2018/10/30

「Google翻訳が急速に発達している現代において英語を学ぶ意義は何か」ーー院生の回答


   先日の授業の中で、「Google翻訳が急速に発達している現代において英語を学ぶ意義は何か」という問いを扱いました。以下は、院生三名による回答です。



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■ OT君

「Google翻訳が急速に発達している現代において英語を学ぶ意義は何か」という問いが前回の授業で挙げられた。Google翻訳をはじめとした人工知能はたしかに現在ものすごいスピードで進化している。人間が何年もの時間をかけて学ぶことを人工知能はものの数時間、数分、あるいは数秒のうちにやってのけてしまう。いずれ、それも近いうちに文法上誤りのない翻訳はできるようになるのだと思う。仮に単なる情報伝達の道具(記号)として英語をとらえるとすれば、英語を学習する意義というのはいずれなくなるだろう。

 それではどのような点において英語学習は意義を持つのか。人工知能にとってのことばと、人間にとってのことばはどのような点において異なるのかを考えたい。

 人工知能にとってことばとは、言語体系そのもののことであり、それ以外の何物でもない。”blue”は「青い」を指すだけで、水色を含むのか、群青色を含むのか、といったことは問題視しない。”comic books”は「マンガ」を指すだけで、そこには何の具体性もなければ個人的な趣向性も見られない。つまり人工知能にとってのことばとは、ある物や事、概念に対応する記号でしかないのである。

 一方で人間にとってことばとは、単なる言語体系だけの範囲にとどまらず、それぞれの個人あるいは共同体にとって個別の意味を持つ。そしてこれらの意味というのはたとえ言語体系が完全に構築されていなかったとしても存在しうる。例えば”blue”という単語に関していえば、ある人は空の青さを思い浮かべ、ある人は9月で終わった朝の連ドラを思い出し、ある人は横浜ベイスターズを連想するかもしれない。”comic book”という語に関しても、聞いたとたんに上杉達也を思い浮かべる人もいれば、幼い頃の誕生日プレゼントの思い出を懐古する人もいれば、『ワンピース』が好きな某先生のことが脳内をかすめる人もいる。つまり、私たち人間は言語体系を完全にマスターするようなことはできないのかもしれないけど、ことばに広がりを持たせることができるのである。

 “I have a dream”, “#Me, too”といったことばも、人工知能にとってはそれぞれ1つの言語表象でしかないかもしれないけれども、自分たち人間にとってはそれは苦しみや希望、訴え、変革を意味するのである。そして実際にこういったことばは、単に聞き手や読み手にひとつの情報を伝達したのではなく、社会を動かすという大きな働きをしたのである。

 以上のことを振り返ると、単語や文法をとにかく学習させる授業や、ただ機械的に聞いたり声に出したり読んだり書いたりすることは、人工知能にいずれとってかわられる能力の育成を目指しているだけになってしまい、いずれその意義を失ってしまう。ことばとは人間にとってどのようなものであるのかをもう一度じっくり考え、学習者にとってことばが意味のあるものになるように教師は導いていかなければならないのだと思う。






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■ MT君

 今回の講義の議題の1つに、AIや機械翻訳がますます発達するであろう将来、英語教育はどのような役割を果たすことができるかというものが挙げられた。今回の振り返りでは、そのことについて自分なりの考えをまとめたい。
 
 現在、英語教育の大きな目標は「コミュニケーション能力」の育成、とりわけ英語を用いて「読むこと」「聞くこと」「書くこと」「話すこと」の4つの技能の育成を図るというものである。実際に英語学習者が持つ学習動機としては、「外国人とコミュニケーションをとりたい」といった、言語の道具的価値に重きを置いた場合が少なくない。もちろん、現代において言語が「コミュニケーションの道具」として大きな役割を担っていることは否定できないし、そのような道具的な価値付けも尊重すべきであると思う。しかし、これからますますAIや機械翻訳の精度が向上し、素早く正確に外国語に翻訳してくれる翻訳機が安価に流通すると仮定した場合、言語を「コミュニケーションの道具」としてのみみなすのでは、英語を自分で用いることができる技能をわざわざ身につける必要性が薄れてしまう。
 
