2018/12/06

12/9(日)一般公開企画:対話の集い「英語資格試験を問い直す」などのスライドを公開します。


以前からお知らせしておりますように、来る12/9(日)に広島大学英語教育学会が広島大学教育学部で開催されます。


再掲:12/9(日)に広島大学英語教育学会を開催します。
一般公開企画「英語資格試験を問い直す」には会員でない方も参加できます!


学会員でない一般の方は14:10からK102教室で開催される「小論文最優秀作品発表」と「対話の集い」に自由に・無料で参加できます。テーマは「英語資格試験を問い直す」です。

15:40から開始される情報交換会(ワンコインパーティ)は茶菓子代として500円ほどいただきますが、参加は自由です。

以下に掲載するのは、当日、その公開企画で投映する予定のスライドです。




このスライドのPDF版は下のQRコードやURLからダウンロードできます。




皆様、どうぞお気軽にお立ち寄りください!






2018/12/04

再掲:12/9(日)に広島大学英語教育学会を開催します。一般公開企画「英語資格試験を問い直す」には会員でない方も参加できます!







この夏に豪雨災害により延期した広島大学英語教育学会ですが、以下の要領で開催します。午後には一般公開企画もありますので、会員の方々はもとより英語教育に興味をお持ちの生徒・学生・英語教師・一般市民の方々もぜひお越しください。


■ 名称: 広島大学英語教育学会

■ 日時: 2018年12月9日(日)10:00-16:30
※ ただし一般公開企画は 14:10-16:30

■ 場所: 広島大学教育学部K104教室・K102教室
※ 広島大学東広島キャンパスは文字通り「広大」なので(笑)、初めてお越しの方は十分に地図などで場所をご確認ください。

■ スケジュール
09:30-10:00 (K104) 受付
10:00-10:40 (K104) 学会総会
10:50-12:00 (K104)    実践志向部門・座談会
「新任者教員の苦労と展望を語り合う」
 登壇する初任者教員
壬生川奏美(広島県福山市立手城小学校教諭)
高橋 伶奈(広島県三原市立第二中学校教諭)
重定 拓実(岡山県立倉敷工業高等学校教諭)
手島 英華(広島県立尾道東高等学校教諭)
 コーディネーター
樫葉みつ子(広島大学教育学部准教授)
12:00-13:00       昼食
各自でお取りください。
13:00-14:00 (K104)     研究志向部門・研究発表
「日本人英語学習者の不平発話行為運用に対する英語母語話者による適切性判断の分析」
梅木璃子(広島大学大学院生博士課程後期)
         
「日本人英語学習者が産出する英語移動表現の特徴と産出に困難を感じる表現の特性」
平野洋平(神戸市立工業高等専門学校准教授)
 14:10-14:30 (K102)    小論文最優秀作品発表
 ゲスト:清水一生さん(第二回英語教育小論文コンテスト最優秀賞受賞者)
 14:30-15:30 (K102)    対話の集い
「英語資格試験を問い直す」
一般参加者も含めて、参加者全員が対等な立場で語り合います。
 コーディネーター
 柳瀬陽介(広島大学教育学部教授)
15:30-15:40 (K102)    閉会行事
15:40-16:30 (K104)    情報交換会(ワンコインパーティ・500円)
茶菓子代500円でどなたでも参加できるパーティです。
忌憚のない話を楽しみたいと思います。ぜひご参加を!



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以下、主な行事のチラシも掲載します。






実践志向部門主催の座談会では、初任者教員の様子を率直に語っていただき、会員相互で知恵を共有したいと思います。これから教員を目指す学生会員が将来について学べる機会であることはもとより、先輩教員も初任者教員の本音を知ることにより学べますし彼ら・彼女らに助言をすることで充足感を覚えることもできるかと思います。一人でも多くの会員の皆様の参加をお待ちしております。









研究志向部門の研究発表では、新進気鋭のお二人の発表を聞きます。最新の研究成果について学びませんか。こちらも多くの会員の皆様の参加をお待ちしております。











一般公開企画は、14:10の「小論文最優秀作品発表」から始まります。受賞者の清水一生さんをお呼びし、作品で表現したかった意図を語ってもらい、次の「対話の集い」につなげます。

14:30から始まる「対話の集い」では、「英語資格試験を問い直す」をテーマに、会員・非会員の枠を超えて英語教育の今後のあり方について対等な立場で語り合います。

主な論点は、小論文最優秀作品で示された以下の三点です。
・英語資格試験は「グローバル社会」を生き抜く人材を育成しているか?
・英語資格試験の面接はあまりに形式的で機械的すぎないか?
・英語資格試験は過剰なプライドだけを与えているのではないか?

