2018/11/19

教員は生徒を教育する環境の一部であり、全体ではない


以下はDeweyのDemocracy and Educationの第10章を読んだ授業に参加した大学院生の振り返りの一部です。



Interest and Discipline (Chapter 10 of Democracy and Education)







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■ MT君

  私自身も含め、教師の多くが、教えることが好きで、教えたいという感情をどこかで持っています。教えやすい環境を整えるために、規則を設定し生徒の行動を制限し、宿題を課し学習進度を揃えるということが一般的に行われています。学級を集団としてとらえる場合、そのような規則や課題が有効に機能する場合ももちろんあるのでしょうが、そのような場合には、集団を構成する生徒一人一人に十分目を向けることができず、生徒一人一人「観察する」ということがおざなりになってしまうのではないでしょうか。重要なのは「教師が教える」ことではなく「生徒が学ぶ」ことです。
 
 優れた実践者の多くは「教えない」授業を行っているといいます。「教えない」と口で言うのは簡単ですが、何も考えずに「教えない」授業を実践しようとすることは、無秩序な学級を招きかねません。優れた実践者は、生徒をよく観察し、教師と生徒の間に人間的な関係性を築いているからこそ、「教えない」授業が可能になっているのだと思います。その結果、生徒一人一人の興味を尊重することができ、「こころー身体」が一体となった指導を行うことができているのではないでしょうか。我々は優れた実践者から、形骸的な授業方法を一般化して取り入れようとするのではなく、彼ら彼女らがどのような目で生徒を観察し、どのような指導の軸を持っているかということを学ぶ必要であるのではないでしょうか。



■ FO君

  第10章でデューイは主に、興味と自制について述べていますが、授業では特に学習者の興味について多く話し合いましたので、ここでは特に興味についてまとめて今回の振り返りとさせていただきます。

 デューイが学習者の興味について深く掘り下げたのは第10章が初めてですが、彼は今までの章でも興味について触れています。例えば、第2章においても、興味や関心は物理的な運搬によって学習者にもたらされるものではなく、学習者が身を投じている環境からの作用によって生まれると述べています。つまり、デューイは、興味や関心といったものは直接的な伝達や文字通りの注入は不可能である、と主張しています。この考えは第10章においても述べられている上に、現在の英語教育に目を向けるにあたって大変重要な考えになってくるように思えます。

 “Interest and concern mean that self and world are engaged with each other in a developing situation.” とデューイは第10章で述べていますが、この一文には彼が、興味や関心を「自身と世界が共に発達する中に立ち現れるもの」、として捉えていることが読み取れます。環境が教育するのであり、教員のできることはその環境を整えることだとデューイは述べていますが、より語弊のないのように言うなら、教員は生徒を教育する環境の一部であり、全体ではない、ということを主張しています。このような環境と学習者の関わりの中に彼らの興味や関心は生じうるのですが、この考えに依拠したときに私は、現在教育に限らず、多くの場面で口にされている「興味づけ」ということばに違和感を覚えるようになりました。

 先にも述べたとおり、興味とは決して「モノ」として存在し、物理的な運搬ができるようなものではなく、実感として私たちの中に浮かび上がってくるものです。しかし、「先生が生徒に興味づけをおこなう」と言ったときには、なにか先生が目に見える「モノ」を生徒に手渡しているような印象をうけます。例えば、最近ではよく英語の授業でICTを用いていたり、たくさんの活動で構成されている授業を見かけたりします。そしてこのような「ICT」や「活動」を「興味づけの道具」としている授業は数多くあります。この事自体には私はなんの違和感も抱いていません。これらは授業を作る上での工夫としてカウントされてしかるべきでしょう。私が違和感を持たずにいられないのは、このような工夫それ自体が生徒の興味としてカウントされている状況に対してです。

