2016/06/07

学部4年生の授業感想: 自分を変えることと、感性を伴う英語読書の重要性について



今回も学部4年生の授業振り返りを掲載します。今回の授業は、スピーチとディスカッション(ダイアローグ)を英語でやりました。



最初はIさんです。学ぶということは、ただ単に倉庫に荷物を集めるように頭に知識を詰め込むことではなく、新たなことを学ぶことによって自分が変わることであると私は考えています。Iさんはこの授業で自分を見つめなおし、自分を変えようとしているように思えます。


私は今回の授業を通して三つのことを考えました。

一つ目は、ディスカッションでの雰囲気作りについてです。柳瀬先生の授業での今までのディスカッションでもたびたび反省として挙がった「雰囲気」ですが、今回初めて英語でのディスカッションをしてみて、英語を使ったディスカッションの方が、観察者は雰囲気に目が行くというのが一番の驚きでした。

私は、今回ディスカッションについていくのが精いっぱいで、誰かに助けてもらわないと自分の意見を言うことが出来ませんでした。そんな自分がとても情けなく、またディスカッションをしているメンバーにも、私に話を振ってくれた人にも、本当に申し訳ないとずっと感じていました。しかし、今振り返ってみて、そんな人がいてもいい、そんな人も助けようという雰囲気をみんなが作ってくれていたのに、自分がその中に飛び込むことが出来ていなかっただけなのではないか、と反省しています。

英語を上手く話せない、自分の考えを積極的に発言できない、そんな私だからできること、また反対に、自分の意見を積極的に、上手に発言出来る人だからこそできること、いろんな人が一つのグループにいるからいいのではないか、と考えました。このことから、自分のプライドを守って自分のことばかり考えていてはだめで、他者のためにできることをするということを優先しなければならないのだと改めて感じました。

二つ目は、知識は言葉に出来て初めて自分のものになる、ということです。今まで、中学、高校、大学、と英語だけでなく本当にたくさんの教科を勉強してきました。しかし、今日のスピーチを通して、それらの知識がどれほど自分のものになっているのだろうとふと思いました。英語に関して言うならば、今までさんざん覚えてきた単語や文法を、自分がどれほど使えているのだろうか、アクティブラーニングとは何かを説明できるのだろうか・・・

知識を蓄えている間はあたかも身についているように感じますが、インプットだけではなんの意味もなく、アウトプットして初めて自分のものになるのだろうかと思います。人に教えることで自分の勉強になる、とよく言いますが、この言葉はやはり理に適っていて、知識を獲得したら、その直後に必ず自分の言葉でアウトプットする機会が必要になるので、これから自分が教師になった時には必ずアウトプットの機会を設けて、知識の定着を図っていきたいと思いました。

三つ目は、失敗する経験の大切さです。私は失敗するのがとても苦手で、いつも失敗しないように、しないようにしてしまう悪いところがあります。その点で、留学や教育実習では多くの失敗をしましたし、今でも部活動や教員採用試験に向けた勉強会や授業では、いつも失敗をしています。このような失敗をする経験があったことに感謝すると同時に、もっと早い段階で失敗をしておきたかったと感じています。それならば、失敗を恐れて無難な道を選んだり、失敗して過度に落ち込んだりすることも今ほどはなかったのではないかと思うからです。失敗することを恐れるよりも、失敗をしないように逃げることを恐れよう、と感じました。


とても細かなことを言いますと、上で少し気になったのは「アウトプットによる知識の定着」という表現です。

英語教育では「インプット」と「アウトプット」という用語を誰も何の違和感も覚えずに使っていますが、これはもともとコンピュータ用語です。私がこれらの用語から連想する機械的イメージは、インプットした情報を、基本的にはそのまま何の加工もせずにそのままアウトプットするというものです。インプットされた情報とアウトプットされた情報が同一であることが重要といった連想も働きます。知識の「定着」といった表現は、そういったイメージを想起させます。

しかし人間の学びはそのように機械的なものではありません。

最近の文部科学省用語を使って説明するなら(笑)、「主体性」をもった人間が、自分の感性に響いた情報を「思考力」で咀嚼し再構成して自らの知識にします。さらに、仲間と「協働性」をもって働く中で「判断力」を働かせてその場にとって重要な知識を選択し、それを豊かな「表現力」でもって仲間に訴えかけます。そうやってお互いの「主体性・協働性」と「思考力・判断力・表現力」を活用するのが人間の学びです。

