2017/05/09

対話について学び続けています

以下は、学部4年生向けの授業「現代社会の英語使用」の受講者の感想の一部です。この授業では英語使用に関する話題を題材にして、スピーチと対話を実践し、それらの技術を高めようとしています。

この授業で身につけた技術が、将来に職場や日常生活で活きることを願っています。







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■ 「完璧な発言を続けていくことが目標ではない。」授業の最後に先生がおっしゃったことが今回の対話の反省を端的に表しています。

対話とは全員の意見をすり合わせていきながら一つの真実・目標に向かっていくものであるならば,いきなり一人の人がその真実に最も近づいたことを言うのは極めて稀であるはずです。ある人の発言に対して補ってあげたり,違う視点を与えたりすることが大切で,それが続いて初めて対話が成り立つわけです。なので,「完璧な発言をすることは目標どころかほとんど不可能に近い」という考え方をするべきではないでしょうか。

そして,その考えを持った上でとにかく発言をする。例えその発言に訂正すべき点が多くあったとしても,他の人がその意見を補ってくれるんだという気持ちを持っておくことが大事です。それをするために,いくつか注意しなければいけないことがあると考えます。


■ 小さな確認が重要であるように感じた。対話においては、他の人との意味がまったく同じではなくても、意味が類似すればいい。その意味の差異を見出しそれについて考えることで新たな発見が生まれる。しかし、確認なしに進む小さな認識のずれが、対話が進むにつれて大きなものになってしまうように感じた。

自分自身を振り返ってみると、歳を重ねるにつれて、「わからない」ということを「わからない」、と言う、大切で当たり前のことを欠いてしまっているように思う。わかったふりや、なんとなくわかった気になっていることはとても恐ろしいことである。自分が発話することについても、ときどき言葉を発するのが怖いと感じる。論点がずれ、話があちこちに飛び、筋道をたてて話すということが十分にできていない。しかし怖がってばかりいては何もできないし上達もしない。教師になって失敗するより学生であるいまのうちに多くの失敗と経験および反省とそれに基づいた実践をしていきたい。

今回の談話をする中で考えたことは、子どもたちに知識とそれに基づく思考力を、多くの失敗と挑戦を、と思う一方で、私自身はそれをできているのか、ということである。いまの思った通りにできないもどかしい気持ちを忘れずに、学生ではなく教師としての意識を持ち、子どもたちと接する準備を急ぎたい。


■ 今回はまるで反省文になりそうだ。はじめからそう思うとなんだか書くのも憂鬱なものであるがそんな回があってもいいだろう、成長のきっかけにすべくしっかり反省したいと思う。

 教師だって、人間だから失敗もするだろうし子どもの前に立つからと言って完璧であるわけもない。お手本であるべき必要性もあるが、それは完成した間違いのない形ではなく、むしろ完璧でない人間の姿としてのお手本であるべきなのだと思う。弱さだけじゃない、それと向き合う強さを見せるのであって強さだけじゃない、誰もがもつ人間の弱さをさらけ出して、かっこつけず、反省して成長していく姿というのも、お手本としての一側面なのではないかと思ったりもするこの頃である。

 さて、まずスピーチについて振り返っていこう。すべての反省点は、これまでずっと、“自己中”であったことに依拠するだろう。対人コミュニケーションに及んで私が私がと、自分の話しかしていないということに言われるまで気付かないとはなんとも恥ずかしいことである。自分が聞いてほしい話であることは大前提としていいだろうが、同時にそれが相手の聞きたい話でなければならない。それなのに、いつまでも自分本位に喋っているばかりではただの自己満足に終わってしまうのである。優しい相手は、にこにこして聞いてくれるのかもしれないが不毛な時間であるうちはスピーチとは言えないだろう。自分にとって、よりも相手にとって重要かどうか、必要であるかどうかということを念頭に置く必要がある。考えてみれば、いや考えなくとも相手本位の姿勢がコミュニケーションの基本だということは誰にでもわかる当たり前のことであるはずだ。

 スピーチをする際には、その原稿を考える。が、その構成の組み立て方についてもまた、自己中であったがために間違った考え方をしていたように思う。大切にしなければならなかったのは単なる起承転結的順番なのではなく、論理的とはいっても、相手の論理を組んだものにするのがスピーチであるということを知った。そしてそれは、相手の思考の流れを考えることであって、まるで子どもたちの思考の流れに沿った授業づくりをするのと同じではないかという気がした。

