2019/01/29

学習者を操作できるものとして捉えることで、その行為までも完全に予測できるものだという考えがあるのだろう



以下も学部3年生用の「英語教育とコミュニケーション」の授業の感想です。この回では、アレントの「複数性」の概念を取り上げました。



 


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■ 私は今回話題にあがっていた「政治」を教師の「授業」に置き換えて考えてみました。そう考えると、「制作」とは、教師が学習者を操作の対象に据えて、教師がしたいこともしくは価値観を教師主体で学習者に押し付けることではないかと考えました。そしてその前提として、学習者を操作できるものとして捉えることで、その行為までも完全に予測できるものだという考えがあるのだろうと思いました。

しかし、人間は全くとして同じ人はいないため、複数性において人間を捉えるべきだと考えると、その人間がかかわりあう行為はどう発展していくかどう帰結するかは予測不可能であり、学習者の行為を完全に予測するのは無理だと考えられます。つまり、必ず教師の思い通り・予測通りになるとは限らず、というよりもむしろ予測不能な事態はしばしば起こるものなのだと思います。そういった予測不能な事態が起こった時に、どう教師が関わっていくかが大切なのだろうと思いました。

予測していなかった事態に対して自分の考え方において〇か×かを決めそれで終わりとするのではなく、それがもつ価値について考え、他の子たちの学習の契機にならないかを考えるステップが必要だと思いました。学習活動においても教師の一方的な教えこみや一人で完結する「制作」ではなく、それぞれの学習者が様々な視点・観点から物事を捉え、語り合って全員で作り上げていくという形が大切なのではないかと思いました。


■ 後半部分のアレントの意味理論のうち、人間の複数性について考えたことをまとめようと思う。私たち人間は一人では決して生きておらず、互いに異なり矛盾することもあるかもしれない複数の人間の中に生きていることが、私たちが人間であるための重要な条件の一つである。また、人間が複数で存在するということは、人間が集い語り合う公共的空間があることを必要とする。そのような公共的空間では、基準や共通分母が共有されているわけではない。一つの物事が多くの観点と視点から観察され、なおかつその観点に基づき人々が語り合うことができる。

 これらのことを理解しようとした時に、今まで受けてきた授業を思い返してみると、授業の中で教室という空間は人間の複数性を担保したものだったのか、公共的共存は達成されていたのか、とても疑問に思ってしまった。生徒は先生が求めているであろう答えや反応を示し、ただ先生が先導する流れに乗っていただけだったのではないだろうか。少なくとも教室は、一つの物事が多くの観点や視点から考えられ語り合われるような空間ではなかったように思った。

 私が小学生の頃に“KY”という言葉が流行ったが、この言葉が表すように、日本人はその場の空気をとても大切にする、大切にしすぎているのではないだろうか。波風を立てないようにその場の雰囲気や流れに乗って行動する。そのような心持ちでは、独自の個性を持った人たちが語り合いなどできるはずもない。英語の授業においてコミュニケーションが重要視される中で、授業においてはそのような日本人の特性を取り払い、公共的共存が達成された上でコミュニケーション活動が行われるべきであると思う。どうやったら教室において公共的共存を達成を達成できるのか、人間の複数性を担保できるのかはわからないけど。


■ 人は皆、独自性を持っている(内面の性格や特性のことだと理解しました)が、違いを持ちながらも平等に生きている。皆が均質であれば、人びとの間で差異は生まれないが、コミュニケーションも生まれなくなる。違いがあるからこそ、相互理解のために、なにか行動を起こしてお互いに理解しようとしている。

 アレントの複数性という考え方を通して、英語や日本語といった緩い同質性があるからこそ、私たちはコミュニケーションをし、そのやりとりを楽しむことができると思う。他人の話に共感したり、笑ったりできるのは自分ではしないようなことを他人がしていたり、自身の周りでは起こらなかったことを聞いたりできるからだ。それも差異性だと思う。だからこそ、英語教育の中で、コミュニケーションの楽しさや同一・同質ではない他者との相互理解について教えることができると思う。


■ 感想:教員養成コースにも哲学の授業(または哲学的に考える機会)があるべきだと思う。教員を志す学生も(理想的には全ての人が)哲学というものを専門外、不必要に思わないような環境、認識づくりをすべき(大学、またそれ以前の学校教育の責任?)。哲学なんて、と思っている人も自覚していないだけで、どんな人も問いただせば奥底に哲学があり、誰も無関係ではいられないはず。



