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自分にもできんのに怒鳴ったらアカン

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以下もデューイの『民主主義と教育』を読む授業に出る院生の振り返りです。

教師は教室という小さな権力者になります。権力は適正な社会的関係を保つには必要不可欠なものとも言えるかと思いますが、その濫用は言うまでもなく誰の益にもなりません。「教師という権力の適切な行使とは何か」という問いを常に心に抱くことが教師には必要かと思います。



管理人の私見ですが、 教師の権力(の適切な行使)を考える上で、 この本は非常に啓発的でした。

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第10章ではとっても耳が痛い話をデューイ先生にいただいたので、それについて反省しつつ、「自制」(discipline)について考えます。

 デューイによれば自制 (discipline) とは始めた行動を完結させるために、有効な手段を使いこなすことを意味します。(p.124) 行動の開始と完結の間に多くの手段や障害が存在する場合には、熟考 (deliberation) と粘り強さ (persistence) が必要です。率直に言ってしまえば、私はデューイの「自制」に関する議論を修論執筆や論文執筆、または院生生活とのアナロジーで理解しました(そして、自分の自制からの程遠さを見てかなり落ち込んでいます)。

 がむしゃらに頑張ること (obstinacy) は、確かに自分が何を見通してその行為を行っているのかが見えていないのに、ただやっている「つもり」になっている点で、意思 (will) の二つの側面である「結果の見通し」が欠けています。完全にそうだと言うことはできませんが、特研発表の締め切りが近づいた際の私のがむしゃらな頑張りといったらもう、それこそ「力いっぱい頑張っている」という表現が最も適しているほどに見通しが立っていないことが多いようです。

 それなりに知性を備えているはずの大学院生としての私が恥を隠さずに、自分の自制能力の無さを明らかにして、ここで気づかされるのは、脱線してしまうのですが、「もしかして教師は、自分にもできやしないことを生徒に強制して、できなかったら怒っていないか?」ということです。

 集中して授業を聞くことができない、居眠りをしてしまう生徒に対する教師の言葉かけは、多くの場合とても強い口調での説教となります。私自身は、高校生、学部生として多くの授業、講義を真面目に聞かなかったり居眠りをした経験がありますし、それなりに怒られ…

二名の大学院生による(比較的正直な)高校・大学生活の述懐

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以下はデューイの『民主主義と教育』を読む授業で書いてもらった授業振り返りの文章です。ここにあげた二人は、国立大学・公立大学に入学し、国立大学の大学院に入ったという経歴をもっていますが、そのような経歴をもつ二人が比較的正直にーといいますのも、授業に関して教員が読む文章に対してまったく正直に話をすることなど不可能ですからー書いた文章から、高校・大学教育の一側面について知ることができると思い、ここに掲載します。






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   今回の講義では、8章の「教育におけるねらい」という章を扱った。講義では様々な議論が行われたが、ここでは自分の体験をもとに、考えたことや感じたことをまとめようと思う。

 まず始めに、ここでは「ねらい」について色々な話が行われた。そもそも、「ねらい」というものは、外部から定められた時に教育の「ねらい」は語ることが出来ないと述べられていた。また、これについては、外部からではなく生徒自身が自発的に芽生え、保持するというものであった。ここで議論に上がったのは、内発的に「ねらい」が湧き上がるために、ロールモデル〈憧れ〉となる人物が必要ではないか?というものが挙がった。これについて、私自身「確かにその通りだ」と思う節があった。

 私が高校3年生の頃、進路学習の一環として「先輩たちから学ぶ」という時間が何回か設けられていた。恐らく、他の人もこのような時間があったと思うのだが、卒業生で大学に進学した人を招いて、自身の高校時代の勉強法や受験、そして進学後はどのようなことをしているのかなどを話してもらうといった時間であった。一見、ためになりそうな時間であるが、正直なところ私にとっては、彼らの話は聞いても何のためにもならなかった。

 というのも、毎回講話に呼ばれる人は、高校時代に学年で上位5名以内に常にいて、T大やK大というような名門国公立大学に合格した人ばかりで、彼らの勉強法や進学後の話を聞いても何にも共感せず、私たちからかけ離れ過ぎており、話の中で将来のためになるものが1つもなかったのだ。話の終わりに学年主任から「先輩もこんなにいい進路を進んでいるのだから、みんなもいい大学、特に国公立に合格できるように頑張ろう!」と言われた時には、心底がっかりしたのを思い出した。ここで選ばれた卒業生は、教師(学校)にとっては素晴らしいロールモデルであったのだろうが、ほとんどの生徒…

O先生の大学院授業の様子

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以下はある授業の振り返りで、ある院生が書いたO先生(といえば卒業生はお分かりでしょう)の授業の様子です。

大学院では学部以上に、学生の思考力を鍛えます。しっかり勉強したい方、ぜひ広大教英へお越しください。






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もう一つエピソードを述べさせていただきたい。それはO先生の授業での経験である。前期の授業では,Dickensの作品の精読を演習形式で行った。学生が1ページを担当し,担当内のページで問題にしたい箇所を指摘し,受講生皆で考えていくというスタイルである。

