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外務省支援のプログラムで東ティモールに行った学部3年生の手記

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以下は、外務省支援のプログラムで東ティモールに行った学部3年生のAさんの手記です。約10日間に過ぎませんが、確実に彼女の世界は広がり色彩も豊かになったと思います。若い皆さん、(いや管理人のような中高年の人間も)どんどん世界を広げて柔軟な心をもてるようにしましょう!






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東ティモールで教わった大切なこと

私は、昨年の11月に対日理解促進プログラムという外務省が支援するプログラムに参加し、約10日間東ティモールへ行ってきました。今私の記事を読んでくださっている方の中には、東ティモールと聞いて「どこ? アフリカ? 紛争で危なくないの?」といった疑問が浮かんでいる方も多いと思います。だからこそ、こういった場で私が実際に現地で経験したことや感じたことを共有し、東ティモールについて少しでも多くの方に知っていただけることを大変嬉しく思います。

まず本題に移る前に、東ティモールの情報と東ティモールに行くまでの経緯を簡単に書きたいと思います。東ティモールは、地図でいうとインドネシアとオーストラリアの間に位置する国で、面積は岩手県とほぼ同じくらいの大変小さな国です。また、2012年に独立したばかりのアジアで一番若い国でもあります。「独立したばかりの国へ行って危なくないの?!」と何人もの友人が心配してくれましたが、私たちが滞在した首都ディリは至って平和で、10日間の間に身に危険を感じたことは一度もありません。南国特有のゆったりとした雰囲気で、きちんと気を付けてさえいれば、現在のヨーロッパよりも治安がいいのでは、と感じてしまうほどです。

東ティモール渡航へ至った経緯は、対日理解促進プログラムが提供する派遣国の中で、旅行では行けない国、かつ未知な国を選ぼうといった不純な動機がきっかけです(笑)。なので、私自身も渡航が決定する前まで正直東ティモールがどこに位置しているかも無知でしたし、人生で東ティモールへ行くことになるなんて思ってもいませんでした。しかし、知らなかった国、未知の世界だったからこそ10日間という短い滞在期間の間にここには書ききれないほど多くのことを感じ、日本ではできない体験、出会いに恵まれることができました。

その中でも、私の中で特に印象に残っているエピソードを共有させていただこうと思います。

プログラム中、東ティモール唯一の国立大学にて現地の学生とディスカッションをす…

英語授業での訳・日本語使用に関する学生さんの考え

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学部3年生向けのある授業で、「訳」に関する概念分析などを読んでもらった上で、訳について考える授業をこれから始めます。
以下は、学生さんによる予習書き込みの一部です。




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■ 極端に訳読式の英語教育が批判されているが,訳は五つに分けることができて,まず大きく言語が使われている状況を考えずに英単語の訳や文法の訳に従って一つ一つ訳していく「置き換え式」のものと,その言語が使われている状況までも考慮に入れ,原著者が日本語で書いた場合そう書くであろう日本語に訳すものである「翻訳」と,学習者と教師が相互作用的・協同的に二人で作り上げる言語使用である「解釈」の3つに分けられ,それがさらに口頭言語と,書記言語に分けられる。「解釈」は書記言語を口頭言語を用いて理解するものである。

実際,私たちが批判すべきなのは,その場の状況などを考えない「置き換え訳」なのだがその他の翻訳や解釈も含めて批判してしまっている。「翻訳」や「解釈」は実際のコミュニケーションの場であることを大いに考慮に入れており,英語を実際に使用する場面では必要となる能力を育てることになるはずなのに,その良さを理解せず,英語だけを使うことをよしと考えてしまっている。

また,英語が使えるようになることだけが英語学習の目的になってしまっているということが問題になっている。確かに,授業では最近の英語教育の批判として,訳読式の授業を受けてきたから,いつまでたっても日本人はコミュニケーションを取れるようになれない。だから,訳読式の学習をやめて,実際に英語を使用してタスクをこなしたりする,実際のコミュニケーションの場を想定した英語教育をすることが理想とされている。

しかし,これを読んで,安易に訳読式の英語学習の方法を排除してしまうのは浅はかだと思った。「翻訳」や「解釈」は実際のコミュニケーションの場では役に立つものであるし,そもそも全ての英文書や論文が日本語で訳されているわけではないので,訳読の学習を排除してしまえば,できなくなることがたくさんあって,訳ができる,それも真の意味を理解している訳ができるということは,日本の英語教育の誇るべき成果だと思う。

ただ,今まではそのバランスが悪く,ほとんど訳読だけをやってきたというのが日本の英語教育でいつまでたっても英語が話せるようにならない原因で,これからは面と向かったコミュニケーシ…

この度、著書を出版された山岡大基先生(教英07)から寄稿していただきました

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この度、著書を出版された山岡大基先生(教英07)にこの広大教英ブログに文章を寄稿していただきました。お忙しい中、ご快諾いただいた山岡先生にはこの場を借りて改めてお礼申し上げます。

それでは山岡先生から皆さんへのメッセージをどうぞ!