 対話も同じで、自分の意見をふりかざすのではいけない。しかし、こちらはチームプレイである。個人がそれぞれの役目を果たさなければ、もちろん集団として成り立たない。そういう意味で、私たちはまだ集団になりきれていない。一番の問題は何かといえば、間違いなく皆が黙り込む時間がそれを語っているだろう。あの静かな時間は必要な間、ではなく必要以上の沈黙であったといえる。本当であれば、小さな間が流れている時間も含め対話は進んでいるのであるが、沈黙の多い場合は時が止まってしまっている。まるで一つしかないマイクを順番に回して、次は誰の手に渡るものかと伺っているような空気であった。その間、それぞれが自分の中で次なる最善の発言を考えている。考え過ぎだ、という先生からのお言葉は図星だった。そうじゃなくて、もっと、今独りで考えていることを皆で考えることがしたい。自分の答えを言い合うだけではなくて、その途中を共有できたらいいと思う。他人に聞こえないように押さえ込んでいる心の声を、外に出せるような雰囲気が私たちには必要だった。


■  集団討論ではチームプレイの中での個人の活躍を見ている。日本人は定義を曖昧にしたまま話すのが得意であり、私はその典型であると感じた。わからなくても話の流れに逆らうよりは合わせる方を選択してしまっていた。わからないことや、疑問に思うことを、話の流れを遮ってまで聞いたり確認したりすることは、自分はグループの他のメンバーより劣っていると示しているようなものだと思っていた。しかしグループ内での再確認、共有という立場でうまく質問をすれば、これはチームプレイの一つになる。大切なのはタイミングと言い方で、話がわからないまま流れに従うことの方が自分を最終的には追い込むことになることを学んだ。話の流れを止めることになるため発言するとき、勇気のいる行動であるが身につけたい技術の一つである。努力したい。

 今回、グループのメンバー全員が黙ってしまうことが多く見られた。その時、自分は笑って、他のメンバーと顔を見合わすばかりだった。難しい内容なら「難しいですね」。これだけでいいのにどうして口に出せないのか。誰かが話を進めてくれるだろうと考えているのである。また、ある程度話を回している人が存在していたときどうしてもその人に期待を寄せてしまう自分がいる。そこでこそチームプレイの中の個人の活躍の見せ所だと思った。

 反省ばかりではない。対話中相手の表情を見る余裕が取れるようになってきた。今までは自分は話に参加できていることを示すため少し大げさに頷いたりしていた。相手が話しやすいようにという意識もあったが、自分は対話に参加していることを示すことが目的だった。回数を重ねると対話の仕方が少しずつ身についてきたのか、当たり前のように頷いたりすることができるようになり、その分意識して周りを見ることができるようになってきた。そうすると、対話中の相手の表情からある程度流れの予測がついてくる。同じような意見を持っているのだな、とか、何か疑問に思っているのかな、など次の展開が読める。おかげで随分と楽になる。自分が発言している時も一緒で、相手にどれだけ理解されているのか、表現の仕方は適切か、など表情から自分の発言を振り返ることができるようになった。(少しずつ)

 そして、以前は内容を受けてそれを踏まえての自分の意見を瞬時に発することができなかった。今までは「自分はこう思う。」という意見を述べるに過ぎなかった部分が多かったが、「あなたの意見のこの部分が自分の意見と似ていて」など相手の意見を踏まえた内容を話せるようになってきた。 

 もしこれが教員採用試験での集団討論なら、それは試験であり、合否が決まる場であるけれど、自分を他のメンバーよりも良く見せようというより、このメンバーで今から「いい対話」をしよう、と考えることも自分の余裕につながるのかな、などと思った。(そんな余裕が持てるまで努力したい)





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お知らせ

10代・20代の皆さん、
英語教育を変えるための提言をしてください! 
英語教育小論文コンテストを開催します。
締切は6/23です。









2017/05/08

新入生歓迎合宿 (FWT) を運営した学部3年生のHN君による振り返り


以下は、新入生歓迎合宿 (FWT) を運営した学部3年生のHN君による振り返りです。

このような文章を書けるだけの経験をしたことは一生の宝といっても過言ではないと思います。

この写真(合宿最後の瞬間)を見てやってください。



このような行事を毎年続けている教英生を私たちは心から誇りに思っています。



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 幹部学年になって初めて気づいたことがあります。それは、「各学年FWTで感じ取ることができるものが異なる。」ということです。

 僕が新入生として教英に入って来て間もなく行われたFWT。そのときの僕には教英の雰囲気というものもつかめておらず、周りに親しい友達というものもまだ出来ておらず、何もかも手探りの日々。そんな中でのFWTで、先輩方がまだ見ぬ僕たちのために用意してくれたアクティビティを通しながら、先輩方の優しさを感じ、新天地である教英での新たな仲間とふれあい、そしてその機会を出会ったばかりの新入生である僕たちに与えてくれた教英という場所の暖かさが身にしみて感じられ、心震えた瞬間でした。



 それから1年が過ぎた2年生、今度は僕たちにとって初めての後輩のために先輩方と協力しながらFWTを運営する側として参加しました。1年前、先輩方がどんな気持ちで僕たちのためにFWTを創ってくださっていたのかを肌で実感しながらFWTを創っていき、そして後輩から「楽しかったです。」という声が聞けた瞬間、心の底から達成感が湧いてきたことを覚えています。それと同時に、運営では先輩方に頼りきりになっていた僕たちの姿もそこにはあって、上級生のたくましさ、自分も下級生が頼りたいと思えるような上級生になりたいと強く感じました。

