2018/10/12

"Democracy and Education"の第一章を読んだ大学院生 (M1) の感想


以下は、Deweyの"Democracy and Education"の第一章を読んだ大学院 (M1) の授業についての感想の一部です。

John Dewey (1916) Democracy and Education 
(デューイ『民主主義と教育』の目次ページ)


言語教育について根源的に考えた上で、日本の英語教育について具体的に考える授業にしたいと思っています。







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MT君

 私は、教育学部で4年間英語教育学を学び、実際に教師として教育を施す立場にあったにもかかわらず、「教育とは何か」という本質的な問いについて深く考えることをしてきませんでした。ここでは、今回の講義内容から、現段階で私が解釈した「教育とは何か」という問いへの答えを記述し、その後英語教育においてどのようなことが求められるかについて記述します。
 
 デューイの主張を踏まえ、私は「教育(Education)」とは学校教育という文脈においては「他者の学習(Learning)を促すこと」であると認識しました。この場合の「学習(Lerning)」とは学習者が、自分とは異なる(または変化し続ける)周りの環境へと適合できるよう、自分自身を変容させることであると解釈できます。このように書くと、ごく当たり前のことのように思えるのですが、学校現場で私が生徒として受けた授業、または教師として行った授業を省みると、それらすべてが生徒の「学習」を伴った「教育」と呼べるかについては疑問が残ります。単なる知識技能の伝達にとどまる授業は、それを通じて生徒自身が変容しない限り、教育とは言えないのではないでしょうか。例えば、統語的手続き重視の文法指導や機械的なトレーニングのみに終始した授業を通じて、生徒は「学習」することはできるのでしょうか。そのような教師-生徒の関係は、teacher-teacheeの関係に過ぎません。教師は生徒を"teachee"ではなく、"learner"にする教育を施す義務があります。そのような意味で、教師の役割は「自律した学習者(autonomous learner)」を育てることであると言えます。「自律した学習者」とは、単なる自学自習ができる生徒を指すわけではありません。「自律した学習者」とは、自ら「学習」できる者、すなわちに、新しい環境に対して自らを柔軟に適合させるべく変容を続けることができる者が「自律した"学習"者」と呼べるのだと今回の講義を通じて考えました。
 
 それでは、生徒の学習を促すために、英語教育ではどのようなことが求められるのでしょうか。学習指導要領において、日本の英語教育の目標は「コミュニケーション能力」を育成することとされています。一般にコミュニケーション能力とは、4技能(読むこと、聞くこと、書くこと、話すこと)を指し、昨今では大学入試への外部試験導入などにより4技能育成への熱はますます高まってきています。しかし、「コミュニケーション能力」とは、単に4技能を均質に伸ばせば育まれるほど単純なものなのでしょうか。さらに言えば、4技能育成の行き着く先、すなわち「上手に読む/聞く/書く/話す」とはどのようなものなのでしょうか。デューイの “commnication” という言葉の捉え方を参照することで、これらの問いについて何か手がかりを得たように思います。( もちろん、 デューイの言う “communication” と 英語教育の文脈における「コミュニケーション能力」は全く同じものを指すわけではないが、根っこの部分は同じであると私は考えます。)

 コミュニケーションとは共通理解(common understanding)に参加することであり、その意味ですべてのコミュニケーションは教育的であるとデューイは言います。共通理解に参加するとは、単なる一方的な情報の移送とは異なり、自身の経験と他者の経験をすり合わせ、それにより両者が変容を遂げるということであると解釈しました。そのように考えると、「上手に話す/書くとは」必ずしも難しい言葉を使って流暢に語ることではなく、自分の経験を相手の経験に同期することができるよう、自己をメタ的に見つめて伝えること、「上手に聞くこと/読むこと」とは、自分と異なる経験を持つものの主張を理解することと言えるのではないでしょうか。4つの技能は、そのようなコミュニケーションを成立させるために必要な能力に過ぎず、技能の育成のみに終始すべきではないと私は考えます。

