2018/10/31

テストや学歴といった度量衡でしか教育や学びを考えることができない人が見落としていることは、私たちは「学ぶことそれ自体から快楽を得ることができる」ということです。


大学院のある授業ではDeweyのDemocracy and Educationを読んでいますが、今週は以下の章です。


Education as Growth (Chapter 4 of Democracy and Education)


この章には、以下のようなことばもあり、何度読み返してもいろいろ考えさせられます。


教育とは発達である、とするなら、どのように発達をとらえるかが非常に重要になる。私たちの最終結論は、生きることとは発達することであり、発達すること、言い換えるなら成長することことが生きることである、というものだ。教育に関するように翻訳するなら、次のようになる。(i) 教育の過程に到達点はない。教育以外のどこかに教育の過程の到達点があるわけではない。教育の過程自身が教育の過程の到達点である。(ii) 教育の過程とは、再組織・再構築・変転の過程の一つである。



生き物は、どんな段階においても生きることに対して忠実で肯定的だ。教育とは、人間という生き物に、どんな年齢においても、よりよく生きるための条件が備えられるようにする企てである。生きることは成長することであるから、生き物はどの段階においても、生きることに忠実にまた肯定的に生きている。(中略) かくして、教育の意味とは、年齢を問わず、成長もしくは生きることのふさわしさを確実にする条件を備える企てである、となる。



以下は院生の予習書き込みの一部です。毎週、振り返りと予習のそれぞれで熱心に書き込みをしてくれる院生にはひたすら感謝です。






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■ FO君

 教育のゴールとは何かを考える時に私たちは何か目に見える、わかりやすい成果を考えがちであるように思えます。例えば、良い大学に合格するとかTOEICで良い点を取る、英検に合格する、などです。私はこれらを学習の動機、つまり私たちを学びに向かわせるものとしてみなすことに関しては、それを真っ向から否定しようとは思いません。

 しかし、学校や教員、あるいは生徒自身がこれらを「教育のゴール」としてみなすようでしたら、それには異を唱えなければならないように思えます。現在の日本の教育はとてもその出口が見えやすいようになっています。学校の定期考査や模試で良い点をとり、良い大学を受験し、よい企業に勤める。このように、日本の今の社会は「どれだけ勉強すれば将来どれだけの暮らしができるか」が見えやすいように思えます。

  語弊があってはいけないので慌てて訂正するのですが、テストで良い点とれば必ず良い大学に行けるわけではないし、良い大学に行けば良い暮らし向きが必ず迎えてくれるわけでもありません。しかし、学生は「良い点を取らなければゲームに参加することすらできない」ということも知っています。この状況は明らかに学生にとってストレスフルです。もちろん、このようなバインドがある程度は生徒を学びに向かわせていることも認めなければなりません。

 しかしこのように考えるなら、教育、ないしは学びはたちまち「将来のための投資」とみなされるようになります。より直接的で嫌味な言い方が許されるならば、学びとは将来の暮らし向きを良くするために歯を食いしばって耐えるもの、とみなされてしまいます。そして生徒は「自身の将来」と「現在の我慢」を天秤にかけ、「役に立つもの」のみを選択的に学ぶようになります。

 このような、テストや学歴といった度量衡でしか教育や学びを考えることができない人が見落としていることは、私たちは「学ぶことそれ自体から快楽を得ることができる」ということです。

 デューイも述べている通り、私たちは私たちの生活から学ぶことができます。ここでの「学び」には明らかに目に見えるゴールはありません。そして、それが目に見える、静的なゴールを持っていないがために、私たちは生活を通して学び続けることができます。しかし、TOEICや英検、大学入試などといった目標はどうでしょうか。これらは基準点を一点でも超えると、途端に人を学びに追いやる効力を失ってしまいます。つまり、合格をもってして学びは完了してしまうということです。

 このような「外的な」要因が成長を(ないしはより直接的に「学び」を)閉じ込めているということはデューイが指摘しているとおりです。先にも述べたとおり、現在の教育は多くの生徒にとって「耐えるもの」として機能しているため、これらの外的な要因において点を取ることを教育のゴールとしてしまっては、彼らが学ぼうとするものは「テストの役に立つもの」のみ、となってしまいます。テストに関係のないものは学ぶ必要のないものであり、どんなに新しい発見があってもそれがテストに効果的でない限りは興味や感動の対象にはなりません。

 このようにして生徒は「まだ知らないこと」への感動を失っていくのだと思います。「どれだけ知っているか」を誇示することが支配的である限り、「まだ知らないこと」をさらけ出すことは明らかなディスアドバンテージとなるため、生徒は「まだ知らないこと」から目をそむけるし、耳を塞ぐでしょう。

 しかし、私たちが忘れてはいけないことは、デューイも指摘している通り、すべての人が生涯通して生活から学ぶことができるように環境を整えていくことが教育の最も偉大な成果である、ということです。この目標を達成するために私たち自身が「未成熟」にたいする寛容な姿勢を示さなければならないし、生徒が「未成熟」でいることに異様な危機感を感じなくてすむような環境を作らなければなりません。「まだ知ることがある」ということに罪の意識を感じるのではなく、未知との遭遇に思わず微笑んでしまうような生徒を育てていくことがこれからの教育では必要になってくるのではないでしょうか。



■ OT君

 第4章でデューイは、教育の目的は教育の過程にあり、その過程は連続的な再編成、改造、変形の過程だと述べている。つまり教育とは何らかの目的が既に設定されていてそれに向かって行うことではなく、学習することそのものにあるといえる。しかし現在の(英語)教育は、大人が自分たちの都合で勝手に設定した目標に向かって学習していくことを生徒に強要している場合のほうが多いのではないだろうか。

 まず何より大きな枠組みとして、指導要領やテストによって学習の指針は決められている。特に近年は外部機関による検定試験の導入により、テストの点数が一層の価値をもたされている。生徒は将来のことを考えると嫌でもテストの点数という目標に向かって学習をせざるをえなくなる。教師も生徒の将来のことを考えるとどうしてもテストの出題傾向を見ながら生徒に欠如している知識や能力を埋めようと努める。

 また驚いたのが、指導要領にのっとって作られた検定教科書にはCEFRの到達度が巻頭に付録されており、生徒は各技能に関して自分がどの位置にいるのかを確認するよう指示されていることである。このようにまず教育の構造が生徒の学習の在り方をトップダウン的に規定してしまっている。

 また教師の指導の在り方もひとつの要因となる。上で述べたように教師はテストに向けて生徒に必要な知識や技能を身につけさせなければならないという現実がある。それに加えて、教師には自分が担当の教科において継続的に学習を続けてきたという経験則がある。英語教師に関して考えると、身につけさせたい英語力や適切な学習法についての考えがあるのが自然なのではないだろうか。教師自身の経験はもちろん大切なのだろうが、それらの経験がそれぞれの生徒にあった学習になるとは限らない。無意識のうちに教師の信念が生徒を固定された目標に向かわせている可能性も否定できない。したがって教師は常に俯瞰的に自分が行っている教育活動を見つめ直さなければならないのではないかと思う。



■ YRさん

 学校教育を終えて働き始めると、学年というものがなくなる。教育課程もなくなる。しかしデューイは、人生とは成長を続けるということなのであり、教育とは年齢に関係なく人生の成長や充実を保証する場を供給することを意味すると述べている。周りの知人を見てみると、起業したり、仕事で成果を上げたり、専業主婦で子育てに一生懸命だったり、本を出版したり、仕事をしながらフルマラソンのアスリートをしていたりと、自分自身で選択した道で成長あるいは充実しているようだ。ここに挙げていない知人も、別に私によって成果云々と判断される必要はなく、生きてる限り何かしらの経験をしているだろう。

 私は、教師は特に、自分自身が成長し、変化する存在であるということに自覚的である必要があると思う。忙しくても、自分に客観的なベクトルを向けて、成長するための行動をとる時間を作るべきだと思う。そうでなければ、日々授業で主導権を握り、周りから「先生」と頼られる仕事であるため、自分をどこか完全な大人と誤解する危険がある。しかも英語の先生だから英語はできると思われていて、教室では生徒と自分しかいないのだから、その中では英語が「できる」。お山の大将と呼ばれることもある、怖い仕事である。

 子供と大人(生徒と教師)は、デューイによると、置かれている状況が違うために成長のありようが違うのであって、どちらも生きている限り成長する存在である。そうした目線を持つことができれば、こちらにない力を持っている生徒と接することができるのは、とても魅力的な仕事である。



■ MT君

 第1節では、成長の第一条件として、そのものが「未成熟」であることだと記されていました。「未成熟」という語を、完全態から何か欠如したものという消極的な捉え方をするのではなく、潜在的な能力をもとに「成長する力」という肯定的な捉え方をする必要があると理解しました。この考え方によると、学校教育の文脈において、教師は生徒を「知識が欠けた人(欠如態)」とみなしてはなりません。しかし、自分が行った授業を振り返ると、生徒を欠如態としてみなしてしまっている側面があったのではないかと反省しました。
 
 私は非常勤講師として働いた2年間、少しでも分かりやすい説明をしようと心がけてきました。もちろん分かりにくいよりかは分かりやすい説明の方が望ましいのでしょうが、そもそも「分かりやすい説明」という考え方自体が、生徒を欠如態とみなし、その欠けている部分に情報を埋め込むというような側面があったのではないかと今になって思います。仮に私が分かりやすい説明を行うことができていたとしても、生徒は教授内容の理解はできても、学ぶことを学ぶ(He learns to learn)ということはなかったのだと思います。それどころか、分かりやすい説明は生徒が潜在的に持つ思考する力を奪っていたのではないかとすら思います。
 
 また、一般的に行なわれている目標達成型の授業も、到達点を静的に捉えてしまい、単なる知識技能の習得を目標に掲げてしまうと、デューイのいう「発達(development)」や「成長(growth)」は見込めないのではないかと考えます。生徒が授業の結果「〇〇できるようになる」ことそれ自体が重要なのではなく、その知識技能を生徒自身が得るまでの過程そのものが「成長(growth)」であると第三節の内容を読んで考えました。
 
 今までの章にも記述されていたように、教師(大人)は生徒(未成熟な者)に直接変化を与えることはできません。教師ができることは、生徒が自ら学習をすることができるように環境を整えることです。生徒に直接的な変化を与えようとするがあまり、生徒に欠如している知識技能を伝達しようとしたり、機械的な訓練をあまりに強調することは、かえって生徒が潜在的に持つ学ぶ力を阻害する可能性すら秘めているのではないでしょうか。



■ NM君

 われわれは子どもたちから積極的な活動を引き出したり喚起したりするには及ばない。生命のあるところには、すでに強く激しい活動力が存在しているのである。成長は、それらの活動力に対してなされた何ものかではなくて、それらの活動力がなすところのものなのである。

 また、人はある行動を出来合いのものとして与えられるのではなくて、それを学習するときに状況の変化に従ってその諸要素を変更したり、それらのさまざまな組み合わせをつくったりすることを必然的に学ぶのである。ある行為を学習しているときに、他の情況においても役に立つ方法が発達するということによって、引き続く進歩の可能性が開かれるのである。なおいっそう重要なのは、人間が学習する習慣を獲得するということである。人間は学習することを学習するのである。

 器質上の可塑性、その生理学的基礎が、年齢をとるにつれて減少するという傾向には疑問の余地はない。本能的に変わりやすく、しきりに変化する幼児期の行動、新たな刺激や新たな発展を好む心は、あまりにもたやすく「落ち着き」に変わり、そしてそれは変化に対する嫌悪や過去の業績へのもたれかかりとなるのである。習慣を形成する過程で知性を十分に使用することを保障する環境のみが、この傾向に打ち勝つことができる。

 そして、学校教育の価値の基準は、それが連続的成長への欲求をどの程度までつくり出すか、さらには、その欲求を実際に効果のあるものにするための手段をどの程度まで提供するかということなのである。


■ KS君

I still haven’t thoroughly understood some of the similar concepts in this chapter but some of arguments from Dewey are really prospective and way beyond that time. They are universal truths which are applicable even nowadays.

