2018/10/20

改めて単語学習について



以下は、デューイのDemocracy and Educationを読んでいる授業に参加した大学院生 (M1) の感想です。

以下の指摘は、英語教師にとっての「不都合な真実」なのかもしれません。


「テストするからやってきなさい」と言ってしまうと、単語学習は「それを何に使うか分からないけどとにかくたくさん持っている人が勝ち」という誰も幸せにならない競争に成り下がってしまうでしょう。そしてそれは真綿で自らの首を絞めるように学習者の言語感覚を徐々に、しかし確実に狂わせます。






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 今回の授業では、「生徒はどのように単語の学習ができるか」という問いを糸口に議論が深まり、多くのことを友人と話すことができたと思います。私はその議論の中で、英語教育がいかに重要であるか、そしてそのやり方を間違えるとそれがいかに恐ろしいものになりうるかについて考えていました。皆さんの考えも参考にしながら、私自身の考えをまとめて振り返りとさせていただきます。

 おそらく、日本の英語教育を受けてきた人はそのほとんどが教科書の端のコラムに書かれた新出語句の音読を経験したことがあると思います。先生が発音したのに続いて同じように単語を発音するいわゆる「リピートアフターミー」は新出語句の導入としては最もメジャーなものでしょう。高校生になると、多くの学校で生徒は英単語帳を手渡され、家で覚えてくるように言われます。これは高校を卒業するまでに身につけておくべき語彙の全てを授業ではカバーできないからでしょう。改訂版の学習指導要領で指定されている語彙数は以前に比べて増えているため「英単語は授業外で勉強する」という側面は余計に強くなるのではないかと思っています。

 僕は音読による単語の導入や、単語帳の使用や授業外での学習を否定するつもりはありません。むしろ賛成しているほどです。しかし、これらが何も考えることなしに行われるとなると話は別です。「何も考えることなしに」の主語は教員も生徒も両方です。これは私が学生の頃から感じていることなのですが、なぜか英語学習/ 教育において、「単語は自力で覚えるほか仕方がない」という考えが支配的であるように感じます。そのため、教師も生徒も何も考えることなしに適当に英単語を声に出して読み、適当に単語帳のページをめくって単語を覚えます。これを教育と呼ぶことは難しいのではないでしょうか。

 デューイの言葉を借りるなら、これは「教育」ではなく「訓練」されているだけのように思えます。場合によっては訓練よりも酷いかもしれません。なぜなら、教師も生徒も、その両方が「英単語を覚える」という行動に対して、あるいはその行動の目標に対して無関心であるからです。「教師は、生徒が英単語を覚えることを願っている」という反論もあるかと思います。しかし、真に生徒の成長を願っているならもっと違ったアプローチを取れるはずです。つまり、「英単語を学習することによって内面的な変化を望む」のであれば、教師は単に「テストするから家で覚えてきなさい」というような態度は取れないはずです。

 確かに、「家でやってきなさい。あとは自分の責任だ。」という形でその責任のすべてを生徒に丸投げしてしまう事は教師からすると随分と楽でしょう。危機感のある生徒は、自分ができないことに関する責任はすべて自分が負わなければならないことに恐怖して一生懸命勉強するでしょう。これを「学びの主体性を育む行為」と呼ぶ人も、もしかするといるかもしれません。生徒が自分自身で自分の学びの舵を切るようになるならそれでいいじゃないか、と考える人もいるかもしれません。

 しかし、「放っておけば自ら学ぶ」ような生徒はそもそもいないはずです。いたとしてもごく少数であり、彼らは学校以外で学ぶ環境を提供されている「文化資本に恵まれた人」なのです。この「文化資本の差」を埋めるために、つまり生まれ落ちた場所がすべてを決めてしまうことを是正するために学校があるのではないでしょうか。すると学校が目指すべきことは、自ら学ぶことができない生徒を放っておくことではなく、学び損ない続けてきた生徒に手を差し伸べてあげることであるはずです。だから単に「やってきなさい」ではいけないのです。

 「やってきなさい」とするならば、生徒にその「やり方」を教えてからでなければなりません。そして、その「やり方」が皆さんが授業において紹介してくれたような、「それを使わなければならないリアルなシチュエーションを考える」とか、「明らかに不自然な状況の例文に突っ込んで、それを踏まえて音読してみる」とかになるのだと思います。

 このような段階を踏むことなしに「テストするからやってきなさい」と言ってしまうと、単語学習は「それを何に使うか分からないけどとにかくたくさん持っている人が勝ち」という誰も幸せにならない競争に成り下がってしまうでしょう。そしてそれは真綿で自らの首を絞めるように学習者の言語感覚を徐々に、しかし確実に狂わせます。なぜなら、彼らは不幸にもそうして獲得した「空っぽのことば」を授業やテストにおいて使用することを求められるからです。「誰のものかわからないことば」や「自分の身体感覚の伴わないことば」ばかりを用いることは明らかに自らの言語を貧しくする行為であり、それは「学習者の言語を豊かにする」という言語教育の目標とは逆行しています。

 もちろん、これは単語学習に限った話ではありません。その他のいかなる学習であっても、それをやること自体が目的と化してしまうとたちまち正常に機能しなくなります。「とにかくやりなさい」という教師の態度は生徒に「考えるな」といっているようなものです。よく塾や学校で「先生、この単語どういう意味なん」と聞きに来くる生徒がいます。このような質問を受けたとき、僕はよく友人と「肉辞書にされた」と言って笑います。自分が知らないこととの出会いがいかに素晴らしいことなのかを知っている生徒は決してこのような質問はしてきません。単語に関して質問するにしても、その単語の持つ微妙なニュアンスであったり、別の似た単語との違いであったりを聞いてくるでしょう。しかし私は前者のような子を責めることができません。なぜなら、「考えること」を剥奪されてしまった生徒からすれば、教室における価値観は「知っているかどうか」だけになってしまうからです。だから彼らは「どのように出会うか」などは気にもかけず、最も労力をかけずにすむ方法、つまり答えを先生に聞くという方法を取るのだと思います。

 パウロ・フレイレはこのような詰め込みの教育を「銀行型教育」と呼びました。そして、銀行型教育をうけた子供は世界を批判的に見ることをやめてしまうと述べています。つまり、世界は自らが主体的になり批判的に改革していくものではなく、与えられた現実が世界の全てであり、そこに順応するしか無い、という意識を生徒が持ってしまうということです。

 私はフレイレを読んでいてデューイを思い出さずにはいられませんでした。自らが世界に主体的に関わることをやめることはデューイの知見に照らして考えるなら、それは明らかに「非人間化」のプロセスであり、それを「教育」が手助けしている、ということは悲しすぎる皮肉です。英語教育に関わる、ないしは関わろうとしている人は今までの教育を大いに反省し、その上で何ができるのかを考える必要があるように思われます。そして、これからどうするかを考えることにデューイの知見は、それが100年以上前に書かれたものであっても、十分に役立てることができるのではないでしょうか。




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