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筆者について


山岡大基(やまおか・たいき)です。教英の卒業生で,広大流に言うと「07(ゼロナナ)」,平成7年度(1995年度)入学生です。大学に入学したときは,英語の先生になろうなどとはまったく考えていませんでした。せいぜい「英語の勉強がしたい」という程度の動機とセンター試験の点数で広大教英への進学を決めたのでした。しかし,英語教育について学ぶにつれ,「人にものを教えるって,こんなに専門的な知識や技能が要求されることなんだ!」と感動をおぼえ,気がつけば大学院(博士課程前期)にまで進んで英語教育について学び,英語の先生になってしまっていました。
大学院修了後は,しばらく県外の公立高校に勤めていたのですが,縁があって広島大学の附属学校の1つである,「広島大学附属福山中・高等学校」(福山市)という学校に転任し,その後,さらに学内で「広島大学附属中・高等学校」(広島市)へと異動して,今に至っています。
附属学校では,普通に中学生・高校生に英語を教えるだけでなく,教育実習などを通じて大学生に「英語の教え方」を教えることも仕事のうちで,それが,自分の教え方を振り返る「鏡」にもなっています。


本書について

英語ライティングを教えることに特に強い関心を持ち始めたのは,国語教育での作文指導について知るようになってからです。まだ教職経験の浅かったころ,ライティングをどう教えてよいか分からず,英語教員向けの本を読んだり,高校生向けの通信講座を自分で受講してみたりと,いろいろ勉強していたのですが,その中で,国語教育の本も読んでいました。国語科では,さすがにいろいろな教え方が研究されていて,英語教育だけ勉強していたのでは,なかなか触れることのできない知恵があふれていました。特に小学校での教え方から,英語では高校生を教えるのにちょうど応用できるくらいの教材や活動が多く見つかったのは新鮮な驚きでした。
そうやって,「これは面白い!」と思った教え方は,すぐに自分の授業に取り入れていたのですが,そのうち,ある程度「型」を決めておいた方が,生徒は書く内容を考えることに集中…

教英大学院生の一人が成績優秀学生奨学制度で授業料免除となりました。

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以下は、成績優秀学生奨学制度で授業料を免除してもらったAさんの手記です。忙しい中に寄稿していただいたAさんに感謝します。思い起こせば管理人も、大学院受験の際に、絶対に奨学金を得る必要があったので必死で勉強しました(笑)。

ともあれ、大学院への受験勉強のやり方についても書いている下の文章をどうぞお読みください。






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広島大学教英の大学院へ入学を志望されているみなさま、はじめまして。教英大学院の博士課程前期の1年生Aです。大学院の授業料が免除になる―「そんなオイシイ話があるわけない…」というあなた、実はそんな制度が広島大学にはあります。

「エクセレント・スチューデント・スカラシップ」制度(成績優秀学生奨学制度)では、大学院入試時の成績優秀者が表彰され、特典として入学年度の後期授業料が免除されます(これは教育学研究科の博士課程前期1年の場合です。他の課程・研究科については、この文章の後に掲載のURLを参照してください)。また、成績評価は面接試験を除く、筆記試験のみが対象となります。

 基準の詳細は公開されていませんが、研究科在学生30人に対して1人を目安にしており、ちなみに、授業料免除の他に、記念品の贈呈、成績証明書への「成績優秀学生である旨」の記載、選考された学生が出席する表彰式なども制度の内容に含まれます。なお、当制度への事前・事後申し込み等は必要ありません。受験後に大学側から選考者へ連絡が届く仕組みになっています。

 私自身、2017年度の「エクセレント・スチューデント・スカラシップ」制度で選考された1人です。大学院入試の1年近く前にこの制度の噂を耳にし、「せっかく授業料が免除になるなら」と、入試の勉強にいっそう力を入れることにしました。

 教英の入試では、英語教育の時事問題、カリキュラム論、英語教育史、統計、言語学、文学などの分野から出題されますが、私も含め受験生はこれらの分野をまんべんなく勉強しました。受験勉強なので大変なこともありましたが、個人的には英語教育史の勉強で参考図書とされていた伊村元道著『日本の英語教育200年』(大修館書店)が面白く、繰り返し読んでいたのをおぼえています。大学院でみなさんが研究したいと考えているテーマと関連する分野もあると思うので、入学後の研究の準備としても大学院入試は重要だと思います。