Adults tend to stand at higher perspective to look down upon the children, so they jump to the conclusion that children are still immature, so we need to help them. However, from the moment we begin to think we should build them up, we are trapped in a hierarchical system. As Dewey mentioned in the third chapter, direction is all about redirection. Children’s curiosity toward certain things has been within their bodies, so the role of adults is to guide them through their instinct natures and never treat ourselves as an existence higher than them. Dewey also argued that we as adults are inferior to children in terms of many aspects, for we are losing them whilst we are growing up. This reminds me of a biblical scripture in Mathew: “Except you be converted and become as little children, or you shall not enter into the kingdom of heaven”. Never should we view ourselves as superior to children but rather learn from them, or we always treat children in the way as we treat pets, which need to be domesticated and disciplined.

I also found another very impressive argument from Dewey. A series of misunderstanding toward environment, immaturity and rigid habit are all resulted from misunderstanding toward growth. Growth itself is an end.  It is not having an end. However, this is exactly what education is regarded as in schools. All the exams initially just attempt to test out what students have mastered so far end up being an end for all the subjects learning. Students study hard and try their best to reach the goal of exams, but finally when they reached it, they throw all the stuff away. This is why many students think education is limited in schools and everything comes to an end after the graduation. I think of a very extreme case in China. High school students rip off the textbooks and exam paper right after Gaokao (Chinese college entrance examination). This grandeur but miserable spectacle is just the result of current education which has distorted the real meaning of education. It is still a long way to before we can really conduct a lifelong education in which students learn learning.



2018/10/30

「Google翻訳が急速に発達している現代において英語を学ぶ意義は何か」ーー院生の回答


   先日の授業の中で、「Google翻訳が急速に発達している現代において英語を学ぶ意義は何か」という問いを扱いました。以下は、院生三名による回答です。



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■ OT君

「Google翻訳が急速に発達している現代において英語を学ぶ意義は何か」という問いが前回の授業で挙げられた。Google翻訳をはじめとした人工知能はたしかに現在ものすごいスピードで進化している。人間が何年もの時間をかけて学ぶことを人工知能はものの数時間、数分、あるいは数秒のうちにやってのけてしまう。いずれ、それも近いうちに文法上誤りのない翻訳はできるようになるのだと思う。仮に単なる情報伝達の道具(記号)として英語をとらえるとすれば、英語を学習する意義というのはいずれなくなるだろう。

 それではどのような点において英語学習は意義を持つのか。人工知能にとってのことばと、人間にとってのことばはどのような点において異なるのかを考えたい。

 人工知能にとってことばとは、言語体系そのもののことであり、それ以外の何物でもない。”blue”は「青い」を指すだけで、水色を含むのか、群青色を含むのか、といったことは問題視しない。”comic books”は「マンガ」を指すだけで、そこには何の具体性もなければ個人的な趣向性も見られない。つまり人工知能にとってのことばとは、ある物や事、概念に対応する記号でしかないのである。

 一方で人間にとってことばとは、単なる言語体系だけの範囲にとどまらず、それぞれの個人あるいは共同体にとって個別の意味を持つ。そしてこれらの意味というのはたとえ言語体系が完全に構築されていなかったとしても存在しうる。例えば”blue”という単語に関していえば、ある人は空の青さを思い浮かべ、ある人は9月で終わった朝の連ドラを思い出し、ある人は横浜ベイスターズを連想するかもしれない。”comic book”という語に関しても、聞いたとたんに上杉達也を思い浮かべる人もいれば、幼い頃の誕生日プレゼントの思い出を懐古する人もいれば、『ワンピース』が好きな某先生のことが脳内をかすめる人もいる。つまり、私たち人間は言語体系を完全にマスターするようなことはできないのかもしれないけど、ことばに広がりを持たせることができるのである。

 “I have a dream”, “#Me, too”といったことばも、人工知能にとってはそれぞれ1つの言語表象でしかないかもしれないけれども、自分たち人間にとってはそれは苦しみや希望、訴え、変革を意味するのである。そして実際にこういったことばは、単に聞き手や読み手にひとつの情報を伝達したのではなく、社会を動かすという大きな働きをしたのである。

 以上のことを振り返ると、単語や文法をとにかく学習させる授業や、ただ機械的に聞いたり声に出したり読んだり書いたりすることは、人工知能にいずれとってかわられる能力の育成を目指しているだけになってしまい、いずれその意義を失ってしまう。ことばとは人間にとってどのようなものであるのかをもう一度じっくり考え、学習者にとってことばが意味のあるものになるように教師は導いていかなければならないのだと思う。






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■ MT君

 今回の講義の議題の1つに、AIや機械翻訳がますます発達するであろう将来、英語教育はどのような役割を果たすことができるかというものが挙げられた。今回の振り返りでは、そのことについて自分なりの考えをまとめたい。
 
 現在、英語教育の大きな目標は「コミュニケーション能力」の育成、とりわけ英語を用いて「読むこと」「聞くこと」「書くこと」「話すこと」の4つの技能の育成を図るというものである。実際に英語学習者が持つ学習動機としては、「外国人とコミュニケーションをとりたい」といった、言語の道具的価値に重きを置いた場合が少なくない。もちろん、現代において言語が「コミュニケーションの道具」として大きな役割を担っていることは否定できないし、そのような道具的な価値付けも尊重すべきであると思う。しかし、これからますますAIや機械翻訳の精度が向上し、素早く正確に外国語に翻訳してくれる翻訳機が安価に流通すると仮定した場合、言語を「コミュニケーションの道具」としてのみみなすのでは、英語を自分で用いることができる技能をわざわざ身につける必要性が薄れてしまう。
 
 そのような状況において、外国語教育が担うべき役割は今とは少し変わってくるのではないだろうか。すなわち、「英語を道具として使えるようになる」こと自体を目指すのではなく「英語を学ぶことによって、どのように自己が変容するか」ということにも目を向ける必要があると私は考える。私自身の経験を例にして説明したい。

 私はある時、英語に"petrichor"という言葉があることを知り、衝撃を受けた。"petrichor"とは、「長く雨が降らず、乾燥していたところに雨が降り、その時に地面から上がってくる心地良い匂い」を指すことばである。多くの日本人が身体的に経験をしているであろう事象ではあるが、日本語ではこの事象を表す単語は存在しない。しかし、どういう経緯か英語ではこの事象に名前が付けられている。

  私はこの"petrichor"ということばを知って現在に至るまで、どこかでそのことばを読み聞きしたり自然な文脈で用いたりという経験はなく、「役に立たない」単語を覚えたにすぎないのかもしれない。しかし、私はこの"petrichor"ということばを知って以来、雨が降った次の日に家から一歩出る瞬間を少し楽しみにしているし、"petrichor"を意識して感じるようになった。ことばを知ることによって、私の世界への見方、環境との関わり方が少し変容したのである。
 
 これはあくまでも一例にすぎず、"petrichor"ということばを知ったことによって私に起きた変化は些細なものかもしれない。しかし、このような日本語表現と英語表現の間に見られる認識の違いは、語彙レベルだけでなく統語レベルにおいても見られる。さらに、言語の中にはその国の文化や思想をある程度反映しているものも多く存在する。日本語しか知らない人は、日本語と日本人の考え方が世界の常識だと勘違いしてしまう恐れがある。日本語とは異なる言語表現を知ることによって、学習者が違う国のメガネをかけて世界を見ることができるのではないだろうか。
 
 先に述べた通り、近い将来、機械翻訳の技術の発達は、言語の道具的な役割を肩代わりすることが予測される。そのような時代だからこそ、言語が社会で果たす役割について考え、自身の言語観を見つめ直すことが大切であると私は考える。外国語を学ぶことがその手助けとなるのではないだろうか。







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■ FO君

 以前、ある研究授業の発表会に参加させていただきました。授業後の批評会で授業を担当された先生は、英語の授業を通して生徒に教科書のことばから自分のことばへつなげてもらいたい、とおっしゃっていました。私はこのことばに手放しの賛同を覚えたのですが、それと同時に、現在の英語教育を通して子どもたちは「教科書英語の虜囚」になっているのではないか、という恐怖も覚えました。今回の振り返りでは、なぜ教科書英語の虜囚ではだめなのか、そしてなぜ英語教育が生徒を教科書英語の虜囚に変えてしまっているのかを考えたいと思います。

 まずはどうして教科書英語の虜囚ではだめなのかを考えます。先週の授業の終わりに「Google翻訳などが急速に発達してきている中で、英語教育をやる意味はあるのだろうか」という柳瀬先生からの問題提起がありました。機械による翻訳が急速にその精度を向上させてきている中で、私たちが英語を教える必要はあるのでしょうか。より核心を突く言い方をするならば、生徒は英語を学ぶ必要があるのでしょうか。

 私には現在の英語教育は「生徒が教科書のように話すようになること」をその出口としているように思われます。つまり、生徒が教科書で扱われている構文や語彙を用いて、教科書の本文を読み上げる音声のようにスラスラと話すようになることが英語教育の目標である、ということです。先週から繰り返し述べてきている通り、生徒はたくさんの語彙や構文、そして文法を「考える」という行程を飛ばして、ひたすらに詰め込まれています。さらに彼らはそうして得た知識を考えることなしに使うことを求められます。私には多くの英語教育がこのような形で機能しているように感じるのですが、生徒がこのようなやり方で英語を学ばなければならないなら、彼らが英語を学ぶ必然性を見出すことは至極困難になるでしょう。なぜなら、「教科書のように英語を話すこと」とはまさにこれから機械翻訳がどんどん得意になっていくであろうことだからです。

 授業で扱った語彙や文法をできる限り多く使えるようになることを英語教育が目指し、そして生徒がその目標を達成したとして、彼らは機械によって代替可能な存在でしかありません。「私の代わりはいくらでもいる」という自己に関するネガティブな気付きは人の在り方に大きなダメージを与えてしまいます。しかし、教科書英語でとどまっている人は口を開くたびに代替可能である自己をさらけ出してしまいます。すると皮肉なことに、現在の英語教育において熱心に学んだ生徒ほど教科書英語をたくさん話せてしまい、かえって傷つくことになります。なぜなら熱心に学んだ生徒ほど多くのストックフレーズを抱えているためペラペラと話すことができてしまうため、その都度自身の代替可能性を自身の発話の中に見つけてしまうからです。

 「教科書のように英語を使えるようになる」という目標がどうして正常に機能し得ないかは以上のとおりですが、ではなぜ私たちは生徒が教科書の英語から自身のことばを見つけるための教育を行えずにいるのでしょうか。ここでも先週から触れてきている通り、「コミュニケーション」ということばに対する誤解が深く関わっているように思えます。日本の英語教育では「コミュニケーション能力」の育成が期待されています(英語に限らず教科の枠を超えて求められているものですが、英語は特にこのことばの矢面に立っているように思えます)。先週も確認したとおり、デューイの知見をお借りしてコミュニケーションということばを定義するならそれは「自らすすんで世界(環境)に働きかけ、自己の変容も世界の変容も経験すること」といえます。するとコミュニケーション能力はまさにそのようにする能力のことを指すはずです。

 では、日本の教育においてやたらと口にされている「コミュニケーション能力」とは一体何を指すのでしょうか。私にはこのことばが単に「スラスラ話す」だとか「わかりやすく話す」だとか、その類のことしか指しておらず、そこにデューイの知見は含まれていないように感じます。「デューイの知見が含まれていない」という言い方をするとまるで、デューイが言ったことは全て正しく、彼に従うことなしには教育は語れない、という印象を持たれるかもしれません。確かに、本講義のテキストである『民主主義と教育』はもう100年も前に書かれたものですし、今と当時とでは社会も大きく変わっていますので、彼の知見をそのまま取り込めば教育に関する問題は全て解決する、といった乱暴な議論はできません。しかしここでの問題は、「コミュニケーション」といったことばが多用されている一方で、そのことばの輪郭はひどくぼやけ、曖昧で、それが「なんとなく」用いられているということです。私がここで繰り返しデューイの知見を借りようとしているのは、デューイの述べてきたことは、(それをそのまま使うことができない場合もあるかもしれませんがそれでも、)現代においてでも十分当てはまることがあり、彼の指摘が(ないしはその指摘により促された私たちの思考が)「なんとなく」用いられていることばにはっきりとした輪郭を与えてくれるからです。このようにことばを大切に扱う姿勢こそ英語教育が養わなければならないことのように私には思えます。

