2018/11/12

教育における目標設定について


以下は、Deweyの Aims in Education (Chapter 8 of Democracy and Education) をテーマにした授業を受けた大学院生の振り返りです。

私は常に非人間化されるのは生徒である、と思っていましたが、デューイを読み進めるにつれて、「非人間化」の被害者は生徒だけでなく、抑圧を施している教師自身も非人間化のプロセスを歩んでいるのではないか、と思うようになりました」や「ここで問題となるのは、多くの場合、教員の怠慢が教育を非人間化のプロセスへと陥れているのではなく、彼らの勤勉さがこのような事態を引き起こしている、ということです」などというFO君の指摘などについては、いろいろと考えさせられます。






■ FO君

 第8章でデューイは教育の目的がその外部に設定されることについて激しく批判しています。また、教育の目的とはどのようなものであるべきかについても詳しく述べています。授業での皆さんの意見を参考にしながら、自身の考えをまとめて振り返りとさせていただきます。

 教育の目的が教育そのものから離れた場所に設定されることの危険性については予習や前回の振り返りでも述べたとおりです。教育の外部に措定された静的な目的(各種外部試験や大学入試など)は人の学びを終わらせる力を持っています。つまり、目的としている基準を超えてしまうと学習者は学ぶことをやめてしまいます。授業でもこういった試験などが目的となることの危うさについて話し合ったのですが、多くの意見を交わす中で、試験が存在することそれ自体ではなく、テストが持つ「学びを終了させる圧力」に教師が無自覚であることに問題の所在があるように思えてきました。

学習者に学びの終着点(そのようなものは存在しないのだけれど)を見せてしまうようなものが目的となっている教育においては、決まって学びのプロセスではなく学びのプロダクトが強調されます。このような環境では「テストで目標とする点は取れなかったけど、学ぶ過程で私のことばはこんなに豊かになりました」という発言はなんの意味も持ちません。そこで評価されるものは「どのような道を歩んだか」ではなく、「どこにたどり着いたか」のみです。

学びのプロセスではなく、プロダクトが過度に評価される教育観において生徒は常に「知識の容れ物」としての扱いをうけます。良い生徒とは黙って情報を詰め込まれる容れ物であり、良い教師とは、多くを容れ物に詰め込むことができる教師、となってしまいます。今までに何度も述べてきたように、このような「詰め込み型」の教育では、生徒にとって世界とは常に与えられるものであり、自らが関わり、変革を目ざすものではなくなってしまいます。多く詰め込まれることが良いことだという価値観は生徒の考える時間を否定します。このようにして抑圧の教育は成立してしまいます。

今までの授業の予習や振り返りで、私はこのような教育を「非人間化のプロセス」と呼びました。私は常に非人間化されるのは生徒である、と思っていましたが、デューイを読み進めるにつれて、「非人間化」の被害者は生徒だけでなく、抑圧を施している教師自身も非人間化のプロセスを歩んでいるのではないか、と思うようになりました。個人が個人として自己を表現すること、思考を巡らせ感じたものを感じたように伝えること、これらが否定されている環境が当たり前とされていることそれ自体が理不尽な暴力です。このような暴力が「全き人間であること」の条件と合致するとは私には思えませんので、この「暴力」を行っている教師も「よりよい人間であること」からは遠ざかっているように思えます。ここで問題となるのは、多くの場合、教員の怠慢が教育を非人間化のプロセスへと陥れているのではなく、彼らの勤勉さがこのような事態を引き起こしている、ということです。

パウロ・フレイレは『被抑圧者の教育学』のなかで、抑圧されるものは抑圧するものの中に人間としてのロールモデルをみてしまう、と述べています。多くの教員はおそらく今の生徒と同じような抑圧を受けてきたのではないでしょうか。私たちにとって悲劇的なことは、抑圧下にありながらも「たくさん詰め込まれた人」を聡明であると私たち自身が信じていることです。そのため、思考することをやめてでも多くを詰め込こんだ(詰め込まれた)という経験が、「成功体験」として自身の中に記録された瞬間に、自身が受けた抑圧をすっかり忘れてしまうのです。