 そして幹部学年の3年生となり、僕は1年生2年生を通じて感じたFWTの素晴らしさを下級生の2年生、新入生の1年生のそれぞれに感じてもらいたい、そして1年生2年生と自分がFWTに参加してきたからこそわかる学年ごとに異なるFWTの感じ方を下級生たちに伝えたい、そういう思いからFWTの幹部に立候補しました。

 FWTの幹部3人で昨年末から話し合いを始め、少しずつ少しずつ、時には真剣に、でもそれと同じくらいふざけ、それでもFWTに対して3人が持っていた共通の信念は絶対にぶれないように、FWTの準備を進めていきました。



 4月になって新入生が入ってくると、それまでまだずっと先のことのように思われていたFWTが急に現実味を帯びてきて、時間に追われながら毎日3人で集まって準備をしました。そんな中でもいつもユーモアを忘れず、笑いが絶えない話し合いや準備にとてもやりがいを感じながらFWTまでの毎日を過ごしました。

 そしてFWT当日、3年生である僕たちは幹部学年としてまだ見ぬ行事に不安そうな新入生と初めての運営側で少し緊張した2年生の様子、そしてFWT全体の運営に目を光らせつつも、それと同時にどの学年にも負けないくらいFWTを楽しみました。行われたアクティビティはどれも面白いものばかりで腹の底から笑い、気持ちの高揚からクタクタになるまで体を動かし、まるで少年少女に戻ったかのようにすべてのものに好奇心を注いで全力で楽しみました。

 1泊2日は飛ぶように過ぎ去っていき、最終日の閉会式、そこには前日の緊張した面持ちが嘘のように楽しそうな顔をした新入生、やりきった顔で清々しそうな2,3年生がいました。この時点ではまだFWTは終わっていませんでしたが、それでも僕たちが創り上げてきたFWTが意味を持った、そして僕たちが心から伝えたかった想いが各学年に伝わったと実感できた瞬間でした。



 FWTの最中は絶対に泣かないと決めていた僕は閉会式の間、目に涙をためながらもそれを流す事はなくFWTの全日程を終了しました。ですが、家に帰った後、ふと一人FWTの事を振り返っていると自分の心の奥に押し込めていた想いが溢れでるかのように自然と涙が頬を伝って止まらなくなり、次第に声もあげながら泣きじゃくりました。大学生になって感情の高ぶりで涙を流したのはこの時が初めてで、涙を流しながら自分がこれほどの想いでFWTに取り組んでいたのだという事が再確認できました。

 FWTに深く携わることができて本当によかったと思います。不安を抱えながらも参加してくれた新入生、上級生と協力しながら共にFWTを創ってくれた2年生、そして幹部学年として企画の中心に立ち、1番側で苦楽を共にしながらFWTを創り上げてきた3年生、幹部3人がFWTを創ったのではなく、このすべてがあったからFWTは完成しそして成功したのだと思います。本当に感謝の念でいっぱいです。ありがとうございました。




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お知らせ

10代・20代の皆さん、
英語教育を変えるための提言をしてください! 
英語教育小論文コンテストを開催します。










2017/04/27

10代・20代の皆さん、英語教育を変えるための提言をしてください! 英語教育小論文コンテストを開催します。


この度、広島大学教育学部英語教育学講座では、英語教育小論文コンテスト「10代・20代が創る未来の英語教育」を開催し、その結果を授賞式と対話の集いで皆さんと共有します。

英語教育に興味を抱く10代・20代の皆さん、ぜひ小論文コンテストに応募してください。

英語教育関係者および英語教育に興味を抱く一般市民の皆さん、ぜひ授賞式と対話の集いにご参加ください。

以下、(1) 小論文コンテスト  (2) 対話の集いについてご案内します。







(1) 小論文コンテスト 
「10代・20代が創る未来の英語教育」

上の図はクリックすれば拡大します。
PDFファイルはここからダウンロード



■ 趣旨

 未来を創るのは若者です。日本の英語教育とて例外ではありません。

 広島大学教育学部英語教育学講座は、未来の英語教育を創出するための大胆な知恵を若い世代に求め、「英語教育小論文コンテスト」を開催します。

  10代・20代の若い皆さん、新鮮な発想で旧来の英語教育感を揺さぶってください。

 そして共に、日本の英語教育を変えましょう!