短い閉会式を終えたら、最後の一般公開企画である情報交換会(ワンコインパーティ)を15:40から開始します。「三人寄れば文殊の知恵」ではありませんが、「対話の集い」では語りきれなかったこと、および英語教育一般についてなどなど、気軽に話し合いたいと思います。

「来てよかった」と思っていただける学会にします。どうぞご参加を!






2018/11/28

「英語を使って学ぶ」


以下も学部一年生向けの「英語教師のコンピュータ入門」の感想の一部です。

中高年の私などからすれば、若い頃に現在のようなインターネット環境が欲しかったと願ってやみません。

なにせある程度の英語力とインターネットに接続したデバイスさえあれば、無料でもかなり学べるのですから・・・

少しでも学生さんが知的な感性・意欲を高めて学んでくれますように・・・

 この動画は、複数の学生さんが面白いと言っていたものです。
新しい流れが大きくなりますように。


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■ 今回の授業で、自分が教員になった際に必要になるであろう、いや、使えなければならないアプリについて学んだ。自分は今まで教養ゼミやコンピュータ入門で先生から教わったアプリをいくつか選んで試してみたが、どうしても有料版には抵抗があった。また、自分のスマートフォンは課金ができないように設定されているため、元々の設定を変える手間が、英語に対する心の壁を築いていたのかもしれない。結局、NYTimesも無課金で利用しているため、限られた数の記事しか読めていない。

 正直なところ、お金に関する話はあまり快くは思わないが、自分が英語を生業にすると考えると、服を買う前に勉強道具を買えという話になってしまう。しかし、やはり人間であるため、好きなことへの欲に負けてしまう。それがいけないのだと思う。服は一時の満足かもしれないし、英語に関するものは買っても一時使えずじまいかもしれない。あまり魅力を感じないままかもしれない。だからといって、何も行動を起こさなかったのはいけないことだったと思った。反省した。

 もし今英語に関するものに魅力を感じないのならば、それこそ問題である。英語を生業にしようとしているのに、英語に魅力を感じないのは、危機感の欠如か、現実逃避か、無駄な馴れ合いのせいだろう。高校の頃は参考書を買うのに何の抵抗も無かった。勉強するのがむしろ楽しく感じることも多々あった。寝る間も惜しんでがむしゃらに科目を問わず勉強した。あの頃のように、知的好奇心をもっと駆り立てて、「知」に対して喜びを感じられるようになりたい。

 そのためにどうすればいいのか、自分なりに考えた結果、ひとつ、答えらしきものが見つかったので、記しておきたい。(今回の授業では風邪でまったく声が出せず、考えを人に伝えられなくて少しイライラしていたため、ここに書きたいだけです。許してください。)
 私は大学に入ってきて、全学必須の科目が英語のみであり、自分の専門も英語であるがために、ほとんど英語だけを勉強せねばならぬ環境におかれている。中国語も少しは勉強するが、机に向かったら英語しか見ていない。自分の知的好奇心が落ちているのは、理系科目の欠如のせいではないかと、今日の授業中に思った。

 久しぶりに数字と向き合って、Excelで情報処理をして、正直とても楽しかった。授業中にあった偏差値か点数か、という話にも関係するが、自分は数学が苦手だと思っていたが、周りのレベルや自分の理想が高すぎただけなのではないかと思った。中学の時は数学ができたのに…と思うことが多かった理由もこれだと思う。

 今までは5教科をバランスよく学習していたため、勉強に飽きることなく、どこまでも「知」を追求することができたのだろう。そこで、教英に来た以上やはり英語は捨てられないので、「英語を使って学ぶ」というのは自分にいかに向いているかに気づいた。「英語を学ぶ」では、飽きっぽい私が続けるのは難しいだろう。そもそも英語というのは言語であり、必然的に英語が表す「話の中身」が必要であるが、その「中身」がつまらなければ、学習意欲が起きないのである。となると、「中身」のある、もし日本語訳で読んでも感嘆する、もしくは何かしらの知識を得られる文章と向き合うとよいのかもしれない、と思った。

