大学院のある授業ではDeweyのDemocracy and Educationを読んでいますが、今週は以下の章です。
Education as Growth (Chapter 4 of Democracy and Education)
この章には、以下のようなことばもあり、何度読み返してもいろいろ考えさせられます。
教育とは発達である、とするなら、どのように発達をとらえるかが非常に重要になる。私たちの最終結論は、生きることとは発達することであり、発達すること、言い換えるなら成長することことが生きることである、というものだ。教育に関するように翻訳するなら、次のようになる。(i) 教育の過程に到達点はない。教育以外のどこかに教育の過程の到達点があるわけではない。教育の過程自身が教育の過程の到達点である。(ii) 教育の過程とは、再組織・再構築・変転の過程の一つである。
生き物は、どんな段階においても生きることに対して忠実で肯定的だ。教育とは、人間という生き物に、どんな年齢においても、よりよく生きるための条件が備えられるようにする企てである。生きることは成長することであるから、生き物はどの段階においても、生きることに忠実にまた肯定的に生きている。(中略) かくして、教育の意味とは、年齢を問わず、成長もしくは生きることのふさわしさを確実にする条件を備える企てである、となる。
以下は院生の予習書き込みの一部です。毎週、振り返りと予習のそれぞれで熱心に書き込みをしてくれる院生にはひたすら感謝です。
*****
■ FO君
教育のゴールとは何かを考える時に私たちは何か目に見える、わかりやすい成果を考えがちであるように思えます。例えば、良い大学に合格するとかTOEICで良い点を取る、英検に合格する、などです。私はこれらを学習の動機、つまり私たちを学びに向かわせるものとしてみなすことに関しては、それを真っ向から否定しようとは思いません。
しかし、学校や教員、あるいは生徒自身がこれらを「教育のゴール」としてみなすようでしたら、それには異を唱えなければならないように思えます。現在の日本の教育はとてもその出口が見えやすいようになっています。学校の定期考査や模試で良い点をとり、良い大学を受験し、よい企業に勤める。このように、日本の今の社会は「どれだけ勉強すれば将来どれだけの暮らしができるか」が見えやすいように思えます。
語弊があってはいけないので慌てて訂正するのですが、テストで良い点とれば必ず良い大学に行けるわけではないし、良い大学に行けば良い暮らし向きが必ず迎えてくれるわけでもありません。しかし、学生は「良い点を取らなければゲームに参加することすらできない」ということも知っています。この状況は明らかに学生にとってストレスフルです。もちろん、このようなバインドがある程度は生徒を学びに向かわせていることも認めなければなりません。
しかしこのように考えるなら、教育、ないしは学びはたちまち「将来のための投資」とみなされるようになります。より直接的で嫌味な言い方が許されるならば、学びとは将来の暮らし向きを良くするために歯を食いしばって耐えるもの、とみなされてしまいます。そして生徒は「自身の将来」と「現在の我慢」を天秤にかけ、「役に立つもの」のみを選択的に学ぶようになります。
このような、テストや学歴といった度量衡でしか教育や学びを考えることができない人が見落としていることは、私たちは「学ぶことそれ自体から快楽を得ることができる」ということです。
デューイも述べている通り、私たちは私たちの生活から学ぶことができます。ここでの「学び」には明らかに目に見えるゴールはありません。そして、それが目に見える、静的なゴールを持っていないがために、私たちは生活を通して学び続けることができます。しかし、TOEICや英検、大学入試などといった目標はどうでしょうか。これらは基準点を一点でも超えると、途端に人を学びに追いやる効力を失ってしまいます。つまり、合格をもってして学びは完了してしまうということです。
このような「外的な」要因が成長を(ないしはより直接的に「学び」を)閉じ込めているということはデューイが指摘しているとおりです。先にも述べたとおり、現在の教育は多くの生徒にとって「耐えるもの」として機能しているため、これらの外的な要因において点を取ることを教育のゴールとしてしまっては、彼らが学ぼうとするものは「テストの役に立つもの」のみ、となってしまいます。テストに関係のないものは学ぶ必要のないものであり、どんなに新しい発見があってもそれがテストに効果的でない限りは興味や感動の対象にはなりません。
このようにして生徒は「まだ知らないこと」への感動を失っていくのだと思います。「どれだけ知っているか」を誇示することが支配的である限り、「まだ知らないこと」をさらけ出すことは明らかなディスアドバンテージとなるため、生徒は「まだ知らないこと」から目をそむけるし、耳を塞ぐでしょう。
しかし、私たちが忘れてはいけないことは、デューイも指摘している通り、すべての人が生涯通して生活から学ぶことができるように環境を整えていくことが教育の最も偉大な成果である、ということです。この目標を達成するために私たち自身が「未成熟」にたいする寛容な姿勢を示さなければならないし、生徒が「未成熟」でいることに異様な危機感を感じなくてすむような環境を作らなければなりません。「まだ知ることがある」ということに罪の意識を感じるのではなく、未知との遭遇に思わず微笑んでしまうような生徒を育てていくことがこれからの教育では必要になってくるのではないでしょうか。