 先程私は、現在の英語教育における「コミュニケーション能力」ということばが「スラスラ話す力、わかりやすく話す力」という意味合いで用いられているように感じる、と述べました。もしも本当にコミュニケーション能力がこの類の意味で定義され、そして頻繁に用いられているとしたら、これこそ英語教育における最初の「ボタンのかけちがえ」だったのかもしれません。すらすら話すためには多くのストックフレーズを抱えておく必要があります。それを口にするときに口ごもったり引っかかったりすることがないように何度もその発音を練習します。ストックフレーズは多く持っておくに越したことはないので、「一つ覚えたらまた一つ」とこの作業を繰り返します。場合によっては、英語教師はテストを設けることでこの学習に拍車をかけるかもしれません。しかし、このような学習(もとい訓練)は生徒の考える時間を否定します。なぜなら、より多くのストックフレーズを獲得するのに、いちいち立ち止まって「なぜこのような言い方をするのか」、「どんなときに、どんなふうに使えばよいのか」と思いを巡らせることは短期的に見るなら明らかな「タイムロス」だからです。このような学習により生徒はテストで点は取れるけど、自分のことばで語ることのできない「教科書英語の虜囚」へとなります。

 では「コミュニケーション能力」をデューイの考えに照らして定義したときに、どのようなことが見えてくるのでしょうか。私たちはコミュニケーションを行う(世界に働きかける)ときにことばを用います。また、ことばを持つことは私たちに、世界に働きかけることを教えてくれます。授業でも少し触れたように、以前はただ黙っておくしかなかった性的マイノリティの人たちが、ことばを得たことで自己の在り方を主張し、世界の在り方を変えたことはまさに「ことばを持つ」ということが世界に関わることを可能にした例かと思います。このときに使われることばは明らかに教科書のことばとは異なっています。もちろん彼らも教科書に載っている語彙や構文、文法を用います(それらなしでは誰にも理解されないでしょう)。しかし、彼らの口を通して出てきたことばには教科書に載っているものにはない手触りがあります。彼らの身体を通して生み出されてきた言葉はザラザラとしていて、それを耳にした人の身体のどこかに引っかかります。

 簡単に言い換えるなら、私たちは既存のことば(クリシェ)なしでは語ることができません(新しいことばを生みだす人はほんの一握りだから)。しかし、私たちはその「クリシェ」に自身の身体感覚を伴わせることができます。そして、他人の使ったことばに彼らの身体感覚を感じることができます。ある発話がクリアカットでなくても、その中から「言いたいこと」を拾うことができます。そしてこの作業が得意な人こそ「世界にはたらきかけて自己と世界の変容を経験できる人」であり、「コミュニケーション能力が高い人」だと私は思います。このような人は明らかに「教科書英語の虜囚」が使うことばとは正反対のことばを用います。

 教科書のことばが「わかりにくい」ことはありません。それは常にクリアカットで「ツルツル」となめらかです。私たちの身体をこの種のことばが通る時、それが摩擦を生むことはありませんので、文字通り「聞き流す」にはもってこいのことばです。しかし私たちがコミュニケーションを図るときにはどうでしょう。ツルツルとしていて滑らかなことばを使うことで世界の変容を期待できるでしょうか。また、他人のことばを常にクリアカットなものに変換することで自己の変容を望めるのでしょうか。私にはそうは思えません。
 だからといって、「教科書の英語は学ばなくていいのか」、と言われるとそうではありません。先程も述べたように、語彙や文法なしでは私たちは自身を理解してもらうことも、他人のことばを理解することもひどく困難になります。ですから、パターンプラクティスなどを通して生徒がクリシェを獲得することに関して異論はありません。生徒は常に学びに対して時間的な遅れをとっていますので、つまり「なぜそれを学ぶのか」という問に彼らが答えることができるのは、学びを行っている最中か、場合によっては学びを終えてからですので、生徒は学びの中に飛び込んでみて、あるいは「投げ込まれて」はじめて学ぶ意義を見つけることができます。ですからパターンプラクティスをする意義、や単語や文法を学ぶ意義の全てを理解してからでないと彼らは学べないというわけでは決してありません。ただ、そうして獲得したクリシェを持ってして学びを終えたとしてしまうことに関しては賛成できません。生徒はそこからいかにして借り物のことばに「肌目」を与えるかを学ぶ必要があります。そして、他人が用いたことばに彼ら自身の「肌目」を感じることができるようにならなければなりません。繰り返しになりますが、これこそ「コミュニケーション」であり、自身のことばを獲得するということだと私には思えます。そして、このような言語使用を教えることができるなら、英語教育は決して機械翻訳にその存在を脅かされることはないように思えます。






2018/10/22

「私は上から指示されたマニュアル通りの指導しかできない大人が教師になってしまっていることが教育の商品化を進めてしまっていると思う」

 以下は教英学部一年生による授業予習書き込みの一部です。彼ら・彼女らが、日本の感覚からすれば「尖った」存在になってくれることを私としては願っています。





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今、自分の周りにはたくさんの情報源がある。しかし、わたしは全くと言っていいほどそれらを活用できていない。予習課題の中に、今後は地理的要因などではなく、英語とウェブを使いこなせるか否かが格差を生むという記事があった。私は調べ物をするときにあまり英語を使うことはなく、ウェブも自分では使えているつもりでいたのだが、日常生活で気になったことを調べたり、音楽を聴いたりすることくらいにしか使っておらず、予習課題の中にあるような教養が深められそうなページや自分の学びたいことを学ぶ上で活用できそうなリソースがあんなに存在することすら知らなかった。

 今の私は、インターネットへ接続することはできるものの、自分に必要な情報や自分が求めている情報が理解できていない完全な「情報難民」であったのだ。私が今まで18年間生きてきた中でも、パソコンの性能の高度化、スマートフォンの登場、AIの普及などたくさんの大きな変化があった。それを目にしてきたにもかかわらず、私は、これらの変化を完全に無視し、変化が起こる前の考え方から何ら変化も得られていないし、変えようともしていなかったことにやっと気がついた。

 とりあえず情報機器を生活の中に取り入れ、日常生活のためだけにそれらを使うという方法をとってしまったことで情報の良し悪しや必要な情報を見分けられなくなり、本当の情報社会の恩恵を享受できておらず、変化に対する感覚が鈍り、これから起こりうる変化に対する想像力も身につけられていなかったように思う。

 変化に対する想像力をもたない私がもしこのまま教員になってしまったなら、きっと生徒の可能性をつぶす教員にしかなれないだろう。今起きている変化に気づけない、これから起こりうる変化を想定できないのであれば、これからの時代を生きていく生徒たちにその時代に対応しうる能力を伸ばしてもらうことは到底できない。そのうえ、想像力が欠如していることで、植松努さんのお話にもあったように、教師が生徒の可能性をあきらめてしまうというケースも起こりうる。教師が生徒の可能性をあきらめてしまえば、いくら生徒に可能性があっても、生徒はそれを伸ばす手助けを受けられない。加えて、生徒が教師の考え方に染められてあきらめてしまえば可能性の芽は枯れてしまう。そのような生徒が教員になればまたこの悪循環が続きかねない。

 教員になる人はただ「勉強」ができる人であってはならない。広く深い知識はもちろん大切であるのに変わりはないが、現実を見る力と想像力、それもまた重要になってくると思う(ほかにも多くの要素が必要だが)。ただ知識を授けるだけが教師ではなく、今の時代の物事の様子にしっかりと目を向け、考え、こんな授業をしてみたら、こんな教材を使ってみたら生徒の力を伸ばせるのではないか、こんな力が生徒には必要なのではないかと想像する力があって初めて、授業をより良いものにしていったり、よりよい指導ができるようになったりするのであろう。



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 今回の予習で考えたことを何点かにまとめてみようと思う。

 まず、齋藤氏と梅田氏の対談の記事にあった「全くやる気がないという人はどうにもならない」という意見についてである。

 果たして本当にそうであろうか。

 「ビリギャル」という映画が2015年に公開され、大ヒットを記録した。この作品は、学年最下位のギャルが偏差値を40上げ、慶応義塾大学に合格した実話をもとにして作られた。このような映画がヒットし、多くの人の心を動かすのは、きっと人が少なからず心の中に「今の自分のままではダメだ。」、「変わりたい」という思いを抱いているからだと思う。その気持ちをいかにして行動に変えさせるか、それを考えるのが教師の仕事であり、腕の見せ所だろう。ひとりひとり持っている個性を見抜き、それぞれに合った指導を行うことで、生徒がガラスの天井を打ち破る手助けをすること、その力こそが教師に求められているのではないかと感じた。

 次に、教育が商品取引と化しているという内田氏の意見についてである。

 私は上から指示されたマニュアル通りの指導しかできない大人が教師になってしまっていることが教育の商品化を進めてしまっていると思う。ここで考えたいのは前回の授業で考えた「創発」する力である。教師が知識を指示通りに「提供」することだけに力を入れてしまっているから、生徒も自然と受動的な態度になってしまうのだ。そうではなくて、教師も生徒も互いから学びとろうとする姿勢をもち、触発しあって、それを新たなものを生み出す原動力に還元できる空間を作り上げることが必要なのではないか。そうすれば、「提供」という一方通行の関係性が打開でき、教育の商品化を防ぐことができるのではないかと思う。

 最後に直観知の発達についてである。

 私は体育・美術・技術・家庭科・音楽など、身体的感性を磨くことのできる基盤科目を英語にも積極的に取り入れれば、英語教師も内発的動機づけを行うことが可能になると思う。それには、教師が音楽、身体活動などを効果的に取り入れることができるだけの教養を持ち、明確な意図をもって指導することが必要だ。私の恩師の授業は冬場でも身体が暖かくなるくらい「動」が強い授業だったが、そのおかげで私はいろいろな世界に広く触れて、自分なりにではあるが価値観を磨くことができたと思う。このような授業を私もしていくために、先生のおっしゃっているように本の中から生きた感性を身に付けていきたい。



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 私が予習した中で最も印象的だったのが、「熱中できるなにか」という言葉である。私自身、高校生の時の部活動に熱中した経験があり、そのときは水分を取るのも忘れるほど熱中したものであった。その時の感覚は、なにか新たな技術や考えが手に入っては実践し、時に失敗し、試行錯誤しながら自分なりに身に着けようと努力したものだ。それは時に涙がでるほど辛い時があった。逆に時間が止まってほしいほど楽しいときもあった。

 このことを学業にも活かすことができたら、生徒自らが「学ぶ」事ができるのかもしれない。つまり、今後は予習にもあったように、「いかに教師自身が現代の技術を駆使して、生徒の学びに対する動機をつけることができるか」が問題となってくると私も思う。無論、そのためには教師自らが「学習者」として不断の努力をしなければならないのは明確である。同様に英語教師を目指す者たちも英語力はもちろん、知識のアンテナを立て、現代の教育について敏感になっていなければならない。

 私はその自覚がまだまだ欠乏しているのは認めざるを得ない。だが、前回の授業でもあったように、学ぶための教材、知識は、インターネットに膨大な数の情報がある。今からできることは、学ぶ意欲さえあれば、「熱中」できれば、たくさんある。私の現在は、未来の子供に直に影響を与えることになることを胸において、これから学びを深めていかなければならない。