 結論、Khan Academy やTEDである。先生が今までおっしゃっていた着地点と、(ずっと言われ続けてきたにもかかわらず、現状何もできていない自分の)自己分析による着地点が同じなのは、正直悔しい。自分がやらなっかたのが悪いだけだが。しかし、人から言われるよりも、自分で感じたことの方が身に付きやすいし継続しやすいのも事実である。自分で導き出した結論がそれなら、腹を括ってこれから懸命に取り組もうと思う。倒れない程度に…(笑)





Feynman learning stragegy in three points


学部1年生向けの「英語教師のためのコンピュータ入門」という授業では、エクセルを使って偏差値などの値を出す課題もやります。ただ、その際は、ただ結果を出すだけでなく、なぜそのような計算をしなければならないのか(他の計算では駄目なのか)を徹底的に考えて語り合ってもらいます。

その方針を示すため、授業冒頭では、物理学者のRichard Feynmanの "FEYNMAN learning stragegy in THREE POINTS"を紹介しました。




以下は、それに関する学生さんのコメントの一部です。文系だからといって数理的・論理的思考を疎かにしてよいわけではありません。学生さんには幅広く学んでほしいと常々思っています。


Feynman氏の写真はWikipeidaからコピーしました。



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■ ここからは上記の内容とは異なる話題なのだが、今回の授業で一番印象的だった、Richard Feynmanの3つのlearning strategyのうち、 1つめの Continually ask "Why?" について 自分の考え、意見を述べていきたい。

 これについてだが、日本人は、というと誇張するような表現になってしまうのだが、少なくともこういった「なぜそうなるのか?」について自問したことがある生徒は少ないと自分は思うのである。(仮にいたとしてもそれがContinuallyだったかと言われるとそうではないはずである。)なぜなら教育者の多くは「なぜか?」ということについて授業で触れることはなく、知識を大量に与え、詰め込ませるといういわゆる「詰め込み式」の授業を展開しているからである。

 このような中で学んでいると、自らある事柄に関して学ぼうとする知的好奇心は自ずと消滅していく。こういった知的好奇心の日本と他の国の差を実際に体験したことがある。自分が外国に行ってツアーに参加した際のことである。その時は博物館を回っており、途中で質疑応答の時間が設けられてあった。そのときに同じツアーに参加していた幼稚園生の団体が、皆一斉に手を上げていた。あまりの迫力に驚いた。こういうことは日本ではまず見かけないだろう。だがこの姿勢こそが自分たちに足りない要素だと今実感する。学び続ける姿勢を忘れずに持ちたいと思う。


■ 次に、「学ぶときの頭の使い方」についてである。これは主に授業中に先生が紹介された" FEYNMAN learning strategy in THREE points "を聴いて考えたことである。

 >1. Continually ask " Why? "
 >2. When you learn something, learn it to where you can explain it to a child.
 >3. Instead of arbitarily memorizing things, look for the explanation that makes it obvious.

 この3つは、貪欲に学ぶために必要不可欠であるように感じられる。"Why?"と問い続けることの無い学びというのは「受動的な学び」もしくは「単純な暗記」ではないだろうか。そして、この「受動的な学び」を続けていると、何故そうなるのかという道筋を説明できなくなる。これでは、学んでいる意味がほとんどなくなってしまうのではないか、と考えた。「思考する」ことを身につけるために、私たちは学んでいるのではないだろうか。

 ただ、暗記をしてテストで点が取れるだけが偉いのではない。自分なりに考えて、"Why?"と問いながら学びを深めていくことにこそ、真の意義があるのではないかと考えた。だからこそ、目先の点数を上げることだけにとらわれることなく、考えながら学ぶことに重きをおいた教育が行われることは非常に重要であるように感じた。


■  先日の授業で言われたことを受けて、改めて自らの論理的思考力の欠如を感じるとともにそれを手に入れた時にいかに自分の考え方が豊かになるかがすこし見ることができたように感じた。自分でもそう思うが私は数学的な論理を元とした考え方をするタイプの人間ではなく、もっぱら論理的な思考プロセスは周りの人間の意見から表面的に取り込み、自らの感性と周りとのかかわりの中で生まれるひらめきだけを頼りにしてきたようだ。

