2018/10/09

「学び」あるいは「勉強」について


「英語教師のためのコンピュータ入門」という授業は、 学部一年生向けということもあって、いろいろな問題提起をして、学生さんに考え語り合ってもらうようにしています。

先日提起した問題の一つは、「学び」あるいは「勉強」についてでした。多動傾向のある私(笑)は、「忍耐力は、学びにおいて重要ではない。なぜなら放っておかれたらずっとそればかりやってしまうぐらいに好きなことを見つけ、それに没頭することが学びだから」といった私見を述べました。

以下はその意見に対する反対意見、賛同意見、あるいは独自の見解です。







*****

■ Aさん


今回の授業で疑問に思ったことを一つここで述べようと思う。

「好きなものはやれと言われなくても自分から進んでやる。」という先生の言葉についてである。

確かに、好きなものには自然とハングリー精神が湧いてくるものだ。

しかし世の中好きなものばかりではない。現に私も小学生の頃は英語が好きではなかった。その私がなぜ英語教師になろうと思うほど英語を好きになれたのか。それはきっとやりたくない、しんどいと思うトレーニングをコツコツ続けたからだ。毎日取り組んでいると、自然に力がつく。力がつくと、できること・分かることが増える。できること・分かることが増えると、やりがいを感じて意欲的になる。私はその中で英語の魅力を感じ取った。

嫌いなものだと努力し続けるのには相当な力が必要である。でも、嫌いなものを好きになることができたら、それはその人の可能性を広げる糧となるだろう。私は子どもたちにその努力する力、忍耐力をつけるように指導することも重要だと思うが、いかがだろうか。


■ B君

 高校時代の受験勉強は、センター試験に向けて9教科も勉強せねばならず、そのことを嘆いていたのをよく覚えています。「日本史や化学基礎、生物基礎なんて、絶対将来使わないよなぁ」と思っていた私は、それらを勉強する理由を自分なりに考えてみることにしました。そして、学校の勉強はとても嫌で、しかしやらなければならないことをいかに自分の生活に取り込むか、そしてそれに耐えうる忍耐力を養うためにあるのだという考えに至りました。

 僕は、勉強が好きではなかったですが、大学進学のためには9教科勉強する必要があります。そのために、私は電車通学の時間には英単語の暗記、学校の自学の時間には入試の過去問を、というように、9教科の勉強を自分の一日の流れに組み込みました。そのために、自分のやりたいことを我慢しなければならなかったし、勉強ばかりの一日がこれからずっと続くのかと思うととてもつらかったです。しかし、そんな日々を乗り越えたことは自分にとっても自信になりました。子供のころから幸福に育ち、しかも正直勉強が大好きでいくらやったって精神的には全然きつくない、という人は社会に出てから大丈夫なのか、と思ってしまいます。もちろん今の社会から求めらる学力は周りよりも身につくかもしれませんが、精神的な忍耐力に関して言えば、勉強が好きなら、ゲームばかりしている子と変わりません。

 この世を好きなことだけやって生きていけるとは、私は思いません。ですから、私は勉強というのは一般的には難しくて、嫌で、自分なりに意味を見出すことが難しいものであることも、勉強をする理由なのではないかと思います。また、だからこそ、義務教育という形で、社会に出る前の子供たちに立ちはだかっている。そして、忍耐力に加えて、生涯を通して必要となる思考力を身につける。これが学校の勉強の本質的な意義であると私は思います。


■ C君

 先生がおっしゃるように、世界の急速な変化は近年著しく進んできているため、時代の変化についていくためにも『勉強をしよう』というのは疑いの余地がないほど正しいことである。しかし、私はどうしても『勉強』という単語に抵抗がある。

 最近ある本を読んで感じたことだが、『勉強する』ことと『学ぶ』ということは根本から違うのではないかということである。勉強とは、読んで字のごとく『強いて勉める』つまり精一杯努力をするということではあるのだが、語源を調べたところ商人の値下げの例も書かれていた。そのことから、書かれてはなかったものの多少なりと『嫌々ながら』頑張るというニュアンスも含まれるのではないかと考えた。反対に『学び』については、その本の中では「自分の興味関心があるものに没頭して得られるもの」という記載のされ方であった。この区別の仕方は非常に納得がいった。今までの経験から考えて見ても、社会的規範だとか情報の集め方だとかは自分の関心のある分野から得たものの方が圧倒的に多いからである。しかし、一人の人間としての自立をしなければならない年齢に達した今では、勉強も生きるために必要であることは言うまでもない。

 このような理由で私は、将来自分がつくであろう高校教員、あるいは義務教育課程における教員に求められることは、生徒に『学ばせる』こと、もっと言えば『何かに没頭させる』ことではないかと考える。もちろん好きなことだけやれば良いというわけではないが、先生がラグビー部OBの方を例に出したように、没頭する経験は後の人生において非常に重要だと改めて感じた。大学生活は比較的自由が与えられているため、この機会に4年間は好きなことに没頭していこうと思う。


