回の講義を通じて考えた。

 デューイの論を踏まえた私の主張は、現在の日本の学校教育の風潮からしたら少し攻撃的な記述であるように思える。最後に弁明しておきたいのは、私は現在の目標達成型の授業観やCan-doリストが害悪で改められるべきものであると考えているわけではない。ただし、現在行なわれている学校教育を最良のものとして捉え、それが正義だと思い込むのではなく、それが抱え得る課題について教師が認識をする必要はあるのではないだろうか。


■ YRさん

  デューイが第4章で述べていることは、学校教育をこれまでよりも広い視野でとらえることにつながった。生きることは発達であり、教育の過程自体に終わりはなく、教育の過程とは、継続的な再構成、再構築、変転であるという主張と、講義での議論から次のことを考えた。

 学校教育が終了すると、教科や教育課程がなくなる。その枠組みがなくなっても、ひとりの人間が人生で発達・成長するために必要な芽は、子供(ここでは学校教育を受けている生徒とする)の時に様々な形態で発現しているのではないだろうか。教師の役割は、それを見つけて適切なguidance, direction, controlで働きかけることだと思う。

 しかし、教師がこの芽を見つけられなければ、さらに言うとそれに関心がなければ、学校教育はその人間にとって意義が薄れるだろう。故に、芽の形態に関する理解が必要である。特に、フィンランドのように国が教科の枠組みを外して教育を広くとらえるような学校でないのであれば、なおのこと教師が気づく必要がある。

 そのためのひとつの方法としては、学校教育を終えて現在生きている人間を、可能な限りで知ることがある。彼らが経験によってどのように自分を「再構成、再構築、変転」させているのかという視点で観察し、そのために必要な力は何であり、それはどうやって育てられるのかを考察してみる。すると、例えば、「忍耐力」、「柔軟性」、「好奇心」といったような、抽象的な概念が発見されるだろう。その要素を、英語教育で、授業で盛りこもうとすることが、日本の教育制度の中で働く教師にできることのひとつであると考えている。また、外部に出ることが少ない日常生活で、教師が身近に接することができる人間が、保護者である。彼らとの接点を、生きることの様々な観点を共有するという位置にも見つけたい。





2018/10/31

テストや学歴といった度量衡でしか教育や学びを考えることができない人が見落としていることは、私たちは「学ぶことそれ自体から快楽を得ることができる」ということです。


大学院のある授業ではDeweyのDemocracy and Educationを読んでいますが、今週は以下の章です。


Education as Growth (Chapter 4 of Democracy and Education)


この章には、以下のようなことばもあり、何度読み返してもいろいろ考えさせられます。


教育とは発達である、とするなら、どのように発達をとらえるかが非常に重要になる。私たちの最終結論は、生きることとは発達することであり、発達すること、言い換えるなら成長することことが生きることである、というものだ。教育に関するように翻訳するなら、次のようになる。(i) 教育の過程に到達点はない。教育以外のどこかに教育の過程の到達点があるわけではない。教育の過程自身が教育の過程の到達点である。(ii) 教育の過程とは、再組織・再構築・変転の過程の一つである。



生き物は、どんな段階においても生きることに対して忠実で肯定的だ。教育とは、人間という生き物に、どんな年齢においても、よりよく生きるための条件が備えられるようにする企てである。生きることは成長することであるから、生き物はどの段階においても、生きることに忠実にまた肯定的に生きている。(中略) かくして、教育の意味とは、年齢を問わず、成長もしくは生きることのふさわしさを確実にする条件を備える企てである、となる。



以下は院生の予習書き込みの一部です。毎週、振り返りと予習のそれぞれで熱心に書き込みをしてくれる院生にはひたすら感謝です。






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■ FO君

 教育のゴールとは何かを考える時に私たちは何か目に見える、わかりやすい成果を考えがちであるように思えます。例えば、良い大学に合格するとかTOEICで良い点を取る、英検に合格する、などです。私はこれらを学習の動機、つまり私たちを学びに向かわせるものとしてみなすことに関しては、それを真っ向から否定しようとは思いません。

 しかし、学校や教員、あるいは生徒自身がこれらを「教育のゴール」としてみなすようでしたら、それには異を唱えなければならないように思えます。現在の日本の教育はとてもその出口が見えやすいようになっています。学校の定期考査や模試で良い点をとり、良い大学を受験し、よい企業に勤める。このように、日本の今の社会は「どれだけ勉強すれば将来どれだけの暮らしができるか」が見えやすいように思えます。

  語弊があってはいけないので慌てて訂正するのですが、テストで良い点とれば必ず良い大学に行けるわけではないし、良い大学に行けば良い暮らし向きが必ず迎えてくれるわけでもありません。しかし、学生は「良い点を取らなければゲームに参加することすらできない」ということも知っています。この状況は明らかに学生にとってストレスフルです。もちろん、このようなバインドがある程度は生徒を学びに向かわせていることも認めなければなりません。

 しかしこのように考えるなら、教育、ないしは学びはたちまち「将来のための投資」とみなされるようになります。より直接的で嫌味な言い方が許されるならば、学びとは将来の暮らし向きを良くするために歯を食いしばって耐えるもの、とみなされてしまいます。そして生徒は「自身の将来」と「現在の我慢」を天秤にかけ、「役に立つもの」のみを選択的に学ぶようになります。

 このような、テストや学歴といった度量衡でしか教育や学びを考えることができない人が見落としていることは、私たちは「学ぶことそれ自体から快楽を得ることができる」ということです。

 デューイも述べている通り、私たちは私たちの生活から学ぶことができます。ここでの「学び」には明らかに目に見えるゴールはありません。そして、それが目に見える、静的なゴールを持っていないがために、私たちは生活を通して学び続けることができます。しかし、TOEICや英検、大学入試などといった目標はどうでしょうか。これらは基準点を一点でも超えると、途端に人を学びに追いやる効力を失ってしまいます。つまり、合格をもってして学びは完了してしまうということです。

 このような「外的な」要因が成長を(ないしはより直接的に「学び」を)閉じ込めているということはデューイが指摘しているとおりです。先にも述べたとおり、現在の教育は多くの生徒にとって「耐えるもの」として機能しているため、これらの外的な要因において点を取ることを教育のゴールとしてしまっては、彼らが学ぼうとするものは「テストの役に立つもの」のみ、となってしまいます。テストに関係のないものは学ぶ必要のないものであり、どんなに新しい発見があってもそれがテストに効果的でない限りは興味や感動の対象にはなりません。

 このようにして生徒は「まだ知らないこと」への感動を失っていくのだと思います。「どれだけ知っているか」を誇示することが支配的である限り、「まだ知らないこと」をさらけ出すことは明らかなディスアドバンテージとなるため、生徒は「まだ知らないこと」から目をそむけるし、耳を塞ぐでしょう。

 しかし、私たちが忘れてはいけないことは、デューイも指摘している通り、すべての人が生涯通して生活から学ぶことができるように環境を整えていくことが教育の最も偉大な成果である、ということです。この目標を達成するために私たち自身が「未成熟」にたいする寛容な姿勢を示さなければならないし、生徒が「未成熟」でいることに異様な危機感を感じなくてすむような環境を作らなければなりません。「まだ知ることがある」ということに罪の意識を感じるのではなく、未知との遭遇に思わず微笑んでしまうような生徒を育てていくことがこれからの教育では必要になってくるのではないでしょうか。



■ OT君

 第4章でデューイは、教育の目的は教育の過程にあり、その過程は連続的な再編成、改造、変形の過程だと述べている。つまり教育とは何らかの目的が既に設定されていてそれに向かって行うことではなく、学習することそのものにあるといえる。しかし現在の(英語)教育は、大人が自分たちの都合で勝手に設定した目標に向かって学習していくことを生徒に強要している場合のほうが多いのではないだろうか。

 まず何より大きな枠組みとして、指導要領やテストによって学習の指針は決められている。特に近年は外部機関による検定試験の導入により、テストの点数が一層の価値をもたされている。生徒は将来のことを考えると嫌でもテストの点数という目標に向かって学習をせざるをえなくなる。教師も生徒の将来のことを考えるとどうしてもテストの出題傾向を見ながら生徒に欠如している知識や能力を埋めようと努める。

 また驚いたのが、指導要領にのっとって作られた検定教科書にはCEFRの到達度が巻頭に付録されており、生徒は各技能に関して自分がどの位置にいるのかを確認するよう指示されていることである。このようにまず教育の構造が生徒の学習の在り方をトップダウン的に規定してしまっている。

 また教師の指導の在り方もひとつの要因となる。上で述べたように教師はテストに向けて生徒に必要な知識や技能を身につけさせなければならないという現実がある。それに加えて、教師には自分が担当の教科において継続的に学習を続けてきたという経験則がある。英語教師に関して考えると、身につけさせたい英語力や適切な学習法についての考えがあるのが自然なのではないだろうか。教師自身の経験はもちろん大切なのだろうが、それらの経験がそれぞれの生徒にあった学習になるとは限らない。無意識のうちに教師の信念が生徒を固定された目標に向かわせている可能性も否定できない。したがって教師は常に俯瞰的に自分が行っている教育活動を見つめ直さなければならないのではないかと思う。



■ YRさん

 学校教育を終えて働き始めると、学年というものがなくなる。教育課程もなくなる。しかしデューイは、人生とは成長を続けるということなのであり、教育とは年齢に関係なく人生の成長や充実を保証する場を供給することを意味すると述べている。周りの知人を見てみると、起業したり、仕事で成果を上げたり、専業主婦で子育てに一生懸命だったり、本を出版したり、仕事をしながらフルマラソンのアスリートをしていたりと、自分自身で選択した道で成長あるいは充実しているようだ。ここに挙げていない知人も、別に私によって成果云々と判断される必要はなく、生きてる限り何かしらの経験をしているだろう。

 私は、教師は特に、自分自身が成長し、変化する存在であるということに自覚的である必要があると思う。忙しくても、自分に客観的なベクトルを向けて、成長するための行動をとる時間を作るべきだと思う。そうでなければ、日々授業で主導権を握り、周りから「先生」と頼られる仕事であるため、自分をどこか完全な大人と誤解する危険がある。しかも英語の先生だから英語はできると思われていて、教室では生徒と自分しかいないのだから、その中では英語が「できる」。お山の大将と呼ばれることもある、怖い仕事である。

 子供と大人(生徒と教師)は、デューイによると、置かれている状況が違うために成長のありようが違うのであって、どちらも生きている限り成長する存在である。そうした目線を持つことができれば、こちらにない力を持っている生徒と接することができるのは、とても魅力的な仕事である。



■ MT君

 第1節では、成長の第一条件として、そのものが「未成熟」であることだと記されていました。「未成熟」という語を、完全態から何か欠如したものという消極的な捉え方をするのではなく、潜在的な能力をもとに「成長する力」という肯定的な捉え方をする必要があると理解しました。この考え方によると、学校教育の文脈において、教師は生徒を「知識が欠けた人(欠如態)」とみなしてはなりません。しかし、自分が行った授業を振り返ると、生徒を欠如態としてみなしてしまっている側面があったのではないかと反省しました。
 
 私は非常勤講師として働いた2年間、少しでも分かりやすい説明をしようと心がけてきました。もちろん分かりにくいよりかは分かりやすい説明の方が望ましいのでしょうが、そもそも「分かりやすい説明」という考え方自体が、生徒を欠如態とみなし、その欠けている部分に情報を埋め込むというような側面があったのではないかと今になって思います。仮に私が分かりやすい説明を行うことができていたとしても、生徒は教授内容の理解はできても、学ぶことを学ぶ(He learns to learn)ということはなかったのだと思います。それどころか、分かりやすい説明は生徒が潜在的に持つ思考する力を奪っていたのではないかとすら思います。
 