 これまではいわば借り物の数学的論理で生きていくこともできたし、「ノリ」で様々な事態を乗り切ってこれたのも事実である。しかし一方、これから来るであろう未来社会という誰も予想がつかない荒波をさばいていくためにますます求められていくのは間違いなく総合的な力であり、そこには自らの武器である人文社会的思考力や、今はまだ持ち合わせていない数学的論理力が含まれていることは、これまでの授業やそのほかの事例からもおぼろげながらわかってきたことである。

 数学的な論理なしで社会に出るということは一体どういうことなのであろうか。それは今社会問題にまで発展している教職のブラックさにも通じるのではないだろうか。現在の長時間労働や休日返上で行われている教員という仕事は、今でこそやっと問題視されてきたことだが、それでもいまだ解決には程遠い。それほどこの問題が根深いものであるということなのであろうが、何がこの問題をここまで深刻化させたのだろうか。

 その原因の一つとして考えられるのは細かいところをほったらかしにしていった教育現場の態度である。少しの残業は確かにどの業種でも必要になる場面は存在する。しかしあまりにも例外的な残業を認めるあまり、いつしか傍から見れば大変異常な状態が教育現場の当たり前になり、さらに長時間労働をはじめとする問題は深刻化するという負の轍にはまっているのである。

 これらの問題を改めるために求められるのは数学的な論理に基づいた思考ではないだろうか。いくつかの正解以外を良しとしない厳格な態度を性質上持つ数学的な姿勢を、正解などない自由で不明瞭な態度を性質として持つ人文的な姿勢に組み込み、二種類の思考回路を使い分ける必要があるように思えてならない。

 また、教員の負担軽減を目的として、昨今開発され続けている効率化ツールを使いこなすことが一つの解決策であることは明白であるが、効率化を最大化させるためにも、数学的思考は重要性を帯びてくるのではないだろうか。この人と人との関係が要となる子の教員という職種の性質上、すべてを機械化することは不可能である。しかしExcelをはじめとする効率化ツールは数学的論理に基づいてくる作られているために、教員やほかの業種をこなすうえでは最低限の論理的思考力は持ち合わせておく必要があるだろう。

 ではその論理力を養うためには何が求められているのだろうか。まず大きな養成法としては数学という学問に親しむことである。思えば私は小学生の時分から算数を苦手としていた。そして算数が数学という名の科目に代わり、もっぱら論理によってのみ答えが導かれるような次元にまで高等化したその学問はもはや私が集団授業のスピードについていけるレベルのものではなくなっていたように思われる。しかし今は、時間に猶予もあり教科書さえあれば自由に数学を学ぶことができる環境である。せっかく英語文科系コースに在籍しているのだから、それこそ数学を英語で学ぶのも一つの有効な手だろう。ともあれ、私には時間と伸びしろがある。何の業種に就くにせよ、豊かに生きるためには武器は多いほうがいい。大学四年間で今持っている自分の武器を強化するとともに、新たな武器を手に行きたいと考える。


2018/11/27

この状況において学習者は、知性を働かせることなく、与えられたお題に対して手持ちの表現でいかに早く要求された語数を書き終えるかという機械的な活動をしているにすぎません。


先日、DeweyのDemocracy and Educationの以下の章を使った授業を行いました。


Experience and Thinking (Chapter 11 of Democracy and Education)


以下に掲載したのは、ある院生の振り返りです。


折しも12/9(日)に開催します広島大学英語教育学会の一般公開企画(14:10-16:30)の中の「対話の集い」では「英語資格試験を問い直す」というテーマで参加者全員が語り合います。



学会員(広大教英卒業・修了生)はもとより、一般の方々も奮ってご参加ください。

12/9(日)に広島大学英語教育学会を開催します。
一般公開企画「英語資格試験を問い直す」には会員でない方も参加できます!






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■ MT君

 今回の講義では、英語教育における「こころーからだ」の関係性について中心的に話し合いました。本論では外国語教育においてテストが学習者の「こころーからだ」に与える影響について考察します。
  
 これまでの章で何度も言及されてきた通り、デューイは教育において「こころ」と「からだ」を別物だとする心身二元論的な考えに対して否定的な立場を取っています。第11章の中では、意味から切り離された機械的な音読を例に以下のような批判がなされています。
 

But if they originally learned the sensory-motor technique of reading -- the ability to identify forms and to reproduce the sounds they stand for -- by methods which did not call for attention to meaning, a mechanical habit was established which makes it difficult to read subsequently with intelligence.