■ D君

やらされていると感じてしまうがゆえに勉強することが嫌いになり、結果として「学ぶ」ということを学ばないまま大人になっていく子供たちが多いという指摘について意見を述べたい。やらされている、つまり他律の中で行うものは基本的には苦痛を多少なりともなうものである。なぜならそれをやっている本人たちが楽しめていないから、であることは明白であろう。これに対して自律的に行うもの、ここでは自らが楽しいと感じて行うものであるが(授業中ではサッカーの例が出た)、人々によっては疲れ果てるまでこの自律的に行うものを楽しみながら遂行するだろう。ただ、自らがやって楽しいかどうかということだけで成果が大きく違ってくるのである。教育者を志すものとしてこれを促す、「学ぶ喜び」を体感させることの重要性を把握しておくことは寛容であると感じた。授業中に「キノコ博士」と呼ばれた少年が出てきたが、彼はその「学ぶ喜び」を知っているという点で大変優れた人物であるといえよう。


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■ Eさん

私は学習できる環境にいます。大学に通わせてもらい、学習に必要なものも与えてもらっています。やりたいことを好きなだけさせてくれる両親は、私のすることに口を挟まないし、反対することもなく見守ってくれます。学びたいことを好きなだけ学ばせてくれます。

私は勉強を強制されたことがありません。中学生の頃、全く勉強しない時期がありました。勉強をしなくてもとりあえず高校に上がれる安心感と、四則演算さえできれば数学なんてできなくても生きていけるという中学生特有のひねくれた考えのおかげで勉強する意欲をなくしました。その時でも両親は何も言いませんでした。

私はその時、最初は楽しかったけれど、しばらくするとなんとなく寂しくなりました。確かに数学ができなくても生きていけるけれど、知識があまりに乏しいことに不満を覚えるようになりました。学んだことが自分の知識になることが学ぶ喜びであり、その喜びを味わいたいがために勉強するのだということに気づきました。そして、学んだことに無意味なことなど一つもなく、生きていく上で、生きるために働く上で、学ぶことは必須なのだと知りました。今回の授業で、Lifelong Learningの話を聞いて、まさにそうだと同意しました。


■ Fさん

 今回の授業を受けて、「学ぶ」ということについて考えてみた。私たちはたまたま大学に通っているため、学習しなさい、学びなさい、と言われると学術的な学びになってしまう。しかしそれだけが学びだろうか。生涯学習とは一生学問に触れていなさいということなのだろうか。そんなに頭が良くて勉強ができる人は偉いのだろうか。私はこのような社会の風潮が今の日本をだめにしていると思う。エリートなんてただ勉強ができるだけの人たちの集まりだと思っている。勉強ができるのはそんなに偉いのだろうか。

 私は、違う意味で学ばないことは愚かなことだと思う。しかし「学ぶ」という単語に対して私なりの解釈をしたうえでだ。たとえば、学校の勉強などせずに大好きなサッカーばかりをしている人がいるとしよう。この人は学ぶことをしない愚かな人だといえようか。親や教師はこの人に勉強を強要すべきだろうか。私はそれは違うと思う。たしかに社会生活を営む上での最低限の知識は必要だろう。しかしそんなのは意外と勝手に身につくものである。そんなくだらない理由でその人の才能を潰す方が私は愚かだと思う。その人はサッカーの戦術や技術を日々のトレーニングの中で「学んで」いるからだ。

スーパーのレジ打ちのパートをしている主婦はどうだろうか。この人は勉強をしていないから愚かなのだろうか。私はそれは違うと思う。家事もパートの仕事も、日々の失敗から「学び」、二度と同じ失敗を繰り返さないように改善策を探し出す。勉強しかできない人より、よっぽど立派だと思う。生まれたばかりの乳児でさえ、言語や体の動かし方を自分の力で修得していく。世の中に学ばない人などほとんど存在しないのだ。

 もちろん、私は教員を目指しているため、生涯を通して学問と、英語と向き合う必要がある。それは十分に理解しているため、もっと本を読み、視野を広げ、英語力の向上のために努力しようと思う。しかし、ただ知識量が多く英語ができるだけの教員にはなりたくない。もっと様々なことに挑戦し、学問の面だけでなく、他分野に関しても幅広い視野を持った教員、人間になりたい。なぜなら、学校で教える生徒の全員が学問を生業にするわけでもなく、そもそも大学に進学するわけでもないからだ。私たちがこうして学問に向き合えているのも、学問ではない分野で日々「学び」を重ね、その身を削って努力してくれている人が、学問に触れている人よりもはるかに多くいるおかげだということを忘れてはならない。

