2017/11/10

自分にもできんのに怒鳴ったらアカン


以下もデューイの『民主主義と教育』を読む授業に出る院生の振り返りです。

教師は教室という小さな権力者になります。権力は適正な社会的関係を保つには必要不可欠なものとも言えるかと思いますが、その濫用は言うまでもなく誰の益にもなりません。「教師という権力の適切な行使とは何か」という問いを常に心に抱くことが教師には必要かと思います。



管理人の私見ですが、
教師の権力(の適切な行使)を考える上で、
この本は非常に啓発的でした。


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第10章ではとっても耳が痛い話をデューイ先生にいただいたので、それについて反省しつつ、「自制」(discipline)について考えます。

 デューイによれば自制 (discipline) とは始めた行動を完結させるために、有効な手段を使いこなすことを意味します。(p.124) 行動の開始と完結の間に多くの手段や障害が存在する場合には、熟考 (deliberation) と粘り強さ (persistence) が必要です。率直に言ってしまえば、私はデューイの「自制」に関する議論を修論執筆や論文執筆、または院生生活とのアナロジーで理解しました(そして、自分の自制からの程遠さを見てかなり落ち込んでいます)。

 がむしゃらに頑張ること (obstinacy) は、確かに自分が何を見通してその行為を行っているのかが見えていないのに、ただやっている「つもり」になっている点で、意思 (will) の二つの側面である「結果の見通し」が欠けています。完全にそうだと言うことはできませんが、特研発表の締め切りが近づいた際の私のがむしゃらな頑張りといったらもう、それこそ「力いっぱい頑張っている」という表現が最も適しているほどに見通しが立っていないことが多いようです。

 それなりに知性を備えているはずの大学院生としての私が恥を隠さずに、自分の自制能力の無さを明らかにして、ここで気づかされるのは、脱線してしまうのですが、「もしかして教師は、自分にもできやしないことを生徒に強制して、できなかったら怒っていないか?」ということです。

 集中して授業を聞くことができない、居眠りをしてしまう生徒に対する教師の言葉かけは、多くの場合とても強い口調での説教となります。私自身は、高校生、学部生として多くの授業、講義を真面目に聞かなかったり居眠りをした経験がありますし、それなりに怒られた経験があります。(大学院では流石にやっていません、大人になりましたので)。また、教員向けのセミナーや研究会に参加した時に見る先生方のうち、(もちろん真面目に聞いておられる方々ばかりですが)一部は別のことをしていたり、居眠りをしてしまっている方々もいます。この人たちは、学校に帰ったら宿題をしてこない生徒を叱ったりするのだよな、と、様々な事情があって集中できないのだろうけれど。、そう考えてしまいます。

 人間の「自制心の弱さ」がどのような複雑な形で生じてくる現象なのかについてデューイが述べているようなことは、指導というものを考えるうえで重要だと思います。直接的な指導によって生徒を変容させることはできない、できるのは環境を整えて間接的な指導を行うことだ、との立場に立つならば、生徒の「自制心の弱さ」のようなものを簡単に説教で変えてしまうことができるとか、自分の意志の弱さを明日から切り替えて締め切りを守っていこうとか、そんなことが絶対にできやしないのはわかっているのに、どうしても自分の理想に沿わない生徒について、強い口調で説教指導をしてしまうことがある、のが、私を含めた人間の弱さだと思います。少なくとも、デューイを読みながらそのことに気づかされた私はそうした指導をしてしまった際に間違っても達成感を感じることはなく、デューイのことをを思い出しながら自己嫌悪するのだろうなと思います。




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