2017/10/12

教育/コミュニケーションにおいてはこの二重の変容があるため、伝えたいことをそのままコピーして伝えることは、厳密な意味では不可能である


以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Education第一章の抜粋を読みました。このような文章を書く院生を頼もしく思っています。





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さて、ルーマンの用語を借りて説明するなら、Deweyは生きることは絶えざるautopoiesisだ、と述べました。機械が外部からパーツを付け加えて機能を発展させていくような形の成長は生命体、人間には不可能で、私たちは食べたものから得た栄養素を何か別のものに変化させるかたちで、つまりはインプット(身体に入れたもの)とは全く違うアウトプット(身体になるもの)を得る形で自己を成長させてゆきます。教育についても、もしくはDeweyも言うようにコミュニケーションについても同様のことが言えるかもしれません。教師Aが頭の中にある知識や技能そのままを生徒Bにコピーするという教育観、話し手Aが「伝えたい事」をそのまま聞き手Bにコピーするようなコミュニケーション観は、理論としては成り立ちうるでしょうが私たちの経験的な実感からするとどちらも実際には起こりえない、もしくは可能であってもそれを理想の教育/コミュニケーションであると断じることはできないと思います。

 教育においてもコミュニケーションにおいても、伝え手が頭の中で思ったことや知識をそのまま表現して受け手に与えることができる、ということは無くて、言語を媒介したり、身振り手振りや、図表を媒介したりする中で「そのままの伝えたい事」はいくらか変容して伝わります。だからこそ、伝えたい事を媒介してくれる言語や身振り手振りに気を付けること―情報を圧縮したり、伝える順番を変えたり、たとえ話を挿入したり、イントネーションまで変えて見せる―ことが伝え手の妙技になるのだと思います。また、受け手(たち)はそうして媒介され変質した伝え手の「伝えたい事」を、それぞれ異なる経験してきた事を下敷きに受容します。ここでも変容が起こっているのではないでしょうか。つまり、伝え手が「伝えたかったこと」は言語やその他のものに媒介されて変容し、受け手がそれを自分の経験をふまえて受容する際にも変容する。教育/コミュニケーションにおいてはこの二重の変容があるため、伝えたいことをそのままコピーして伝えることは、厳密な意味では不可能であるということが言えると思います。

 しかしこれが教育/コミュニケーションの面白いところで、生徒は教師が教えてもいないようなことを学ぶことができるかもしれないし、伝えたつもりではないことが伝わってしまったりします。もちろんこれはDeweyの話とはずれてくるものですが。

 教育/コミュニケーションにおける「伝えたい事」の二重の変容、そしてそれがもたらす受け手の側での「伝わったこと」のほとんど無限と言っていいほどの振れ幅のために、教師はあらかじめ決定された「最も良い指導」を覚えればいつでも最良の授業ができる、ということがあり得ない仕事です。もちろんある程度のレベルまでは「良い指導」や「伝わる話し方」を技法として身に付けることができるとは思いますが、それは伝え手側の側面、言語やほかの要素による媒介の技法のみしか、見ることができていません。教育にもコミュニケーションにもそれ以上の道があり、そこに向かうためにはそれは受け手側の側面、個々の受け手がどのように「伝えたいこと」を理解するかに思いを馳せること、それを適切に想定したうえで伝え方を変えていくことが必要なのではないか。と考えました。



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