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 最終的に、やはり学校教育において必要不可欠になってくるのは、「子どもたちのやる気、努力」であるように今回の予習を通して感じた。それと同時に、これらを様々な手段を用いて引き出すのが教師の役目であるようにも感じた。

 学校教育がどれほど改革されようとも、子どもたちに「学びたい」という欲や熱意が無ければ、それは無駄になってしまうのではないか、と考える。結局は、現場で実際に子どもたちとコミュニケーションをとり、そのふれあいから教員が授業の在り方や、学級経営、そして進路指導などを、子どもたちの知的好奇心を刺激するように、柔軟に考えていく必要があるのではないだろうか。これは、極めて難しいことであり、また上からの改革だけではどうにもならないことが多々あるように思う。改革をすることで起こった現場での歪みをフィードバックし、そこから修正を加えていくことでよりよい教育を作り上げていくことができるのではないだろうか。

 しかし、子どもたちというのは、行政の実験体ではない。彼らには、彼らの未来があるのだ。改革による歪みで、彼らの未来を潰すようなことがあってはならない。もしも、教育によって彼らの未来を潰すようなことがあれば、それは将来の私たちの生活の大きな支えを失うことにもなる。

 改革が起こり、受験のシステムなどが変化しようとも、教員の役割というのは子どもたちの知的好奇心をくすぐることで、学習に対するやる気や努力をするための源を創り出すことであるというように私は考える。



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 「好きなことで生きていく」ーこれは人気Youtuberたちが自身のPR動画を作成したときに用いられていたYouTuberのキャッチコピーのようなものである。YouTubeに動画を投稿して、広告収入や企業案件での収入を得る。そんなYouTuberという職業は、小学生のなりたい職業ランキングの上位にランクインしたことからもわかるように、「楽しそうで、輝いていて、華やかな」イメージが強い。しかし一方で、「楽そうだ、こんなのなら自分にもできる。」と見下したり、僻んだりする声も存在する。ただ、彼らがやっていることについて、私は容易にできるとは思わない。動画編集ソフトを巧みに使い、撮影に使用するカメラにこだわり、毎日のように動画のネタを考える、とても簡単にできることではない。

 確かに、人気youtuberにはいわゆる低学歴だとされるものも少なくない。しかしそんなことは一切関係ない。なぜなら、彼らのパフォーマンスは「好きなことをやっている」という人間の可能性をいかんなく発揮させる得ることで支えられているからである。このことは、興味関心が爆発すれば、ここまでの地位を確立することができるということが明確に示していると思う。

 教師が生徒の興味関心、言い換えると「創造性」を度外視して、対価が与えられていることに対しての義務感のみで、「〇〇テストで〇〇点がとれる」という効能のある「商品」として教育を施す、こういった教育は人の可能性を無視している。現在、我々の置かれている状況として、インターネットの普及で情報が溢れている、そして、オープンエデュケーションの取り組みもあって、情報を利用するときの枷が緩和されつつある。

 ならば、教師が為すべきこととは、生徒の興味関心を共に発掘することだろう。今の「買い物」のような教育で、決められた範囲内で、しかも「創造性」を無視したようなことをやっても、「やらされていること」から得られるエネルギーなんてたかが知れている。教師は、生徒に彼らが目を輝かせて、日ごろの勉強なんかよりも熱中してしまうようなことを一緒に見つけてあげるべきである。





「激変する世界に置いて行かれないように勉強しないと危険である、という状態に気づくためにはそれ相応の教養が必要である」


以下は、ある授業を受けた教英学部一年生の感想です。

自分のSNS世界しか関心がない若者から、どんどんと大きな時間枠・地理枠・思考枠で考えられる若者に育ってほしいと、私のような「おじさん世代」は切に願っています。

そういえば20世紀末に流行していた「第三の開国」というフレーズも最近はついぞ聞かれなくなりましたね。なぜなんだろう。










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「激変する世界に置いて行かれないように勉強しないと危険である、という状態に気づくためにはそれ相応の教養が必要である」

 授業中に出たこのジレンマの突破口は結局授業内では見いだせないままであった。その後のどに突き刺さる骨のように明確な存在感を放ちつつ私の頭の中に刺さり続けていたこの命題について考えているうちに、実はこれと同じようなことが日本の歴史の中に起こっているのではないかと思えてきた。私は今現在起こっているこの事態を「黒船来航」に重ね合わせて考えていきたいと考える。

 そもそも黒船来航は嘉永六年(1853年)にペリー率いる黒船の艦隊が日本湾岸に来航した出来事である。当時ほとんど外国との交流がなかった日本にとってこの出来事は大いなる混乱を招くのに十分な出来事であった。その後日本は開国し、明治を迎えて目覚ましい文明開化を迎えることになる。そしてその開国を支えた人物は今もなお歴史に名を深く刻む政治家たちであることは言うまでもない。さて、現代を見てみると目覚ましい技術革新に追い付いていない我々の認識はさしずめ鎖国していたころの日本であろう。世界の最先端と我々の古い認識の大きすぎる差を埋めるにはどうすればよいのか。

 もう一度黒船来航のころに当てはめて考えると、文明開化したのは時の明治政府が世界に追い付くために教育、土地制度、そして生活様式すらも大きく変えるような政策を打ち出したのが主な要因である。そののちの日本の成功は歴史に裏付けられているように、大きなものであることはもちろんご存知であろう。

 そうであるならば、かつて敏腕をふるった政治家が主導した文明開化をもう一度起こすべきではないだろうか。そしてそれは大きな流れのもとで今行われようとしている。全国津々浦々で開かれている教育シンポジウムでの創造的な意見交換によって日々新たなアイデアが今も生まれていることを考えてみれば、誰かが主導するわけでもなく各々が「このままでは日本が危ない」というたった一つの認識に導かれて今までにない革命を起こすのではないかと考えている。

 ここで忘れてはならないのはそうして変貌を遂げた社会を生み出すのはほかでもない教育であり、その教育を支えるのは未来の教員である私たちなのだということである。ともすれば、我々がすべきことは今すぐに情報を収集して、自分なりに今の世界がどう動いているかを把握することではないだろうか。日々の生活におぼれそうになっている毎日ではあるが、そうした時間を少しでも設けることが未来につながると私は信じている。





2018/10/20

改めて単語学習について



以下は、デューイのDemocracy and Educationを読んでいる授業に参加した大学院生 (M1) の感想です。

以下の指摘は、英語教師にとっての「不都合な真実」なのかもしれません。


「テストするからやってきなさい」と言ってしまうと、単語学習は「それを何に使うか分からないけどとにかくたくさん持っている人が勝ち」という誰も幸せにならない競争に成り下がってしまうでしょう。そしてそれは真綿で自らの首を絞めるように学習者の言語感覚を徐々に、しかし確実に狂わせます。






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 今回の授業では、「生徒はどのように単語の学習ができるか」という問いを糸口に議論が深まり、多くのことを友人と話すことができたと思います。私はその議論の中で、英語教育がいかに重要であるか、そしてそのやり方を間違えるとそれがいかに恐ろしいものになりうるかについて考えていました。皆さんの考えも参考にしながら、私自身の考えをまとめて振り返りとさせていただきます。

 おそらく、日本の英語教育を受けてきた人はそのほとんどが教科書の端のコラムに書かれた新出語句の音読を経験したことがあると思います。先生が発音したのに続いて同じように単語を発音するいわゆる「リピートアフターミー」は新出語句の導入としては最もメジャーなものでしょう。高校生になると、多くの学校で生徒は英単語帳を手渡され、家で覚えてくるように言われます。これは高校を卒業するまでに身につけておくべき語彙の全てを授業ではカバーできないからでしょう。改訂版の学習指導要領で指定されている語彙数は以前に比べて増えているため「英単語は授業外で勉強する」という側面は余計に強くなるのではないかと思っています。

 僕は音読による単語の導入や、単語帳の使用や授業外での学習を否定するつもりはありません。むしろ賛成しているほどです。しかし、これらが何も考えることなしに行われるとなると話は別です。「何も考えることなしに」の主語は教員も生徒も両方です。これは私が学生の頃から感じていることなのですが、なぜか英語学習/ 教育において、「単語は自力で覚えるほか仕方がない」という考えが支配的であるように感じます。そのため、教師も生徒も何も考えることなしに適当に英単語を声に出して読み、適当に単語帳のページをめくって単語を覚えます。これを教育と呼ぶことは難しいのではないでしょうか。

 デューイの言葉を借りるなら、これは「教育」ではなく「訓練」されているだけのように思えます。場合によっては訓練よりも酷いかもしれません。なぜなら、教師も生徒も、その両方が「英単語を覚える」という行動に対して、あるいはその行動の目標に対して無関心であるからです。「教師は、生徒が英単語を覚えることを願っている」という反論もあるかと思います。しかし、真に生徒の成長を願っているならもっと違ったアプローチを取れるはずです。つまり、「英単語を学習することによって内面的な変化を望む」のであれば、教師は単に「テストするから家で覚えてきなさい」というような態度は取れないはずです。

 確かに、「家でやってきなさい。あとは自分の責任だ。」という形でその責任のすべてを生徒に丸投げしてしまう事は教師からすると随分と楽でしょう。危機感のある生徒は、自分ができないことに関する責任はすべて自分が負わなければならないことに恐怖して一生懸命勉強するでしょう。これを「学びの主体性を育む行為」と呼ぶ人も、もしかするといるかもしれません。生徒が自分自身で自分の学びの舵を切るようになるならそれでいいじゃないか、と考える人もいるかもしれません。

 しかし、「放っておけば自ら学ぶ」ような生徒はそもそもいないはずです。いたとしてもごく少数であり、彼らは学校以外で学ぶ環境を提供されている「文化資本に恵まれた人」なのです。この「文化資本の差」を埋めるために、つまり生まれ落ちた場所がすべてを決めてしまうことを是正するために学校があるのではないでしょうか。すると学校が目指すべきことは、自ら学ぶことができない生徒を放っておくことではなく、学び損ない続けてきた生徒に手を差し伸べてあげることであるはずです。だから単に「やってきなさい」ではいけないのです。

 「やってきなさい」とするならば、生徒にその「やり方」を教えてからでなければなりません。そして、その「やり方」が皆さんが授業において紹介してくれたような、「それを使わなければならないリアルなシチュエーションを考える」とか、「明らかに不自然な状況の例文に突っ込んで、それを踏まえて音読してみる」とかになるのだと思います。

 このような段階を踏むことなしに「テストするからやってきなさい」と言ってしまうと、単語学習は「それを何に使うか分からないけどとにかくたくさん持っている人が勝ち」という誰も幸せにならない競争に成り下がってしまうでしょう。そしてそれは真綿で自らの首を絞めるように学習者の言語感覚を徐々に、しかし確実に狂わせます。なぜなら、彼らは不幸にもそうして獲得した「空っぽのことば」を授業やテストにおいて使用することを求められるからです。「誰のものかわからないことば」や「自分の身体感覚の伴わないことば」ばかりを用いることは明らかに自らの言語を貧しくする行為であり、それは「学習者の言語を豊かにする」という言語教育の目標とは逆行しています。

 もちろん、これは単語学習に限った話ではありません。その他のいかなる学習であっても、それをやること自体が目的と化してしまうとたちまち正常に機能しなくなります。「とにかくやりなさい」という教師の態度は生徒に「考えるな」といっているようなものです。よく塾や学校で「先生、この単語どういう意味なん」と聞きに来くる生徒がいます。このような質問を受けたとき、僕はよく友人と「肉辞書にされた」と言って笑います。自分が知らないこととの出会いがいかに素晴らしいことなのかを知っている生徒は決してこのような質問はしてきません。単語に関して質問するにしても、その単語の持つ微妙なニュアンスであったり、別の似た単語との違いであったりを聞いてくるでしょう。しかし私は前者のような子を責めることができません。なぜなら、「考えること」を剥奪されてしまった生徒からすれば、教室における価値観は「知っているかどうか」だけになってしまうからです。だから彼らは「どのように出会うか」などは気にもかけず、最も労力をかけずにすむ方法、つまり答えを先生に聞くという方法を取るのだと思います。