 また、一般的に行なわれている目標達成型の授業も、到達点を静的に捉えてしまい、単なる知識技能の習得を目標に掲げてしまうと、デューイのいう「発達(development)」や「成長(growth)」は見込めないのではないかと考えます。生徒が授業の結果「〇〇できるようになる」ことそれ自体が重要なのではなく、その知識技能を生徒自身が得るまでの過程そのものが「成長(growth)」であると第三節の内容を読んで考えました。
 
 今までの章にも記述されていたように、教師(大人)は生徒(未成熟な者)に直接変化を与えることはできません。教師ができることは、生徒が自ら学習をすることができるように環境を整えることです。生徒に直接的な変化を与えようとするがあまり、生徒に欠如している知識技能を伝達しようとしたり、機械的な訓練をあまりに強調することは、かえって生徒が潜在的に持つ学ぶ力を阻害する可能性すら秘めているのではないでしょうか。



■ NM君

 われわれは子どもたちから積極的な活動を引き出したり喚起したりするには及ばない。生命のあるところには、すでに強く激しい活動力が存在しているのである。成長は、それらの活動力に対してなされた何ものかではなくて、それらの活動力がなすところのものなのである。

 また、人はある行動を出来合いのものとして与えられるのではなくて、それを学習するときに状況の変化に従ってその諸要素を変更したり、それらのさまざまな組み合わせをつくったりすることを必然的に学ぶのである。ある行為を学習しているときに、他の情況においても役に立つ方法が発達するということによって、引き続く進歩の可能性が開かれるのである。なおいっそう重要なのは、人間が学習する習慣を獲得するということである。人間は学習することを学習するのである。

 器質上の可塑性、その生理学的基礎が、年齢をとるにつれて減少するという傾向には疑問の余地はない。本能的に変わりやすく、しきりに変化する幼児期の行動、新たな刺激や新たな発展を好む心は、あまりにもたやすく「落ち着き」に変わり、そしてそれは変化に対する嫌悪や過去の業績へのもたれかかりとなるのである。習慣を形成する過程で知性を十分に使用することを保障する環境のみが、この傾向に打ち勝つことができる。

 そして、学校教育の価値の基準は、それが連続的成長への欲求をどの程度までつくり出すか、さらには、その欲求を実際に効果のあるものにするための手段をどの程度まで提供するかということなのである。


■ KS君

I still haven’t thoroughly understood some of the similar concepts in this chapter but some of arguments from Dewey are really prospective and way beyond that time. They are universal truths which are applicable even nowadays.

Adults tend to stand at higher perspective to look down upon the children, so they jump to the conclusion that children are still immature, so we need to help them. However, from the moment we begin to think we should build them up, we are trapped in a hierarchical system. As Dewey mentioned in the third chapter, direction is all about redirection. Children’s curiosity toward certain things has been within their bodies, so the role of adults is to guide them through their instinct natures and never treat ourselves as an existence higher than them. Dewey also argued that we as adults are inferior to children in terms of many aspects, for we are losing them whilst we are growing up. This reminds me of a biblical scripture in Mathew: “Except you be converted and become as little children, or you shall not enter into the kingdom of heaven”. Never should we view ourselves as superior to children but rather learn from them, or we always treat children in the way as we treat pets, which need to be domesticated and disciplined.

I also found another very impressive argument from Dewey. A series of misunderstanding toward environment, immaturity and rigid habit are all resulted from misunderstanding toward growth. Growth itself is an end.  It is not having an end. However, this is exactly what education is regarded as in schools. All the exams initially just attempt to test out what students have mastered so far end up being an end for all the subjects learning. Students study hard and try their best to reach the goal of exams, but finally when they reached it, they throw all the stuff away. This is why many students think education is limited in schools and everything comes to an end after the graduation. I think of a very extreme case in China. High school students rip off the textbooks and exam paper right after Gaokao (Chinese college entrance examination). This grandeur but miserable spectacle is just the result of current education which has distorted the real meaning of education. It is still a long way to before we can really conduct a lifelong education in which students learn learning.



2018/10/30

「Google翻訳が急速に発達している現代において英語を学ぶ意義は何か」ーー院生の回答


   先日の授業の中で、「Google翻訳が急速に発達している現代において英語を学ぶ意義は何か」という問いを扱いました。以下は、院生三名による回答です。



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■ OT君

「Google翻訳が急速に発達している現代において英語を学ぶ意義は何か」という問いが前回の授業で挙げられた。Google翻訳をはじめとした人工知能はたしかに現在ものすごいスピードで進化している。人間が何年もの時間をかけて学ぶことを人工知能はものの数時間、数分、あるいは数秒のうちにやってのけてしまう。いずれ、それも近いうちに文法上誤りのない翻訳はできるようになるのだと思う。仮に単なる情報伝達の道具(記号)として英語をとらえるとすれば、英語を学習する意義というのはいずれなくなるだろう。

 それではどのような点において英語学習は意義を持つのか。人工知能にとってのことばと、人間にとってのことばはどのような点において異なるのかを考えたい。

 人工知能にとってことばとは、言語体系そのもののことであり、それ以外の何物でもない。”blue”は「青い」を指すだけで、水色を含むのか、群青色を含むのか、といったことは問題視しない。”comic books”は「マンガ」を指すだけで、そこには何の具体性もなければ個人的な趣向性も見られない。つまり人工知能にとってのことばとは、ある物や事、概念に対応する記号でしかないのである。

 一方で人間にとってことばとは、単なる言語体系だけの範囲にとどまらず、それぞれの個人あるいは共同体にとって個別の意味を持つ。そしてこれらの意味というのはたとえ言語体系が完全に構築されていなかったとしても存在しうる。例えば”blue”という単語に関していえば、ある人は空の青さを思い浮かべ、ある人は9月で終わった朝の連ドラを思い出し、ある人は横浜ベイスターズを連想するかもしれない。”comic book”という語に関しても、聞いたとたんに上杉達也を思い浮かべる人もいれば、幼い頃の誕生日プレゼントの思い出を懐古する人もいれば、『ワンピース』が好きな某先生のことが脳内をかすめる人もいる。つまり、私たち人間は言語体系を完全にマスターするようなことはできないのかもしれないけど、ことばに広がりを持たせることができるのである。

 “I have a dream”, “#Me, too”といったことばも、人工知能にとってはそれぞれ1つの言語表象でしかないかもしれないけれども、自分たち人間にとってはそれは苦しみや希望、訴え、変革を意味するのである。そして実際にこういったことばは、単に聞き手や読み手にひとつの情報を伝達したのではなく、社会を動かすという大きな働きをしたのである。

 以上のことを振り返ると、単語や文法をとにかく学習させる授業や、ただ機械的に聞いたり声に出したり読んだり書いたりすることは、人工知能にいずれとってかわられる能力の育成を目指しているだけになってしまい、いずれその意義を失ってしまう。ことばとは人間にとってどのようなものであるのかをもう一度じっくり考え、学習者にとってことばが意味のあるものになるように教師は導いていかなければならないのだと思う。






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■ MT君

 今回の講義の議題の1つに、AIや機械翻訳がますます発達するであろう将来、英語教育はどのような役割を果たすことができるかというものが挙げられた。今回の振り返りでは、そのことについて自分なりの考えをまとめたい。
 
 現在、英語教育の大きな目標は「コミュニケーション能力」の育成、とりわけ英語を用いて「読むこと」「聞くこと」「書くこと」「話すこと」の4つの技能の育成を図るというものである。実際に英語学習者が持つ学習動機としては、「外国人とコミュニケーションをとりたい」といった、言語の道具的価値に重きを置いた場合が少なくない。もちろん、現代において言語が「コミュニケーションの道具」として大きな役割を担っていることは否定できないし、そのような道具的な価値付けも尊重すべきであると思う。しかし、これからますますAIや機械翻訳の精度が向上し、素早く正確に外国語に翻訳してくれる翻訳機が安価に流通すると仮定した場合、言語を「コミュニケーションの道具」としてのみみなすのでは、英語を自分で用いることができる技能をわざわざ身につける必要性が薄れてしまう。
 
 そのような状況において、外国語教育が担うべき役割は今とは少し変わってくるのではないだろうか。すなわち、「英語を道具として使えるようになる」こと自体を目指すのではなく「英語を学ぶことによって、どのように自己が変容するか」ということにも目を向ける必要があると私は考える。私自身の経験を例にして説明したい。

 私はある時、英語に"petrichor"という言葉があることを知り、衝撃を受けた。"petrichor"とは、「長く雨が降らず、乾燥していたところに雨が降り、その時に地面から上がってくる心地良い匂い」を指すことばである。多くの日本人が身体的に経験をしているであろう事象ではあるが、日本語ではこの事象を表す単語は存在しない。しかし、どういう経緯か英語ではこの事象に名前が付けられている。

  私はこの"petrichor"ということばを知って現在に至るまで、どこかでそのことばを読み聞きしたり自然な文脈で用いたりという経験はなく、「役に立たない」単語を覚えたにすぎないのかもしれない。しかし、私はこの"petrichor"ということばを知って以来、雨が降った次の日に家から一歩出る瞬間を少し楽しみにしているし、"petrichor"を意識して感じるようになった。ことばを知ることによって、私の世界への見方、環境との関わり方が少し変容したのである。
 
 これはあくまでも一例にすぎず、"petrichor"ということばを知ったことによって私に起きた変化は些細なものかもしれない。しかし、このような日本語表現と英語表現の間に見られる認識の違いは、語彙レベルだけでなく統語レベルにおいても見られる。さらに、言語の中にはその国の文化や思想をある程度反映しているものも多く存在する。日本語しか知らない人は、日本語と日本人の考え方が世界の常識だと勘違いしてしまう恐れがある。日本語とは異なる言語表現を知ることによって、学習者が違う国のメガネをかけて世界を見ることができるのではないだろうか。
 
 先に述べた通り、近い将来、機械翻訳の技術の発達は、言語の道具的な役割を肩代わりすることが予測される。そのような時代だからこそ、言語が社会で果たす役割について考え、自身の言語観を見つめ直すことが大切であると私は考える。外国語を学ぶことがその手助けとなるのではないだろうか。







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■ FO君

 以前、ある研究授業の発表会に参加させていただきました。授業後の批評会で授業を担当された先生は、英語の授業を通して生徒に教科書のことばから自分のことばへつなげてもらいたい、とおっしゃっていました。私はこのことばに手放しの賛同を覚えたのですが、それと同時に、現在の英語教育を通して子どもたちは「教科書英語の虜囚」になっているのではないか、という恐怖も覚えました。今回の振り返りでは、なぜ教科書英語の虜囚ではだめなのか、そしてなぜ英語教育が生徒を教科書英語の虜囚に変えてしまっているのかを考えたいと思います。

 まずはどうして教科書英語の虜囚ではだめなのかを考えます。先週の授業の終わりに「Google翻訳などが急速に発達してきている中で、英語教育をやる意味はあるのだろうか」という柳瀬先生からの問題提起がありました。機械による翻訳が急速にその精度を向上させてきている中で、私たちが英語を教える必要はあるのでしょうか。より核心を突く言い方をするならば、生徒は英語を学ぶ必要があるのでしょうか。

 私には現在の英語教育は「生徒が教科書のように話すようになること」をその出口としているように思われます。つまり、生徒が教科書で扱われている構文や語彙を用いて、教科書の本文を読み上げる音声のようにスラスラと話すようになることが英語教育の目標である、ということです。先週から繰り返し述べてきている通り、生徒はたくさんの語彙や構文、そして文法を「考える」という行程を飛ばして、ひたすらに詰め込まれています。さらに彼らはそうして得た知識を考えることなしに使うことを求められます。私には多くの英語教育がこのような形で機能しているように感じるのですが、生徒がこのようなやり方で英語を学ばなければならないなら、彼らが英語を学ぶ必然性を見出すことは至極困難になるでしょう。なぜなら、「教科書のように英語を話すこと」とはまさにこれから機械翻訳がどんどん得意になっていくであろうことだからです。

