2018/01/30

英語授業での訳・日本語使用に関する学生さんの考え



学部3年生向けのある授業で、「訳」に関する概念分析などを読んでもらった上で、訳について考える授業をこれから始めます。
以下は、学生さんによる予習書き込みの一部です。




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■ 極端に訳読式の英語教育が批判されているが,訳は五つに分けることができて,まず大きく言語が使われている状況を考えずに英単語の訳や文法の訳に従って一つ一つ訳していく「置き換え式」のものと,その言語が使われている状況までも考慮に入れ,原著者が日本語で書いた場合そう書くであろう日本語に訳すものである「翻訳」と,学習者と教師が相互作用的・協同的に二人で作り上げる言語使用である「解釈」の3つに分けられ,それがさらに口頭言語と,書記言語に分けられる。「解釈」は書記言語を口頭言語を用いて理解するものである。

実際,私たちが批判すべきなのは,その場の状況などを考えない「置き換え訳」なのだがその他の翻訳や解釈も含めて批判してしまっている。「翻訳」や「解釈」は実際のコミュニケーションの場であることを大いに考慮に入れており,英語を実際に使用する場面では必要となる能力を育てることになるはずなのに,その良さを理解せず,英語だけを使うことをよしと考えてしまっている。

また,英語が使えるようになることだけが英語学習の目的になってしまっているということが問題になっている。確かに,授業では最近の英語教育の批判として,訳読式の授業を受けてきたから,いつまでたっても日本人はコミュニケーションを取れるようになれない。だから,訳読式の学習をやめて,実際に英語を使用してタスクをこなしたりする,実際のコミュニケーションの場を想定した英語教育をすることが理想とされている。

しかし,これを読んで,安易に訳読式の英語学習の方法を排除してしまうのは浅はかだと思った。「翻訳」や「解釈」は実際のコミュニケーションの場では役に立つものであるし,そもそも全ての英文書や論文が日本語で訳されているわけではないので,訳読の学習を排除してしまえば,できなくなることがたくさんあって,訳ができる,それも真の意味を理解している訳ができるということは,日本の英語教育の誇るべき成果だと思う。

ただ,今まではそのバランスが悪く,ほとんど訳読だけをやってきたというのが日本の英語教育でいつまでたっても英語が話せるようにならない原因で,これからは面と向かったコミュニケーションの経験量を増やしていくべきだと考える。また,外国語教育における母語や母国語の使用の価値についても述べられているが,どのような場面で使い価値を持たせることができるのか,具体的に想定することは難しいと感じた。


■ 高校生、そして受験生時代、私は「英文和訳」というものを非常に数多く行ってきた。教科書本文の和訳、入試問題過去問の下線部和訳問題などなど数え切れないほどの「訳」を行い、英語を読んできた。私が今思っているのは、そういう単に機械的な訳を行ってきたことにより、英語というものを「言語」という側面から、心から楽しめてなかったのではないかということである。本授業で習った「感性」や「知性」といった働きがほとんど生み出されなかったのかな、と振り返って思った。

「翻訳」は、「作者」と「読者」とのコミュニケーションであると言われる。学校の教科書、教材の本文で使われている英語(ことば)に対する作者が込めた意味、そしてなぜこの場所で、この部分でこの表現や単語が使われているのかを深く考えること、こういう活動が今の英語教育ではほとんど行われず、代わりに訳ばかりされている気がする。もっといえば、この「翻訳」というコミュニケーションをコミュニケーションだと捉えられてすらいないような気もした。


■ 最近の英語教育の風潮として、英語の授業で訳読や日本語を使うことが毛嫌いされているのは教育実習や学習指導要領を通して痛いほど伝わってくるが、訳読と日本語の使用を全面禁止するのはあまりにも行き過ぎた考えだと感じる。

たしかに、極めて表面的な教科書の英文を不自然な日本語で訳したり、書かせたりする従来行われてきたような教育は改革されて当然だと思う。私は海外ドラマや洋画が好きで、よく英語字幕(又はスクリプト)や日本語字幕を使って鑑賞しているが、特に日常会話が多い海外ドラマの場合、かなりの割合で中学校の文法が用いられている。それにも関わらず、いまいちニュアンスがすぐにくみとれなかったり、日本語字幕を見て、そんな風に訳すのか! と、はっとさせられることがある。もちろん完全に、というわけではないが、これは私自身が中高で不自然な教科書英語にばかり触れ、不自然な日本語訳ばかりしてきたことが多く起因しているのではないかと考えてしまう。

訳読や日本語の使用そのものが悪いのではなく、その使用方法が悪いのではないかと考える。特に高校生や大学生といったある程度の基礎文法を習得している場合(場合によっては中学生も)、もっとオーセンティックで文脈のある本や映画に触れて、コンテキストに合う自然な日本語を探したり、英語の感性を磨くことは、例え一部日本語や訳読の方法が使われていたとしても決して悪いことではないと思う。



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