 たくさん知っているけど考えることができないような教師が果たして自身の取り組みに批判的になれるのでしょうか。私は随分と懐疑的です。抑圧を受けながらも、その「抑圧の結果」に社会から成功体験の判を押された教師は、彼がなされてきたことを自身の生徒にも一生懸命に行うでしょう。そこには悪意はなく、善意のみがあります。教師は、「生徒の人生をめちゃくちゃにしてやろう」という破壊的感情をもって生徒と接するのではなく、多くの場合、生徒の将来を心から願って彼らと接しています。

それでもやはり「思考しないでいること」を見過ごす訳にはいきません。なぜなら私たちは多くの無思考が、私たちが耳を塞ぎ、目を閉じたくなるような悲惨な事件を引き起こしてきたことを知っているからです。

 イェルサレムでのアイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アレントは、アイヒマンの罪は思考するという営みを停止したことにある、と考えました。アウシュビッツ収容所で起きたことは今の私たちにはトラウマティックなもの、として記録されています。しかし、私たちが忘れてはいけないことはアイヒマンが平凡な人間であったという事実です。悲劇を招いたのは、決してひとつの巨悪ではなく、考えようとしなかった多くの凡人です。そして、当時、ナチスに傾倒していた人間全員がアイヒマンになり得たのです。

 アレントの例を極端だと思う方もいらっしゃるかもしれません。確かに、当時のドイツの文脈を無視してこのことについて論じることは適切では無いかもしれません。しかし、考えないでいること、考えることを放棄すること、が凶悪な事件を引き起こしてきたことは歴史が証明きたとおりです。それだけ無思考を貫くことは危険なのです。それにもかかわらず、私たちは「考えない人」を大量に作り上げようとしています。考えないようになることも、考えないことを強いることも、どちらも同じく非人間的な営みなのです。

教育の外部にその目的を設定することは、学びの終わりを告げかねません。そして、そのような目標が生徒に求めることは、往々にして「考えること」ではなく「点数をより多く摂ること」です。そして、より高得点をとることが支配的な価値観となった瞬間に「考えること」は障害物とみなされ否定されます。教育の外にその目的を設定することはこのように、教師も生徒も、その両方を非人間化する力を持っています。私たちはこの危険性を自覚しておかなければなりません。

 では教育の目的とはどのようなものであるべきなのでしょうか。それは明らかに、常に人を学びへと向かわせるものでなくてはなりません。ある発見がまた別の発見を導いたり、ある問いに対する答えがまた別の問いを生み出したりするように、教育の目的とは恒常性を持つ「固定された」ものではなく、常に変わり続ける動的なものであるはずです。今までに何度も述べてきたとおり、人が人として生きることは世界と深い関わりの中で自己の変容や世界の変容という形の学びを繰り返すことを意味します。そしてここで言う「世界」とは、動的であり、常に変わり続けるものです。このような世界との関わりの中で「学ぶ」という営みの目的が静的なものであるはずがないことは明らかです。そしてここでの「学び」とは誰かが誰かを教育するのでも、個人が個人を教育するのでもなく、世界それ自体が、その中に飛び込んだ人間に求めるものです。デューイが述べている「環境が人を教育する」という知見はここにも見て取ることができます。

 知識を詰め込まれるだけの生徒は主体的に世界との関わりを持つことを諦めるようになり、与えられた情報が世界の全てだと思うようになります。ここでいう「世界」も静的で固定されたものです。それはピタリと止まってしまっています。このような世界において、人間が自己以外のものに興味を示し、思考を巡らせ、想像力を働かせることができるとは思えません。人が自由に思考を巡らせることができるときには決まって他者との交わりがあります。言い換えるなら、人は他者との関わりにおいて初めて自由になることができます。ここで行われる学びは、絶えず変わり続ける環境と私たち人間との関わりに始点を有していて、そしてその環境に応じて絶えず変わり続ける目的によって支えられている、と言えるのではないでしょうか。