 授業で扱った語彙や文法をできる限り多く使えるようになることを英語教育が目指し、そして生徒がその目標を達成したとして、彼らは機械によって代替可能な存在でしかありません。「私の代わりはいくらでもいる」という自己に関するネガティブな気付きは人の在り方に大きなダメージを与えてしまいます。しかし、教科書英語でとどまっている人は口を開くたびに代替可能である自己をさらけ出してしまいます。すると皮肉なことに、現在の英語教育において熱心に学んだ生徒ほど教科書英語をたくさん話せてしまい、かえって傷つくことになります。なぜなら熱心に学んだ生徒ほど多くのストックフレーズを抱えているためペラペラと話すことができてしまうため、その都度自身の代替可能性を自身の発話の中に見つけてしまうからです。

 「教科書のように英語を使えるようになる」という目標がどうして正常に機能し得ないかは以上のとおりですが、ではなぜ私たちは生徒が教科書の英語から自身のことばを見つけるための教育を行えずにいるのでしょうか。ここでも先週から触れてきている通り、「コミュニケーション」ということばに対する誤解が深く関わっているように思えます。日本の英語教育では「コミュニケーション能力」の育成が期待されています(英語に限らず教科の枠を超えて求められているものですが、英語は特にこのことばの矢面に立っているように思えます)。先週も確認したとおり、デューイの知見をお借りしてコミュニケーションということばを定義するならそれは「自らすすんで世界(環境)に働きかけ、自己の変容も世界の変容も経験すること」といえます。するとコミュニケーション能力はまさにそのようにする能力のことを指すはずです。

 では、日本の教育においてやたらと口にされている「コミュニケーション能力」とは一体何を指すのでしょうか。私にはこのことばが単に「スラスラ話す」だとか「わかりやすく話す」だとか、その類のことしか指しておらず、そこにデューイの知見は含まれていないように感じます。「デューイの知見が含まれていない」という言い方をするとまるで、デューイが言ったことは全て正しく、彼に従うことなしには教育は語れない、という印象を持たれるかもしれません。確かに、本講義のテキストである『民主主義と教育』はもう100年も前に書かれたものですし、今と当時とでは社会も大きく変わっていますので、彼の知見をそのまま取り込めば教育に関する問題は全て解決する、といった乱暴な議論はできません。しかしここでの問題は、「コミュニケーション」といったことばが多用されている一方で、そのことばの輪郭はひどくぼやけ、曖昧で、それが「なんとなく」用いられているということです。私がここで繰り返しデューイの知見を借りようとしているのは、デューイの述べてきたことは、(それをそのまま使うことができない場合もあるかもしれませんがそれでも、)現代においてでも十分当てはまることがあり、彼の指摘が(ないしはその指摘により促された私たちの思考が)「なんとなく」用いられていることばにはっきりとした輪郭を与えてくれるからです。このようにことばを大切に扱う姿勢こそ英語教育が養わなければならないことのように私には思えます。

 先程私は、現在の英語教育における「コミュニケーション能力」ということばが「スラスラ話す力、わかりやすく話す力」という意味合いで用いられているように感じる、と述べました。もしも本当にコミュニケーション能力がこの類の意味で定義され、そして頻繁に用いられているとしたら、これこそ英語教育における最初の「ボタンのかけちがえ」だったのかもしれません。すらすら話すためには多くのストックフレーズを抱えておく必要があります。それを口にするときに口ごもったり引っかかったりすることがないように何度もその発音を練習します。ストックフレーズは多く持っておくに越したことはないので、「一つ覚えたらまた一つ」とこの作業を繰り返します。場合によっては、英語教師はテストを設けることでこの学習に拍車をかけるかもしれません。しかし、このような学習(もとい訓練)は生徒の考える時間を否定します。なぜなら、より多くのストックフレーズを獲得するのに、いちいち立ち止まって「なぜこのような言い方をするのか」、「どんなときに、どんなふうに使えばよいのか」と思いを巡らせることは短期的に見るなら明らかな「タイムロス」だからです。このような学習により生徒はテストで点は取れるけど、自分のことばで語ることのできない「教科書英語の虜囚」へとなります。

 では「コミュニケーション能力」をデューイの考えに照らして定義したときに、どのようなことが見えてくるのでしょうか。私たちはコミュニケーションを行う(世界に働きかける)ときにことばを用います。また、ことばを持つことは私たちに、世界に働きかけることを教えてくれます。授業でも少し触れたように、以前はただ黙っておくしかなかった性的マイノリティの人たちが、ことばを得たことで自己の在り方を主張し、世界の在り方を変えたことはまさに「ことばを持つ」ということが世界に関わることを可能にした例かと思います。このときに使われることばは明らかに教科書のことばとは異なっています。もちろん彼らも教科書に載っている語彙や構文、文法を用います(それらなしでは誰にも理解されないでしょう)。しかし、彼らの口を通して出てきたことばには教科書に載っているものにはない手触りがあります。彼らの身体を通して生み出されてきた言葉はザラザラとしていて、それを耳にした人の身体のどこかに引っかかります。

 簡単に言い換えるなら、私たちは既存のことば(クリシェ)なしでは語ることができません(新しいことばを生みだす人はほんの一握りだから)。しかし、私たちはその「クリシェ」に自身の身体感覚を伴わせることができます。そして、他人の使ったことばに彼らの身体感覚を感じることができます。ある発話がクリアカットでなくても、その中から「言いたいこと」を拾うことができます。そしてこの作業が得意な人こそ「世界にはたらきかけて自己と世界の変容を経験できる人」であり、「コミュニケーション能力が高い人」だと私は思います。このような人は明らかに「教科書英語の虜囚」が使うことばとは正反対のことばを用います。

 教科書のことばが「わかりにくい」ことはありません。それは常にクリアカットで「ツルツル」となめらかです。私たちの身体をこの種のことばが通る時、それが摩擦を生むことはありませんので、文字通り「聞き流す」にはもってこいのことばです。しかし私たちがコミュニケーションを図るときにはどうでしょう。ツルツルとしていて滑らかなことばを使うことで世界の変容を期待できるでしょうか。また、他人のことばを常にクリアカットなものに変換することで自己の変容を望めるのでしょうか。私にはそうは思えません。
 だからといって、「教科書の英語は学ばなくていいのか」、と言われるとそうではありません。先程も述べたように、語彙や文法なしでは私たちは自身を理解してもらうことも、他人のことばを理解することもひどく困難になります。ですから、パターンプラクティスなどを通して生徒がクリシェを獲得することに関して異論はありません。生徒は常に学びに対して時間的な遅れをとっていますので、つまり「なぜそれを学ぶのか」という問に彼らが答えることができるのは、学びを行っている最中か、場合によっては学びを終えてからですので、生徒は学びの中に飛び込んでみて、あるいは「投げ込まれて」はじめて学ぶ意義を見つけることができます。ですからパターンプラクティスをする意義、や単語や文法を学ぶ意義の全てを理解してからでないと彼らは学べないというわけでは決してありません。ただ、そうして獲得したクリシェを持ってして学びを終えたとしてしまうことに関しては賛成できません。生徒はそこからいかにして借り物のことばに「肌目」を与えるかを学ぶ必要があります。そして、他人が用いたことばに彼ら自身の「肌目」を感じることができるようにならなければなりません。繰り返しになりますが、これこそ「コミュニケーション」であり、自身のことばを獲得するということだと私には思えます。そして、このような言語使用を教えることができるなら、英語教育は決して機械翻訳にその存在を脅かされることはないように思えます。






2018/10/22

「私は上から指示されたマニュアル通りの指導しかできない大人が教師になってしまっていることが教育の商品化を進めてしまっていると思う」

 以下は教英学部一年生による授業予習書き込みの一部です。彼ら・彼女らが、日本の感覚からすれば「尖った」存在になってくれることを私としては願っています。





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今、自分の周りにはたくさんの情報源がある。しかし、わたしは全くと言っていいほどそれらを活用できていない。予習課題の中に、今後は地理的要因などではなく、英語とウェブを使いこなせるか否かが格差を生むという記事があった。私は調べ物をするときにあまり英語を使うことはなく、ウェブも自分では使えているつもりでいたのだが、日常生活で気になったことを調べたり、音楽を聴いたりすることくらいにしか使っておらず、予習課題の中にあるような教養が深められそうなページや自分の学びたいことを学ぶ上で活用できそうなリソースがあんなに存在することすら知らなかった。

 今の私は、インターネットへ接続することはできるものの、自分に必要な情報や自分が求めている情報が理解できていない完全な「情報難民」であったのだ。私が今まで18年間生きてきた中でも、パソコンの性能の高度化、スマートフォンの登場、AIの普及などたくさんの大きな変化があった。それを目にしてきたにもかかわらず、私は、これらの変化を完全に無視し、変化が起こる前の考え方から何ら変化も得られていないし、変えようともしていなかったことにやっと気がついた。

 とりあえず情報機器を生活の中に取り入れ、日常生活のためだけにそれらを使うという方法をとってしまったことで情報の良し悪しや必要な情報を見分けられなくなり、本当の情報社会の恩恵を享受できておらず、変化に対する感覚が鈍り、これから起こりうる変化に対する想像力も身につけられていなかったように思う。

 変化に対する想像力をもたない私がもしこのまま教員になってしまったなら、きっと生徒の可能性をつぶす教員にしかなれないだろう。今起きている変化に気づけない、これから起こりうる変化を想定できないのであれば、これからの時代を生きていく生徒たちにその時代に対応しうる能力を伸ばしてもらうことは到底できない。そのうえ、想像力が欠如していることで、植松努さんのお話にもあったように、教師が生徒の可能性をあきらめてしまうというケースも起こりうる。教師が生徒の可能性をあきらめてしまえば、いくら生徒に可能性があっても、生徒はそれを伸ばす手助けを受けられない。加えて、生徒が教師の考え方に染められてあきらめてしまえば可能性の芽は枯れてしまう。そのような生徒が教員になればまたこの悪循環が続きかねない。

 教員になる人はただ「勉強」ができる人であってはならない。広く深い知識はもちろん大切であるのに変わりはないが、現実を見る力と想像力、それもまた重要になってくると思う(ほかにも多くの要素が必要だが)。ただ知識を授けるだけが教師ではなく、今の時代の物事の様子にしっかりと目を向け、考え、こんな授業をしてみたら、こんな教材を使ってみたら生徒の力を伸ばせるのではないか、こんな力が生徒には必要なのではないかと想像する力があって初めて、授業をより良いものにしていったり、よりよい指導ができるようになったりするのであろう。



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 今回の予習で考えたことを何点かにまとめてみようと思う。

 まず、齋藤氏と梅田氏の対談の記事にあった「全くやる気がないという人はどうにもならない」という意見についてである。

 果たして本当にそうであろうか。

 「ビリギャル」という映画が2015年に公開され、大ヒットを記録した。この作品は、学年最下位のギャルが偏差値を40上げ、慶応義塾大学に合格した実話をもとにして作られた。このような映画がヒットし、多くの人の心を動かすのは、きっと人が少なからず心の中に「今の自分のままではダメだ。」、「変わりたい」という思いを抱いているからだと思う。その気持ちをいかにして行動に変えさせるか、それを考えるのが教師の仕事であり、腕の見せ所だろう。ひとりひとり持っている個性を見抜き、それぞれに合った指導を行うことで、生徒がガラスの天井を打ち破る手助けをすること、その力こそが教師に求められているのではないかと感じた。

 次に、教育が商品取引と化しているという内田氏の意見についてである。

 私は上から指示されたマニュアル通りの指導しかできない大人が教師になってしまっていることが教育の商品化を進めてしまっていると思う。ここで考えたいのは前回の授業で考えた「創発」する力である。教師が知識を指示通りに「提供」することだけに力を入れてしまっているから、生徒も自然と受動的な態度になってしまうのだ。そうではなくて、教師も生徒も互いから学びとろうとする姿勢をもち、触発しあって、それを新たなものを生み出す原動力に還元できる空間を作り上げることが必要なのではないか。そうすれば、「提供」という一方通行の関係性が打開でき、教育の商品化を防ぐことができるのではないかと思う。