■ 対象者(コンテストに応募することができる人)

 U-19の部:日本国在住の10代(未成年)の人
 U-29の部:日本国在住20代(20-29歳)の人


■ テーマ

 日本の英語教育を改善・改革するための提案、考察、批判など


■ タイトル

 応募者が自己決定


■ 執筆言語

 日本語


■ 分量

 1000-3000字程度(U-19部門)
  2000-4000字程度(U-29部門)


■ 締切

 2017年6月23日(金)深夜(郵送の場合は当日消印有効)


■ 提出形式

 ワープロ原稿を電子ファイル送付もしくは郵送


■ 記入必須情報

 氏名(匿名可)、年齢、メールアドレス


■ 賞

 奨励賞:若干名に賞状
   優秀賞:U-19の部とU-29の部のそれぞれ1名に賞状と図書カード(5,000円分)
 最優秀賞:1名に賞状と図書カード(10,000円)と受賞式出席のための旅費(注)

(注)旅費は、広島大学内規に準じて定めるもので、バスや鉄道(新幹線・特急も含む)、もしくは遠距離の場合は飛行機の普通席往復旅費です。日帰りが不可能な場合は宿泊費も支給します。ただし、タクシーや自家用車を利用した場合はその旅費を支給できませんので、ご注意ください。


■ 授賞式

 2017年7月23日(日)13:30 広島大学教育学部K102教室
 https://www.hiroshima-u.ac.jp/access/higashihiroshima
 授賞式は広島大学英語教育学会の公開イベントの一環として開催し、英語教育学講座代表による講評、最優秀論文の代読、賞状と賞品の授与、受賞者のスピーチを行います。また、授賞式の後に、最優秀受賞者も含めての対話の集いを行います。


■ 連絡・送付先

 広島大学教育学部英語教育学講座事務室
 739-8524 
 広島市鏡山1-1-1広島大学教育学部
 y-oishi1107@hiroshima-u.ac.jp








(2) 対話の集い
「共に語り合う未来の英語教育」


上の図はクリックすれば拡大します。
PDFファイルはここからダウンロード



■ 趣旨

 対話の集い 「共に語り合う未来の英語教育」では、広島大学教育学部英語教育学講座主催の小論文コンテスト 「10代・20代が創る未来の英語教育」の最優秀論文の提言を基に、英語教育をどう改善・改革できるかを、幅広い年齢層と多様な立場の人々が対等に話し合うことで、建設的で風通しのよい教育文化を醸成することを目指します。
 

■ 対象者(参加可能な方々)

 広島大学英語教育学会の公開企画として行いますので、どなたでも参加できます。事前の申込みなどは必要ありません。


■ 日時

 2017年7月23日(日)
 13:30-14:00  小論文コンテスト授賞式(最優秀論文代読、受賞者スピーチを含む)
 14:00-14:50  広島大学教育学部英語教育学講座の学部生、大学院生、教員によるシンポジウム  「最優秀論文をどう活かすか」
 14:50-15:00 小休憩
 15:00-15:50  全員での対話(小グループでの対話から会場全体での対話につなげます)
 15:50-16:00  閉会行事
 16:00-17:00  ワンコイン・パーティ(ノンアルコールの飲み物とかんたんなお菓子と共にさまざまな会話を楽しみましょう。参加料500円を払っての任意参加です)


■ 場所

 広島大学教育学部(東広島キャンパス)
 https://www.hiroshima-u.ac.jp/access/higashihiroshima
 K102教室(対話の集い)
 K104教室(ワンコイン・パーティ)


■ 連絡・送付先

 広島大学教育学部英語教育学講座事務室
  739-8524 
 広島市鏡山1-1-1広島大学教育学部
 y-oishi1107@hiroshima-u.ac.jp




皆さまお誘い合わせの上、ぜひご参加ください。

さまざまな人々の知見を対話で集約し、共にに公教育としての英語教育を創り上げましょう!






他教科の院生・教員との対話から学んでいる英語教育専攻大学院生の振り返り



私が所属している広島大学教育学研究科教科教育学専攻の修士課程では、昨年から「共通科目」として10の異なる教科を専門とする大学院生・教員が共に学ぶ授業を開始しています。初年度の成果は、研究報告書としてまとめ、以下のホームページで公開しています。


異教科間で対話し協働できる教員の育成に関する研究


以下は、その共通科目の一つである「教科教育学研究方法論」(概要 詳細)の最初の授業に参加した大学院生(M1)の振り返りの一部です。

近代知の専門化があまりに進行して知が細くなってしまい、知を統合できる人材、あるいは異なる専門家と対話ができる専門家が少なくなってしまったという指摘はずいぶん昔からありますが、それを克服する積極的あるいは実質的な努力はそれほど多くないのではないかと個人的には感じています。

この「教科教育学研究方法論」を始めとした広島大学教育学研究科教科教育学専攻の試みは、ますます複合化・高度化する知識社会で活躍できる実践者・研究者を育成する試みです。ぜひご注目いただけたらと思います。






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■ MY


私は今回の講義について、以下の3点に焦点を当てて振り返りたいと思います。結果的に振り返りを自分の研究領域に引き付け過ぎていますが、教科横断的な講義の中でシェアしたいという想いの基に書かせていただきました。なお、私は英語教育研究を専門としています。