「君たちは語るものがないのに、語る練習ばかりしてきたんだね」



以下は、学部三年生の授業「英語教育とコミュニケーション能力」で野口三千三氏と竹内敏晴氏の言語観について共に考えた際の学生さんの感想です。






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■ 言葉が選ばれる前の原初情報の段階を大切にしなければならない、言葉選びを大切にしなければならないというお話がありました。この時、予備校の先生に言われてハッとした言葉を思い出しました。「君たちは語るものがないのに、語る練習ばかりしてきたんだね」。英語の応答にて、1人の生徒がありきたりな回答をしたということで、先生はため息交じりにそうおっしゃいました。厳しいお言葉だと思いますが、僕を含め誰も何も言い返せませんでした。たどたどしくても良いから自分の言葉で自分だけの想いを語れるような生徒を育てなくてはいけない、そして、生徒が一人一人の想いを伝えるための言葉を身につけられるような授業づくりが必要だと思いました。


■ これまで自分が受けてきた教育を振り返ってみると、この言葉を話したい衝動が内面に生じるような授業や講義はそれほど多くなかったように思います。特に高校時代は、授業内において生徒が声に出すのは答えだけであるようなものも中にはあったと思います。その答えには自分の中身は関係しておらず、どうしても言葉にしたいと思うこともなかなかありませんでした。そういった言葉はどうしても無機質的なものであったと思います。

 今回の講義を受けて、もっとそれぞれの想いがのった声を教室内に生み出すことが大事だと感じました。そのためには、教師が「教えるのだ」「学習者をコントロールするのだ」という姿勢で臨むのではなく、学習者と向き合い、時には一緒になって学びに向かうことが大切だと感じました。


■ 野口三千三の考えの中で、「すべての言葉は体の直接体験に結びつく。心・体・言葉・声のすべては、体の中身の変化である。」というものがあった。その点で見ると、英語の授業では自分の体・心の状態にぴったりと合った言葉を探す訓練が蔑ろにされているような気がする。

 コミュニケーションが重要視されるようになり、昔の文法を中心とした授業よりも、生徒が話したり聞いたりなどコミュニケーション活動が授業に多く取り入れられている。具体的には、教科書の場面やシチュエーションを想定して、本文を使って練習し少し変えてやってみよう、というのが多い。しかしその活動は本当にコミュニケーション活動と言えるかどうか疑問に思う。

 授業でのコミュニケーション活動は自分の体・心の状態にぴったりと合った言葉を探す訓練であるべきだと思う。現状でのコミュニケーション活動は、何も考えずとも与えられたセリフを発せば乗り越えられるようなものになっている。そのような活動では、英語を話す発音練習にはなるが、コミュニケーション能力は育成できないと思う。そのため授業でのコミュニケーション活動は、より自由度の高く、生徒が考えて生徒自身が表現したいことを表現するようなものにするべきだ。またそのような授業を通して、自分が表現したいことを自分の言葉で表現しようとする、言葉選びを大切にする生徒を育てることも目指されるべきだ。自分が教師として授業をする際も、そのような点を顧慮したコミュニケーション活動を導入したいと思う。


■ これは教育実習の初めての授業で盛大に失敗したことによる恐怖からであったのですが、実習中私の授業中の目標というものはなんとか授業を終わらせるということになってしまい、そんな考えを持っていれば当然なのですが授業中もとりあえず間違いのないように、当たり障りのないことを述べようとしてしまいました。当時は自分のことで精一杯だったため考えられませんでしたが今生徒たちの反応を振り返れば、自分は全く「声」というものを生徒たちに届けるということができていなかったと思います。それどころかユマニチュードの考えで言うところの人間らしく扱う、目を合わせるといった行為すら自分は生徒そのものに恐怖を感じてしまい、出来ていなかったように思います。


■ また、これは別のことだが、アルバイトをしている塾で中学生に英検対策をしていた際に生徒に「英検のライティングでテーマが与えられていても特に書きたいことがない」と言われ、英検では個人のライティングの内容が評価される訳ではないから自分が自信をもって使える英語で文法ミスをしないように書けばいいという広義の言語の本質からそれた客観的評価のみに焦点を当てた思考に侵されていたことに気が付くとともに、そのような問題ばかりでは生徒の英語学習のモチベーションが下がることを危惧した。