 最後に直観知の発達についてである。

 私は体育・美術・技術・家庭科・音楽など、身体的感性を磨くことのできる基盤科目を英語にも積極的に取り入れれば、英語教師も内発的動機づけを行うことが可能になると思う。それには、教師が音楽、身体活動などを効果的に取り入れることができるだけの教養を持ち、明確な意図をもって指導することが必要だ。私の恩師の授業は冬場でも身体が暖かくなるくらい「動」が強い授業だったが、そのおかげで私はいろいろな世界に広く触れて、自分なりにではあるが価値観を磨くことができたと思う。このような授業を私もしていくために、先生のおっしゃっているように本の中から生きた感性を身に付けていきたい。



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 私が予習した中で最も印象的だったのが、「熱中できるなにか」という言葉である。私自身、高校生の時の部活動に熱中した経験があり、そのときは水分を取るのも忘れるほど熱中したものであった。その時の感覚は、なにか新たな技術や考えが手に入っては実践し、時に失敗し、試行錯誤しながら自分なりに身に着けようと努力したものだ。それは時に涙がでるほど辛い時があった。逆に時間が止まってほしいほど楽しいときもあった。

 このことを学業にも活かすことができたら、生徒自らが「学ぶ」事ができるのかもしれない。つまり、今後は予習にもあったように、「いかに教師自身が現代の技術を駆使して、生徒の学びに対する動機をつけることができるか」が問題となってくると私も思う。無論、そのためには教師自らが「学習者」として不断の努力をしなければならないのは明確である。同様に英語教師を目指す者たちも英語力はもちろん、知識のアンテナを立て、現代の教育について敏感になっていなければならない。

 私はその自覚がまだまだ欠乏しているのは認めざるを得ない。だが、前回の授業でもあったように、学ぶための教材、知識は、インターネットに膨大な数の情報がある。今からできることは、学ぶ意欲さえあれば、「熱中」できれば、たくさんある。私の現在は、未来の子供に直に影響を与えることになることを胸において、これから学びを深めていかなければならない。




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 最終的に、やはり学校教育において必要不可欠になってくるのは、「子どもたちのやる気、努力」であるように今回の予習を通して感じた。それと同時に、これらを様々な手段を用いて引き出すのが教師の役目であるようにも感じた。

 学校教育がどれほど改革されようとも、子どもたちに「学びたい」という欲や熱意が無ければ、それは無駄になってしまうのではないか、と考える。結局は、現場で実際に子どもたちとコミュニケーションをとり、そのふれあいから教員が授業の在り方や、学級経営、そして進路指導などを、子どもたちの知的好奇心を刺激するように、柔軟に考えていく必要があるのではないだろうか。これは、極めて難しいことであり、また上からの改革だけではどうにもならないことが多々あるように思う。改革をすることで起こった現場での歪みをフィードバックし、そこから修正を加えていくことでよりよい教育を作り上げていくことができるのではないだろうか。

 しかし、子どもたちというのは、行政の実験体ではない。彼らには、彼らの未来があるのだ。改革による歪みで、彼らの未来を潰すようなことがあってはならない。もしも、教育によって彼らの未来を潰すようなことがあれば、それは将来の私たちの生活の大きな支えを失うことにもなる。

 改革が起こり、受験のシステムなどが変化しようとも、教員の役割というのは子どもたちの知的好奇心をくすぐることで、学習に対するやる気や努力をするための源を創り出すことであるというように私は考える。



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 「好きなことで生きていく」ーこれは人気Youtuberたちが自身のPR動画を作成したときに用いられていたYouTuberのキャッチコピーのようなものである。YouTubeに動画を投稿して、広告収入や企業案件での収入を得る。そんなYouTuberという職業は、小学生のなりたい職業ランキングの上位にランクインしたことからもわかるように、「楽しそうで、輝いていて、華やかな」イメージが強い。しかし一方で、「楽そうだ、こんなのなら自分にもできる。」と見下したり、僻んだりする声も存在する。ただ、彼らがやっていることについて、私は容易にできるとは思わない。動画編集ソフトを巧みに使い、撮影に使用するカメラにこだわり、毎日のように動画のネタを考える、とても簡単にできることではない。

 確かに、人気youtuberにはいわゆる低学歴だとされるものも少なくない。しかしそんなことは一切関係ない。なぜなら、彼らのパフォーマンスは「好きなことをやっている」という人間の可能性をいかんなく発揮させる得ることで支えられているからである。このことは、興味関心が爆発すれば、ここまでの地位を確立することができるということが明確に示していると思う。

 教師が生徒の興味関心、言い換えると「創造性」を度外視して、対価が与えられていることに対しての義務感のみで、「〇〇テストで〇〇点がとれる」という効能のある「商品」として教育を施す、こういった教育は人の可能性を無視している。現在、我々の置かれている状況として、インターネットの普及で情報が溢れている、そして、オープンエデュケーションの取り組みもあって、情報を利用するときの枷が緩和されつつある。

 ならば、教師が為すべきこととは、生徒の興味関心を共に発掘することだろう。今の「買い物」のような教育で、決められた範囲内で、しかも「創造性」を無視したようなことをやっても、「やらされていること」から得られるエネルギーなんてたかが知れている。教師は、生徒に彼らが目を輝かせて、日ごろの勉強なんかよりも熱中してしまうようなことを一緒に見つけてあげるべきである。





「激変する世界に置いて行かれないように勉強しないと危険である、という状態に気づくためにはそれ相応の教養が必要である」


以下は、ある授業を受けた教英学部一年生の感想です。

自分のSNS世界しか関心がない若者から、どんどんと大きな時間枠・地理枠・思考枠で考えられる若者に育ってほしいと、私のような「おじさん世代」は切に願っています。

そういえば20世紀末に流行していた「第三の開国」というフレーズも最近はついぞ聞かれなくなりましたね。なぜなんだろう。










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「激変する世界に置いて行かれないように勉強しないと危険である、という状態に気づくためにはそれ相応の教養が必要である」

 授業中に出たこのジレンマの突破口は結局授業内では見いだせないままであった。その後のどに突き刺さる骨のように明確な存在感を放ちつつ私の頭の中に刺さり続けていたこの命題について考えているうちに、実はこれと同じようなことが日本の歴史の中に起こっているのではないかと思えてきた。私は今現在起こっているこの事態を「黒船来航」に重ね合わせて考えていきたいと考える。

 そもそも黒船来航は嘉永六年(1853年)にペリー率いる黒船の艦隊が日本湾岸に来航した出来事である。当時ほとんど外国との交流がなかった日本にとってこの出来事は大いなる混乱を招くのに十分な出来事であった。その後日本は開国し、明治を迎えて目覚ましい文明開化を迎えることになる。そしてその開国を支えた人物は今もなお歴史に名を深く刻む政治家たちであることは言うまでもない。さて、現代を見てみると目覚ましい技術革新に追い付いていない我々の認識はさしずめ鎖国していたころの日本であろう。世界の最先端と我々の古い認識の大きすぎる差を埋めるにはどうすればよいのか。

 もう一度黒船来航のころに当てはめて考えると、文明開化したのは時の明治政府が世界に追い付くために教育、土地制度、そして生活様式すらも大きく変えるような政策を打ち出したのが主な要因である。そののちの日本の成功は歴史に裏付けられているように、大きなものであることはもちろんご存知であろう。

 そうであるならば、かつて敏腕をふるった政治家が主導した文明開化をもう一度起こすべきではないだろうか。そしてそれは大きな流れのもとで今行われようとしている。全国津々浦々で開かれている教育シンポジウムでの創造的な意見交換によって日々新たなアイデアが今も生まれていることを考えてみれば、誰かが主導するわけでもなく各々が「このままでは日本が危ない」というたった一つの認識に導かれて今までにない革命を起こすのではないかと考えている。

 ここで忘れてはならないのはそうして変貌を遂げた社会を生み出すのはほかでもない教育であり、その教育を支えるのは未来の教員である私たちなのだということである。ともすれば、我々がすべきことは今すぐに情報を収集して、自分なりに今の世界がどう動いているかを把握することではないだろうか。日々の生活におぼれそうになっている毎日ではあるが、そうした時間を少しでも設けることが未来につながると私は信じている。





2018/10/20

改めて単語学習について



以下は、デューイのDemocracy and Educationを読んでいる授業に参加した大学院生 (M1) の感想です。

以下の指摘は、英語教師にとっての「不都合な真実」なのかもしれません。


「テストするからやってきなさい」と言ってしまうと、単語学習は「それを何に使うか分からないけどとにかくたくさん持っている人が勝ち」という誰も幸せにならない競争に成り下がってしまうでしょう。そしてそれは真綿で自らの首を絞めるように学習者の言語感覚を徐々に、しかし確実に狂わせます。






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 今回の授業では、「生徒はどのように単語の学習ができるか」という問いを糸口に議論が深まり、多くのことを友人と話すことができたと思います。私はその議論の中で、英語教育がいかに重要であるか、そしてそのやり方を間違えるとそれがいかに恐ろしいものになりうるかについて考えていました。皆さんの考えも参考にしながら、私自身の考えをまとめて振り返りとさせていただきます。

 おそらく、日本の英語教育を受けてきた人はそのほとんどが教科書の端のコラムに書かれた新出語句の音読を経験したことがあると思います。先生が発音したのに続いて同じように単語を発音するいわゆる「リピートアフターミー」は新出語句の導入としては最もメジャーなものでしょう。高校生になると、多くの学校で生徒は英単語帳を手渡され、家で覚えてくるように言われます。これは高校を卒業するまでに身につけておくべき語彙の全てを授業ではカバーできないからでしょう。改訂版の学習指導要領で指定されている語彙数は以前に比べて増えているため「英単語は授業外で勉強する」という側面は余計に強くなるのではないかと思っています。

 僕は音読による単語の導入や、単語帳の使用や授業外での学習を否定するつもりはありません。むしろ賛成しているほどです。しかし、これらが何も考えることなしに行われるとなると話は別です。「何も考えることなしに」の主語は教員も生徒も両方です。これは私が学生の頃から感じていることなのですが、なぜか英語学習/ 教育において、「単語は自力で覚えるほか仕方がない」という考えが支配的であるように感じます。そのため、教師も生徒も何も考えることなしに適当に英単語を声に出して読み、適当に単語帳のページをめくって単語を覚えます。これを教育と呼ぶことは難しいのではないでしょうか。

 デューイの言葉を借りるなら、これは「教育」ではなく「訓練」されているだけのように思えます。場合によっては訓練よりも酷いかもしれません。なぜなら、教師も生徒も、その両方が「英単語を覚える」という行動に対して、あるいはその行動の目標に対して無関心であるからです。「教師は、生徒が英単語を覚えることを願っている」という反論もあるかと思います。しかし、真に生徒の成長を願っているならもっと違ったアプローチを取れるはずです。つまり、「英単語を学習することによって内面的な変化を望む」のであれば、教師は単に「テストするから家で覚えてきなさい」というような態度は取れないはずです。

 確かに、「家でやってきなさい。あとは自分の責任だ。」という形でその責任のすべてを生徒に丸投げしてしまう事は教師からすると随分と楽でしょう。危機感のある生徒は、自分ができないことに関する責任はすべて自分が負わなければならないことに恐怖して一生懸命勉強するでしょう。これを「学びの主体性を育む行為」と呼ぶ人も、もしかするといるかもしれません。生徒が自分自身で自分の学びの舵を切るようになるならそれでいいじゃないか、と考える人もいるかもしれません。

 しかし、「放っておけば自ら学ぶ」ような生徒はそもそもいないはずです。いたとしてもごく少数であり、彼らは学校以外で学ぶ環境を提供されている「文化資本に恵まれた人」なのです。この「文化資本の差」を埋めるために、つまり生まれ落ちた場所がすべてを決めてしまうことを是正するために学校があるのではないでしょうか。すると学校が目指すべきことは、自ら学ぶことができない生徒を放っておくことではなく、学び損ない続けてきた生徒に手を差し伸べてあげることであるはずです。だから単に「やってきなさい」ではいけないのです。