① 教科間の対話の重要性
② 現代社会の中での英語教育研究の役割
➂ 他領域での対話の経験の後、英語教育研究者間で行う対話


① 教科間の対話の重要性

 教科間連携という言葉は私たちにとって新しい言葉ではありません。私が大学に入学した4年前には、すでにそうした連携の必要性は唱えられていました。しかしながら、4年間の大学生活の中で受講した講義の中に、異なる教科の教員志望者の間での対話がメインとなるものはありませんでした。またそうした状況から容易に想像できる通り、学部の卒業論文等にもそうした類のテーマが選択されることは無かったと記憶しています。私が専攻していた領域は言語に関わるものでしたが、同じ言語に携わる領域である国語科教育や日本語教育の学生や先生方と、講義等で公式に対話の機会をいただいたことはありませんでした。

 ここには様々な問題が関わっていますが、その中の一つの理由は「外国語教育=英語教育」という狭小な認識が、現代社会において暗黙の前提となっていることに加え、当の英語教育研究の関係者の中にも、そのような認識を未だに固持している方が少なくないことです。英語教育研究を専門にしているからこそ強調したい点ですが、現在の日本の英語教育は「英語至上主義」、「実用主義」、「数値至上主義」を基盤として動いています。そこに複言語主義的、英語の学習、使用を通して、英語だけでなく母語や他の諸外国語を知る、学ぶという視点はほぼ無いと言って良いでしょう。英語教育研究の関係者が今後まず行うべきは、他領域の研究者の方々との連携、それを可能にする対話です。少なくとも、同じ言語を対象とする研究領域の方々との連携が存在しない状態では、学習者たちはもとより、彼ら/彼女らの教育に携わる私たちの視野は狭まる一方です。


②現代社会の中での英語教育研究の役割

 今回の講義で取り上げられた3.11というテーマを受け、私も英語教育研究者の立場から何ができるか考えました。英語を扱っているので、「海外からの情報の受信、国内からの発信」ということを推しても良かったのですが、それは英語教育研究に携わる他のM1生が力説してくれると思っていたので、私自身は「言語について語ること」について考えることを強調しました。先述の通り、現代の英語教育の趨勢は英語の実用的な価値を強調する方向に傾いています。もちろん、災害時を含め、現代の日本社会における英語使用の重要性を否定するつもりはありません。しかしながら、英語を使うことに対する焦点が存在する一方で、使用されている英語について分析的、メタ的な視点を持つことの重要性に関しては、あまり大きな関心が持たれていないのではないでしょうか。例えば、英語を聞く力や読む力、話をする力等を向上させることによって、海外との連携の一助となることも可能ですが、英語教育が担う役割はそれだけではありません。例えば海外のニュースと日本のニュースの情報を様々な観点から比較したり、英語をメタ的に分析する力を母語の分析に利用し、政治家等々のレトリックに対処することを可能にしたりする力を養うこともその一つです。本講義のように教科の垣根を越えて意見を発信できる場をお借りし、真に学習者と社会全体に貢献できる英語教育を、他教科の知見を可能な限り利用しながら模索しなければなりません。



➂他領域での対話の経験の後、英語教育研究者間で行う対話

 ②で述べたことと重なりますが、英語教育の研究者間でも各々の意見は大きく異なることがあります。さらに、そうした意見の分断は時折大きなものになってしまいます。だからこそ、他の領域の新鮮な知見を利用しつつ、自分たちの研究を相対化する必要があるのです。私は自分自身の研究テーマが「言語について語ること」に密に関連していますが、だからといって言語使用に関する研究を否定することは決してありません。ともすれば極端な方向に振り子が振れる英語教育研究なので、教科横断的な対話の実践を通し、その経験をさらに英語教育研究者間でシェアすることによって、私たちの研究領域をバランスよく発展させていきたいと考えています。



■ MK

学部時代から対話概念を学び、対話的ディスカッションを経験してきた教英生にとってはおなじみとなった形式の講義でした。

 これまで対話を行ってきたのは同じ価値観を共有し、英語科の文脈を理解してきた人たちであったのに対して、今回は専門の教科が異なるゆえに、自分たちとはまた異なる観点から意見を述べることができる人たちであったという点で、大変興味深い経験ができたと考えています。以下、①他教科との対話、②英語科としての立場 にしぼり話をします。 

 「3.11が明日起こるとしたら自分はどう感じ、考え、行動するのか」というテーマは初めて集まったメンバー同士で語り合うには重たすぎるテーマかもしれないな、と考えていたのですが周りを見ると多くのグループがすでに意見を述べ合っています。こちらでもすぐに会話が始まり、理科の観点から地学における防災論、そしてそれを用いた「津波」に対する防災教育の話、社会科からは市民性教育の観点から非常時に市民が錯綜する情報を多面的に判断し行動するあり方を、家庭科からは”家族・家庭”を再認識させる働きかけや防災教育についての話をいただきました。特に興味深いと思ったのは理科の方が発した、災いを忘れると書いて「忘災」という言葉が出ているが、今回の震災を語り継ぐためにどのような取り組みができるか?という問いです。そこから話は発展して広島においても原爆ドームを残すか残さないかで大きな議論があったが結果として残されているのは忘れないためである、だとか被ばく経験を広島がどのように語り継いでいるかが参考になるだろう、ということまで話すことができるのは、ひとえに対話的環境が醸し出す自由な雰囲気のおかげでしょうか。他教科と学びを共有するというのは刺激的な体験です。私がそう感じるように、周りの方にもそう思っていただけるような情報を共有せねばならないと考えました。