 
 すなわち、学習者の「こころ」を切り離した機械的な訓練を日常的に行ってしまうと、その訓練が習慣化されてしまい、それ以上「こころ」を付け足した知的な活動をすることが困難になってしまうといえます。
 
 この批判は、英語教育の文脈において多く当てはまるのではないでしょうか。例えば、多くの大学試験の英語の問題で自由英作文が課されています。正誤の基準が明確な記号問題や和/英訳問題とは異なり、答えが一つに定まらない自由英作文を課すことにより、受験者の「論理性」や「創造性」の一側面を測るためです。

 しかし実際には、多くの受験者が学校や塾で教わった「型」通りの「減点されない英作文」を書いているにすぎないという話を以前聞いたことがあります。“I agree with the idea that ... . I have two reasons. First, ...  Second, ... . Therefore, I believe that ... ” といった解答が何枚も並ぶようです。ともすれば、自分の主張や理由を表す表現ですら、幾つかのパターンを暗記しているという場合すらあります。

  この状況において学習者は、知性を働かせることなく、与えられたお題に対して手持ちの表現でいかに早く要求された語数を書き終えるかという機械的な活動をしているにすぎません。そのような状況が習慣化されてしまうと、今後学習者がライティングにおいて知性を働かせることが困難になってしまいます。すなわち、学習者の「こころ」を置き去りにした機械的な訓練が繰り返されることによって、本来学習者が「創造性」を発揮する場であるはずの自由英作文が、学習者の「創造性」を殺す結果へと繋がりかねないのです。
  
 「テストを入れたら能力が伸びる!」という考えは教育を訓練としてみなしてしまい、かえって学習者の知性を抑圧してしまうことにつながりかねません。知性のない活動に成長は伴いません。2020年の大学入試への外部試験の導入は、上で挙げたような問題を4技能全てにおいて引き起こしかねません。目先の点数ばかりを追いかけた指導は、却って学習者の成長を妨げてしまいかねないことを教師となる我々は自覚しておかなければなりません。

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追記

以下は、学会員専用の企画についてのチラシです。









2018/11/20

「いま・ここ・わたし」を離れたことば


以下に引用するのは、下の章を使った授業を受けた院生さんの感想の一部です。


Experience and Thinking (Chapter 11 of Democracy and Education)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/11/experience-and-thinking-chapter-11-of.html





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■ OT君

第11章ではこのような表現があった。

“a mere verbal formula, a set of catchwords used to render thinking, or genuine theorizing, unnecessary and impossible”


この表現が示すように思考の伴わないあるいは伴わせることのできないような表現や言葉の使い方が現在の英語教育において非常に多いのではないかと感じる。私たちはことばを教える教師として十分なことばの使い方ができているのだろうか。ことばをただ記号として扱い、その意味をなおざりにしてはいないだろうか。

今学期は授業研究に関する授業をとっていたこともあり、公開授業研究会にできるだけ参加しようと思っていた。2学期以降このような公開授業研究会は様々な全国の様々な地域で行われており、インターネットで調べても多くの研究会の情報にアクセスできた。しかし、それらの情報を見ていて困ったことがあった。ウェブページには実施される日程、学校、研究授業のテーマなどが記されているのだが、授業のテーマの部分を見てもいまいちどのような実践を行うのかわからないのである。実践内容の例を挙げると「主体的・対話的な学びを促す授業の工夫」「知識・技能を活用した思考力・判断力・表現力の育成」「論理的思考力・表現力を身に着けさせるための指導の工夫」「生徒の主体的な学びを促す授業の工夫」などなどである。これらの文言は少なからず見られた、というよりも多くはこのような表記をしていた。公開授業研究会として行っている以上、これらは学校外の人に向けて発信されている情報である。しかし上の文言を見て「へえ、独自の実践で面白そうだな。行ってみようかな」となる人がどれぐらいいるのだろうか。僕はこれらのテーマを見たときにどのような実践なのか全く想像することができなかった。同時にどのような意味を持ってこれらのテーマを設定したのか、疑問も覚えた。