 「やってきなさい」とするならば、生徒にその「やり方」を教えてからでなければなりません。そして、その「やり方」が皆さんが授業において紹介してくれたような、「それを使わなければならないリアルなシチュエーションを考える」とか、「明らかに不自然な状況の例文に突っ込んで、それを踏まえて音読してみる」とかになるのだと思います。

 このような段階を踏むことなしに「テストするからやってきなさい」と言ってしまうと、単語学習は「それを何に使うか分からないけどとにかくたくさん持っている人が勝ち」という誰も幸せにならない競争に成り下がってしまうでしょう。そしてそれは真綿で自らの首を絞めるように学習者の言語感覚を徐々に、しかし確実に狂わせます。なぜなら、彼らは不幸にもそうして獲得した「空っぽのことば」を授業やテストにおいて使用することを求められるからです。「誰のものかわからないことば」や「自分の身体感覚の伴わないことば」ばかりを用いることは明らかに自らの言語を貧しくする行為であり、それは「学習者の言語を豊かにする」という言語教育の目標とは逆行しています。

 もちろん、これは単語学習に限った話ではありません。その他のいかなる学習であっても、それをやること自体が目的と化してしまうとたちまち正常に機能しなくなります。「とにかくやりなさい」という教師の態度は生徒に「考えるな」といっているようなものです。よく塾や学校で「先生、この単語どういう意味なん」と聞きに来くる生徒がいます。このような質問を受けたとき、僕はよく友人と「肉辞書にされた」と言って笑います。自分が知らないこととの出会いがいかに素晴らしいことなのかを知っている生徒は決してこのような質問はしてきません。単語に関して質問するにしても、その単語の持つ微妙なニュアンスであったり、別の似た単語との違いであったりを聞いてくるでしょう。しかし私は前者のような子を責めることができません。なぜなら、「考えること」を剥奪されてしまった生徒からすれば、教室における価値観は「知っているかどうか」だけになってしまうからです。だから彼らは「どのように出会うか」などは気にもかけず、最も労力をかけずにすむ方法、つまり答えを先生に聞くという方法を取るのだと思います。

 パウロ・フレイレはこのような詰め込みの教育を「銀行型教育」と呼びました。そして、銀行型教育をうけた子供は世界を批判的に見ることをやめてしまうと述べています。つまり、世界は自らが主体的になり批判的に改革していくものではなく、与えられた現実が世界の全てであり、そこに順応するしか無い、という意識を生徒が持ってしまうということです。

 私はフレイレを読んでいてデューイを思い出さずにはいられませんでした。自らが世界に主体的に関わることをやめることはデューイの知見に照らして考えるなら、それは明らかに「非人間化」のプロセスであり、それを「教育」が手助けしている、ということは悲しすぎる皮肉です。英語教育に関わる、ないしは関わろうとしている人は今までの教育を大いに反省し、その上で何ができるのかを考える必要があるように思われます。そして、これからどうするかを考えることにデューイの知見は、それが100年以上前に書かれたものであっても、十分に役立てることができるのではないでしょうか。




2018/10/19

広島大学STARTプログラムを利用してオーストラリアに行った学部一年生の振り返り


広島大学にはSTARTプログラムとSTART+プログラム呼ばれる留学支援制度があります。共に大学からの補助金により学生さんの経済的負担を減らしています。

 STARTプログラムの目的は,学部1年次生が海外の協定大学で学ぶとともに,現地学生との交流・ディスカッションを行い,日本と異なる文化・環境を体験することで,国際交流や長期留学への関心を高めることです。

 START+プログラムでは,STARTプログラムのステップアップ版として,より学生の自律的な学習を重視した授業を行います。

 また,STARTプログラム及びSTART+プログラムでは,参加費用の一部を大学が補助することで,学生の経済的負担を大幅に軽減し,より多くの学生が留学に挑戦する可能性を広げることを目指しています。

以下は、この制度を利用してオーストラリアに二週間滞在した教英のある学部一年生の振り返りです。

 皆さんも、広島大学でどんどん機会を見つけて視野を広げてください!






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 私は、STARTプログラムに参加し、夏季休暇中、二週間オーストラリアのアデレードに留学しました。二週間という短い滞在でしたが、とても内容の濃い留学になりました。アデレードは、オーストラリアの南部に位置する都市ですが、自然豊かで治安もよく、とても過ごしやすい所です。留学中には、主にホームステイをしたり、大学へ行って勉強したり、小学校へ訪問して日本文化を伝えたり…と、いろいろなことを経験しました。

 ホームステイでは、オーストラリア特有の日常生活や食文化を経験することができました。例えば、オーストラリアは水不足が深刻であるため、水の使用に関して厳しかったです。シャワーの時間が制限されており、友達の中には、3分間しか使用を許されなかった人もいました。水不足に関する教育は、小学校からされている所が多いらしく、国民全体でその社会問題に向き合っている様子に感心しました。




 食文化としては、初めてカンガルーとラムの肉を食べました。カンガルーの肉は、他の牛や豚と比較するとリッチで、スーパーマーケットで簡単に手に入ります。また、私のホストファミリーはビーチに行くことが好きだったため、夕方に近くのビーチに行って、夕焼けを見ながらディナーを楽しんだりもしました。オーストラリアの海はとても透き通っていて美しく、野生のアザラシやサメに遭遇したりもしました。ラッキーな時には、イルカに遭遇できるらしいです。二週間、私のためにいろいろともてなしてくださったホストファミリーには大変感謝しています。

 平日には、フリンダース大学に行きました。フリンダース大学のキャンパスはとても広く、大学内で移動用のスクールバスが走っています。世界中、あらゆる国から来た留学生がたくさんいて、とても国際色豊かな大学です。大学では、英語はもちろん、オーストラリアの文化や社会問題、教育について学びました。授業はすべて英語で、先生や生徒たちといろいろなトピックについて議論したり、プレゼンをしたりしました。自分の知識を伸ばす、大変貴重な時間になりました。




 また、授業の一環として小学校に訪問し、日本文化を伝えました。折り紙やけん玉、かるたなどを教えたのですが、英語で上手く伝えるのは難しく、なかなか要領が掴めませんでした。それでも小学生たちは真剣に聞いて、実践してくれました。中には、既に日本文化について詳しい子もおり、私よりけん玉をうまくする生徒もいたので驚きました。

 以上のこと以外にも、博物館や図書館、アニマルパークに行ったりして、たくさんの貴重な経験をすることができました。多くの人の支援があって、私はSTARTプログラムに参加することができました。その方々への感謝の気持ちを忘れず、これらの経験をこれからの大学生活に生かしていきたいと思います。







2018/10/15

グーグル翻訳をはじめとする機械翻訳の目覚ましい進化が英語教育の意義を消し去ろうとしている




以下も学部一年生の書き込みの一部です。「これまでの英語教育の意義は急速に失われているのではないか」という危機感が若い世代には強いようです。






画像はWikipediaよりコピーしました。

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 予習の課題を読むうちにふと「手段の目的化」という言葉が浮かび上がってきた。言語とは本来コミュニケーションをするための道具、つまり「手段」に過ぎないわけであり、その言語を使って我々は多くのコミュケーションの中で様々なものを生み出していくのである。

 しかし、今の英語教育現場はどうだろう。明らかに英語を流ちょうに使いこなすことを目的としたカリキュラムであることは明白である。そのために我々は味気のない単語帳や何の興味もわかないような内容(もちろんトピックによって例外はあったが)の教科書を駆使して英語を使いこなすことを目的とした授業を受け続けていたのだ。これでは我々の学びの意欲はわかない。

 さらに追い打ちをかけるように、グーグル翻訳をはじめとする機械翻訳の目覚ましい進化がこのイズムに基づいた英語教育の意義を消し去ろうとしている。あまりにも輝かしい進化が、我々から単語や文法を事細かに覚える必要性を奪っていきつつあるのだ。このままでは英語教育自体の存在意義も問われかねない。由々しき事態は静かに、しかし確実に現代教育観に試練を与えているといえよう。

 さて、この英語教育現場に横行する「手段の目的化」をどう解消していくべきか。まず教材を変えるべきであろう。電子辞書や機械翻訳を備えたタブレット等を片手に英語文学を読んでみる、これも一つの方法であると私は思う。ほかには、有名な日本語のテキストをいかにして英訳するかという授業やオノマトペなどがよく発達した日本語の文をどう英訳するか考えるといった授業も一つの手段として考えられる。

 ともあれ、大事なことは「英語を用いて何を学ぶか」である。英語そのものを勉強する時代はとうの昔に終わったとみてよい。次なるステップの学びは英語という武器の使い方である。そのためには我々はその武器そのものの特徴について深い知識を持っている必要があるし、その武器をよく使わなければならない。武器を危なげなくかつ美しく使えるようになってからこそ、教えられる立場に初めて立つことができるのではないだろうか。








「改めて教師は生徒の将来の可能性を生かすこともつぶすこともできる職業なのだと痛感した」


学部一年生のある授業で、以下の二つの動画を見て少し討論しました。以下は、授業後の書き込みの一部です。












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■ 今日の講義を受けて、改めて教師は生徒の将来の可能性を生かすこともつぶすこともできる職業なのだと痛感した。講義内で見たTEDの動画で、病気の女の子と医者のエピソードがあった。「一般的」には、「普通」は、といった平均的な思考を取っ払い、子供の未来を信じて自由にさせたという点で、私には衝撃的なエピソードであった。おそらくだが私を含め多くの日本人は(もしかしたら世界中の人が)この「平均」というもので何でもはかる傾向にあるのではないだろうか。その例はモデルの身長であったり店の1日当たりの売り上げであったりと、例を挙げればきりがない。

 無論、教育の分野においても、この「平均」の考え方は存在しており、教師はしばしばそれで物事をとらえることがある。ただ、講義内でも先生がおっしゃったように、平均的な人などいないわけで、平均で何でもはかるのはよくないことである。授業の形も、みんなの理解度はそれぞれ異なっていて、ペースだって違うのに、一斉授業をし、家で宿題をさせ、テストを実施し、点数をつけ、わかっていなかったとしても次に進む。私は今日の講義を受け、このスタイルを変える必要があると思った。まさにTEDの動画でもあったように、「家の建設で85%、90%の段階で次に進んでいる」のが現状であるからだ。

 この意見に対し、今日の講義内での意見交換の時には、100%を目指すのがきつくて嫌になるから…、といった否定的な意見が多かったのだが、私個人の意見では、ものすごくこの考えには賛同する。私はこうしてわからないものをわからないままにすることで、苦手意識が生まれ、学ぶのが嫌になると考えるからだ。経験上、苦手だと感じたものはあまり勉強したくなかった、あるいは無理やり覚えたのに対し、興味がある、理解ができたと感じたものは学んでいて楽しいし、もっともっと知りたいという欲求があった。この、もっと知りたいと思う飽くなき欲求こそが将来の夢への手掛かりになるのではないだろうか。今の教育システムはこの可能性をつぶしているのではないだろうか。

    私の高校時代の話になるのだが、周りにはこれを将来したい、と胸を張って言えている人はほんの少ししかおらず、ほぼ大多数が安定した職業に就きたいという人が多かった。もしかしたら、これは教育システムの影響があるのかもしれない。このまま安定しているといわれる職業について、激動する時代の変化に対応していけるとは、私は思えない。今後は個人個人の知的な好奇心、個性が求められると思う。私は将来教える子供たちの可能性をつぶすような教師にだけはならないように、教育の在り方について、考えていきたい。



■ 私は、今回の講義を受けて『無意識的なコンプライアンス』というものがいかに恐ろしいものであるかを思い知った。「なぜ、独裁主義はいけないのか?民主主義の方が良いのか?」という先生の発問に対する答えを中心とし、今回の講義を通して考えたことを述べていこうと思う。