 昨今の能力偏重とも言える日本の英語教育で、デューイが提唱するような教育観を見直すことには大きな意義があるように思えます。








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FO君

 デューイは『民主主義と教育』を、「人間が生きること」とはどのようなものかを述べることで始めています。デューイの考えを一言でまとめるなら、「人間が生きること」とは世界(あるいは環境)に働きかけることによって行われる自己刷新のプロセス、と言えるかと思います。人は自らすすんで世界に語りかけ、その中で自己の変容を経験することで自己を維持します。もちろん、世界への働きかけを通して私たちが経験できることは自己の変容だけではありません。私たちは世界に働きかけ、自己の変容を経験するのと同時に、世界の方も変えていきます。私はデューイのこの考えに触れたときに、これこそコミュニケーションなのではないかと思いました。

    第一章のなかで、デューイは「全てのコミュニケーションは教育的である」と述べていますが、ここでの「コミュニケーション」には普段私たちが用いている「コミュニケーション」ということば以上の意味合いが明らかに込められています。コミュニケーションということばはあまりに有名であり、およそどんな人でもこのことばを知っています。「コミュニケーションとはなにか」と聞かれると、「コミュニケーションはコミュニケーションだ」とトートロジーを用いることなしには答えることが難しいぐらい、私たちの生活にはコミュニケーションということばが身近にあります。しかし私は、そのことばが実体を持たずに独り歩きしているような印象を受けます。フェイスブックの誕生によりその意味を剥奪されてしまった「友だち」ということばを聞いたときに感じる違和感に近いのかもしれません。私たちが普段用いているような意味合いでの「コミュニケーション」が全て教育的であると言えるのか、私はひどく懐疑的です。デューイが「コミュニケーション」ということばを用いて表したかったことはこのような形骸化された意味でのやり取りではなく、自らの変容と世界の変容の両方を導いてくれるような血の通ったやり取りであるように私には思えました(デューイ自身は “all communication(and hence all genuine social life) is educative” と述べていますが、私はデューイが単にコミュニケーションとだけ言うのではなく、all genuine social lifeと付け加えていることに大きな意味があるように感じます)。

 人間は自己刷新を通して自己の維持を行う、と述べましたが、これは人が集まり、集団を形成したときにも同じことが言えます。集団を維持するためにも私たちは一人ひとりがそれぞれのやり方で世界に働きかけます。「集団を維持する」ということは、社会的集団の究極の目標であると言って差し支えないかと思いますが、人間はそういった目標に無関心な状態でこの世に産み落とされます。デューイはこのようにして生まれてくる社会の「未成熟な」メンバーに、集団としての目的や慣習を教えることができるのは教育だけであると述べています。そして、だからこそ教育が必要であると述べます。私たちは教育を通して、社会の未成熟なメンバーに「自ら世界に語りかけること」を教えます。そして、個々人が世界に関与することで集団を維持します。ここで言う「世界」は私たちを取り巻く環境のことです(デューイも “environment” を用いていました)。

 授業中のディスカッションでは autonomous learner ということばが多くの友人の口から飛び出ました。このautonomous learner こそ、自ら世界へ働きかけ(世界とコミュニケーションを図り)、その中で自己の変容も世界の変容も経験していく人のこと指すのではないでしょうか。そして、そのような人を育むために教育は行われなければならないのではないでしょうか。偶然、授業とは関係のないところでパウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』を読んでいたのですが、50周年記念版には三砂ちづるさんによるまえがきがあり、そこで彼女はこのように述べていました。


フレイレにとって識字を始めとする能力の獲得とは、尊厳を欠く労働現場に学生を送ったり、「キャリア」を積んだりする準備のためのものではなく、セルフマネージできる、すなわち、それぞれが自らの意思で人生を送っていけるようになるための準備なのである。(p.21)



 私たちはこれから学校内外で多くのことを教えることになると思います。そのとき私たちが忘れてはならないことは、なにを教えるにせよそれら全てが「生徒が自らの意思で彼ら自身の人生を送っていける」ことに繋がらなければならない、ということであるように思います。







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