■ ことばの運用については言うまでもなく日常会話はいつも口をついて出てくるし、毎度どの言葉を選択しようと考えることはない。しかし野口は選択されなかった言葉(原初情報の段階のもの)こそ大切にしなければならないという。それが本当の意味でことばを大切にするということであるらしいのだが、それはとても難しいことではないだろうか。すでに言ったように日常で用いられることばは吟味されるものではないし(相手との関係性にもよるが)、そうしていてはむしろその場の会話に不自然な時間を生じさせてしまう。

ただこの年頃になって私は、自分の言葉選びに変化が生じてきているのを感じることがある。相手に伝えたい本心をなるべくそのまま伝えることができるようなことばを発してきていると思う。では一方でこれまで使ってきてそして選ばないようになったことばは何であるのかを考える機会を持つことしてみようと、野口の考えに触れて思った。


■ また、竹内氏の教師と生徒の関係は「主体⇔主体」という言葉にハッとしました。私が生徒や教える人の前に立つとき、変に意識して上から言葉を投げかけたり教師だから全てわかっているつもりで話したりすることがあったことを思い出しました。そうして肩に力が入り、きつく言ってしまったりしたときはほとんど私の声・ことばは届いていませんでした。教師も生徒も「主体⇔主体」であると考え、一緒に学び教えあう存在だと理解し、一方的な需要と供給の関係ではないことを分かっていれば生徒との関係性やじぶんのことば、そして相手のことばをよく考えるようになると思います。教師として、機械に教えているのでなく、生徒という人間と共に学んでいるということを忘れるべきではないと思います。









2019/01/25

学部1年生のNYさんによるミシガン州立大学留学体験記



 私は、8月下旬から約3か月間、アメリカのミシガン州立大学に留学しました。3か月間という短い期間でしたが、アメリカでの大学生生活を体験することが出来ました。

 私はミシガン州立大学のEnglish Language Centerというところで、Grammar, Listening and Speaking, Reading, Writingの授業を受けました。1クラス10人ほどの少人数クラスで、中国・韓国・サウジアラビア・台湾など様々な国からのクラスメイトとともに学びました。

 それぞれの授業では、主に2種類の課題がありました。1つは個人に課される課題で、もう1つは3~4人のグループを作って、1つの課題を完成させるものでした。個人で課題に取り組むことで、自分の英語に向き合うことが出来たのはもちろん、グループで課題に取り組むことで、自分には無かった視点や他国の文化を学ぶことが出来ました。自分が当たり前だと思っていることも、仲間にとっては当たり前ではないことを常に頭に入れておくことが大切で、「当たり前のことだが、言わなくても伝わるは通用せず、言わなければ伝わらない」という教授のお言葉を聞いた際は、多文化・多民族社会のアメリカを感じることができた瞬間でした。

 授業は、生徒中心の授業でしたので、自分の思っていることを伝えたり、クラスメイトの意見を取り入れたりしながら自分たちのアイデアで授業をつくりあげていきました。この感覚は私にとって初めてでしたが、とても楽しかったです。私が将来、教師になった際はこの楽しさを生徒に感じてもらえるような授業をつくりたいと思いました。また、寮生活では、二人部屋でルームメイトとともに過ごしました。私のルームメイトは、英語が母国語の方で、私の課題の面倒を見てくれたり、相談にのってくれたりしました。もし彼女がいなかったら、私の心は折れてしまっていたと思います。彼女には感謝してもしきれません。

 恵まれた環境で素敵な仲間とともに過ごした3か月間は、大切な思い出です。また、留学中に感じた悔しさはこれからの英語学習への強いモチベーションです。

 


(寮の仲間との写真です。)



エディンバラ大学への留学手続き説明会を開催しました



教英留学プログラムへの参加者を募る時期となりました。今年も業者の方に来ていただき、手続き等の説明会を行いました。今回は14名の学生が4月からエディンバラ大学で4カ月間学びます。



平成3年(1991年)に始まったこのプログラムも今回で29回目となります。延べ600名以上の教英生が参加してきました。4月に出発しますので、出国時は平成ですが、帰国時には日本は新元号がスタートしています。平成最後の参加者であると同時に、新元号になって最初の参加者でもあります。そう考えますと、非常に感慨深いものがあります。