 まず、講義中の先生の発問に対する答えを簡潔にまとめると、「独裁主義に陥ると多くの人々は思考を停止し、少数の人々の脳に頼り切ってしまうことになる。多くの人々の脳が使われることは無い。そして、少数の人々の脳もしばしば間違った決断を下すからである」と表せる。民主主義の特徴は、「三人寄れば文殊の知恵」ということわざで例えられるのではないだろうか、と考えた。今までの歴史を鑑みた際、やはり平常時には独裁的な政治ではなく民主的な政治の方が、よりよい結果を生むものであるように思う。しかしながら、日本の学校社会、特に学級や授業において、一歩間違うと独裁主義的な側面を持つようになるのではないか、と私は考える。

 児童・生徒が板書を自身のノートに書きうつし、教壇に立っている先生の話を黙って聴いているような授業風景を思い浮かべてみてほしい。これは、今の典型的な日本の教育現場での授業風景であると言えよう。近年、「アクティブラーニング」ということが叫ばれるようになり、児童や生徒による話し合い活動やペアワークが徐々に増え始め、授業形態が変化していることも確かではある。

    しかし、どの活動も子どもたちが「先生が言ったとおりにただやっている」だけであったら、これらの活動はいかがなものだろうか。教室は生徒たちが授業中に主体的に挙手をし、反論や質問をすることが普通ではないという空気が漂い、先生の言うことが絶対となってしまう。このまま「先生の言うことが絶対である」と子どもたちが感じ、思考を放棄して先生の言うとおりに何事も進めてしまうようになると、これは教員の独裁主義となってしまうのではないだろうか。独裁主義になる、というのは知らず知らずのうちに子どもたちから思考する機会を奪い、更には彼らの可能性を潰してしまうことになりかねないように考える。

 「独裁主義に陥る危険性がある」、教員を志す者として、現在の学校社会でこのような危険性があるということを認識しておくことは非常に大切であるように思った。また、自分自身も常に様々なことに対してアンテナを張り、思考するということを忘れないでいたい。



■ よく、”学校は失敗する場所”、”教室は失敗する場所”という言葉を聞く。確かに子供のうちは失敗しても大人(教師)によって守られており、社会的責任を問われることはまずない。しかし、実際の教室では多くの子供たちが失敗を恐れ、自分の可能性をつぶしてしまっている気がする。例えば、授業中は自分の考えを述べることも多いが、多くの場合子供たちは教師に求められている答えを出そうとする。そして、教師が求めている答えこそが必ず正しいといったような風潮があると思う。人と違った答えは受け入れられる場合もあるが、批判されてしまう可能性も秘めているからである。

 講義中にふと、高校の時の国語の授業が思い浮かんだ。私が受けていた授業では、主人公の心情を説明する記述問題などは、何人かが答えを黒板に書き、先生が少し訂正し解説を加えながらみんなの考えを聞いていくスタイルだった。しかし授業の最後に配られる模範解答が最も完璧な回答というイメージがあり、テスト前は多くの人が模範解答を覚えていた。人と違った考え方をする人はむしろ歓迎されるべきだと私は思う。その人の違う角度からの意見によって私たちが気づかされることも多くあるからだ。




■ 私は、今回の授業で先生が口にされた「日本の生徒は空気を読みすぎである」という言葉に深く共感した。私は高校の時にニュージーランドに留学し、実際に現地の高校生と一緒に授業を受ける機会があった。彼らの学習意欲は行動から現れるものであり、先生の質問に積極的に答えたり、わからないことがあったらその場で質問したりするなど、活発で楽しい授業だったことを今でも鮮明に覚えている。

    しかしながら、帰国後に改めて日本の授業を受けると、失敗や周りの目を恐れて発言や挙手を避けるような姿勢に自分がなっていたことを思い知った。たしかに、空気を読むことは必ずしも悪いことではない。周りの意見に同調することで自分の意見を生みだす手間が省けるし、突飛な考え方を持った異端者だと思われることもない。しかし、グローバル化が進む現代、革新的な意見や積極性は絶対的に必要となってくると思う。ひとりひとりの個性的なアイデアこそが目まぐるしく変動する時代に必要不可欠なのだ。






研究倫理、とくにオーサーシップについて(ある学生さんのレポートから)


以下は、卒論・修論・博論を書く学生に行う「研究倫理教育講習」の一環で、ある学生さんが書いたレポートの一部です。研究倫理に関する意識を高めるため、その学生さんの同意を得た上で、ここに掲載します。






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『科学の健全な発展のために』
「セクションⅣ 研究成果を発表する」


 我々研究者の持つ学問・研究の自由は、社会から付託されているものであり、その意味では研究者は自身の興味関心によって研究を行っていくにしても、そのあり方や成果、倫理的配慮について適切に判断を行うことが不可欠である。

 「セクションⅣ 研究成果を発表する」では、オーサーシップ、出版、引用に関わるルールが紹介されている。これらのルールは、もしも認識していなければ、知らずに犯してしまうようなものが多い。例えばオーサーシップに関しては、オーサーとしての資格がない者にオーサーシップを与えてしまうギフト・オーサーシップ、出版に関しては一つの研究を複数の少研究に分割して出版するサラミ出版などである。

 研究倫理に関わる様々なルールに違反することは、知らなかった・そのようなつもりはなかった、という言葉で済ますことのできる問題ではない。研究者一人の認識不足や悪意が、その研究者が属する研究者共同体の信用を損なう恐れがあることを十分に確認しておきたい。

 また、オーサーシップや出版に関して本書でも懸念されているのは、教授と大学院生の力関係によって生じる問題である。研究倫理に関する認識不足の教授が、大学院生の論文投稿の際にサブ・オーサーとして掲載されることを当たり前のように求めることもあるかもしれない。

 確かに、本書でも紹介されている、論文の著者として掲載される4つの条件のうち「研究の構想・デザインや,データの取得・分析・解釈に実質的に寄与していること」、「論文の草稿執筆や重要な専門的内容について重要な校閲を行っていること」、「出版原稿の最終版を承認していること」の三つに関しては、長期間に渡って院生を指導している教授であれば、満たしていると捉えることができるのかもしれない。

 しかし、やはり研究者としての主体が大学院生にあり、教授は共同研究者ではなく単なる助言者に過ぎないという前提で行われた研究ならば、ここでサブ・オーサーの権限を教授に与えるのは誤りである。少なくとも4つの条件のうちの一つである「論文の任意の箇所の正確性や誠実さについて疑義が指摘された際,調査が適正に行われ疑義が解決されることを保証するため,研究のあらゆる側面について説明できることに同意していること」が満たされないかぎりは著者として名前をあげてはならないことが『科学の健全な発展のために』が定めていることである。

 研究倫理に関する規定はすべての研究者が熟知し厳守すべきものではあるが、研究者間の力関係を前提として、犯さざるを得なかった違反もあるはずである。若手研究者には、厳格なルールの周知を行っていくのみではなく、上記のような力関係を前提とした研究倫理違反に関わった際に、誰に・どのように助けを求めることができるのか、そうした相談ができる諸機関についての周知も行っていくべきだと考えた。



2018/10/12

"Democracy and Education"の第一章を読んだ大学院生 (M1) の感想


以下は、Deweyの"Democracy and Education"の第一章を読んだ大学院 (M1) の授業についての感想の一部です。

John Dewey (1916) Democracy and Education 
(デューイ『民主主義と教育』の目次ページ)


言語教育について根源的に考えた上で、日本の英語教育について具体的に考える授業にしたいと思っています。







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MT君

 私は、教育学部で4年間英語教育学を学び、実際に教師として教育を施す立場にあったにもかかわらず、「教育とは何か」という本質的な問いについて深く考えることをしてきませんでした。ここでは、今回の講義内容から、現段階で私が解釈した「教育とは何か」という問いへの答えを記述し、その後英語教育においてどのようなことが求められるかについて記述します。
 
 デューイの主張を踏まえ、私は「教育(Education)」とは学校教育という文脈においては「他者の学習(Learning)を促すこと」であると認識しました。この場合の「学習(Lerning)」とは学習者が、自分とは異なる(または変化し続ける)周りの環境へと適合できるよう、自分自身を変容させることであると解釈できます。このように書くと、ごく当たり前のことのように思えるのですが、学校現場で私が生徒として受けた授業、または教師として行った授業を省みると、それらすべてが生徒の「学習」を伴った「教育」と呼べるかについては疑問が残ります。単なる知識技能の伝達にとどまる授業は、それを通じて生徒自身が変容しない限り、教育とは言えないのではないでしょうか。例えば、統語的手続き重視の文法指導や機械的なトレーニングのみに終始した授業を通じて、生徒は「学習」することはできるのでしょうか。そのような教師-生徒の関係は、teacher-teacheeの関係に過ぎません。教師は生徒を"teachee"ではなく、"learner"にする教育を施す義務があります。そのような意味で、教師の役割は「自律した学習者(autonomous learner)」を育てることであると言えます。「自律した学習者」とは、単なる自学自習ができる生徒を指すわけではありません。「自律した学習者」とは、自ら「学習」できる者、すなわちに、新しい環境に対して自らを柔軟に適合させるべく変容を続けることができる者が「自律した"学習"者」と呼べるのだと今回の講義を通じて考えました。
 
 それでは、生徒の学習を促すために、英語教育ではどのようなことが求められるのでしょうか。学習指導要領において、日本の英語教育の目標は「コミュニケーション能力」を育成することとされています。一般にコミュニケーション能力とは、4技能(読むこと、聞くこと、書くこと、話すこと)を指し、昨今では大学入試への外部試験導入などにより4技能育成への熱はますます高まってきています。しかし、「コミュニケーション能力」とは、単に4技能を均質に伸ばせば育まれるほど単純なものなのでしょうか。さらに言えば、4技能育成の行き着く先、すなわち「上手に読む/聞く/書く/話す」とはどのようなものなのでしょうか。デューイの “commnication” という言葉の捉え方を参照することで、これらの問いについて何か手がかりを得たように思います。( もちろん、 デューイの言う “communication” と 英語教育の文脈における「コミュニケーション能力」は全く同じものを指すわけではないが、根っこの部分は同じであると私は考えます。)

 コミュニケーションとは共通理解(common understanding)に参加することであり、その意味ですべてのコミュニケーションは教育的であるとデューイは言います。共通理解に参加するとは、単なる一方的な情報の移送とは異なり、自身の経験と他者の経験をすり合わせ、それにより両者が変容を遂げるということであると解釈しました。そのように考えると、「上手に話す/書くとは」必ずしも難しい言葉を使って流暢に語ることではなく、自分の経験を相手の経験に同期することができるよう、自己をメタ的に見つめて伝えること、「上手に聞くこと/読むこと」とは、自分と異なる経験を持つものの主張を理解することと言えるのではないでしょうか。4つの技能は、そのようなコミュニケーションを成立させるために必要な能力に過ぎず、技能の育成のみに終始すべきではないと私は考えます。

 昨今の能力偏重とも言える日本の英語教育で、デューイが提唱するような教育観を見直すことには大きな意義があるように思えます。








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FO君

 デューイは『民主主義と教育』を、「人間が生きること」とはどのようなものかを述べることで始めています。デューイの考えを一言でまとめるなら、「人間が生きること」とは世界(あるいは環境)に働きかけることによって行われる自己刷新のプロセス、と言えるかと思います。人は自らすすんで世界に語りかけ、その中で自己の変容を経験することで自己を維持します。もちろん、世界への働きかけを通して私たちが経験できることは自己の変容だけではありません。私たちは世界に働きかけ、自己の変容を経験するのと同時に、世界の方も変えていきます。私はデューイのこの考えに触れたときに、これこそコミュニケーションなのではないかと思いました。