 このようなことを書きましたが、決して私が勉強から逃げたいからでも、先生方を非難したいからでもありません。むしろ私は小学校から大学まで、先生方や環境には恵まれてきたと強く感じています。


■ Gさん

 私は、今回の講義を通して、自分の教育や英語に対する考えがひどく甘いことに気付かされた。中でも、特に印象に残っているのは、「 " Lifelong Education "ではなく、" Lifelong Learning "である」という先生の言葉だ。私は、先生のその言葉について、じっくりと考えた。

 まず初めに、" Lifelong Education "と" Lifelong Learning "の違いについて述べたいと思う。どちらも、「生涯学習」と捉えることができるかもしれないが、この2つには決定的な違いがある。講義中、先生がおっしゃられていたが、" Lifelong Learning " というのは、 「自発的に学ぶ(能動的に学ぶ)」ことなのだ。それに対して、" Lifelong Education "は、「受動態で学ぶ」と表せるのではないかと私は考える。「能動」と「受動」という点で、この2つにおける学びの姿勢は全く正反対のものであるように思う。では、何故 " Lifelong Learning " であるのだろうか。

 人々にはいつまでも先導し、守ってくれるような人が存在するわけではないからである、と私は考えた。私たちはこれまでの人生を、親や周囲にいる大人、そして教員に甘えることで導かれ、そして守られて生きてきた、と言っても過言ではないと私は思う。しかし、社会に出てからはそんなことがあるはずもない。自分で自分自身の行動の責任を取っていかなければならないのだ。その上、親や教員になると、自分の子どもや児童・生徒たちを導く立場となる。そのためにも、ただ与えられた課題や問題を解法に従って機械的に解決するだけではなく、自ら課題や問題を見つけ、それについてじっくりと考えることが大切なのであると考える。これに関連して、先生のブログ記事『考える・調べる・尋ねる』を読んで私は以下のようなことを感じた。

 社会に出て、「手取り足取り教えてください」などという甘えは通用するわけない、ということである。自分で考えて動く力が求められるのである。その力の基盤として「学ぶ方法を学ぶ」という教育の1つの目的があげられるように思う。しかし、学校教育を通して「学ぶ方法を学ぶ」ことができているのかといわれると、私はそうは思わない。私は小・中・高の間、学校教育を受けてきたが、私も含め児童・生徒たちはこのことを全く意識しておらず、「なんで勉強しなくてはならないのだろう」といいながら勉強していたことをよく覚えている。勉強をする理由として「受験があるから」などの目先の目標に向かうことが多く、自分の将来を見据えたような発言は耳にしたことがあまりなかった。意識せずとも、自然に身についている友人もいたように今考えてみると思うが、大半はただただ高得点をたたき出すためや、赤点を回避するためなどに囚われ、「学ぶ方法を学ぶ」ことに辿り着いていなかったように思う。

 私は、小学校高学年から高校生で「学ぶ方法を学ぶ」ことを児童・生徒たちに伝えていくべきであると考える。小学校高学年から、と私が考えたのは、小学校低学年・中学年では、学校生活を通して小さな社会での経験を積むことが最優先ではないかと思ったためである。また、このことを実施していくにあたって、現在の学校教育の評価方法も見つめなおすべきであると考えた。関心・意欲・態度、また児童・生徒の努力を評価材として、もっと成績に反映するべきであるように思う。これらは、テストの点や実技と比較して非常に目に見えにくく、評価しにくいものであると感じ、まだ具体的に方法が思いつくわけでもないのだが、様々な形で評価していけるようになるとよいのではないかと考える。

 また、" Lifelong Learning ”の基盤を学校教育を通して作り上げることにおいて、「活字離れ」という問題はとても深刻なものであるように感じる。教養の広さや、物事を深く考えて感じる力は、本や新聞を読むことによって主に培われるように考える。だからこそ、1冊でも多くの本に触れてほしいと思うが、なかなかそうはいかない。私は子どもたちが本を読むようになるためには、家庭での環境づくりが必要であるように感じる。私自身、幼いころに母が読み聞かせをしてくれたり、頻繁に図書館に連れて行ってくれたりしてくれたこともあり、本を読むことが好きである。このように、家庭の環境1つで変わることもあり、学校だけで完結をすることは難しいこともあるため、家庭の協力が" Lifelong Learning "の基盤づくりには不可欠になると考えた。まずは、私自身がより本を読むようにし、どちらの立場になった時でも子どもたちが本に触れる機会を多く作っていけるようになりたいと感じる。


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授業を通じて、さまざまな意見、特に自分とは異なる意見を理解し、そこから自分を変革する力を(私自身を含めて)培いたいと思います。



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