 パウロ・フレイレはこのような詰め込みの教育を「銀行型教育」と呼びました。そして、銀行型教育をうけた子供は世界を批判的に見ることをやめてしまうと述べています。つまり、世界は自らが主体的になり批判的に改革していくものではなく、与えられた現実が世界の全てであり、そこに順応するしか無い、という意識を生徒が持ってしまうということです。

 私はフレイレを読んでいてデューイを思い出さずにはいられませんでした。自らが世界に主体的に関わることをやめることはデューイの知見に照らして考えるなら、それは明らかに「非人間化」のプロセスであり、それを「教育」が手助けしている、ということは悲しすぎる皮肉です。英語教育に関わる、ないしは関わろうとしている人は今までの教育を大いに反省し、その上で何ができるのかを考える必要があるように思われます。そして、これからどうするかを考えることにデューイの知見は、それが100年以上前に書かれたものであっても、十分に役立てることができるのではないでしょうか。




2018/10/19

広島大学STARTプログラムを利用してオーストラリアに行った学部一年生の振り返り


広島大学にはSTARTプログラムとSTART+プログラム呼ばれる留学支援制度があります。共に大学からの補助金により学生さんの経済的負担を減らしています。

 STARTプログラムの目的は,学部1年次生が海外の協定大学で学ぶとともに,現地学生との交流・ディスカッションを行い,日本と異なる文化・環境を体験することで,国際交流や長期留学への関心を高めることです。

 START+プログラムでは,STARTプログラムのステップアップ版として,より学生の自律的な学習を重視した授業を行います。

 また,STARTプログラム及びSTART+プログラムでは,参加費用の一部を大学が補助することで,学生の経済的負担を大幅に軽減し,より多くの学生が留学に挑戦する可能性を広げることを目指しています。

以下は、この制度を利用してオーストラリアに二週間滞在した教英のある学部一年生の振り返りです。

 皆さんも、広島大学でどんどん機会を見つけて視野を広げてください!






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 私は、STARTプログラムに参加し、夏季休暇中、二週間オーストラリアのアデレードに留学しました。二週間という短い滞在でしたが、とても内容の濃い留学になりました。アデレードは、オーストラリアの南部に位置する都市ですが、自然豊かで治安もよく、とても過ごしやすい所です。留学中には、主にホームステイをしたり、大学へ行って勉強したり、小学校へ訪問して日本文化を伝えたり…と、いろいろなことを経験しました。

 ホームステイでは、オーストラリア特有の日常生活や食文化を経験することができました。例えば、オーストラリアは水不足が深刻であるため、水の使用に関して厳しかったです。シャワーの時間が制限されており、友達の中には、3分間しか使用を許されなかった人もいました。水不足に関する教育は、小学校からされている所が多いらしく、国民全体でその社会問題に向き合っている様子に感心しました。




 食文化としては、初めてカンガルーとラムの肉を食べました。カンガルーの肉は、他の牛や豚と比較するとリッチで、スーパーマーケットで簡単に手に入ります。また、私のホストファミリーはビーチに行くことが好きだったため、夕方に近くのビーチに行って、夕焼けを見ながらディナーを楽しんだりもしました。オーストラリアの海はとても透き通っていて美しく、野生のアザラシやサメに遭遇したりもしました。ラッキーな時には、イルカに遭遇できるらしいです。二週間、私のためにいろいろともてなしてくださったホストファミリーには大変感謝しています。

 平日には、フリンダース大学に行きました。フリンダース大学のキャンパスはとても広く、大学内で移動用のスクールバスが走っています。世界中、あらゆる国から来た留学生がたくさんいて、とても国際色豊かな大学です。大学では、英語はもちろん、オーストラリアの文化や社会問題、教育について学びました。授業はすべて英語で、先生や生徒たちといろいろなトピックについて議論したり、プレゼンをしたりしました。自分の知識を伸ばす、大変貴重な時間になりました。




 また、授業の一環として小学校に訪問し、日本文化を伝えました。折り紙やけん玉、かるたなどを教えたのですが、英語で上手く伝えるのは難しく、なかなか要領が掴めませんでした。それでも小学生たちは真剣に聞いて、実践してくれました。中には、既に日本文化について詳しい子もおり、私よりけん玉をうまくする生徒もいたので驚きました。

 以上のこと以外にも、博物館や図書館、アニマルパークに行ったりして、たくさんの貴重な経験をすることができました。多くの人の支援があって、私はSTARTプログラムに参加することができました。その方々への感謝の気持ちを忘れず、これらの経験をこれからの大学生活に生かしていきたいと思います。







2018/10/15

グーグル翻訳をはじめとする機械翻訳の目覚ましい進化が英語教育の意義を消し去ろうとしている




以下も学部一年生の書き込みの一部です。「これまでの英語教育の意義は急速に失われているのではないか」という危機感が若い世代には強いようです。






画像はWikipediaよりコピーしました。

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 予習の課題を読むうちにふと「手段の目的化」という言葉が浮かび上がってきた。言語とは本来コミュニケーションをするための道具、つまり「手段」に過ぎないわけであり、その言語を使って我々は多くのコミュケーションの中で様々なものを生み出していくのである。

 しかし、今の英語教育現場はどうだろう。明らかに英語を流ちょうに使いこなすことを目的としたカリキュラムであることは明白である。そのために我々は味気のない単語帳や何の興味もわかないような内容(もちろんトピックによって例外はあったが)の教科書を駆使して英語を使いこなすことを目的とした授業を受け続けていたのだ。これでは我々の学びの意欲はわかない。

 さらに追い打ちをかけるように、グーグル翻訳をはじめとする機械翻訳の目覚ましい進化がこのイズムに基づいた英語教育の意義を消し去ろうとしている。あまりにも輝かしい進化が、我々から単語や文法を事細かに覚える必要性を奪っていきつつあるのだ。このままでは英語教育自体の存在意義も問われかねない。由々しき事態は静かに、しかし確実に現代教育観に試練を与えているといえよう。

 さて、この英語教育現場に横行する「手段の目的化」をどう解消していくべきか。まず教材を変えるべきであろう。電子辞書や機械翻訳を備えたタブレット等を片手に英語文学を読んでみる、これも一つの方法であると私は思う。ほかには、有名な日本語のテキストをいかにして英訳するかという授業やオノマトペなどがよく発達した日本語の文をどう英訳するか考えるといった授業も一つの手段として考えられる。

 ともあれ、大事なことは「英語を用いて何を学ぶか」である。英語そのものを勉強する時代はとうの昔に終わったとみてよい。次なるステップの学びは英語という武器の使い方である。そのためには我々はその武器そのものの特徴について深い知識を持っている必要があるし、その武器をよく使わなければならない。武器を危なげなくかつ美しく使えるようになってからこそ、教えられる立場に初めて立つことができるのではないだろうか。








「改めて教師は生徒の将来の可能性を生かすこともつぶすこともできる職業なのだと痛感した」


学部一年生のある授業で、以下の二つの動画を見て少し討論しました。以下は、授業後の書き込みの一部です。












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■ 今日の講義を受けて、改めて教師は生徒の将来の可能性を生かすこともつぶすこともできる職業なのだと痛感した。講義内で見たTEDの動画で、病気の女の子と医者のエピソードがあった。「一般的」には、「普通」は、といった平均的な思考を取っ払い、子供の未来を信じて自由にさせたという点で、私には衝撃的なエピソードであった。おそらくだが私を含め多くの日本人は(もしかしたら世界中の人が)この「平均」というもので何でもはかる傾向にあるのではないだろうか。その例はモデルの身長であったり店の1日当たりの売り上げであったりと、例を挙げればきりがない。

 無論、教育の分野においても、この「平均」の考え方は存在しており、教師はしばしばそれで物事をとらえることがある。ただ、講義内でも先生がおっしゃったように、平均的な人などいないわけで、平均で何でもはかるのはよくないことである。授業の形も、みんなの理解度はそれぞれ異なっていて、ペースだって違うのに、一斉授業をし、家で宿題をさせ、テストを実施し、点数をつけ、わかっていなかったとしても次に進む。私は今日の講義を受け、このスタイルを変える必要があると思った。まさにTEDの動画でもあったように、「家の建設で85%、90%の段階で次に進んでいる」のが現状であるからだ。

 この意見に対し、今日の講義内での意見交換の時には、100%を目指すのがきつくて嫌になるから…、といった否定的な意見が多かったのだが、私個人の意見では、ものすごくこの考えには賛同する。私はこうしてわからないものをわからないままにすることで、苦手意識が生まれ、学ぶのが嫌になると考えるからだ。経験上、苦手だと感じたものはあまり勉強したくなかった、あるいは無理やり覚えたのに対し、興味がある、理解ができたと感じたものは学んでいて楽しいし、もっともっと知りたいという欲求があった。この、もっと知りたいと思う飽くなき欲求こそが将来の夢への手掛かりになるのではないだろうか。今の教育システムはこの可能性をつぶしているのではないだろうか。

    私の高校時代の話になるのだが、周りにはこれを将来したい、と胸を張って言えている人はほんの少ししかおらず、ほぼ大多数が安定した職業に就きたいという人が多かった。もしかしたら、これは教育システムの影響があるのかもしれない。このまま安定しているといわれる職業について、激動する時代の変化に対応していけるとは、私は思えない。今後は個人個人の知的な好奇心、個性が求められると思う。私は将来教える子供たちの可能性をつぶすような教師にだけはならないように、教育の在り方について、考えていきたい。



■ 私は、今回の講義を受けて『無意識的なコンプライアンス』というものがいかに恐ろしいものであるかを思い知った。「なぜ、独裁主義はいけないのか?民主主義の方が良いのか?」という先生の発問に対する答えを中心とし、今回の講義を通して考えたことを述べていこうと思う。

 まず、講義中の先生の発問に対する答えを簡潔にまとめると、「独裁主義に陥ると多くの人々は思考を停止し、少数の人々の脳に頼り切ってしまうことになる。多くの人々の脳が使われることは無い。そして、少数の人々の脳もしばしば間違った決断を下すからである」と表せる。民主主義の特徴は、「三人寄れば文殊の知恵」ということわざで例えられるのではないだろうか、と考えた。今までの歴史を鑑みた際、やはり平常時には独裁的な政治ではなく民主的な政治の方が、よりよい結果を生むものであるように思う。しかしながら、日本の学校社会、特に学級や授業において、一歩間違うと独裁主義的な側面を持つようになるのではないか、と私は考える。

 児童・生徒が板書を自身のノートに書きうつし、教壇に立っている先生の話を黙って聴いているような授業風景を思い浮かべてみてほしい。これは、今の典型的な日本の教育現場での授業風景であると言えよう。近年、「アクティブラーニング」ということが叫ばれるようになり、児童や生徒による話し合い活動やペアワークが徐々に増え始め、授業形態が変化していることも確かではある。

    しかし、どの活動も子どもたちが「先生が言ったとおりにただやっている」だけであったら、これらの活動はいかがなものだろうか。教室は生徒たちが授業中に主体的に挙手をし、反論や質問をすることが普通ではないという空気が漂い、先生の言うことが絶対となってしまう。このまま「先生の言うことが絶対である」と子どもたちが感じ、思考を放棄して先生の言うとおりに何事も進めてしまうようになると、これは教員の独裁主義となってしまうのではないだろうか。独裁主義になる、というのは知らず知らずのうちに子どもたちから思考する機会を奪い、更には彼らの可能性を潰してしまうことになりかねないように考える。

 「独裁主義に陥る危険性がある」、教員を志す者として、現在の学校社会でこのような危険性があるということを認識しておくことは非常に大切であるように思った。また、自分自身も常に様々なことに対してアンテナを張り、思考するということを忘れないでいたい。