    第一章のなかで、デューイは「全てのコミュニケーションは教育的である」と述べていますが、ここでの「コミュニケーション」には普段私たちが用いている「コミュニケーション」ということば以上の意味合いが明らかに込められています。コミュニケーションということばはあまりに有名であり、およそどんな人でもこのことばを知っています。「コミュニケーションとはなにか」と聞かれると、「コミュニケーションはコミュニケーションだ」とトートロジーを用いることなしには答えることが難しいぐらい、私たちの生活にはコミュニケーションということばが身近にあります。しかし私は、そのことばが実体を持たずに独り歩きしているような印象を受けます。フェイスブックの誕生によりその意味を剥奪されてしまった「友だち」ということばを聞いたときに感じる違和感に近いのかもしれません。私たちが普段用いているような意味合いでの「コミュニケーション」が全て教育的であると言えるのか、私はひどく懐疑的です。デューイが「コミュニケーション」ということばを用いて表したかったことはこのような形骸化された意味でのやり取りではなく、自らの変容と世界の変容の両方を導いてくれるような血の通ったやり取りであるように私には思えました(デューイ自身は “all communication(and hence all genuine social life) is educative” と述べていますが、私はデューイが単にコミュニケーションとだけ言うのではなく、all genuine social lifeと付け加えていることに大きな意味があるように感じます)。

 人間は自己刷新を通して自己の維持を行う、と述べましたが、これは人が集まり、集団を形成したときにも同じことが言えます。集団を維持するためにも私たちは一人ひとりがそれぞれのやり方で世界に働きかけます。「集団を維持する」ということは、社会的集団の究極の目標であると言って差し支えないかと思いますが、人間はそういった目標に無関心な状態でこの世に産み落とされます。デューイはこのようにして生まれてくる社会の「未成熟な」メンバーに、集団としての目的や慣習を教えることができるのは教育だけであると述べています。そして、だからこそ教育が必要であると述べます。私たちは教育を通して、社会の未成熟なメンバーに「自ら世界に語りかけること」を教えます。そして、個々人が世界に関与することで集団を維持します。ここで言う「世界」は私たちを取り巻く環境のことです(デューイも “environment” を用いていました)。

 授業中のディスカッションでは autonomous learner ということばが多くの友人の口から飛び出ました。このautonomous learner こそ、自ら世界へ働きかけ(世界とコミュニケーションを図り)、その中で自己の変容も世界の変容も経験していく人のこと指すのではないでしょうか。そして、そのような人を育むために教育は行われなければならないのではないでしょうか。偶然、授業とは関係のないところでパウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』を読んでいたのですが、50周年記念版には三砂ちづるさんによるまえがきがあり、そこで彼女はこのように述べていました。


フレイレにとって識字を始めとする能力の獲得とは、尊厳を欠く労働現場に学生を送ったり、「キャリア」を積んだりする準備のためのものではなく、セルフマネージできる、すなわち、それぞれが自らの意思で人生を送っていけるようになるための準備なのである。(p.21)



 私たちはこれから学校内外で多くのことを教えることになると思います。そのとき私たちが忘れてはならないことは、なにを教えるにせよそれら全てが「生徒が自らの意思で彼ら自身の人生を送っていける」ことに繋がらなければならない、ということであるように思います。







2018/10/09

「学び」あるいは「勉強」について


「英語教師のためのコンピュータ入門」という授業は、 学部一年生向けということもあって、いろいろな問題提起をして、学生さんに考え語り合ってもらうようにしています。

先日提起した問題の一つは、「学び」あるいは「勉強」についてでした。多動傾向のある私(笑)は、「忍耐力は、学びにおいて重要ではない。なぜなら放っておかれたらずっとそればかりやってしまうぐらいに好きなことを見つけ、それに没頭することが学びだから」といった私見を述べました。

以下はその意見に対する反対意見、賛同意見、あるいは独自の見解です。







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■ Aさん


今回の授業で疑問に思ったことを一つここで述べようと思う。

「好きなものはやれと言われなくても自分から進んでやる。」という先生の言葉についてである。

確かに、好きなものには自然とハングリー精神が湧いてくるものだ。

しかし世の中好きなものばかりではない。現に私も小学生の頃は英語が好きではなかった。その私がなぜ英語教師になろうと思うほど英語を好きになれたのか。それはきっとやりたくない、しんどいと思うトレーニングをコツコツ続けたからだ。毎日取り組んでいると、自然に力がつく。力がつくと、できること・分かることが増える。できること・分かることが増えると、やりがいを感じて意欲的になる。私はその中で英語の魅力を感じ取った。

嫌いなものだと努力し続けるのには相当な力が必要である。でも、嫌いなものを好きになることができたら、それはその人の可能性を広げる糧となるだろう。私は子どもたちにその努力する力、忍耐力をつけるように指導することも重要だと思うが、いかがだろうか。


■ B君

 高校時代の受験勉強は、センター試験に向けて9教科も勉強せねばならず、そのことを嘆いていたのをよく覚えています。「日本史や化学基礎、生物基礎なんて、絶対将来使わないよなぁ」と思っていた私は、それらを勉強する理由を自分なりに考えてみることにしました。そして、学校の勉強はとても嫌で、しかしやらなければならないことをいかに自分の生活に取り込むか、そしてそれに耐えうる忍耐力を養うためにあるのだという考えに至りました。

 僕は、勉強が好きではなかったですが、大学進学のためには9教科勉強する必要があります。そのために、私は電車通学の時間には英単語の暗記、学校の自学の時間には入試の過去問を、というように、9教科の勉強を自分の一日の流れに組み込みました。そのために、自分のやりたいことを我慢しなければならなかったし、勉強ばかりの一日がこれからずっと続くのかと思うととてもつらかったです。しかし、そんな日々を乗り越えたことは自分にとっても自信になりました。子供のころから幸福に育ち、しかも正直勉強が大好きでいくらやったって精神的には全然きつくない、という人は社会に出てから大丈夫なのか、と思ってしまいます。もちろん今の社会から求めらる学力は周りよりも身につくかもしれませんが、精神的な忍耐力に関して言えば、勉強が好きなら、ゲームばかりしている子と変わりません。

 この世を好きなことだけやって生きていけるとは、私は思いません。ですから、私は勉強というのは一般的には難しくて、嫌で、自分なりに意味を見出すことが難しいものであることも、勉強をする理由なのではないかと思います。また、だからこそ、義務教育という形で、社会に出る前の子供たちに立ちはだかっている。そして、忍耐力に加えて、生涯を通して必要となる思考力を身につける。これが学校の勉強の本質的な意義であると私は思います。


■ C君

 先生がおっしゃるように、世界の急速な変化は近年著しく進んできているため、時代の変化についていくためにも『勉強をしよう』というのは疑いの余地がないほど正しいことである。しかし、私はどうしても『勉強』という単語に抵抗がある。

 最近ある本を読んで感じたことだが、『勉強する』ことと『学ぶ』ということは根本から違うのではないかということである。勉強とは、読んで字のごとく『強いて勉める』つまり精一杯努力をするということではあるのだが、語源を調べたところ商人の値下げの例も書かれていた。そのことから、書かれてはなかったものの多少なりと『嫌々ながら』頑張るというニュアンスも含まれるのではないかと考えた。反対に『学び』については、その本の中では「自分の興味関心があるものに没頭して得られるもの」という記載のされ方であった。この区別の仕方は非常に納得がいった。今までの経験から考えて見ても、社会的規範だとか情報の集め方だとかは自分の関心のある分野から得たものの方が圧倒的に多いからである。しかし、一人の人間としての自立をしなければならない年齢に達した今では、勉強も生きるために必要であることは言うまでもない。

 このような理由で私は、将来自分がつくであろう高校教員、あるいは義務教育課程における教員に求められることは、生徒に『学ばせる』こと、もっと言えば『何かに没頭させる』ことではないかと考える。もちろん好きなことだけやれば良いというわけではないが、先生がラグビー部OBの方を例に出したように、没頭する経験は後の人生において非常に重要だと改めて感じた。大学生活は比較的自由が与えられているため、この機会に4年間は好きなことに没頭していこうと思う。


■ D君

やらされていると感じてしまうがゆえに勉強することが嫌いになり、結果として「学ぶ」ということを学ばないまま大人になっていく子供たちが多いという指摘について意見を述べたい。やらされている、つまり他律の中で行うものは基本的には苦痛を多少なりともなうものである。なぜならそれをやっている本人たちが楽しめていないから、であることは明白であろう。これに対して自律的に行うもの、ここでは自らが楽しいと感じて行うものであるが(授業中ではサッカーの例が出た)、人々によっては疲れ果てるまでこの自律的に行うものを楽しみながら遂行するだろう。ただ、自らがやって楽しいかどうかということだけで成果が大きく違ってくるのである。教育者を志すものとしてこれを促す、「学ぶ喜び」を体感させることの重要性を把握しておくことは寛容であると感じた。授業中に「キノコ博士」と呼ばれた少年が出てきたが、彼はその「学ぶ喜び」を知っているという点で大変優れた人物であるといえよう。


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学校に行かず、自分の「好き」を突き詰める―中3のキノコ博士:山下光君と母仁美さんに聞く「自分らしい生き方」とは
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■ Eさん

私は学習できる環境にいます。大学に通わせてもらい、学習に必要なものも与えてもらっています。やりたいことを好きなだけさせてくれる両親は、私のすることに口を挟まないし、反対することもなく見守ってくれます。学びたいことを好きなだけ学ばせてくれます。

私は勉強を強制されたことがありません。中学生の頃、全く勉強しない時期がありました。勉強をしなくてもとりあえず高校に上がれる安心感と、四則演算さえできれば数学なんてできなくても生きていけるという中学生特有のひねくれた考えのおかげで勉強する意欲をなくしました。その時でも両親は何も言いませんでした。

私はその時、最初は楽しかったけれど、しばらくするとなんとなく寂しくなりました。確かに数学ができなくても生きていけるけれど、知識があまりに乏しいことに不満を覚えるようになりました。学んだことが自分の知識になることが学ぶ喜びであり、その喜びを味わいたいがために勉強するのだということに気づきました。そして、学んだことに無意味なことなど一つもなく、生きていく上で、生きるために働く上で、学ぶことは必須なのだと知りました。今回の授業で、Lifelong Learningの話を聞いて、まさにそうだと同意しました。


■ Fさん

 今回の授業を受けて、「学ぶ」ということについて考えてみた。私たちはたまたま大学に通っているため、学習しなさい、学びなさい、と言われると学術的な学びになってしまう。しかしそれだけが学びだろうか。生涯学習とは一生学問に触れていなさいということなのだろうか。そんなに頭が良くて勉強ができる人は偉いのだろうか。私はこのような社会の風潮が今の日本をだめにしていると思う。エリートなんてただ勉強ができるだけの人たちの集まりだと思っている。勉強ができるのはそんなに偉いのだろうか。

 私は、違う意味で学ばないことは愚かなことだと思う。しかし「学ぶ」という単語に対して私なりの解釈をしたうえでだ。たとえば、学校の勉強などせずに大好きなサッカーばかりをしている人がいるとしよう。この人は学ぶことをしない愚かな人だといえようか。親や教師はこの人に勉強を強要すべきだろうか。私はそれは違うと思う。たしかに社会生活を営む上での最低限の知識は必要だろう。しかしそんなのは意外と勝手に身につくものである。そんなくだらない理由でその人の才能を潰す方が私は愚かだと思う。その人はサッカーの戦術や技術を日々のトレーニングの中で「学んで」いるからだ。

スーパーのレジ打ちのパートをしている主婦はどうだろうか。この人は勉強をしていないから愚かなのだろうか。私はそれは違うと思う。家事もパートの仕事も、日々の失敗から「学び」、二度と同じ失敗を繰り返さないように改善策を探し出す。勉強しかできない人より、よっぽど立派だと思う。生まれたばかりの乳児でさえ、言語や体の動かし方を自分の力で修得していく。世の中に学ばない人などほとんど存在しないのだ。