毎年、このプログラムに参加してくれた学生はイギリスで様々なことに積極的に挑戦し、英語力はもちろん人間的にも大きく成長して帰ってきてくれます。今回の参加する学生も、有意義な4ヶ月を過ごして帰ってきてほしいです。

(西原貴之)




2019/01/08

教師が「スピーチをするときには聞き手とアイコンタクトを取ることや聞き手にわかりやすいよう大きな声でゆっくりと話すこと、また必要に応じて身振りをつけましょう」と指導することが言語と身体が分離している典型的な例だと思った



この記事も前の記事に引き続き、野口三千三氏や竹内敏晴氏の身体的言語論についての授業について学部生が書いてくれた予習書き込みを紹介します。

TYさんはいつも自分のことばに落としてから予習をしてくれる学生さんですが、 今回は野口氏と竹内氏についてだけではなく、ユマニチュードについても自分なりのことばでまとめてくれました。






TYさん

野口三千三氏と竹内敏晴氏について

「身体」と「意識」をキーワードとして、「言語」と「身体」について野口氏の述べるところを理解しようと思う。

最初に「意識」と「非意識」について、野口氏は意識と無意識が常に存在するのではなく、必要があるときに無意識の中から現れ、必要がなくなればまた無意識の中に沈むのが意識であり、その意識の基盤は身体を通して得られる「実感」の対象である「身体の状態の変化」であるという。

この点はデカルトの物心二元論(精神と物質(身体)を区別し身体から切り離された自我の存在を唱え近代的自我を確立)と異なる。「身体の状態の変化」とは、目に見えるものだけに限らず非意識化での例えば内蔵の動きなども含む。そのことから言語は意識を伴うため、言語の本質(基盤にあるもの)も身体であると言う。①非意識化の身体の変化に伴う動きという直接経験が②言葉を必要とするときに意識化に現れ、③言葉を選び、④新しい身体の動きとして息が通ることで⑤言葉が発生される。

ここで野口氏の「体の動きは言葉につける付録ではない」、「もしこういいきれないとすればその人にとってその言葉は習い始めの外国語のようなものである」という言い回しが印象に残った。

英語の授業での自己表現活動で生徒が産出する英語は身体と分離しない私たちの本当の言葉となっているだろうか。野口氏は「言葉を大切にする」ことについても言葉と切り離すことのできない身体との関係の中で考察する。「言葉を大切にする」とは、上記の言葉が発声されるまでのプロセスの①までさかのぼり、内的な身体の動きを大切にする〈気にかける〉ことだと言い、わかりやすく言えば「感性」を大切にすることであると理解した。

資料を読んで最初は言葉を発することがあまりにも私たちに身近であることから、目に見えず感じることが難しい臓器レベルの身体の動きがきっかけとなる発話プロセスを容易に想像することができなかったが、全ての発話には必ずその発話に至る「きっかけ」があり、それは外界の刺激を内に取り込んでからようやく「きっかけ」となるため、発話に至るきっかけは「臓器」といったように必ず自分の中に存在することに気がついた。

野口氏と竹内氏の資料を読み、英語の授業でスピーチを行うときに事前に教師が「スピーチをするときには聞き手とアイコンタクトを取ることや聞き手にわかりやすいよう大きな声でゆっくりと話すこと、また必要に応じて身振りをつけましょう」と指導することが言語と身体が分離している典型的な例だと思った。

スピーチをする中で自然と聞き手の目に訴えるような、相手の目を見て話したいと思わせるような内容を、思いが余って時に早口になっても良いから、場面に応じてどのような声で話すのが良いのかが無意識的に決定され、意識して無理に大きな身振りをつけなくとも自然と自然な身振りが生まれるような言葉を生徒が使えるようにすることが英語科における自己表現活動の課題だと考えた。


ユマニチュードについて

 ユマニチュードの考えを教育現場に応用し教師に求めるとき、それは教師から教科知識の教授という要素を取り出したときに残る教師自身の持つ力のようなものだと考えた。(ただ、ユマニチュードの考えは授業中でも発揮される必要があるため必ずしもこのように分けて考える必要はないとも考える。)

ここでは人間らしさの4つの柱を私なりに英語教育の場面に当てはめて考察する。「見る」ことでは、野口氏や竹内氏の言うように言葉とからだが連動していれば教師が生徒に話し生徒が教師を聞く場面ではお互いに伝えたい聴きたいという思いが一致すれば自然と互いの目が合うと思う。この目の合う瞬間に人と人が同じ気持ちを共有しているという実感や、それ以上の実感を得られるのではないかと考え、その点においてコンピューターは教師になりえずかつ学校という場の特性が生かされるのではないかと考えた。