 なお私の場合、受験勉強は基本的に1人で行い、た…

なぜ日本社会は数値化するべきものでない事柄まで全てを数値化したがるのだろうか

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学部三年生用の授業で、アレントの哲学に触れながら英語教育について考え直してみました。以下はある学生さんの予習段階での書き込みです。







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アレントの見解を読んでいて、今の学校教育の現場には彼女が言う語りや活動が生成するpowerが欠けているように思えた。全てを点数化したがる制度からの圧力に負け、本来多様な人々が交流し合い、活動が生まれるはずの教室が、高得点をとるための練習、つまり労働をする場所になりつつあると捉えられるからである。

 以前教育を生産化し、経済利益のために利用する塾の話が出てきたが、塾はまさに活動を生まずに人々が労働している空間のように感じる。しかし、塾というのは志望校に合格するために点数を上げたい人が集まっている空間であって、そのニーズを達成するために明確な数値(偏差値など)に基づいて効率的で合理的な手段を提供していることから、虚しさは感じるが、ある意味大変理にかなっていると思う。しかし、学校現場でそれと同じことをするのは、語りや活動が失われるのはもちろん、学校(特に公立中学校)が持つ一番の魅力、多様な人種が集まる空間が産み出すpowerを封印することとと同じなのではないか。

 文部科学省の「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画の策定について」が掲げる目標も、TOEFL、TOEIC、英検などといった、スコアによって市場価値を明確にする交換可能な「生産物」によって定義されているが、学校側はこの基準に基づき、点数を上げるための授業を考えるだろうから、教室に活動や語りが生まれることは考えづらいし、受験勉強のための英語教育と根本はなんら変わらないような気がして、これに関しても疑問だ。

 こういった話題に出会ったときにいつも感じるのが、なぜ日本社会は数値化するべきものでない事柄まで全てを数値化したがるのだろうか。確かに数値化することで規準は設けやすくなるし、評価がしやすくなるのは分かる。しかし、英語コミュニケーション能力といった全てを数値化できない側面を持つものに対して無理矢理数値化する行為にはいまだに納得しがたい。

 かなり理想論なのかもしれないが、英語コミュニケーション能力を向上させ、教室という場に活動を取り戻したいのであれば、本当に生徒が言いたいことを手助けするようなスピーチ指導、生徒が表現したいことを学び得るような指導や手助けの方が数…

教英卒業生(平成15年度入学)の江澤隆輔先生が『中学校英語サポートBOOKSテーマ別英作文 ドリル&ワーク』(明治図書出版)を刊行します!

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教英卒業生(平成15年度入学)で、現在は福井県の小学校に勤務する江澤隆輔先生がこのたび明治図書出版様から『中学校英語サポートBOOKSテーマ別英作文 ドリル&ワーク』を刊行します。また、さらなる書籍も準備中とか・・・

現役教員として働きながら書籍を刊行することは並大抵のことではありません。そんな大変な活躍をしている卒業生がいることを、教英所属教員としてはとても誇りに思います。(というより見習わなくては・・・汗)

以下はこちらでお願いして、江澤先生に寄稿してもらった文章です。ぜひお読みください!





自己紹介と近況報告
初めまして。教英15(柳瀬先生のゼミでした)の江澤隆輔と申します。自分が学部生の時にはこういったブログがなかったので,その存在を知って驚いています。このたび,明治図書出版様から「中学校英語サポートBOOKSテーマ別英作文 ドリル&ワーク」を1月26日に発刊させていただきます。この場をお借りして,そのご連絡をさせていただこうと思います。
私は,教英を卒業後,地元の福井県で採用していただき,現在3校目の学校に勤務しております(採用11年目)。初任校は福井市の中学校,2校目はその隣の市の中学校,そして現在は地元の市の小学校勤務で,来年度からの小学校教科化(福井県は先行実施)に向けて,その準備などをしております。もちろん,担任を持たせていただき,6年生と毎日あわただしくも充実した日々を過ごしています。

書籍出版の経緯
さて,2校目の中学校で英語教師として勤務していたときに,以下「はじめに」のようなことを感じて,英作文に特化した問題集である「英作文問題集」を英語科の取り組みとして独自に作成しました。初年度は3年生に配付,次年度以降は1・2年生に問題集を配付,毎週末の家庭学習として指導を続け,実践を開始した3年後には外部検定試験GTECライティング部門で県内トップクラスの成績を取ることができました。その取り組みをベネッセから取材していただいたことで,明治図書出版様から声をかけていただきました。 また,本書とは別に学事出版様からもお声かけをいただき,2月末には「中学英語ラクイチ授業プラン」を発刊予定です。その書籍や3冊目,4冊目の執筆中の本もありますが,それについてはまた別の形でご報告させていただこうと思います。






はじめに(本書より一部抜粋)

■ライティングの量が圧倒的に足りない!