■ よく、”学校は失敗する場所”、”教室は失敗する場所”という言葉を聞く。確かに子供のうちは失敗しても大人(教師)によって守られており、社会的責任を問われることはまずない。しかし、実際の教室では多くの子供たちが失敗を恐れ、自分の可能性をつぶしてしまっている気がする。例えば、授業中は自分の考えを述べることも多いが、多くの場合子供たちは教師に求められている答えを出そうとする。そして、教師が求めている答えこそが必ず正しいといったような風潮があると思う。人と違った答えは受け入れられる場合もあるが、批判されてしまう可能性も秘めているからである。

 講義中にふと、高校の時の国語の授業が思い浮かんだ。私が受けていた授業では、主人公の心情を説明する記述問題などは、何人かが答えを黒板に書き、先生が少し訂正し解説を加えながらみんなの考えを聞いていくスタイルだった。しかし授業の最後に配られる模範解答が最も完璧な回答というイメージがあり、テスト前は多くの人が模範解答を覚えていた。人と違った考え方をする人はむしろ歓迎されるべきだと私は思う。その人の違う角度からの意見によって私たちが気づかされることも多くあるからだ。




■ 私は、今回の授業で先生が口にされた「日本の生徒は空気を読みすぎである」という言葉に深く共感した。私は高校の時にニュージーランドに留学し、実際に現地の高校生と一緒に授業を受ける機会があった。彼らの学習意欲は行動から現れるものであり、先生の質問に積極的に答えたり、わからないことがあったらその場で質問したりするなど、活発で楽しい授業だったことを今でも鮮明に覚えている。

    しかしながら、帰国後に改めて日本の授業を受けると、失敗や周りの目を恐れて発言や挙手を避けるような姿勢に自分がなっていたことを思い知った。たしかに、空気を読むことは必ずしも悪いことではない。周りの意見に同調することで自分の意見を生みだす手間が省けるし、突飛な考え方を持った異端者だと思われることもない。しかし、グローバル化が進む現代、革新的な意見や積極性は絶対的に必要となってくると思う。ひとりひとりの個性的なアイデアこそが目まぐるしく変動する時代に必要不可欠なのだ。






研究倫理、とくにオーサーシップについて(ある学生さんのレポートから)


以下は、卒論・修論・博論を書く学生に行う「研究倫理教育講習」の一環で、ある学生さんが書いたレポートの一部です。研究倫理に関する意識を高めるため、その学生さんの同意を得た上で、ここに掲載します。






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『科学の健全な発展のために』
「セクションⅣ 研究成果を発表する」


 我々研究者の持つ学問・研究の自由は、社会から付託されているものであり、その意味では研究者は自身の興味関心によって研究を行っていくにしても、そのあり方や成果、倫理的配慮について適切に判断を行うことが不可欠である。

 「セクションⅣ 研究成果を発表する」では、オーサーシップ、出版、引用に関わるルールが紹介されている。これらのルールは、もしも認識していなければ、知らずに犯してしまうようなものが多い。例えばオーサーシップに関しては、オーサーとしての資格がない者にオーサーシップを与えてしまうギフト・オーサーシップ、出版に関しては一つの研究を複数の少研究に分割して出版するサラミ出版などである。

 研究倫理に関わる様々なルールに違反することは、知らなかった・そのようなつもりはなかった、という言葉で済ますことのできる問題ではない。研究者一人の認識不足や悪意が、その研究者が属する研究者共同体の信用を損なう恐れがあることを十分に確認しておきたい。

 また、オーサーシップや出版に関して本書でも懸念されているのは、教授と大学院生の力関係によって生じる問題である。研究倫理に関する認識不足の教授が、大学院生の論文投稿の際にサブ・オーサーとして掲載されることを当たり前のように求めることもあるかもしれない。

 確かに、本書でも紹介されている、論文の著者として掲載される4つの条件のうち「研究の構想・デザインや,データの取得・分析・解釈に実質的に寄与していること」、「論文の草稿執筆や重要な専門的内容について重要な校閲を行っていること」、「出版原稿の最終版を承認していること」の三つに関しては、長期間に渡って院生を指導している教授であれば、満たしていると捉えることができるのかもしれない。

 しかし、やはり研究者としての主体が大学院生にあり、教授は共同研究者ではなく単なる助言者に過ぎないという前提で行われた研究ならば、ここでサブ・オーサーの権限を教授に与えるのは誤りである。少なくとも4つの条件のうちの一つである「論文の任意の箇所の正確性や誠実さについて疑義が指摘された際,調査が適正に行われ疑義が解決されることを保証するため,研究のあらゆる側面について説明できることに同意していること」が満たされないかぎりは著者として名前をあげてはならないことが『科学の健全な発展のために』が定めていることである。

 研究倫理に関する規定はすべての研究者が熟知し厳守すべきものではあるが、研究者間の力関係を前提として、犯さざるを得なかった違反もあるはずである。若手研究者には、厳格なルールの周知を行っていくのみではなく、上記のような力関係を前提とした研究倫理違反に関わった際に、誰に・どのように助けを求めることができるのか、そうした相談ができる諸機関についての周知も行っていくべきだと考えた。



2018/10/12

"Democracy and Education"の第一章を読んだ大学院生 (M1) の感想


以下は、Deweyの"Democracy and Education"の第一章を読んだ大学院 (M1) の授業についての感想の一部です。

John Dewey (1916) Democracy and Education 
(デューイ『民主主義と教育』の目次ページ)


言語教育について根源的に考えた上で、日本の英語教育について具体的に考える授業にしたいと思っています。







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MT君

 私は、教育学部で4年間英語教育学を学び、実際に教師として教育を施す立場にあったにもかかわらず、「教育とは何か」という本質的な問いについて深く考えることをしてきませんでした。ここでは、今回の講義内容から、現段階で私が解釈した「教育とは何か」という問いへの答えを記述し、その後英語教育においてどのようなことが求められるかについて記述します。
 
 デューイの主張を踏まえ、私は「教育(Education)」とは学校教育という文脈においては「他者の学習(Learning)を促すこと」であると認識しました。この場合の「学習(Lerning)」とは学習者が、自分とは異なる(または変化し続ける)周りの環境へと適合できるよう、自分自身を変容させることであると解釈できます。このように書くと、ごく当たり前のことのように思えるのですが、学校現場で私が生徒として受けた授業、または教師として行った授業を省みると、それらすべてが生徒の「学習」を伴った「教育」と呼べるかについては疑問が残ります。単なる知識技能の伝達にとどまる授業は、それを通じて生徒自身が変容しない限り、教育とは言えないのではないでしょうか。例えば、統語的手続き重視の文法指導や機械的なトレーニングのみに終始した授業を通じて、生徒は「学習」することはできるのでしょうか。そのような教師-生徒の関係は、teacher-teacheeの関係に過ぎません。教師は生徒を"teachee"ではなく、"learner"にする教育を施す義務があります。そのような意味で、教師の役割は「自律した学習者(autonomous learner)」を育てることであると言えます。「自律した学習者」とは、単なる自学自習ができる生徒を指すわけではありません。「自律した学習者」とは、自ら「学習」できる者、すなわちに、新しい環境に対して自らを柔軟に適合させるべく変容を続けることができる者が「自律した"学習"者」と呼べるのだと今回の講義を通じて考えました。
 
 それでは、生徒の学習を促すために、英語教育ではどのようなことが求められるのでしょうか。学習指導要領において、日本の英語教育の目標は「コミュニケーション能力」を育成することとされています。一般にコミュニケーション能力とは、4技能(読むこと、聞くこと、書くこと、話すこと)を指し、昨今では大学入試への外部試験導入などにより4技能育成への熱はますます高まってきています。しかし、「コミュニケーション能力」とは、単に4技能を均質に伸ばせば育まれるほど単純なものなのでしょうか。さらに言えば、4技能育成の行き着く先、すなわち「上手に読む/聞く/書く/話す」とはどのようなものなのでしょうか。デューイの “commnication” という言葉の捉え方を参照することで、これらの問いについて何か手がかりを得たように思います。( もちろん、 デューイの言う “communication” と 英語教育の文脈における「コミュニケーション能力」は全く同じものを指すわけではないが、根っこの部分は同じであると私は考えます。)

 コミュニケーションとは共通理解(common understanding)に参加することであり、その意味ですべてのコミュニケーションは教育的であるとデューイは言います。共通理解に参加するとは、単なる一方的な情報の移送とは異なり、自身の経験と他者の経験をすり合わせ、それにより両者が変容を遂げるということであると解釈しました。そのように考えると、「上手に話す/書くとは」必ずしも難しい言葉を使って流暢に語ることではなく、自分の経験を相手の経験に同期することができるよう、自己をメタ的に見つめて伝えること、「上手に聞くこと/読むこと」とは、自分と異なる経験を持つものの主張を理解することと言えるのではないでしょうか。4つの技能は、そのようなコミュニケーションを成立させるために必要な能力に過ぎず、技能の育成のみに終始すべきではないと私は考えます。

 昨今の能力偏重とも言える日本の英語教育で、デューイが提唱するような教育観を見直すことには大きな意義があるように思えます。








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FO君

 デューイは『民主主義と教育』を、「人間が生きること」とはどのようなものかを述べることで始めています。デューイの考えを一言でまとめるなら、「人間が生きること」とは世界(あるいは環境)に働きかけることによって行われる自己刷新のプロセス、と言えるかと思います。人は自らすすんで世界に語りかけ、その中で自己の変容を経験することで自己を維持します。もちろん、世界への働きかけを通して私たちが経験できることは自己の変容だけではありません。私たちは世界に働きかけ、自己の変容を経験するのと同時に、世界の方も変えていきます。私はデューイのこの考えに触れたときに、これこそコミュニケーションなのではないかと思いました。

    第一章のなかで、デューイは「全てのコミュニケーションは教育的である」と述べていますが、ここでの「コミュニケーション」には普段私たちが用いている「コミュニケーション」ということば以上の意味合いが明らかに込められています。コミュニケーションということばはあまりに有名であり、およそどんな人でもこのことばを知っています。「コミュニケーションとはなにか」と聞かれると、「コミュニケーションはコミュニケーションだ」とトートロジーを用いることなしには答えることが難しいぐらい、私たちの生活にはコミュニケーションということばが身近にあります。しかし私は、そのことばが実体を持たずに独り歩きしているような印象を受けます。フェイスブックの誕生によりその意味を剥奪されてしまった「友だち」ということばを聞いたときに感じる違和感に近いのかもしれません。私たちが普段用いているような意味合いでの「コミュニケーション」が全て教育的であると言えるのか、私はひどく懐疑的です。デューイが「コミュニケーション」ということばを用いて表したかったことはこのような形骸化された意味でのやり取りではなく、自らの変容と世界の変容の両方を導いてくれるような血の通ったやり取りであるように私には思えました(デューイ自身は “all communication(and hence all genuine social life) is educative” と述べていますが、私はデューイが単にコミュニケーションとだけ言うのではなく、all genuine social lifeと付け加えていることに大きな意味があるように感じます)。

 人間は自己刷新を通して自己の維持を行う、と述べましたが、これは人が集まり、集団を形成したときにも同じことが言えます。集団を維持するためにも私たちは一人ひとりがそれぞれのやり方で世界に働きかけます。「集団を維持する」ということは、社会的集団の究極の目標であると言って差し支えないかと思いますが、人間はそういった目標に無関心な状態でこの世に産み落とされます。デューイはこのようにして生まれてくる社会の「未成熟な」メンバーに、集団としての目的や慣習を教えることができるのは教育だけであると述べています。そして、だからこそ教育が必要であると述べます。私たちは教育を通して、社会の未成熟なメンバーに「自ら世界に語りかけること」を教えます。そして、個々人が世界に関与することで集団を維持します。ここで言う「世界」は私たちを取り巻く環境のことです(デューイも “environment” を用いていました)。

