野口三千三氏と竹内敏晴氏の論から、言語教育としての英語教育を考え直す


以下はある授業で、野口三千三氏と竹内敏晴氏の論から、言語教育としての英語教育を考え直す討議をした際の学生さんの感想の一部です。

今の英語教育がひょっとしたら若い世代の言語的感性を潰していないか、いやこれは英語に限らず学校教育全般にいえることではないのかという疑問を大切にしたいと思います。




■ 今回の授業は自分の中でも腑に落ちたというか、もやもやが晴れた点が多くありました。その中で感性の失われつつある現代の子供たちについて振り返りたいと思います。

 最近の子供たち、とりわけ中高生は感性が失われつつあるということには本当にその通りだなと思います。さらに言えば無関心な子どもが多いと思います。これは自分自身も例外ではありませんでした。「授業=勉強を強いられる時間」という方程式の成り立っていた中高生の私は友達と話をすること以外に学校に行く楽しさを見出してなかったように思います。授業開始のチャイムが鳴ると同時に決められた狭い席に座り、皆一様に前を向いて教師の話を聞く。どうしても強いられているという意識がありました。

 その中で私の興味を引くものは動かない教科書の内容や黒板に書かれた数式などではなく窓の外の動く景色でした。そういった意味もあって私は「逃げ場」のある窓際を好んで希望していました。私の中での「授業」と「学校内でのそれ以外の時間」は分断されていたのかなと思いました。

 教育実習を終えて、良い授業とはなんだろうと考えた際に1つ思いついたものは授業後もつい授業の内容を話してしまうような授業なのかなと思いました。それは授業と休み時間とが完全に分断されたものでなく、授業によって生徒の知的好奇心を刺激し、そこから授業では時間が足りないから休み時間でも、家に帰ってでももっと知りたい、もっと話したいと思わせる、このような授業は1つの良い授業なのかなと思います。

 もちろんそこには生徒の学力の高さなどの他の要因も絡むとは思いますが、生徒の知的好奇心を掻き立てられる、生徒が自ら進んで聞いてくれる授業のできる教師になりたいと思いました。




■ 体の変化に合わせて言葉を選ぶことが本来は正しいというような話をしていて思い出したのが,教育の場で,大学に入るまで,自分の考えを述べるというよりは,いかに自分の答えを用意された正解に近づけるかということが重視されていたということだ。

 最近の子供は感性が失われてきているとの話もあったが,自分の体がその言葉を発したいという欲求がないのに,問題に合わせて言葉を並べ替え,文章を作ったりする練習問題をたくさんやってきた。授業でも,道徳や総合的な学習の時間はそうとは言えないが,大部分を占めている授業の進め方として,正解に近づけることが良いとされていたように思うし,先生もそれ以外の答えが出でしまうと困惑する先生もいたように思う。それでは,感性など高めることはできないと感じた。

 自分の体に変化が起こり,それを表現したいという欲求が生まれてから初めて意味のある言葉を発することができると思った。この,生徒の言葉を発したいとさせる欲求に働きかけることが,特に言語系の授業では大事になってくると思うが,その為には,生徒の心の動きを,体の様子から読み取って,用意されたシナリオではなく,その様子に応じて授業の進め方や問題の問い方を変えていく必要があると思った。




■ 竹内敏晴さんは、「言語以前の身体」からの働きかけにより、言葉、言語を通じて相手を変えることが必要だとした。授業での活動も、相手の身体の変化を内側から感じて身体内部からの非社会的な(ナマの)言葉を自ら作り出し、その働きかけで、「(文字)言語」に内実を持たせることが大切だと思うし、これこそが本当のコミュニケーションとしての「言語」だとも思うが、単にドリル形式で機械的に練習している活動等を見てみると、「言葉」と「身体」の本質がそこには入ってないのかなと感じてしまった。

 こういったことを生徒にも分からせるためには、まず自分が、非意識的に身体が動き、身体に響き、言葉にも表せられないような経験を自らができるだけ多く手に入れ、感性、知性を身につけることが重要だと思う。


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