 そのような状況において、外国語教育が担うべき役割は今とは少し変わってくるのではないだろうか。すなわち、「英語を道具として使えるようになる」こと自体を目指すのではなく「英語を学ぶことによって、どのように自己が変容するか」ということにも目を向ける必要があると私は考える。私自身の経験を例にして説明したい。

 私はある時、英語に"petrichor"という言葉があることを知り、衝撃を受けた。"petrichor"とは、「長く雨が降らず、乾燥していたところに雨が降り、その時に地面から上がってくる心地良い匂い」を指すことばである。多くの日本人が身体的に経験をしているであろう事象ではあるが、日本語ではこの事象を表す単語は存在しない。しかし、どういう経緯か英語ではこの事象に名前が付けられている。

  私はこの"petrichor"ということばを知って現在に至るまで、どこかでそのことばを読み聞きしたり自然な文脈で用いたりという経験はなく、「役に立たない」単語を覚えたにすぎないのかもしれない。しかし、私はこの"petrichor"ということばを知って以来、雨が降った次の日に家から一歩出る瞬間を少し楽しみにしているし、"petrichor"を意識して感じるようになった。ことばを知ることによって、私の世界への見方、環境との関わり方が少し変容したのである。
 
 これはあくまでも一例にすぎず、"petrichor"ということばを知ったことによって私に起きた変化は些細なものかもしれない。しかし、このような日本語表現と英語表現の間に見られる認識の違いは、語彙レベルだけでなく統語レベルにおいても見られる。さらに、言語の中にはその国の文化や思想をある程度反映しているものも多く存在する。日本語しか知らない人は、日本語と日本人の考え方が世界の常識だと勘違いしてしまう恐れがある。日本語とは異なる言語表現を知ることによって、学習者が違う国のメガネをかけて世界を見ることができるのではないだろうか。
 
 先に述べた通り、近い将来、機械翻訳の技術の発達は、言語の道具的な役割を肩代わりすることが予測される。そのような時代だからこそ、言語が社会で果たす役割について考え、自身の言語観を見つめ直すことが大切であると私は考える。外国語を学ぶことがその手助けとなるのではないだろうか。







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■ FO君

 以前、ある研究授業の発表会に参加させていただきました。授業後の批評会で授業を担当された先生は、英語の授業を通して生徒に教科書のことばから自分のことばへつなげてもらいたい、とおっしゃっていました。私はこのことばに手放しの賛同を覚えたのですが、それと同時に、現在の英語教育を通して子どもたちは「教科書英語の虜囚」になっているのではないか、という恐怖も覚えました。今回の振り返りでは、なぜ教科書英語の虜囚ではだめなのか、そしてなぜ英語教育が生徒を教科書英語の虜囚に変えてしまっているのかを考えたいと思います。

 まずはどうして教科書英語の虜囚ではだめなのかを考えます。先週の授業の終わりに「Google翻訳などが急速に発達してきている中で、英語教育をやる意味はあるのだろうか」という柳瀬先生からの問題提起がありました。機械による翻訳が急速にその精度を向上させてきている中で、私たちが英語を教える必要はあるのでしょうか。より核心を突く言い方をするならば、生徒は英語を学ぶ必要があるのでしょうか。

 私には現在の英語教育は「生徒が教科書のように話すようになること」をその出口としているように思われます。つまり、生徒が教科書で扱われている構文や語彙を用いて、教科書の本文を読み上げる音声のようにスラスラと話すようになることが英語教育の目標である、ということです。先週から繰り返し述べてきている通り、生徒はたくさんの語彙や構文、そして文法を「考える」という行程を飛ばして、ひたすらに詰め込まれています。さらに彼らはそうして得た知識を考えることなしに使うことを求められます。私には多くの英語教育がこのような形で機能しているように感じるのですが、生徒がこのようなやり方で英語を学ばなければならないなら、彼らが英語を学ぶ必然性を見出すことは至極困難になるでしょう。なぜなら、「教科書のように英語を話すこと」とはまさにこれから機械翻訳がどんどん得意になっていくであろうことだからです。