 もちろん、私は教員を目指しているため、生涯を通して学問と、英語と向き合う必要がある。それは十分に理解しているため、もっと本を読み、視野を広げ、英語力の向上のために努力しようと思う。しかし、ただ知識量が多く英語ができるだけの教員にはなりたくない。もっと様々なことに挑戦し、学問の面だけでなく、他分野に関しても幅広い視野を持った教員、人間になりたい。なぜなら、学校で教える生徒の全員が学問を生業にするわけでもなく、そもそも大学に進学するわけでもないからだ。私たちがこうして学問に向き合えているのも、学問ではない分野で日々「学び」を重ね、その身を削って努力してくれている人が、学問に触れている人よりもはるかに多くいるおかげだということを忘れてはならない。

 このようなことを書きましたが、決して私が勉強から逃げたいからでも、先生方を非難したいからでもありません。むしろ私は小学校から大学まで、先生方や環境には恵まれてきたと強く感じています。


■ Gさん

 私は、今回の講義を通して、自分の教育や英語に対する考えがひどく甘いことに気付かされた。中でも、特に印象に残っているのは、「 " Lifelong Education "ではなく、" Lifelong Learning "である」という先生の言葉だ。私は、先生のその言葉について、じっくりと考えた。

 まず初めに、" Lifelong Education "と" Lifelong Learning "の違いについて述べたいと思う。どちらも、「生涯学習」と捉えることができるかもしれないが、この2つには決定的な違いがある。講義中、先生がおっしゃられていたが、" Lifelong Learning " というのは、 「自発的に学ぶ(能動的に学ぶ)」ことなのだ。それに対して、" Lifelong Education "は、「受動態で学ぶ」と表せるのではないかと私は考える。「能動」と「受動」という点で、この2つにおける学びの姿勢は全く正反対のものであるように思う。では、何故 " Lifelong Learning " であるのだろうか。

 人々にはいつまでも先導し、守ってくれるような人が存在するわけではないからである、と私は考えた。私たちはこれまでの人生を、親や周囲にいる大人、そして教員に甘えることで導かれ、そして守られて生きてきた、と言っても過言ではないと私は思う。しかし、社会に出てからはそんなことがあるはずもない。自分で自分自身の行動の責任を取っていかなければならないのだ。その上、親や教員になると、自分の子どもや児童・生徒たちを導く立場となる。そのためにも、ただ与えられた課題や問題を解法に従って機械的に解決するだけではなく、自ら課題や問題を見つけ、それについてじっくりと考えることが大切なのであると考える。これに関連して、先生のブログ記事『考える・調べる・尋ねる』を読んで私は以下のようなことを感じた。

 社会に出て、「手取り足取り教えてください」などという甘えは通用するわけない、ということである。自分で考えて動く力が求められるのである。その力の基盤として「学ぶ方法を学ぶ」という教育の1つの目的があげられるように思う。しかし、学校教育を通して「学ぶ方法を学ぶ」ことができているのかといわれると、私はそうは思わない。私は小・中・高の間、学校教育を受けてきたが、私も含め児童・生徒たちはこのことを全く意識しておらず、「なんで勉強しなくてはならないのだろう」といいながら勉強していたことをよく覚えている。勉強をする理由として「受験があるから」などの目先の目標に向かうことが多く、自分の将来を見据えたような発言は耳にしたことがあまりなかった。意識せずとも、自然に身についている友人もいたように今考えてみると思うが、大半はただただ高得点をたたき出すためや、赤点を回避するためなどに囚われ、「学ぶ方法を学ぶ」ことに辿り着いていなかったように思う。

 私は、小学校高学年から高校生で「学ぶ方法を学ぶ」ことを児童・生徒たちに伝えていくべきであると考える。小学校高学年から、と私が考えたのは、小学校低学年・中学年では、学校生活を通して小さな社会での経験を積むことが最優先ではないかと思ったためである。また、このことを実施していくにあたって、現在の学校教育の評価方法も見つめなおすべきであると考えた。関心・意欲・態度、また児童・生徒の努力を評価材として、もっと成績に反映するべきであるように思う。これらは、テストの点や実技と比較して非常に目に見えにくく、評価しにくいものであると感じ、まだ具体的に方法が思いつくわけでもないのだが、様々な形で評価していけるようになるとよいのではないかと考える。

 また、" Lifelong Learning ”の基盤を学校教育を通して作り上げることにおいて、「活字離れ」という問題はとても深刻なものであるように感じる。教養の広さや、物事を深く考えて感じる力は、本や新聞を読むことによって主に培われるように考える。だからこそ、1冊でも多くの本に触れてほしいと思うが、なかなかそうはいかない。私は子どもたちが本を読むようになるためには、家庭での環境づくりが必要であるように感じる。私自身、幼いころに母が読み聞かせをしてくれたり、頻繁に図書館に連れて行ってくれたりしてくれたこともあり、本を読むことが好きである。このように、家庭の環境1つで変わることもあり、学校だけで完結をすることは難しいこともあるため、家庭の協力が" Lifelong Learning "の基盤づくりには不可欠になると考えた。まずは、私自身がより本を読むようにし、どちらの立場になった時でも子どもたちが本に触れる機会を多く作っていけるようになりたいと感じる。


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授業を通じて、さまざまな意見、特に自分とは異なる意見を理解し、そこから自分を変革する力を(私自身を含めて)培いたいと思います。



機械翻訳がますます発展する現在、学校英語教育の意義は失われているのではないか?



学部一年生の授業で、ある学生さんから「これまでの話とはあまり関係ないが、先生自身は、現在、学校で英語教育を行うことの意義をどう考えているのか?機械翻訳がますます発展する中、正直、学校英語教育は意義を失いつつあるのではないのか」という問いかけがありました。

私はその学生さんの意見を聞いた上で、私が日頃考えていた自分の意見を述べましたが、その応答は他の学生さんにも多少の印象を与えたらしく、以下の書き込みが授業用の電子掲示板にありました。

おざなりのことばをできるだけ使わずに書かれた、いい文章であるようにも思えましたので、ここに転載します。







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10月3日の講義で 一番印象深かったのは、「翻訳機能が発達した世の中で英語教育は必要か否か」という質問に対する先生の回答である。

 言語を操ること、言語で意思を疎通させること、はたまた言語それ自体。日常的に行われている言語活動は、当たり前すぎて看過しがちだが、非常に美しく魅力的だ。

 私自身 留学中、英語が上手く操れない期間は自分の声を奪われたような感覚に陥り、言語の必要不可欠性を痛感した。筆談にしてもらったり、辞書や翻訳機能に頼ったりすることで、自分の意思を相手に理解してもらうことはできたが、それはコミュニケーションとは かけ離れたものであり 非常に辛い思いをした。

 しかし、一年間の留学も後半に差し掛かった頃から、少し欠陥はあるものの 言語を通してコミュニケーションが成立する場面が増え、充足を実感できた時の感動は、今でも忘れることはできないほど素晴らしかった。

 言語は人の意思と意思の間を繋ぐ「手段」でしかないが、言語を手段として広がる世界は いつでも私に感動を与えてくれる。誰かの言葉に嬉しくなったり、傷ついたり、幸せになったり…と気持ちに変化を生じさせる言語は 私を退屈させることはないし、言語によって生かされていると感じることは多々ある。(コースの性質上 英語に焦点を当てることが多いが、もちろん 日本語も決して例外では無い。)

 英語教育は、英語”を”教えるのが通例となっていて 本来の言語の役割や喜びを体感する手前で学習が終わっている。言語を操るために 英語”を”学習する過程を飛ばすことはできないが、英語”で”広がる世界を体験するところまで 英語教育の内容を拡張することができたなら、この先も 英語教育の存在意義は保持されるだろう、と私は思うのである。


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皆さんは、現代における学校英語教育の意義についてどう考えますか?




2018/10/05

12/9(日)に広島大学英語教育学会を開催します。一般公開企画「英語資格試験を問い直す」には会員でない方も参加できます!







この夏に豪雨災害により延期した広島大学英語教育学会ですが、以下の要領で開催します。午後には一般公開企画もありますので、会員の方々はもとより英語教育に興味をお持ちの生徒・学生・英語教師・一般市民の方々もぜひお越しください。


■ 名称: 広島大学英語教育学会

■ 日時: 2018年12月9日(日)10:00-16:30
※ ただし一般公開企画は 14:10-16:30

■ 場所: 広島大学教育学部K104教室・K102教室
https://www.hiroshima-u.ac.jp/access/higashihiroshima
https://www.hiroshima-u.ac.jp/access/higashihiroshima/busstop_higashihiroshima/aca_3
※ 広島大学東広島キャンパスは文字通り「広大」なので(笑)、初めてお越しの方は十分に地図などで場所をご確認ください。

■ スケジュール
09:30-10:00 (K104) 受付
10:00-10:40 (K104) 学会総会
10:50-12:00 (K104)    実践志向部門・座談会
「新任者教員の苦労と展望を語り合う」
 登壇する初任者教員
壬生川奏美(広島県福山市立手城小学校教諭)
高橋 伶奈(広島県三原市立第二中学校教諭)
重定 拓実(岡山県立倉敷工業高等学校教諭)
手島 英華(広島県立尾道東高等学校教諭)
 コーディネーター
樫葉みつ子(広島大学教育学部准教授)
12:00-13:00       昼食
各自でお取りください。
13:00-14:00 (K104)     研究志向部門・研究発表
「日本人英語学習者の不平発話行為運用に対する英語母語話者による適切性判断の分析」
梅木璃子(広島大学大学院生博士課程後期)
         
「日本人英語学習者が産出する英語移動表現の特徴と産出に困難を感じる表現の特性」
平野洋平(神戸市立工業高等専門学校准教授)
 14:10-14:30 (K102)    小論文最優秀作品発表
 ゲスト:清水一生さん(第二回英語教育小論文コンテスト最優秀賞受賞者)
 14:30-15:30 (K102)    対話の集い
「英語資格試験を問い直す」
一般参加者も含めて、参加者全員が対等な立場で語り合います。
 コーディネーター
 柳瀬陽介(広島大学教育学部教授)
15:30-15:40 (K102)    閉会行事
15:40-16:30 (K104)    情報交換会(ワンコインパーティ・500円)
茶菓子代500円でどなたでも参加できるパーティです。
忌憚のない話を楽しみたいと思います。ぜひご参加を!



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以下、主な行事のチラシも掲載します。






実践志向部門主催の座談会では、初任者教員の様子を率直に語っていただき、会員相互で知恵を共有したいと思います。これから教員を目指す学生会員が将来について学べる機会であることはもとより、先輩教員も初任者教員の本音を知ることにより学べますし彼ら・彼女らに助言をすることで充足感を覚えることもできるかと思います。一人でも多くの会員の皆様の参加をお待ちしております。









研究志向部門の研究発表では、新進気鋭のお二人の発表を聞きます。最新の研究成果について学びませんか。こちらも多くの会員の皆様の参加をお待ちしております。











一般公開企画は、14:10の「小論文最優秀作品発表」から始まります。受賞者の清水一生さんをお呼びし、作品で表現したかった意図を語ってもらい、次の「対話の集い」につなげます。

14:30から始まる「対話の集い」では、「英語資格試験を問い直す」をテーマに、会員・非会員の枠を超えて英語教育の今後のあり方について対等な立場で語り合います。

主な論点は、小論文最優秀作品で示された以下の三点です。
・英語資格試験は「グローバル社会」を生き抜く人材を育成しているか?
・英語資格試験の面接はあまりに形式的で機械的すぎないか?
・英語資格試験は過剰なプライドだけを与えているのではないか?

短い閉会式を終えたら、最後の一般公開企画である情報交換会(ワンコインパーティ)を15:40から開始します。「三人寄れば文殊の知恵」ではありませんが、「対話の集い」では語りきれなかったこと、および英語教育一般についてなどなど、気軽に話し合いたいと思います。

「来てよかった」と思っていただける学会にします。どうぞご参加を!





「いま・ここ・わたし」を離れたことば

以下に引用するのは、下の章を使った授業を受けた院生さんの感想の一部です。 Experience and Thinking (Chapter 11 of Democracy and Education) http://yanaseyosuke.blogspot.com/2...