この例でも当てはまると思うのだが、ことばの上だけで成立する観念や概念ばかりが知識として教育の中で流布しており、何となくその意味もよくわからずに使用しているように感じられる。本来重要なのは、ことばが私たちの生活においてどのような意味を持っているのかということである。空気中にぽかんと浮かんだような概念としてのみことばを使っていては、ただ無味乾燥なことばとしてしか存在しないだろう。上の例でいうと、思考力は思考力でもどのような文脈(例えば文章を書くこととか)における、どのような類の思考力(例えば推敲して文章をよりよくするとか)を想定しているのか教師の方で提示できていない。したがって思考力ということばがただ存在しているだけで、見た人がそこに具体的な意味を感じ取ることができないのである。教師や学校がそれをできないでいて、生徒に求めるのは難しいのではないかと思う。(言語)教師である以上ことばに対して敏感な態度をとれるようにしなければならない。



■ MT君 

第11章の内容は、私にとって非常に耳が痛い内容でした。

 第11章でデューイは、「経験」に能動的な「試み」と受動的な「受け入れ」という二つの側面を認め、「経験から学ぶ」とは、私たちの行動とそれが導く結果をつなぎ合わせ、その関係性に異議を認めることであるとしています。さらに、その行為と結果の間に「思考」を介することによって、私たちの経験はより知的で豊かなものとなり、将来的な「ねらい(aim)」に向かって活動を続けることができると述べられていました。
 
 よく、「何事も経験だ」と言われますが、その言葉はとりあえず考えなしで行動することを推奨するものではありません。その行為とそれが導きうる結果との間に思考を巡らせず気まぐれに行動する、または惰性で行動するならば、その行為は経験と呼ぶことはできません。自身の生活を振り返って、いったいどれほどの行動が私の「経験」となっているかと考えると、少し憂鬱な気持ちになりました。
 
 教育についても同様で、例えば自身が行った授業を省みても、その中で生徒は思考を伴う「経験」をすることができていたと自信を持って言うことはできません。例えば、およそほとんどの中高で行なわれている "Repeat after me” を私も授業の中で取り入れていましたが、それは生徒の思考を働かせるどころか、生徒の身体を心から引き離す機械的な活動であったと反省しました。一斉授業の中で単なる音声復唱を繰り返し、自宅学習で音読をするよう促すことは、生徒に機械的な習慣を押し付け、英語学習とは無機質なものであるという印象を持たせることに繋がりかねません。単に "Repeat after me” とするのではなく、生徒がその例文を頭の中で描き意味を持たせられるような場面設定や言葉がけを十分にする、そして今音読をするということによって将来の自分にどのような変化が現れるかということを生徒自身が考えるきっかけを与える必要があったと今になって思いました。



■  FO君

第11章でデューイは「経験と思考」に関する議論を行っていますが、その中で彼は心身二元論を徹底的に批判しています。デューイによる心身二元論批判にはいままでの授業において私たちが批判的に見てきたものが数多く含まれているように思えます。

 心身二元論は身体と精神を2つの切り離されたものとして考えます。今までの授業の予習や復習において私が述べてきた「生徒を容れ物とみなす教育観」はまさにこの心身二元論の考えに基づいています。生徒の身体から、ないしは生徒による学びから精神が引き剥がされた途端に、彼らは中身を満たすべき空っぽの容れ物と化します。このような人間感に基づいた教育が生徒を世界に向かわせることを否定している、ということは繰り返し述べてきたとおりです。

 一方、生徒の身体と精神を切り離して考えるのではなく、それらがピッタリと重なりうるものだと捉える人間観が生徒を単なる「容れ物」とすることはありません。このような人間観においては、身体と精神はばらばらに切り離されたものとして存在するのではなく、身体そのものが世界を指向する意識である、と考えられます。ここでいう「世界を指向する」とは、デューイが第1章から繰り返し述べている通り、「生きること」や、本章でのことばを借りるなら、「経験すること」と言い換えることができると思います。

 デューイは教育を、人が人として生きるために必要なものとして考えているため、教育について議論する際に、生きること(すなわち世界へ働きかけることで享受できる変容)についてことばをかえながら何度も語っていることがわかります。本章ではデューイは「どのように世界に働きかけるのか」ということに関して詳しく述べることで、「ただ活動すること」と「経験すること」の間に明確な区分を設けています。

