中学1年生の頃の英語教師の授業で行う単語の確認と練習が、今思えば「何でこんなに時間を無駄にするようなことしかしないのか?」と私も毎回仕方なくやっていたような、全く知性のない「ただのお決まりの作業」と化していたのである

以下は、授業でデューイの『民主主義と教育』を読んでいる大学院生の授業振り返りの一部です。私も思うのですが、英語の授業って惰性でやっているだけの活動が多くありませんか?





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 次に、「習慣」について述べられていた。中でも、知性のない習慣は悪い習慣になってしまうということが特に印象に残っている。

 教育の場において、このような場面は良く遭遇するものだ。悪い習慣というのは、例として著性のないルーティーン化したものが例として挙げられる。今回の講義でも、その一例として「英語の授業内容のルーティーン化」が挙げられた。

 思い出してみれば、私が中学生の頃にもこのような習慣を体験させられていたことがあった。授業で新たな単元に入る際、毎回新出単語の発音練習をしていたが、これが本当に意味のあるものか疑問に思ったことがあった。というのも、中学1年生の頃の英語教師の授業で行う単語の確認と練習が、今思えば「何でこんなに時間を無駄にするようなことしかしないのか?」と私も毎回仕方なくやっていたような、全く知性のない「ただのお決まりの作業」と化していたのである。その後に毎回行う「列対抗単語意味当て競争」も「最後まで経ち続けるのが恥ずかしいから」という、全く知性に欠けた活動も同じく、悪い習慣をただただ刷り込まれていたことを思い出した。

 ただ、2年生から担当の先生が変わって、「毎回の単語の確認と練習がこんなに意味を持っていたのか」と気付くことが出来るようなやり方に変わり、私自身の悪い習慣が浄化された。よく考えれば、その悪い習慣を取り入れていた教師は、私と同じく悪い習慣を刷り込まれてしまって今に至ったのだろうなと今に思う。そして、そのやり方を教えた教師も、悪い習慣を刷り込まれたために、そのやり方しか分からなかったのだろうと思う。

 まさに、英語教育における負のスパイラルだと思った。どこかでその負の連鎖を途切れさせることが出来なかったのも残念であるが、その本人が負に感化されて何も気づけなかったという点が一番残念でならない。

  そもそも、このような悪い習慣となるのは、何の見通しもなく無知性で意味のない、つまり何も考えていない (理解していない) ということが原因である。教育は、子供たちが成長するために色々な意味あるあ環境を与えなければならないと私は考える。知性を伴った、先の見通しがある教育が出来るように、私自身よく考えて行動しなければならないと改めて痛感した。




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