 最後に、自分自身が3.11に英語教育学を学ぶものとしていかに貢献できるのか考えたことについて言及します。震災という非常事態において、人と人がトラブルなく協力できること、共に仮設住宅で生活できること、意思を伝え合うことができることというのは非常に重要な問題です。コミュニケーションを教える役割を担ってきた言語教育の中でも英語教育、とりわけ学校教育における英語科はこのことについて多くを貢献することができていなかったのではないかと考えます。極端な言い方になりますが中・高等学校においては受験合格という出口を最重要視した暗記科目と遜色のない現状、コミュニケーション重視を打ち出したとは言え中身のないペラペラ英語話者を量産してしまいそうな英語教育政策を見るに、「非常事態に他者とどのようにうまくやっていくか」、そしてそれはいかにして教えていくのかという実は重要な発想が欠けているように思えます。英語教育が根底として何を目的としているのかという問題は、実はまだまだ問い直しが可能な事柄なのかもしれません。

 震災と教育を自分の中で結びつける視点をいただくことができた今日の授業に感謝するとともに、これから他教科の視点をどんどん取り入れていくことができることに期待します。



■ MM

今回の講義を通じて、対話(dialogue)という言葉の意味とその重要性を再認識しました。対話とは、話し手と聞き手の間で発生する差異について考えることを繰り返すことによって、一緒に新しいものを創造していくことであると理解しました。グループでの話し合いにおいても、多くの差異が発生しました。

例えば、数学専攻の方は、数量的・数値的に、体育専攻の方は、身体や健康、運動に関連させてトピックにアプローチしていました。個人的に印象的だったのは、ベトナムからの留学生の方のお話です。その方は、震災当時はベトナムにいたそうですが、Facebookを使って震災に関する記事を共有したり、日本に向けての応援メッセージを送ったりしていたそうです。また、震災の後には、日本の防災教育の凄さについて話題になったこともあったそうです。

この話題は、国が違えば、物事を見る角度、持っている情報が異なるということの一例ですが、同様のことは、やはり教科に関しても言えると思います。グループ内の専門が異なる者、つまり、持っている情報や思考様式に何らかの異なりがある人間が集まり、話し合うことによって、お互いの想定を越えた意味の差異が発生し、多種多様な考えに触れることができました。改めて、学校現場は性質上、教科という枠によって断片化しており、共有性が薄れた、それぞれが非連動的な意味を有する集団の集合体になっており、これからの通教科型、教科横断的な指導を実施していくためには、異なる教科の人と対話をしていくが初めの一歩だと思いました。

また、同時に対話をすることの難しさを痛感しました。教科が違う事でそれぞれが持つ情報の差が発生するのは当然として、お互いの人間性(社交的/非社交的、積極的/消極的など)も大きく対話をしていくうえで重要であると実感しました。対話に対する態度、対話の雰囲気作り、進行の仕方など、どのようにすれば対話がうまく成立するかをこの講義の中で考えながら実践していきたいと思います。



■ IM

今回の講義を通して,感じたことが3つある。

 まず最初に,自分の視点の偏りである。「もし明日3.11が起こったとしたら〜教科教育学の研究者または教師としてどう感じ考え行動するか?」という問いについて,グループで話し合いをした時,私は石巻市の大川小学校で7割の児童が津波の犠牲になったことに関連して教師として何ができるかという話をした。そして,対話が繰り返される中で,「英語の教科としては何ができると思いますか。」と聞かれた。この時,自分の視点は教師としての視点が強く,教科教育学の研究者としての視点は弱いのだということに気づいた。

 次に,教師は児童生徒と十分に対話できているのかということである。柳瀬先生の「よい対話とは」というお話の中に「偏見なしに他人に影響を与えようなどとせずに傾聴する」ということがあった。学校においては,教師の一方的な指示や押し付けになっていることが多いのではないかと感じた。これは,教師自身に自分の思考や意図は絶対的に正しいという思い込みがあるからではないだろうか。児童生徒の成長を促すためには,時にはそれらを捨てる覚悟も必要なのではないかと感じた。

 最後に,学校現場で教科間の融合ができたら何が生まれるだろうという期待である。中学高校では教科の指導が単独で行われる。他教科との連携や融合はほとんど行われていない。しかし,社会に出れば各教科で身につけた知識や技能が単独で使用されることはほとんどないのかもしれない。このことを踏まえると,教科間の融合で生まれるものは教育上有益であるはずだ。