私個人の意見にすぎませんが、「アウトプットによる知識の定着」といった表現では、そういった人間の学びが想起しがたいのではないでしょうか。私だったら「発言による知識の再構成」といった表現を使っていたかもしれません。

とはいえ、これはIさんへの批判ではありません。高校生の時のIさんはおそらく(他の高校生と同じように)「アウトプットによる知識の定着」などといった業界用語は使っていなかったはずですから。

大学教員は、業界用語に対して批判的でなければと思います。












次はK君です。K君は、感性が動かされる英語読書(英語使用)の重要性を(再)認識したようです。



今回の授業で行った英語によるスピーチやディスカッションを通じて学んだことについて2つ述べたいと思います。

1つは、学び続けることの大切さです。これまでの講義では、日常的に本を読み、自分の引き出しを作ることの大切さについて考えることができました。しかし、英語を専攻していて、それに関してはスペシャリストにならなければならない私たち教英生は日常的に英語、特に心揺さぶられるみずみずしい英語に触れていかなければならないと実感しました。実際にスピーチやディスカッションをしてみて、「あれっ?本当に伝えたいことを上手く伝えることができない!」という思いを抱いて、正直焦りました。

確かにTOEICの勉強や、最近では卒業論文の先行研究の論文の読解を通して、英語に触れていました。しかし、そこには「もっと読み進めていきたい!」という感情は全くなかったと思います。先日、これまでサボっていた”Graded Readers”にようやく手をつけました。内容や表現自体はそんなに難しくない本だったのですが、どんどん読み進めていきたいという感情が沸いて、気が付けばその本を読み終えるほどでした。このような、読んでいて面白いと心から思える本を見つけて読み進めていくことが、英語で自分の話したいことを学ぼうという意欲をかきたてるのだと気づきました。このような感情を抱きつつ本を読み進めていくうちに、英語を通して自分の話したいことを話せるようになれると思うので、今後もextensive readingは続けていきたいと思います。

2つめに、ディスカッションを英語で行うことは、日本語で行う場合以上に参加者の助け合いが必要になってくると感じました。英語がグローバル言語であると言われる今日では、英語母語国話者よりも第二言語話者の存在の方が多いということはよく聞きます。日本人に限らず、母国語話者ではない者同士の対話ではやはり伝えきれない細かなニュアンスが絶対にあるはずです。

そこで重要になるのが話者相互の協力、つまりうまく言えないようなことを代わりに述べる、または言い換えてできるだけ共通理解をしようする態度であると思います。もちろん、この授業を通してもわかるように、同じ言語を母語にする者同士でも、思っていたことが違うという事態が発生してしまいます。ですので、母語ではない英語で、完璧なコミュニケーションをスラスラと行えるということは、ほとんどないと思います。

つまり、私が言いたいことは、英語教育でコミュニケーション能力というのは単に4技能が流ちょうになるだけではなく、「どうすれば自分と異なる背景を持つ人とできるだけ理解し合うことができるか。」を考えていく態度を育てていくことも重要ではないかということです。今の時点では、これが言語教育をするうえで大切なことであると考えています。




二番目の論点である「コミュニケーション能力」についても業界用語あるいは業界の通念について警戒をしなければなりません。

残念ながら、コミュニケーション能力とは「読み・書き・聞き・話す」という四技能を合計したものであり、コミュニケーション能力は、四技能を測定するテストの合計点で表現できるといった安易な考え方が一部の英語教育関係者にも未だに見られます。こういった点についても、丁寧に考えてゆかねばと思います。

ともあれ、学生さんの発言や書いた文章から学ぶことは多いです。これからも対話型の授業を充実させようと思います。







0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。

大学院新入生ガイダンスを行いました

学部に引き続き、大学院新入生ガイダンスも行いました。新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます! こちらは学部と違って、やはりみなさん大人の落ち着きがあります!学部から大学院にそのまま進学した人、一度学部を卒業してしばらく教員をしてから大学院に戻ってきてくれた人など様々です。各...