 授業中のディスカッションでは autonomous learner ということばが多くの友人の口から飛び出ました。このautonomous learner こそ、自ら世界へ働きかけ(世界とコミュニケーションを図り)、その中で自己の変容も世界の変容も経験していく人のこと指すのではないでしょうか。そして、そのような人を育むために教育は行われなければならないのではないでしょうか。偶然、授業とは関係のないところでパウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』を読んでいたのですが、50周年記念版には三砂ちづるさんによるまえがきがあり、そこで彼女はこのように述べていました。


フレイレにとって識字を始めとする能力の獲得とは、尊厳を欠く労働現場に学生を送ったり、「キャリア」を積んだりする準備のためのものではなく、セルフマネージできる、すなわち、それぞれが自らの意思で人生を送っていけるようになるための準備なのである。(p.21)



 私たちはこれから学校内外で多くのことを教えることになると思います。そのとき私たちが忘れてはならないことは、なにを教えるにせよそれら全てが「生徒が自らの意思で彼ら自身の人生を送っていける」ことに繋がらなければならない、ということであるように思います。







2018/10/09

「学び」あるいは「勉強」について


「英語教師のためのコンピュータ入門」という授業は、 学部一年生向けということもあって、いろいろな問題提起をして、学生さんに考え語り合ってもらうようにしています。

先日提起した問題の一つは、「学び」あるいは「勉強」についてでした。多動傾向のある私(笑)は、「忍耐力は、学びにおいて重要ではない。なぜなら放っておかれたらずっとそればかりやってしまうぐらいに好きなことを見つけ、それに没頭することが学びだから」といった私見を述べました。

以下はその意見に対する反対意見、賛同意見、あるいは独自の見解です。







*****

■ Aさん


今回の授業で疑問に思ったことを一つここで述べようと思う。

「好きなものはやれと言われなくても自分から進んでやる。」という先生の言葉についてである。

確かに、好きなものには自然とハングリー精神が湧いてくるものだ。

しかし世の中好きなものばかりではない。現に私も小学生の頃は英語が好きではなかった。その私がなぜ英語教師になろうと思うほど英語を好きになれたのか。それはきっとやりたくない、しんどいと思うトレーニングをコツコツ続けたからだ。毎日取り組んでいると、自然に力がつく。力がつくと、できること・分かることが増える。できること・分かることが増えると、やりがいを感じて意欲的になる。私はその中で英語の魅力を感じ取った。

嫌いなものだと努力し続けるのには相当な力が必要である。でも、嫌いなものを好きになることができたら、それはその人の可能性を広げる糧となるだろう。私は子どもたちにその努力する力、忍耐力をつけるように指導することも重要だと思うが、いかがだろうか。


■ B君

 高校時代の受験勉強は、センター試験に向けて9教科も勉強せねばならず、そのことを嘆いていたのをよく覚えています。「日本史や化学基礎、生物基礎なんて、絶対将来使わないよなぁ」と思っていた私は、それらを勉強する理由を自分なりに考えてみることにしました。そして、学校の勉強はとても嫌で、しかしやらなければならないことをいかに自分の生活に取り込むか、そしてそれに耐えうる忍耐力を養うためにあるのだという考えに至りました。

 僕は、勉強が好きではなかったですが、大学進学のためには9教科勉強する必要があります。そのために、私は電車通学の時間には英単語の暗記、学校の自学の時間には入試の過去問を、というように、9教科の勉強を自分の一日の流れに組み込みました。そのために、自分のやりたいことを我慢しなければならなかったし、勉強ばかりの一日がこれからずっと続くのかと思うととてもつらかったです。しかし、そんな日々を乗り越えたことは自分にとっても自信になりました。子供のころから幸福に育ち、しかも正直勉強が大好きでいくらやったって精神的には全然きつくない、という人は社会に出てから大丈夫なのか、と思ってしまいます。もちろん今の社会から求めらる学力は周りよりも身につくかもしれませんが、精神的な忍耐力に関して言えば、勉強が好きなら、ゲームばかりしている子と変わりません。

 この世を好きなことだけやって生きていけるとは、私は思いません。ですから、私は勉強というのは一般的には難しくて、嫌で、自分なりに意味を見出すことが難しいものであることも、勉強をする理由なのではないかと思います。また、だからこそ、義務教育という形で、社会に出る前の子供たちに立ちはだかっている。そして、忍耐力に加えて、生涯を通して必要となる思考力を身につける。これが学校の勉強の本質的な意義であると私は思います。


■ C君

 先生がおっしゃるように、世界の急速な変化は近年著しく進んできているため、時代の変化についていくためにも『勉強をしよう』というのは疑いの余地がないほど正しいことである。しかし、私はどうしても『勉強』という単語に抵抗がある。

 最近ある本を読んで感じたことだが、『勉強する』ことと『学ぶ』ということは根本から違うのではないかということである。勉強とは、読んで字のごとく『強いて勉める』つまり精一杯努力をするということではあるのだが、語源を調べたところ商人の値下げの例も書かれていた。そのことから、書かれてはなかったものの多少なりと『嫌々ながら』頑張るというニュアンスも含まれるのではないかと考えた。反対に『学び』については、その本の中では「自分の興味関心があるものに没頭して得られるもの」という記載のされ方であった。この区別の仕方は非常に納得がいった。今までの経験から考えて見ても、社会的規範だとか情報の集め方だとかは自分の関心のある分野から得たものの方が圧倒的に多いからである。しかし、一人の人間としての自立をしなければならない年齢に達した今では、勉強も生きるために必要であることは言うまでもない。

 このような理由で私は、将来自分がつくであろう高校教員、あるいは義務教育課程における教員に求められることは、生徒に『学ばせる』こと、もっと言えば『何かに没頭させる』ことではないかと考える。もちろん好きなことだけやれば良いというわけではないが、先生がラグビー部OBの方を例に出したように、没頭する経験は後の人生において非常に重要だと改めて感じた。大学生活は比較的自由が与えられているため、この機会に4年間は好きなことに没頭していこうと思う。


■ D君

やらされていると感じてしまうがゆえに勉強することが嫌いになり、結果として「学ぶ」ということを学ばないまま大人になっていく子供たちが多いという指摘について意見を述べたい。やらされている、つまり他律の中で行うものは基本的には苦痛を多少なりともなうものである。なぜならそれをやっている本人たちが楽しめていないから、であることは明白であろう。これに対して自律的に行うもの、ここでは自らが楽しいと感じて行うものであるが(授業中ではサッカーの例が出た)、人々によっては疲れ果てるまでこの自律的に行うものを楽しみながら遂行するだろう。ただ、自らがやって楽しいかどうかということだけで成果が大きく違ってくるのである。教育者を志すものとしてこれを促す、「学ぶ喜び」を体感させることの重要性を把握しておくことは寛容であると感じた。授業中に「キノコ博士」と呼ばれた少年が出てきたが、彼はその「学ぶ喜び」を知っているという点で大変優れた人物であるといえよう。


関連記事
学校に行かず、自分の「好き」を突き詰める―中3のキノコ博士:山下光君と母仁美さんに聞く「自分らしい生き方」とは
http://un-control.com/2018/08/06/yamashitafamily/



■ Eさん

私は学習できる環境にいます。大学に通わせてもらい、学習に必要なものも与えてもらっています。やりたいことを好きなだけさせてくれる両親は、私のすることに口を挟まないし、反対することもなく見守ってくれます。学びたいことを好きなだけ学ばせてくれます。

私は勉強を強制されたことがありません。中学生の頃、全く勉強しない時期がありました。勉強をしなくてもとりあえず高校に上がれる安心感と、四則演算さえできれば数学なんてできなくても生きていけるという中学生特有のひねくれた考えのおかげで勉強する意欲をなくしました。その時でも両親は何も言いませんでした。

私はその時、最初は楽しかったけれど、しばらくするとなんとなく寂しくなりました。確かに数学ができなくても生きていけるけれど、知識があまりに乏しいことに不満を覚えるようになりました。学んだことが自分の知識になることが学ぶ喜びであり、その喜びを味わいたいがために勉強するのだということに気づきました。そして、学んだことに無意味なことなど一つもなく、生きていく上で、生きるために働く上で、学ぶことは必須なのだと知りました。今回の授業で、Lifelong Learningの話を聞いて、まさにそうだと同意しました。


■ Fさん

 今回の授業を受けて、「学ぶ」ということについて考えてみた。私たちはたまたま大学に通っているため、学習しなさい、学びなさい、と言われると学術的な学びになってしまう。しかしそれだけが学びだろうか。生涯学習とは一生学問に触れていなさいということなのだろうか。そんなに頭が良くて勉強ができる人は偉いのだろうか。私はこのような社会の風潮が今の日本をだめにしていると思う。エリートなんてただ勉強ができるだけの人たちの集まりだと思っている。勉強ができるのはそんなに偉いのだろうか。

 私は、違う意味で学ばないことは愚かなことだと思う。しかし「学ぶ」という単語に対して私なりの解釈をしたうえでだ。たとえば、学校の勉強などせずに大好きなサッカーばかりをしている人がいるとしよう。この人は学ぶことをしない愚かな人だといえようか。親や教師はこの人に勉強を強要すべきだろうか。私はそれは違うと思う。たしかに社会生活を営む上での最低限の知識は必要だろう。しかしそんなのは意外と勝手に身につくものである。そんなくだらない理由でその人の才能を潰す方が私は愚かだと思う。その人はサッカーの戦術や技術を日々のトレーニングの中で「学んで」いるからだ。

スーパーのレジ打ちのパートをしている主婦はどうだろうか。この人は勉強をしていないから愚かなのだろうか。私はそれは違うと思う。家事もパートの仕事も、日々の失敗から「学び」、二度と同じ失敗を繰り返さないように改善策を探し出す。勉強しかできない人より、よっぽど立派だと思う。生まれたばかりの乳児でさえ、言語や体の動かし方を自分の力で修得していく。世の中に学ばない人などほとんど存在しないのだ。

 もちろん、私は教員を目指しているため、生涯を通して学問と、英語と向き合う必要がある。それは十分に理解しているため、もっと本を読み、視野を広げ、英語力の向上のために努力しようと思う。しかし、ただ知識量が多く英語ができるだけの教員にはなりたくない。もっと様々なことに挑戦し、学問の面だけでなく、他分野に関しても幅広い視野を持った教員、人間になりたい。なぜなら、学校で教える生徒の全員が学問を生業にするわけでもなく、そもそも大学に進学するわけでもないからだ。私たちがこうして学問に向き合えているのも、学問ではない分野で日々「学び」を重ね、その身を削って努力してくれている人が、学問に触れている人よりもはるかに多くいるおかげだということを忘れてはならない。

 このようなことを書きましたが、決して私が勉強から逃げたいからでも、先生方を非難したいからでもありません。むしろ私は小学校から大学まで、先生方や環境には恵まれてきたと強く感じています。


■ Gさん

 私は、今回の講義を通して、自分の教育や英語に対する考えがひどく甘いことに気付かされた。中でも、特に印象に残っているのは、「 " Lifelong Education "ではなく、" Lifelong Learning "である」という先生の言葉だ。私は、先生のその言葉について、じっくりと考えた。

 まず初めに、" Lifelong Education "と" Lifelong Learning "の違いについて述べたいと思う。どちらも、「生涯学習」と捉えることができるかもしれないが、この2つには決定的な違いがある。講義中、先生がおっしゃられていたが、" Lifelong Learning " というのは、 「自発的に学ぶ(能動的に学ぶ)」ことなのだ。それに対して、" Lifelong Education "は、「受動態で学ぶ」と表せるのではないかと私は考える。「能動」と「受動」という点で、この2つにおける学びの姿勢は全く正反対のものであるように思う。では、何故 " Lifelong Learning " であるのだろうか。