 学習者の興味とは与えられるものではなく、自然と立ち現れるものです。ICTを用いるなどして、生徒が学びの中に興味を見つけることは十分に起こりうる事ですし、それがICTの本来の使われ方でしょう。授業中の活動や教師が生徒にご褒美として与えるスタンプやシールなども然りです。これらを媒介に学びにまで意識が伸び、そこに興味が生まれたときに先程いくつか例に挙げた「装置」は正常に機能していると言えるでしょう(もしも、ICT、活動、スタンプ、シールに対する意識がそこから広がらないなら、それは「学び」に対する興味とは言えないでしょう)。私が感じる違和感は、教師の「関心」がICTを使うこと、活動を行うこと、それ自体にしか向いていないのではないか、という疑問に起因しているように思えます。

 授業においてICTを用いたり、多くの活動を取り入れたりすることにはもちろん意味があります。今までの章でも繰り返し述べられてきたことですが、教師が生徒を「容れ物」とみなし、一方的に一杯一杯の状態にするのでは、彼らは知識は得るかもしれませんが世界には目を向けなくなります。このような事態を避けるためにICTや活動などは大きな役割をもっています。このような舞台装置を用いて生徒が象牙の塔に籠もってしまうのではなく、世界に語りかけるように教師は促します。そして、そうして語りかけた世界と自己との交わりの中に生徒は興味を見出します。それは実物としてのなにかを掴むようなものではなく、何かにのめり込んでいるという実感として感じられるものです。このように、ICTや活動などが担える役割は「学習者を世界に向かわせる」ことであって「学習者の興味そのものになる」ことではありません。

 このことを忘れて、「活動をすること」、「ICTを用いること」それ自体に興味があるとする生徒の興味や関心に対する軽薄な理解は、それらを用いることそれ自体を目的としてしまいかねません。つまり、「ICTを使うこと」、「活動を行うこと」に意味があるという間違った考えを導いてしまう恐れがあります。手段であったはずのものが、その本来の目的を忘れ、目的と化してしまうことを私は「形骸化」と呼びますし、そうなった途端にあらゆる手段はその教育的能力を失うと強く信じています。そして、形骸化された手段を何度も押し付けられた生徒はきっと「なんでそんなことしないといけないのか」、「それをしてなんになるのか」という疑問を投げかけてくるでしょう。

 私は、このようにして教育に傷つけられてきた生徒は数多くいるのだろうな、と予習の際に思ったのですが、授業ではより恐ろしい考えが私の中に浮かび上がりました。それは、自身の行動に興味や関心が欠落しているということに気づいていない生徒が相当数いるのではないか、ということです。特に大学受験などに力を入れている進学校などにおいては「とにかくやる」という姿勢がデフォルトになっています。そのため、生徒は自身の行っていることに自身の関心や興味が無い状態に疑問を持つこともなく、「それでもやるのが普通」という態度を知らず知らずのうちにとってしまいます。この姿勢に必ずついて回る危険は、以前にも指摘したとおり、「受験」というゴールが終わった途端に学びそのものが終わってしまう、というものです。私はこのような押しつけを「抑圧」ということばを用いて表してきましたが、現在の生徒たちは自身がこのような抑圧下に身をおいている、ということにすら無自覚であることが、往々にしてあるのではないでしょうか。

 興味や関心が伴わない学びがデフォルト化してしまうことの危険性に教師は明らかに気づいておく必要があるのですが、それ以上に、その危険性に生徒自身も気づくこと、そしてそのような抑圧を受けているかもしれない、ということを彼ら自身が自覚することがこれからの教育に求められなければなりません。「興味のない学び」による抑圧からの解放は、「自身が抑圧下にある」という自己に対する気付きに始点を有します。この振り返りの冒頭でも述べたとおり、教師は生徒が学びを拾い上げる環境の一部であり、全体ではありません。そのため、教師にできること限られているはずです。教師はいかなる状況であっても、どのような生徒に対してでも、興味を直接的に与えることができる、という考えには私は賛同できません。だからこそ教師は、生徒を知識で一杯いっぱいの状態にするのではなく、「関心のない学びをしている」ということに彼ら自身が気づくことができるような、風通しの良い環境を整えることに注力する必要があるのではないでしょうか。




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