 最初の数回の授業では,テクストのどの箇所を指摘するべきかすらも正直掴めなかったというのが私の率直な思いである。そのようなわけで,受講者側からの指摘が尽きると先生の方から質問が飛んでくるが,私 (も含めて多くの受講生) が目に留めなかった箇所を指摘されるので,私(たち)は答えにどうしても窮してしまった。そのような時先生は学生の方から何か反応があるまで待ち(かなり長い間待つこともあった),学生側の指摘を拾い尊重してくれた。最後には先生のお考えも示されるが,どうしてその箇所を問題にしたのかも説明し下さり,こちら学生としては,学ぶことが多かった。

 また先生は「分からないこと」を大切にしており,私(たち)は自分自身の知識や経験を全て疑って,英文を読む姿勢を学んだ。先生が明示的に教えたのは,どの辞書を使うべきかということぐらいで,ある意味私(たち)は先生から突き離されてはいたが,私(たち)はそうであるがためにより一層多くのことを学ぼうとしたし,どうすれば英文を読めるのか試行錯誤して考えた。その過程こそ,学ぶことを学ぶ (learn to learn) 過程であったのではと考えている。

 先生の授業を取り終わった今でも,英文を読む際には授業で培った視点を取り入れている。実際私は以前よりも読んでいて「分からない」感覚が増えたが,同時に読むことが楽しくなったし,力がついたと感じることもある。しかしもし先生が一方的に講義をしてノートを取るだけの講義であれば,「分かる」という感覚も味わうことがきなかっただろうし,あるいはこれまで通り,安易に人に聞いてすませていたかもしれない。




絶え間ない変容を可能にする教育+到達点を前もって見ること

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以下もデューイの『民主主義と教育』を読む授業を受講している院生の書き込みです。
彼も書いているように、教育とは、絶え間ない自己変容を促進するものであると同時に、その自己変容に対してある程度の大まかな見通しをもたせるものでなくてはならないものかと思います。






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【先週の授業の振り返り】
絶え間ない変容を可能にする教育

授業では第三章と第四章を読みました。特に重要だと考えるのは、四章三節"The Educational Bearings of the Conception of Development"でデューイが述べる、教育という過程の考え方です。


"...the educational process has no end beyond itself; it is its own end; and that (ⅱ) the educational process is one of continual reorganizing, reconstructing, transforming."(p.48)

 教育にそれ自体を超える目的はなく、教育は絶え間ない再組織・再構築・変転の過程であるという考え方は、それ自体では難しくてつかむことができないものですが、デューイが第一章で生命や社会について述べていたことを思い返せば理解できます。

  生きることは絶え間ない自己変容の過程であり、その性質を持つ人間の営む社会も同様に絶え間ない変容を行っていくものであるということから考えれば、社会において新たに成員となる子どもたちを教育する際に目指すべきものは、変容を止めない社会で生きるために変容を止めない子どもを育てること、つまり子どもの有している豊かな可塑性を強く引き出し、大人になっても、教育課程を終えてからも成長を続けて行くことができるようにすることである、と考えました。

 教育の目的を外部の大人の規準から引き出し、それを子どもに課すということは、一見システムの合理性のうえではとても効果的に働くかのように思われますが、デューイの掲げるような人間観、社会観のもとでは「教育ってそんなもんではないよ」ということを言ってしまっても良さそうです。

 社会のあり方や人間のあり方について、完全に正しい正解が存在していて、それはゆるぎないものである…

ライティングセンターはれっきとした教育の場であり、相談者とチューターの間で行われるコミュニケーションの場であり、「自律した書き手を育てる」というねらいを根本に据えた場である

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以下もデューイの『民主主義と教育』を授業で読んでいる院生の書き込みです。

ちなみに広島大学のライティングセンター (WRiting Center: WRC) は、非常に意欲的な試みをしています。ぜひご注目ください!










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 今回はDemocracy and Educationの8章で述べられているaim 「ねらい」に関連し、今タームから勤務し始めたライティングセンター(以下、WRC)の新人研修期間で考えたことを述べてみたい。

 新人チューターとして勤務し始めてからまだ日も浅いが、毎回の勤務で様々な課題に直面している。私は制度上の新人研修期間を先日終えたが、その中で自分の課題として持っておくべきだと感じたのは、「自律した書き手を育てること」をWRC全体で共有するねらいとして忘れないことだった。私は初勤務時にこのねらいについて説明を受けたが、その後の研修期間でその意識が薄れ、それぞれの相談者にチュータリングしている時間内に色々なことを押し込み、相談者の要望や課題をを出来るだけ多くその場で解決しようとしてしまっていた。

(中略)

 WRCというと文章を書くための「相談」「アドバイス」という印象が強いかもしれない(私もWRCを利用する前はそうだった)が、実際はれっきとした教育の場であり、相談者とチューターの間で行われるコミュニケーションの場であり、(時には微調整しながらも)「自律した書き手を育てる」というねらいを根本に据えた場であると思う。私自身、WRCの理念を意識し、「自律した書き手を育てる」ことができるチューターとして今後何ができるのか考えていきたい。WRCは相談者だけでなくチューターも成長していける教育の場となっている。今回もまた、教育や社会について述べるデューイの議論を参照することにより、自分自身の経験を振り返ることができたと思う。