 人々にはいつまでも先導し、守ってくれるような人が存在するわけではないからである、と私は考えた。私たちはこれまでの人生を、親や周囲にいる大人、そして教員に甘えることで導かれ、そして守られて生きてきた、と言っても過言ではないと私は思う。しかし、社会に出てからはそんなことがあるはずもない。自分で自分自身の行動の責任を取っていかなければならないのだ。その上、親や教員になると、自分の子どもや児童・生徒たちを導く立場となる。そのためにも、ただ与えられた課題や問題を解法に従って機械的に解決するだけではなく、自ら課題や問題を見つけ、それについてじっくりと考えることが大切なのであると考える。これに関連して、先生のブログ記事『考える・調べる・尋ねる』を読んで私は以下のようなことを感じた。

 社会に出て、「手取り足取り教えてください」などという甘えは通用するわけない、ということである。自分で考えて動く力が求められるのである。その力の基盤として「学ぶ方法を学ぶ」という教育の1つの目的があげられるように思う。しかし、学校教育を通して「学ぶ方法を学ぶ」ことができているのかといわれると、私はそうは思わない。私は小・中・高の間、学校教育を受けてきたが、私も含め児童・生徒たちはこのことを全く意識しておらず、「なんで勉強しなくてはならないのだろう」といいながら勉強していたことをよく覚えている。勉強をする理由として「受験があるから」などの目先の目標に向かうことが多く、自分の将来を見据えたような発言は耳にしたことがあまりなかった。意識せずとも、自然に身についている友人もいたように今考えてみると思うが、大半はただただ高得点をたたき出すためや、赤点を回避するためなどに囚われ、「学ぶ方法を学ぶ」ことに辿り着いていなかったように思う。

 私は、小学校高学年から高校生で「学ぶ方法を学ぶ」ことを児童・生徒たちに伝えていくべきであると考える。小学校高学年から、と私が考えたのは、小学校低学年・中学年では、学校生活を通して小さな社会での経験を積むことが最優先ではないかと思ったためである。また、このことを実施していくにあたって、現在の学校教育の評価方法も見つめなおすべきであると考えた。関心・意欲・態度、また児童・生徒の努力を評価材として、もっと成績に反映するべきであるように思う。これらは、テストの点や実技と比較して非常に目に見えにくく、評価しにくいものであると感じ、まだ具体的に方法が思いつくわけでもないのだが、様々な形で評価していけるようになるとよいのではないかと考える。

 また、" Lifelong Learning ”の基盤を学校教育を通して作り上げることにおいて、「活字離れ」という問題はとても深刻なものであるように感じる。教養の広さや、物事を深く考えて感じる力は、本や新聞を読むことによって主に培われるように考える。だからこそ、1冊でも多くの本に触れてほしいと思うが、なかなかそうはいかない。私は子どもたちが本を読むようになるためには、家庭での環境づくりが必要であるように感じる。私自身、幼いころに母が読み聞かせをしてくれたり、頻繁に図書館に連れて行ってくれたりしてくれたこともあり、本を読むことが好きである。このように、家庭の環境1つで変わることもあり、学校だけで完結をすることは難しいこともあるため、家庭の協力が" Lifelong Learning "の基盤づくりには不可欠になると考えた。まずは、私自身がより本を読むようにし、どちらの立場になった時でも子どもたちが本に触れる機会を多く作っていけるようになりたいと感じる。


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授業を通じて、さまざまな意見、特に自分とは異なる意見を理解し、そこから自分を変革する力を(私自身を含めて)培いたいと思います。



機械翻訳がますます発展する現在、学校英語教育の意義は失われているのではないか?



学部一年生の授業で、ある学生さんから「これまでの話とはあまり関係ないが、先生自身は、現在、学校で英語教育を行うことの意義をどう考えているのか?機械翻訳がますます発展する中、正直、学校英語教育は意義を失いつつあるのではないのか」という問いかけがありました。

私はその学生さんの意見を聞いた上で、私が日頃考えていた自分の意見を述べましたが、その応答は他の学生さんにも多少の印象を与えたらしく、以下の書き込みが授業用の電子掲示板にありました。

おざなりのことばをできるだけ使わずに書かれた、いい文章であるようにも思えましたので、ここに転載します。







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10月3日の講義で 一番印象深かったのは、「翻訳機能が発達した世の中で英語教育は必要か否か」という質問に対する先生の回答である。

 言語を操ること、言語で意思を疎通させること、はたまた言語それ自体。日常的に行われている言語活動は、当たり前すぎて看過しがちだが、非常に美しく魅力的だ。

 私自身 留学中、英語が上手く操れない期間は自分の声を奪われたような感覚に陥り、言語の必要不可欠性を痛感した。筆談にしてもらったり、辞書や翻訳機能に頼ったりすることで、自分の意思を相手に理解してもらうことはできたが、それはコミュニケーションとは かけ離れたものであり 非常に辛い思いをした。

 しかし、一年間の留学も後半に差し掛かった頃から、少し欠陥はあるものの 言語を通してコミュニケーションが成立する場面が増え、充足を実感できた時の感動は、今でも忘れることはできないほど素晴らしかった。

 言語は人の意思と意思の間を繋ぐ「手段」でしかないが、言語を手段として広がる世界は いつでも私に感動を与えてくれる。誰かの言葉に嬉しくなったり、傷ついたり、幸せになったり…と気持ちに変化を生じさせる言語は 私を退屈させることはないし、言語によって生かされていると感じることは多々ある。(コースの性質上 英語に焦点を当てることが多いが、もちろん 日本語も決して例外では無い。)

 英語教育は、英語”を”教えるのが通例となっていて 本来の言語の役割や喜びを体感する手前で学習が終わっている。言語を操るために 英語”を”学習する過程を飛ばすことはできないが、英語”で”広がる世界を体験するところまで 英語教育の内容を拡張することができたなら、この先も 英語教育の存在意義は保持されるだろう、と私は思うのである。


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皆さんは、現代における学校英語教育の意義についてどう考えますか?




2018/10/05

12/9(日)に広島大学英語教育学会を開催します。一般公開企画「英語資格試験を問い直す」には会員でない方も参加できます!







この夏に豪雨災害により延期した広島大学英語教育学会ですが、以下の要領で開催します。午後には一般公開企画もありますので、会員の方々はもとより英語教育に興味をお持ちの生徒・学生・英語教師・一般市民の方々もぜひお越しください。


■ 名称: 広島大学英語教育学会

■ 日時: 2018年12月9日(日)10:00-16:30
※ ただし一般公開企画は 14:10-16:30

■ 場所: 広島大学教育学部K104教室・K102教室
https://www.hiroshima-u.ac.jp/access/higashihiroshima
https://www.hiroshima-u.ac.jp/access/higashihiroshima/busstop_higashihiroshima/aca_3
※ 広島大学東広島キャンパスは文字通り「広大」なので(笑)、初めてお越しの方は十分に地図などで場所をご確認ください。

■ スケジュール
09:30-10:00 (K104) 受付
10:00-10:40 (K104) 学会総会
10:50-12:00 (K104)    実践志向部門・座談会
「新任者教員の苦労と展望を語り合う」
 登壇する初任者教員
壬生川奏美(広島県福山市立手城小学校教諭)
高橋 伶奈(広島県三原市立第二中学校教諭)
重定 拓実(岡山県立倉敷工業高等学校教諭)
手島 英華(広島県立尾道東高等学校教諭)
 コーディネーター
樫葉みつ子(広島大学教育学部准教授)
12:00-13:00       昼食
各自でお取りください。
13:00-14:00 (K104)     研究志向部門・研究発表
「日本人英語学習者の不平発話行為運用に対する英語母語話者による適切性判断の分析」
梅木璃子(広島大学大学院生博士課程後期)
         
「日本人英語学習者が産出する英語移動表現の特徴と産出に困難を感じる表現の特性」
平野洋平(神戸市立工業高等専門学校准教授)
 14:10-14:30 (K102)    小論文最優秀作品発表
 ゲスト:清水一生さん(第二回英語教育小論文コンテスト最優秀賞受賞者)
 14:30-15:30 (K102)    対話の集い
「英語資格試験を問い直す」
一般参加者も含めて、参加者全員が対等な立場で語り合います。
 コーディネーター
 柳瀬陽介(広島大学教育学部教授)
15:30-15:40 (K102)    閉会行事
15:40-16:30 (K104)    情報交換会(ワンコインパーティ・500円)
茶菓子代500円でどなたでも参加できるパーティです。
忌憚のない話を楽しみたいと思います。ぜひご参加を!



*****


以下、主な行事のチラシも掲載します。






実践志向部門主催の座談会では、初任者教員の様子を率直に語っていただき、会員相互で知恵を共有したいと思います。これから教員を目指す学生会員が将来について学べる機会であることはもとより、先輩教員も初任者教員の本音を知ることにより学べますし彼ら・彼女らに助言をすることで充足感を覚えることもできるかと思います。一人でも多くの会員の皆様の参加をお待ちしております。









研究志向部門の研究発表では、新進気鋭のお二人の発表を聞きます。最新の研究成果について学びませんか。こちらも多くの会員の皆様の参加をお待ちしております。











一般公開企画は、14:10の「小論文最優秀作品発表」から始まります。受賞者の清水一生さんをお呼びし、作品で表現したかった意図を語ってもらい、次の「対話の集い」につなげます。

14:30から始まる「対話の集い」では、「英語資格試験を問い直す」をテーマに、会員・非会員の枠を超えて英語教育の今後のあり方について対等な立場で語り合います。

主な論点は、小論文最優秀作品で示された以下の三点です。
・英語資格試験は「グローバル社会」を生き抜く人材を育成しているか?
・英語資格試験の面接はあまりに形式的で機械的すぎないか?
・英語資格試験は過剰なプライドだけを与えているのではないか?

短い閉会式を終えたら、最後の一般公開企画である情報交換会(ワンコインパーティ)を15:40から開始します。「三人寄れば文殊の知恵」ではありませんが、「対話の集い」では語りきれなかったこと、および英語教育一般についてなどなど、気軽に話し合いたいと思います。

「来てよかった」と思っていただける学会にします。どうぞご参加を!





2018/10/03

「最強の読書会」が再開されます(月曜昼休み:学生プラザ一階)


管理人の都合で中止になった以前の「昼読」を引き継ぐような形で、スタートした総合科学部一年生の廣瀬詠太郎君による「最強の読書会」が、第三タームは月曜の昼休みに開催されることになりました。場所は前回と同じで学生プラザの一階です。





さきほど読んでいた本に、このような言葉がありました。

The new world of communication is blessing for the citizens of the world trained to think critically and knowledgeable about history.
But what about citizens who have been seduced by the world of life as entertainment and commerce?

Antonio Damasio 
"

私は旧世代に属しており読書をする文化を学ぶことができましたので、自分の時間がSNSに侵食され、私の意識世界が、他愛もない世間話と広告に満たされてしまうことに我慢がなりません。ですから、ある程度のSNS断ちをして読書に時間を費やすことができます。

しかし新しい世代の多くの人は、無自覚なままにSNSに誘導され、読書を始めとした知的習慣から遠のいているような気がします。卒業や受験のための最小限の読書を他律的に行うだけで、読書の喜びを知らないまま、ますますSNSにふけっているように思えます。

激変する世界状況を考えれば、知的習慣からの逃避は将来の自分を弱体化することに他ならないでしょうか。それによって本来もっていたはずの可能性を失うのは自分自身だけでなく、自分の家族、そして(教員の場合なら)自分の児童・生徒・学生です。

ここは一つ、意図的な習慣を作り、読書を楽しむ文化を学ぶ自己訓練を行うべきではないでしょうか。

若い世代の皆さんの参加を心からお待ちしています。

いや、古い世代の私が偉そうに言うことではありません。廣瀬君を始めとしたこの読書会のメンバーのように知的に目覚めて自律的に行動しようとする若い世代は確実にいます。

共に学びましょう!



大学院新入生ガイダンスを行いました

学部に引き続き、大学院新入生ガイダンスも行いました。新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます! こちらは学部と違って、やはりみなさん大人の落ち着きがあります!学部から大学院にそのまま進学した人、一度学部を卒業してしばらく教員をしてから大学院に戻ってきてくれた人など様々です。各...