 他教科の人たちの意見を聞き,対話することで新たな視点を持つことができた。またそこからお互いの考えを掘り下げ,それを共有することで新しい考えを生み出すことができるということを実感した。



■ SK

今回の他教科(時には他校種)の学生の皆さんとの交流を経て私が感じた事をまとめて復習とさせて頂きます。

私たちのグループで話題に挙がったのがいわゆる「習熟度が低い」学習者に各教科でどう対応しているか?というものでした。

つい最近、私が所属していた学部のコースの先生が英語科では、依然として「英語嫌い」に対する十分かつ有効な研究がされていないというお話がありました(様々な背景を踏まえたお話であったのでここではそれについて深く触れることは避けます)。このお話を聞いた後ということもあって、他教科の皆さんの非常に明確で分析的な「○○嫌い」に対する知識・思いに本当に感銘を受けました。

その中でも保健体育科の学生さんがされていた話が特に興味深いものでした。その方は、幼児の体育教育に携わった経験があるそうで、その際に習熟度の差の例として「早生まれの児童と」と「遅生まれの児童」の例を挙げられていました。保健体育教育に全く見識のない私でも一年間という発育段階の差を抱えながら、共に同じ学習環境を共有していることのすさまじさは容易(専門とされている方には失礼かもしれませんが)に想像できました。このような大きな「差」に対する工夫、配慮を当然の前提として保健体育の教育は、なされるそうです。

 正直なところこのお話を聞いた時に私の「英語教育」に対する考えはなんと横暴で乱雑なものだろうとショックを受けました。他方では、上の例のような緻密で責任を持った研究(教育)をなされている一方で、私という教員志望の学生は、知らず知らずのうちに弱者を切り捨てるような理念を持ってしまっていたことを痛感しました。

 今回は保健体育の教育を例に挙げましたが、他の教科の皆さんも本当に私に常識や固定概念を見直す機会を与えてくれる素晴らしいお話をしてくださりました。次回以降も多くの私の「常識」を覆して下さるのが楽しみです。



■ YR

今回の授業では、自分が勤務する学校での職員会議などの話し合いについて、新しい視点をもつことができた。教科の違い、経験年数の違いから、議論が平行線になったり、しっくりいかないことがある。しかし本当は、議論の前に、それぞれの先生と対話をしていることが大切なのだと思った。

 3.11に関するテーマについて、対話をするとなった時に、どんなものになるのか想像がつかなかった。しかし、指定討論者の意見を聞いた時に、専門性があるということの素晴らしさに感銘を受けた。避難生活によるエコノミー症候群を心配すること、初めての経験に言葉を失い、新たな言葉を紡いでいくこと、これまでと今とこれからの思いを形にして残すこと、数字や値を正しく理解し、ただ不安になるのではなく理性的になること、内容に結びつく英語で外とつながっていること、次に起こることを予測することなど、それぞれの専門を立場とした意見は、その専門がもつ力を教えてくれた。

 それから自分のそばにいる院生との対話は、面白い内容となった。「うまく話がまとまらない」というメンバーもいたが、同じことについて考えようとする姿勢が大事だと思った。自分の専門性があるからこそ、気づき、行動することができる。だから、専門性を磨き、他との融合のために対話していく人間になりたいと思った。発表してみて、私はどうしても意見をまとめる癖がついているという発見もあった…。



■ TK

われわれ教師は児童生徒に本当に「役に立つこと」を教えているのだろうか。

そんなことを考えるきっかけとなった講義だった。

児童生徒から「こんなん勉強しても何の役にたつん?」という質問を受けたことがないだろうか。

もしくは自分自身が学習者のとがそのような質問や疑問を感じたことはないだろうか。

そんな質問が来たとき私は

「自分がこの学習を役に立つものに変えていくんだよ」と答えている。

役に立つかどうかはだれにもわからない。学習者が「役に立つかどうか」で判断し知識技能の習得を取捨することはリスクがあるともいえる。

教師として知識・技能を児童生徒に伝え、思考・判断・表現力をはぐくむ場を与えてきたつもりであるが、3・11のような未曾有の事態において、役に立つと思われていた既存の知識や技能はどれほど役に立ったのだろうか。

逆に「役に立たない」と思われていた学習が「役に立った」こともあるのではないだろうか。

講義では社会科・理科の生徒が発表した後、音楽科の生徒が「音楽は、社会や理科みたいに役にたたないかもしれないが」と話し始めた。

しかしグループで対話を進めていく中で、他教科学生達からの音楽の有用性について発言を集め、音楽の役割・効果が明らかになってきた。

ともすれば、即効性を、あるいは受験というフィルターを重要視した知識技能伝達型の授業を行いがちである我々に、ふと立ち止まって考えることの重要さを与えてくれた講義であった。