 これらの違いを私なりに一言でまとめるなら、前者と後者を隔てるものは思考の有無です。デューイは本章において、“Thinking, in other words, is the intentional endeavor to discover specific connections between something which we do and the consequences which result, so that the two become continuous.” と述べていますが、彼が思考をendeavor(努力)と言い換えていることには大きな意味があるように思えます。ここで言う「思考」とは明らかに何かを新しく生み出すこととは同義ではありません。デューイがここで用いている「思考」とは、上にも引用したように、私たちが何かをなすこととその結果との間の関係を明らかにし、それを継続的なものにする営みを指します。

 私たちがなすことに対するその結果はまさに今、私たちの眼の前に明らかな形で提示されているものではありません。ですから私たちがなすことがもたらす結果やそれらの関係を考えるときに、私たちは過去の記憶を引っ張ってきて、それを元にするなどして、まだ起きていないことを予想する必要があります。この時に明らかなことは、私たちはそうするときに「いま・ここ・わたし」を離れているということです。言い換えるなら、思考とは「いま・ここ・わたし」から離れた場所に自身を投射する力を意味します。いま、この場から離れた私以外のもの(過去/ 未来の私、ないしは他人)がどのように感じるのか、ということにまで意識を延長してみる、そんな力がここで言う思考である、と私は解釈しました。

 このように私たちは今この場にいる私以外のものに自身を投射して、そこから自身の行動やそれに伴う結果を思考することができるのですが、そうして思考したものは常に不確かさを身にまとっています。まだ起こっていないことに関する予測をたてることができても、それを断言することはできません。このような状況をデューイは “Where there is reflection, there is suspense.” ということばで表現しています。私たちが「単なる活動」ではなく「経験」をしようと試みるとき、あるいはその経験をより良いものにしようと試みるとき、「いまここにいるわたし」を離れて多くのことに意識を向けます。しかし、そこから得られた予測は私たちの中に確固たる真実として刻まれるのではなく、それが明らかになるときが来るまで「宙ぶらりん」の状態で保持されます。世界に働きかけ、多くのことに意識を向ければ向けるだけ私たちはこの「宙ぶらりん」を抱えて生きることになります。だからこそ私たちに必要なのは「正しい/ 正しくない」の判断を急ぐことではなく、その判断を「一時保留」にする能力であり、これがまさに「わからなさとの向き合い方」なのだと思います。



■ KK君

Dewey argues that nature of experience consists of both active and passive aspects. We take initiative to try something, and we undergo the corresponding results. Through those results which may be disappointing or delighting, we learn something that is connected with ourselves. Thus, all the experience becomes a process of learning. If we rethink the status quo of the current education from this perspective, we will realize that it is so hard to find real experience in ongoing education because active trying is absent in vast majority of the cases. Teachers are disproportionately inclined to passive instructions, so students are operated to accept certain results, bad or good. In this way, they never really get involved in the experience, for they are not the owners of their feelings, and consequences mean nothing important for them. Only when students are active to try something, can they pay attention to the corresponding result, in which they also actively find the connection among things, and learn to attach the meaning to the things.

  Another very sensational argument from Dewey is dualism of mind and body. I held a strong empathy while I was reading the comment on Japanese Education from Professor Yanase. Back in China when I was a primary school student, all the teachers told me to be quiet and remain put as much as I could because this is what a good child should behave like. So I tried my best to keep the back straight and fold my arms in front me on the desk. Apart from the pain resulted from keeping the same posture for a long time, I kept hiding my true feelings or facial expressions even when I felt something so interesting or so exciting that I wanted to shout out loud or just jump from my seat. This similar way of class education is still prevailing and ongoing, and the concept of mind-only education has got the best of teachers and students for a long time. However, as an exciting mind is ready to look for an equally exciting body, mind becomes disappointed and sorrowful because of the separation forced upon them. Thus, mind can never work well if body participation is missing. There is no such as a thing called mind-only education, for mind and body always go hand in hand.