 授業で扱った語彙や文法をできる限り多く使えるようになることを英語教育が目指し、そして生徒がその目標を達成したとして、彼らは機械によって代替可能な存在でしかありません。「私の代わりはいくらでもいる」という自己に関するネガティブな気付きは人の在り方に大きなダメージを与えてしまいます。しかし、教科書英語でとどまっている人は口を開くたびに代替可能である自己をさらけ出してしまいます。すると皮肉なことに、現在の英語教育において熱心に学んだ生徒ほど教科書英語をたくさん話せてしまい、かえって傷つくことになります。なぜなら熱心に学んだ生徒ほど多くのストックフレーズを抱えているためペラペラと話すことができてしまうため、その都度自身の代替可能性を自身の発話の中に見つけてしまうからです。

 「教科書のように英語を使えるようになる」という目標がどうして正常に機能し得ないかは以上のとおりですが、ではなぜ私たちは生徒が教科書の英語から自身のことばを見つけるための教育を行えずにいるのでしょうか。ここでも先週から触れてきている通り、「コミュニケーション」ということばに対する誤解が深く関わっているように思えます。日本の英語教育では「コミュニケーション能力」の育成が期待されています(英語に限らず教科の枠を超えて求められているものですが、英語は特にこのことばの矢面に立っているように思えます)。先週も確認したとおり、デューイの知見をお借りしてコミュニケーションということばを定義するならそれは「自らすすんで世界(環境)に働きかけ、自己の変容も世界の変容も経験すること」といえます。するとコミュニケーション能力はまさにそのようにする能力のことを指すはずです。

 では、日本の教育においてやたらと口にされている「コミュニケーション能力」とは一体何を指すのでしょうか。私にはこのことばが単に「スラスラ話す」だとか「わかりやすく話す」だとか、その類のことしか指しておらず、そこにデューイの知見は含まれていないように感じます。「デューイの知見が含まれていない」という言い方をするとまるで、デューイが言ったことは全て正しく、彼に従うことなしには教育は語れない、という印象を持たれるかもしれません。確かに、本講義のテキストである『民主主義と教育』はもう100年も前に書かれたものですし、今と当時とでは社会も大きく変わっていますので、彼の知見をそのまま取り込めば教育に関する問題は全て解決する、といった乱暴な議論はできません。しかしここでの問題は、「コミュニケーション」といったことばが多用されている一方で、そのことばの輪郭はひどくぼやけ、曖昧で、それが「なんとなく」用いられているということです。私がここで繰り返しデューイの知見を借りようとしているのは、デューイの述べてきたことは、(それをそのまま使うことができない場合もあるかもしれませんがそれでも、)現代においてでも十分当てはまることがあり、彼の指摘が(ないしはその指摘により促された私たちの思考が)「なんとなく」用いられていることばにはっきりとした輪郭を与えてくれるからです。このようにことばを大切に扱う姿勢こそ英語教育が養わなければならないことのように私には思えます。

 先程私は、現在の英語教育における「コミュニケーション能力」ということばが「スラスラ話す力、わかりやすく話す力」という意味合いで用いられているように感じる、と述べました。もしも本当にコミュニケーション能力がこの類の意味で定義され、そして頻繁に用いられているとしたら、これこそ英語教育における最初の「ボタンのかけちがえ」だったのかもしれません。すらすら話すためには多くのストックフレーズを抱えておく必要があります。それを口にするときに口ごもったり引っかかったりすることがないように何度もその発音を練習します。ストックフレーズは多く持っておくに越したことはないので、「一つ覚えたらまた一つ」とこの作業を繰り返します。場合によっては、英語教師はテストを設けることでこの学習に拍車をかけるかもしれません。しかし、このような学習(もとい訓練)は生徒の考える時間を否定します。なぜなら、より多くのストックフレーズを獲得するのに、いちいち立ち止まって「なぜこのような言い方をするのか」、「どんなときに、どんなふうに使えばよいのか」と思いを巡らせることは短期的に見るなら明らかな「タイムロス」だからです。このような学習により生徒はテストで点は取れるけど、自分のことばで語ることのできない「教科書英語の虜囚」へとなります。