■ MT君

 我々が日常生活で使う「目標」という言葉は、多くの場合デューイが『民主主義と教育』の中でいう “end" に相当する言葉であると考えられる。 “end” は、それ単体で存在するものではなく、学習者に内在する活動のねらい(aim)に向かって活動するための1つの具体的な到達点に過ぎない。すなわち、具体的な到達目標とは本来、将来的なねらいがあって初めて設定されるものである。
 
 教育の場面のみに限らず、ビジネスや日常生活の場面でも「目標を持つ」ことは重要視されている。確かに、具体的な達成目標を立てることは、そこに向かって活動する原動力となりうるし、そこに到達した時の達成感は誰しもにとって嬉しいものである。しかし、我々は「目標を持つ」ということをあまりに賞賛するがあまり、そのことが引き起こしうる問題について盲目的になっているのではないかということを、今回の講義で考えた。
 
 目標が抱え得る問題点の1つとして、その目標が達成されたか否かでそれまでの取り組みが評価されてしまうということが考えられる。目標に向かって取り組むうちに本来のねらいを見失ってしまい、具体的到達目標を達成することにのみが活動の動機となってしまうことがしばしばある。そのような状況において、人々は、目標を達成することこそが全てで、それまでの活動は手段にすぎないという考え方に陥ってしまう。
 
 例えば、高校の吹奏楽部が「コンクールで金賞を取る」という到達目標を設定したとする。個人としては「楽しく演奏したい」というねらい(aim)を持った奏者が、コンクールで金賞を取るために日々厳しい練習にも耐え、難しいパッセージが吹けるようになるように練習する。その日々の練習は「コンクールで金賞を取る」ための手段にすぎないのである。実際にコンクールで金賞をとれたのなら日々の努力が「報われた」と感じ、結果が銀賞だったならば「報われなかった」と感じてしまう。この場合、このコンクールの一夏で奏者は成長を遂げたと言えるだろうか。
 
 これまでの章でも述べられている通り、成長(growth)とは、日々の生活で自己を変容させ続ける過程そのものであり、その成長を方向づけるものとしてねらい(aim)が存在する。デューイは、日々の活動で何かを成し遂げた結果ではなく、ねらいに向かって活動する過程そのものこそが重要であるとしている。もし、「コンクールで金賞を取る」という他者から押し付けられた到達目標により、自己のねらいが妨げられているのであれば、コンクールを終えた後に残るのは金賞/銀賞という結果のみである。そのように考えると、そもそも「報われた/報われなかった」という考え自体がデューイの主張に反しているように思える。奏者は「楽しく演奏する」というねらいに向かって日々練習をする過程そのものに意味を見出すべきである。日々の活動が個人のねらいに沿うわないのであれば、人々はその活動に意味を見出すことはできず、そこに成長は見込めない。
 
 英語教育においても、同様のことが起こり得るのではないか。学習者の現状やねらいを考慮せず、「〇〇できるようになる」という技能面の到達目標を外部から与えることは、却って学習者の成長を妨げてしまう可能性もある「〇〇できるようになる」を強調しすぎると、そこに行き着くまでの過程が手段として捉えられてしまうためである。その結果、〇〇できるようにならなかった場合、それまでの活動に意義が見出せなくなってしまう。そのような状況は、学習者自身の英語学習のねらいが、外部から与えられる到達目標と乖離している際に起こりうる。 「6年間も英語を勉強したのに話すこともできない。学校英語は意味がなかった」という人が多いのは、そこに理由があるのではないだろうか。
 
 学校(クラス)という組織において、集団としての到達目標を設定するのことは時として求められる。そのような場合、学習者のねらいを無視した到達目標を設定することは、以上に挙げた問題を引き起こしてしまう可能性がある。集団を統率する教師は、学習者一人一人の多様性を認めた上で、それらを包括する到達目標を設定し、彼らの日々の活動を豊かにするような環境を整えることが求められるのではないだろうか。


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