「帰ってきたヒトラー」と「時計じかけのオレンジ」


学部一年生向けの「英語教師のためのコンピュータ入門」では、とても基本的なものではありますが、いろいろな課題をコンピュータを使ってやってもらっています。課題としては「大学時代にやりたいこと」など、学生さんの意欲や興味に即したものにしようとしています。

そういった学生さんの中に、ヒトラーについて不用意な言及をした学生さんが一人いましたので、ヒトラーの言及を無思考的にタブー化するのではなく、人間の世の中を考える上で重要な(そして危険な)ことばとして考えるように短く助言しました。

以下は、その学生さんからの授業振り返りです。学部一年生といった若い時代に、いろいろと広く(そして深く)教養をつけてくれればと願っています。



 



*****


今回の授業の冒頭部分でヒトラーというトピックの扱いについて指摘されたとき、無知が招いてしまう大きな誤解の危険性を垣間見たように思う。私自身としてはヒトラーがある種センシティブなトピックに分類されることは重々承知していたつもりではあったが、より詳細に誤解を招くことのない脚注をつけることを怠ることの恐ろしさを強く実感し(そもそもヒトラーの個人演説とdialecticsを同一カテゴリーの中に入れていた時点でことの繊細さを重々承知していたわけではないのではないかと思うが)、これが失敗の許される授業現場でよかったと心底安堵した。

 ここで私が先日作成したスライドにこの場を借りて注釈しておくと、私自身ヒトラーの思考に傾倒するつもりは毛頭ないし、ファシズムについて深い見識を持ち合わせているわけでもないが、彼の演説力には無知な私にもわかるほど目を見張る工夫が凝らされており、それを応用することで学級経営に必要な統率力の向上に役立つのではないかという考えのもとリストアップした。決して彼の価値観に触発されたという理由ではないことを明記しておく。

 ところで今回の授業後に彼の経歴をザッピングしてみるうちに、なぜそのようにあまりにもゆがんだ正義を遂行してしまったのか、という疑問とアドルフ・ヒトラーという人物自体に対する興味を自らのうちに感じた。彼を題材とした映画や彼の著書を通して全く自分に共通点のない思考回路を知っておくことは多様な生徒を扱ううえで必要なことであり、どんな規模であれ繰り返されかねない歴史を二度と繰り返させないためにその事例を学ぶことは重要である。長期休みの合間にでも紹介されていた「帰ってきたヒトラー」等を見て理解を深めようと思う。




映画といえば、個人的な話ではあるが「時計じかけのオレンジ」を先日借りて観てみたときに感じたことを、授業の振り返りという本筋とは外れるが覚書程度に書き留めておこうと思う。以前から興味があり、いつか観ようと思っていた映画であったので個人的に非常に楽しんで観ることができたが、作中で鮮烈に描かれていた悪人矯正のプロセスを見ているうちにいきすぎた抑制によって降り注いだ主人公の苦難は教育現場でも起きかねないのではないかという危惧が頭をもたげてきた。つい最近まで主流であった多様性を排斥した画一的な教育に、社会が今もなおとらわれているのであれば、この事態は十分起こりうる。例えば少し騒がしい子供、例えば人と話すことが苦手な子供、例えば勉強はできないが一つのことにすさまじい集中力を放つ子供たちにそれらしい病名をつけ、投薬などの治療を試みて万事解決としているケースはこれにあてはまり、現在もなおこびりついた問題であると私自身とらえている。

 作中、主人公である彼は最終的に自らの性質(ここでは自分らしさを指している)を取り戻すことができたが、はたして映画のように社会に病気というレッテルを貼られた人々は全員救われていくだろうか。個人の性格という根本的な問題をひとまとめにして掃き捨てるような扱いをしていてはいつまでたってもこの問題の解決という方向に事態が傾くことはないだろう。教員不足が叫ばれている現状ではもはや理想論にすぎないのかもしれないが、少なくとも教育現場では少しでも生徒一人一人について個別の接し方をするべきではないだろうか。「教育が変われば社会が変わる」、そんな言葉を信じてみる時代がついに訪れたのかもしれない。



12/9(日)一般公開企画:対話の集い「英語資格試験を問い直す」などのスライドを公開します。

以前からお知らせしておりますように、来る12/9(日)に広島大学英語教育学会が広島大学教育学部で開催されます。 再掲:12/9(日)に広島大学英語教育学会を開催します。 一般公開企画「英語資格試験を問い直す」には会員でない方も参加できます! http://hir...