2017/04/26

卒業生がお子さんを連れて遊びに来てくれました


教英に卒業生が遊びに来てくれるのは珍しくなく、実は昨日も、大学院を出て二年目で、現在高校教員として活躍中のKR君(というより今やKR先生w)が遊びに来てくれたのですが、本日は管理人が教英で最初にチューターをした学年のHNさんがお子さんを連れて遊びに来てくれました。




HNさん(旧姓HNさん)は教英を卒業ししばらく教員として活躍した後、教英の先輩のHYさんと結婚し、現在は一男一女の母親としてHYさんと幸せなご家庭を築いておられます。

HNさんは二人のお子さんを育てながら、今では、教師の視点だけでなく保護者の視点からも学校教育について考えることが多いそうです。

相方のHYさん(高校教師)にも、「私たちが自分の子どもを行かせたい!と思うような学校づくりをしてね」としばしば助言しているそうです。

「自分の子どもや大切な知人を行かせたい学校」というのはその通りだと思います。

教英も、卒業生が自分の教え子や子どもを行かせたい講座として、また教英をよく知る人が自分にとって大切な人を行かせたい講座として、これからも進化してゆきたいと思っています。

ハイ、日々、しっかり勉強し、教育と研究を充実させます!


「英語マニアにはなるな」


以下は、ある新入生の述懐です(一部匿名化しました)。このような自己省察ができる新入生を私としては誇りに思っています。

教英を目指している高校生・浪人生の皆さん、英語の勉強をすることは当たり前ですが、英語しか興味をもたないような寂しい人間にならないでくださいね。





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先生のお話の中で”英語マニアにはなるな”という言葉を聞いて、ハッとするところがありました。

私は英語が大好きで、高校生のときには○○コースという高校留学を目的としたコースに属していました。私のいたこのコースは英語教育に力を入れていて、英語の勉強が大好きだった私はクラスでも成績がトップでした。英語のテストではずっと一番だったし、先生にはいつも褒められていて、この調子だと留学も順調だ、と自分を過信していました。

しかしいざ現地に着いて実際にネイティヴの人達と話してみると、会話を始めるどころか相手の言ってることが全く聞き取れず、さらに度重なるカルチャーショックに身が持たず、すっかり自信を失ってしまいました。

現地の学生とうまくコミュニケーションが取れず、ノリとスウェアワードでその場を乗り切ろうとしていた自分は、今思えばとても惨めでした。

文法とボキャブラリーは確かに大事ですが、それをテストした結果得たハイスコアは、結局私に薄っぺらな自信しか与えてくれませんでした。

それでも私は留学を経て、人生で大切なことをたくさん学ぶことができました。

英語に興味がなかったら留学することさえもなかったのだから、今自分は英語が好きでよかったな、英語を一生懸命勉強してきてよかったな、って心から思っています。

だから私はただ英語を教えるだけの教師でなく、英語教育を通して 生徒の人生で大切なものを見つけられる能力を育てる英語教師になりたいです。そしてこの大学生活で少しでもそのような人間に近づくために様々なことにチャレンジし、自分らしくマイペースに、学習を続けていきたいです。




2017/04/25

STARTプログラムの経験を活かして 2017/3/11~3/25


以下は、広島大学の留学制度であるSTARTプログラムを利用してニュージーランドにいったUNさん(現在学部2年生)の感想です。

学部1年生が最初に少しだけ海外生活を体験するにはこのSTARTプログラムは優れています。

広大でどんどん機会を見つけて世界を広げてください!




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私は、広島大学が提供するSTARTプログラムを利用してニュージーランドへ約2週間の留学に行きました。この留学を通して、自信をもって何度も話すことの大切さを強く感じました。

研修前や研修中の初期は、周りの友達が話す英語に圧倒され自分から英語を話すことに恥ずかしさを感じ、自分の英語と他学部の友達の英語を比べショックを受けることも多くありました。また、ホストファミリーとの会話の中で、何度も何度も話を聞き返したり、私の話していることを理解してもらえなかったりする度に「自分の英語ではネイティブスピーカーに伝わらないのだろう」とがっかりしました。

しかし回数を重ねるごとに聞き返す回数は減り、より深い内容まで一緒に話しあい、意見交換をすることができました。コミュニケーションが多くできるようになったのは、ホストファミリーや大学の先生らと英語でコミュニケーションする環境のためだと思います。英語でしかコミュニケーションが取れない環境にいることで、英語が聞き取れるようになり、思ったことを伝えられるようになりました。

自分よりできる人がいるとかこれは私にはできないと考えるより、どのようにして自分の力を伸ばそうと考えることが大切だと思います。日本でできることも多くあるため、自分のモチベーションを高く保ち、STARTで学んだことを活かし勉強し続けていきたいと思います。


3年生 模擬授業練習会

 学部3年生が自主的な模擬授業練習会を開催しています。 立ち上げに携わったメンバー(3年生堀さん)から、会の紹介をしてもらいました。 ――――― 3年生は、これまで模擬授業をする機会が十分になかったと感じており、模擬授業をする機会を確保するための自主勉強会を立ち上げることにしまし...