2019/01/08

教師が「スピーチをするときには聞き手とアイコンタクトを取ることや聞き手にわかりやすいよう大きな声でゆっくりと話すこと、また必要に応じて身振りをつけましょう」と指導することが言語と身体が分離している典型的な例だと思った



この記事も前の記事に引き続き、野口三千三氏や竹内敏晴氏の身体的言語論についての授業について学部生が書いてくれた予習書き込みを紹介します。

TYさんはいつも自分のことばに落としてから予習をしてくれる学生さんですが、 今回は野口氏と竹内氏についてだけではなく、ユマニチュードについても自分なりのことばでまとめてくれました。






TYさん

野口三千三氏と竹内敏晴氏について

「身体」と「意識」をキーワードとして、「言語」と「身体」について野口氏の述べるところを理解しようと思う。

最初に「意識」と「非意識」について、野口氏は意識と無意識が常に存在するのではなく、必要があるときに無意識の中から現れ、必要がなくなればまた無意識の中に沈むのが意識であり、その意識の基盤は身体を通して得られる「実感」の対象である「身体の状態の変化」であるという。

この点はデカルトの物心二元論(精神と物質(身体)を区別し身体から切り離された自我の存在を唱え近代的自我を確立)と異なる。「身体の状態の変化」とは、目に見えるものだけに限らず非意識化での例えば内蔵の動きなども含む。そのことから言語は意識を伴うため、言語の本質(基盤にあるもの)も身体であると言う。①非意識化の身体の変化に伴う動きという直接経験が②言葉を必要とするときに意識化に現れ、③言葉を選び、④新しい身体の動きとして息が通ることで⑤言葉が発生される。

ここで野口氏の「体の動きは言葉につける付録ではない」、「もしこういいきれないとすればその人にとってその言葉は習い始めの外国語のようなものである」という言い回しが印象に残った。

英語の授業での自己表現活動で生徒が産出する英語は身体と分離しない私たちの本当の言葉となっているだろうか。野口氏は「言葉を大切にする」ことについても言葉と切り離すことのできない身体との関係の中で考察する。「言葉を大切にする」とは、上記の言葉が発声されるまでのプロセスの①までさかのぼり、内的な身体の動きを大切にする〈気にかける〉ことだと言い、わかりやすく言えば「感性」を大切にすることであると理解した。

資料を読んで最初は言葉を発することがあまりにも私たちに身近であることから、目に見えず感じることが難しい臓器レベルの身体の動きがきっかけとなる発話プロセスを容易に想像することができなかったが、全ての発話には必ずその発話に至る「きっかけ」があり、それは外界の刺激を内に取り込んでからようやく「きっかけ」となるため、発話に至るきっかけは「臓器」といったように必ず自分の中に存在することに気がついた。

野口氏と竹内氏の資料を読み、英語の授業でスピーチを行うときに事前に教師が「スピーチをするときには聞き手とアイコンタクトを取ることや聞き手にわかりやすいよう大きな声でゆっくりと話すこと、また必要に応じて身振りをつけましょう」と指導することが言語と身体が分離している典型的な例だと思った。

スピーチをする中で自然と聞き手の目に訴えるような、相手の目を見て話したいと思わせるような内容を、思いが余って時に早口になっても良いから、場面に応じてどのような声で話すのが良いのかが無意識的に決定され、意識して無理に大きな身振りをつけなくとも自然と自然な身振りが生まれるような言葉を生徒が使えるようにすることが英語科における自己表現活動の課題だと考えた。


ユマニチュードについて

 ユマニチュードの考えを教育現場に応用し教師に求めるとき、それは教師から教科知識の教授という要素を取り出したときに残る教師自身の持つ力のようなものだと考えた。(ただ、ユマニチュードの考えは授業中でも発揮される必要があるため必ずしもこのように分けて考える必要はないとも考える。)

ここでは人間らしさの4つの柱を私なりに英語教育の場面に当てはめて考察する。「見る」ことでは、野口氏や竹内氏の言うように言葉とからだが連動していれば教師が生徒に話し生徒が教師を聞く場面ではお互いに伝えたい聴きたいという思いが一致すれば自然と互いの目が合うと思う。この目の合う瞬間に人と人が同じ気持ちを共有しているという実感や、それ以上の実感を得られるのではないかと考え、その点においてコンピューターは教師になりえずかつ学校という場の特性が生かされるのではないかと考えた。

「話す」ことは野口氏・竹内氏のところで書いたことと同じことがここでは言えると思う。一言で言えば、教師が「習い始めの外国語のようなもの」を話さないことである。
3つ目の「触れる」ことは物理的な身体接触もそうだが、机間指導を通して生徒と「接触」することや生徒同士がお互いに教えあうなどして「接触」する機会を設けること、また意訳して相手の「心」に触れることなどができるのではないかと考えた。
最後に4つ目の「立つ」ことを通して生徒の物理的な可動域が広がり、座っているときよりも自由な身体表現が可能になると考える。


学習指導要領を丸暗記したりコピペしたりすることが必要な時もあるかもしれませんが、それよりもはるかに大切なのが、理解したことを自分なりのことばで表現することでしょう。下手をすれば丸暗記やコピペばかりが横行する現代の教育界の中で、自分のことばを大切にする姿勢を堅持しているTYさんに敬意を表します。



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