教英留学プログラムに関する手続き等の説明会

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先週、業者の方に来ていただき、教英留学プログラムに関する手続き等の説明会を行いました。今回は12名の学生(新2年生)がエディンバラ大学へ留学します。今、教英ではインフルエンザが大流行中で、少し寂しい説明会になってしまいました。




早速エディンバラ大学からも事前課題が届き、これから留学の準備をしていくことになります。

この留学プログラムに参加した学生は、英語力はもちろん人間的にも毎年大きく成長して日本に戻ってきてくれます。今回参加する学生も、色々なことに積極的に挑戦して、様々な経験をしてきてほしいです。

西原貴之

野口三千三氏と竹内敏晴氏の論から、言語教育としての英語教育を考え直す

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以下はある授業で、野口三千三氏と竹内敏晴氏の論から、言語教育としての英語教育を考え直す討議をした際の学生さんの感想の一部です。

今の英語教育がひょっとしたら若い世代の言語的感性を潰していないか、いやこれは英語に限らず学校教育全般にいえることではないのかという疑問を大切にしたいと思います。




■ 今回の授業は自分の中でも腑に落ちたというか、もやもやが晴れた点が多くありました。その中で感性の失われつつある現代の子供たちについて振り返りたいと思います。

 最近の子供たち、とりわけ中高生は感性が失われつつあるということには本当にその通りだなと思います。さらに言えば無関心な子どもが多いと思います。これは自分自身も例外ではありませんでした。「授業=勉強を強いられる時間」という方程式の成り立っていた中高生の私は友達と話をすること以外に学校に行く楽しさを見出してなかったように思います。授業開始のチャイムが鳴ると同時に決められた狭い席に座り、皆一様に前を向いて教師の話を聞く。どうしても強いられているという意識がありました。

 その中で私の興味を引くものは動かない教科書の内容や黒板に書かれた数式などではなく窓の外の動く景色でした。そういった意味もあって私は「逃げ場」のある窓際を好んで希望していました。私の中での「授業」と「学校内でのそれ以外の時間」は分断されていたのかなと思いました。

 教育実習を終えて、良い授業とはなんだろうと考えた際に1つ思いついたものは授業後もつい授業の内容を話してしまうような授業なのかなと思いました。それは授業と休み時間とが完全に分断されたものでなく、授業によって生徒の知的好奇心を刺激し、そこから授業では時間が足りないから休み時間でも、家に帰ってでももっと知りたい、もっと話したいと思わせる、このような授業は1つの良い授業なのかなと思います。

 もちろんそこには生徒の学力の高さなどの他の要因も絡むとは思いますが、生徒の知的好奇心を掻き立てられる、生徒が自ら進んで聞いてくれる授業のできる教師になりたいと思いました。




■ 体の変化に合わせて言葉を選ぶことが本来は正しいというような話をしていて思い出したのが,教育の場で,大学に入るまで,自分の考えを述べるというよりは,いかに自分の答えを用意された正解に近づけるかということが重視されていたということだ。

 最近の子供は感…

「時間をうまく使う」ことで時間そのものを失う

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以下はある授業の振り返りとして学部三年生が書き込んだ文章の一節です。ミヒャエル・エンデの『モモ』にも出てくるテーマですが、私たちは「効率的な社会」の中で、観察すること、自分の外と内の変転を時間と共に経験すること、言い切ってしまえば生きること、を忘れ始めているのかもしれません。




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ウィトゲンシュタインは、ゲームと呼ばれる様々な営みの共通要素は、それらがすべて「ゲーム」と呼ばれる以上、なくてはならないと決め付けるのではなくて、一つ一つのゲームを丁寧に観察することが大切なのだと述べています。

なるほど今の私たちにかけているのは「観察」の「時間」だなと思いました。情報化が進み、急速に世界が変化する中で人は時間を割くことを嫌うようになったのではないかなと思います。Youtubeでたった10秒の広告をとばす、過程はいいから結末だけ見たいと早送りをする。1冊の本をすべて読むのは時間がかかるからまとめられているサイトを探す、RPGのゲームなどでもミスをして時間を取られるのは嫌だから攻略サイトを見つけるなど、「いかに時間をうまく使うか」に焦点が当てられているように感じます。

そうした時間や手間を惜しむことによって、観察するという行為が欠落してしまったなと自分では感じます。効率のいいように型にあてはめ、本質が見えてなったのかなと思いました。対象をじっくりと観察すること、簡単なようで難しいと思います。しかし、この手間を惜しんでいてはいけないと思いました。