「話す」ことは野口氏・竹内氏のところで書いたことと同じことがここでは言えると思う。一言で言えば、教師が「習い始めの外国語のようなもの」を話さないことである。
3つ目の「触れる」ことは物理的な身体接触もそうだが、机間指導を通して生徒と「接触」することや生徒同士がお互いに教えあうなどして「接触」する機会を設けること、また意訳して相手の「心」に触れることなどができるのではないかと考えた。
最後に4つ目の「立つ」ことを通して生徒の物理的な可動域が広がり、座っているときよりも自由な身体表現が可能になると考える。


学習指導要領を丸暗記したりコピペしたりすることが必要な時もあるかもしれませんが、それよりもはるかに大切なのが、理解したことを自分なりのことばで表現することでしょう。下手をすれば丸暗記やコピペばかりが横行する現代の教育界の中で、自分のことばを大切にする姿勢を堅持しているTYさんに敬意を表します。



子どもに「自分たちは対象・客体化されている」と思わせてしまう授業観察者



コミュニケーション能力と英語教育 」という学部生向けの授業で、本日、野口三千三氏や竹内敏晴氏の身体的言語論を扱います。

その授業用スライドでは、竹内氏の以下のことばも引用しています。


この[=医者が患者を人格ではなく身体機械として扱う] 構造は学校教育の現場でも原理的に同じだ。 子どもは教員によって操作される対象であって、荒れるとかイジメとか不登校とかは学校という機械の部品の故障に相当する。大急ぎでデータを集め、分析判断して対策を執行する。生きている子どもの、からだの異議申し立てだと感じる発想がない、のだ。(竹内 1999, 18)

操作される物体としてあつかわれてきたからだは、他人のからだを操作すべき物体としてしか見ないだろう。相互に働きかけるものとして自覚すること、自分を相手に手渡すこと、ここから出発することができるだろうか。(竹内 1999, 19)



こういった見解を受けて、MY君は、子どもに「自分たちは対象・客体化されている」と思わせてしまう授業観察者について書いてくれています。


MY君

よく、授業研究の際、授業を観察するときの立ち方について考えることがあります。授業を、教室のどこかに立って観察するということは、子どもは見られているという印象を受けるということです。しかも、授業の観察者は子どもとの人間的なかかわりを抑制し観察することしかできないので、子どもは事実上自分自身が観察の対象・客体となっているということに気付くでしょう。

私は無機質なまなざしを向けたいとは思っているわけではないですが、特に外部から学校に入るときには子どもは観察者のことを深くは知り得ない、怪しい存在のままです。ワークシートを見えないように隠す子の気持ちがよくわかります。それでも授業の観察者はワークシートをどうにか覗いて子どもがどんなことを考えているかを知ろうとします。子どもにとても申し訳ないという気持ちを持ちながらも、ビデオカメラを置き、またそこに立っています。

教室の環境ということで考えれば、教師と子どもの関係だけでなく、こうした他の人間の存在が子どもに影響を与えていることも考えていく必要がありそうです。今のところ、私はこの状況に対してやむをえないということしか言うことができないですが、常に考え続けていなくてはいけないと思っています。


こういった点にも気をつけて授業研究を進めなければと思います。MY君、よい気づきをありがとうございました。


2019/01/07

第10回広島地区スクラブル大会で教英4年生のKH君が優勝



キャサリン・ソング先生の尽力で教英でもプレーヤーが多いスクラブル (盤上にプレーヤーが交互に英単語を作りクロスワード上につなげていくゲーム:Scrabble)ですが、この度の第10回広島地区スクラブル大会で教英4年生のKH君が優勝しました。







日頃の活動ではスクラブルのゲームで単語力を鍛える一方、プレーを通じてソング先生らと英語をどんどん使い、人の輪も広げています。

どうぞみなさんももしよかったらスクラブルをやってみませんか?


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エディンバラ大学留学プログラム体験記

教英には 2 年次にイギリスのエディンバラ大学へ 15 週間の留学プログラムがあります。 1 年生は 10 月頃から準備等を始めて、 2 年次の 4 月から 7 月にかけてエディンバラ大学で英語はもちろんのこと、英語教育、イギリス文学についてホームステイをしながら学びます。この...