 では「コミュニケーション能力」をデューイの考えに照らして定義したときに、どのようなことが見えてくるのでしょうか。私たちはコミュニケーションを行う(世界に働きかける)ときにことばを用います。また、ことばを持つことは私たちに、世界に働きかけることを教えてくれます。授業でも少し触れたように、以前はただ黙っておくしかなかった性的マイノリティの人たちが、ことばを得たことで自己の在り方を主張し、世界の在り方を変えたことはまさに「ことばを持つ」ということが世界に関わることを可能にした例かと思います。このときに使われることばは明らかに教科書のことばとは異なっています。もちろん彼らも教科書に載っている語彙や構文、文法を用います(それらなしでは誰にも理解されないでしょう)。しかし、彼らの口を通して出てきたことばには教科書に載っているものにはない手触りがあります。彼らの身体を通して生み出されてきた言葉はザラザラとしていて、それを耳にした人の身体のどこかに引っかかります。

 簡単に言い換えるなら、私たちは既存のことば(クリシェ)なしでは語ることができません(新しいことばを生みだす人はほんの一握りだから)。しかし、私たちはその「クリシェ」に自身の身体感覚を伴わせることができます。そして、他人の使ったことばに彼らの身体感覚を感じることができます。ある発話がクリアカットでなくても、その中から「言いたいこと」を拾うことができます。そしてこの作業が得意な人こそ「世界にはたらきかけて自己と世界の変容を経験できる人」であり、「コミュニケーション能力が高い人」だと私は思います。このような人は明らかに「教科書英語の虜囚」が使うことばとは正反対のことばを用います。

 教科書のことばが「わかりにくい」ことはありません。それは常にクリアカットで「ツルツル」となめらかです。私たちの身体をこの種のことばが通る時、それが摩擦を生むことはありませんので、文字通り「聞き流す」にはもってこいのことばです。しかし私たちがコミュニケーションを図るときにはどうでしょう。ツルツルとしていて滑らかなことばを使うことで世界の変容を期待できるでしょうか。また、他人のことばを常にクリアカットなものに変換することで自己の変容を望めるのでしょうか。私にはそうは思えません。
 だからといって、「教科書の英語は学ばなくていいのか」、と言われるとそうではありません。先程も述べたように、語彙や文法なしでは私たちは自身を理解してもらうことも、他人のことばを理解することもひどく困難になります。ですから、パターンプラクティスなどを通して生徒がクリシェを獲得することに関して異論はありません。生徒は常に学びに対して時間的な遅れをとっていますので、つまり「なぜそれを学ぶのか」という問に彼らが答えることができるのは、学びを行っている最中か、場合によっては学びを終えてからですので、生徒は学びの中に飛び込んでみて、あるいは「投げ込まれて」はじめて学ぶ意義を見つけることができます。ですからパターンプラクティスをする意義、や単語や文法を学ぶ意義の全てを理解してからでないと彼らは学べないというわけでは決してありません。ただ、そうして獲得したクリシェを持ってして学びを終えたとしてしまうことに関しては賛成できません。生徒はそこからいかにして借り物のことばに「肌目」を与えるかを学ぶ必要があります。そして、他人が用いたことばに彼ら自身の「肌目」を感じることができるようにならなければなりません。繰り返しになりますが、これこそ「コミュニケーション」であり、自身のことばを獲得するということだと私には思えます。そして、このような言語使用を教えることができるなら、英語教育は決して機械翻訳にその存在を脅かされることはないように思えます。






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