■ OT君
第4章でデューイは、教育の目的は教育の過程にあり、その過程は連続的な再編成、改造、変形の過程だと述べている。つまり教育とは何らかの目的が既に設定されていてそれに向かって行うことではなく、学習することそのものにあるといえる。しかし現在の(英語)教育は、大人が自分たちの都合で勝手に設定した目標に向かって学習していくことを生徒に強要している場合のほうが多いのではないだろうか。
まず何より大きな枠組みとして、指導要領やテストによって学習の指針は決められている。特に近年は外部機関による検定試験の導入により、テストの点数が一層の価値をもたされている。生徒は将来のことを考えると嫌でもテストの点数という目標に向かって学習をせざるをえなくなる。教師も生徒の将来のことを考えるとどうしてもテストの出題傾向を見ながら生徒に欠如している知識や能力を埋めようと努める。
また驚いたのが、指導要領にのっとって作られた検定教科書にはCEFRの到達度が巻頭に付録されており、生徒は各技能に関して自分がどの位置にいるのかを確認するよう指示されていることである。このようにまず教育の構造が生徒の学習の在り方をトップダウン的に規定してしまっている。
また教師の指導の在り方もひとつの要因となる。上で述べたように教師はテストに向けて生徒に必要な知識や技能を身につけさせなければならないという現実がある。それに加えて、教師には自分が担当の教科において継続的に学習を続けてきたという経験則がある。英語教師に関して考えると、身につけさせたい英語力や適切な学習法についての考えがあるのが自然なのではないだろうか。教師自身の経験はもちろん大切なのだろうが、それらの経験がそれぞれの生徒にあった学習になるとは限らない。無意識のうちに教師の信念が生徒を固定された目標に向かわせている可能性も否定できない。したがって教師は常に俯瞰的に自分が行っている教育活動を見つめ直さなければならないのではないかと思う。
■ YRさん
学校教育を終えて働き始めると、学年というものがなくなる。教育課程もなくなる。しかしデューイは、人生とは成長を続けるということなのであり、教育とは年齢に関係なく人生の成長や充実を保証する場を供給することを意味すると述べている。周りの知人を見てみると、起業したり、仕事で成果を上げたり、専業主婦で子育てに一生懸命だったり、本を出版したり、仕事をしながらフルマラソンのアスリートをしていたりと、自分自身で選択した道で成長あるいは充実しているようだ。ここに挙げていない知人も、別に私によって成果云々と判断される必要はなく、生きてる限り何かしらの経験をしているだろう。
私は、教師は特に、自分自身が成長し、変化する存在であるということに自覚的である必要があると思う。忙しくても、自分に客観的なベクトルを向けて、成長するための行動をとる時間を作るべきだと思う。そうでなければ、日々授業で主導権を握り、周りから「先生」と頼られる仕事であるため、自分をどこか完全な大人と誤解する危険がある。しかも英語の先生だから英語はできると思われていて、教室では生徒と自分しかいないのだから、その中では英語が「できる」。お山の大将と呼ばれることもある、怖い仕事である。
子供と大人(生徒と教師)は、デューイによると、置かれている状況が違うために成長のありようが違うのであって、どちらも生きている限り成長する存在である。そうした目線を持つことができれば、こちらにない力を持っている生徒と接することができるのは、とても魅力的な仕事である。
■ MT君
第1節では、成長の第一条件として、そのものが「未成熟」であることだと記されていました。「未成熟」という語を、完全態から何か欠如したものという消極的な捉え方をするのではなく、潜在的な能力をもとに「成長する力」という肯定的な捉え方をする必要があると理解しました。この考え方によると、学校教育の文脈において、教師は生徒を「知識が欠けた人(欠如態)」とみなしてはなりません。しかし、自分が行った授業を振り返ると、生徒を欠如態としてみなしてしまっている側面があったのではないかと反省しました。
私は非常勤講師として働いた2年間、少しでも分かりやすい説明をしようと心がけてきました。もちろん分かりにくいよりかは分かりやすい説明の方が望ましいのでしょうが、そもそも「分かりやすい説明」という考え方自体が、生徒を欠如態とみなし、その欠けている部分に情報を埋め込むというような側面があったのではないかと今になって思います。仮に私が分かりやすい説明を行うことができていたとしても、生徒は教授内容の理解はできても、学ぶことを学ぶ(He learns to learn)ということはなかったのだと思います。それどころか、分かりやすい説明は生徒が潜在的に持つ思考する力を奪っていたのではないかとすら思います。
また、一般的に行なわれている目標達成型の授業も、到達点を静的に捉えてしまい、単なる知識技能の習得を目標に掲げてしまうと、デューイのいう「発達(development)」や「成長(growth)」は見込めないのではないかと考えます。生徒が授業の結果「〇〇できるようになる」ことそれ自体が重要なのではなく、その知識技能を生徒自身が得るまでの過程そのものが「成長(growth)」であると第三節の内容を読んで考えました。
今までの章にも記述されていたように、教師(大人)は生徒(未成熟な者)に直接変化を与えることはできません。教師ができることは、生徒が自ら学習をすることができるように環境を整えることです。生徒に直接的な変化を与えようとするがあまり、生徒に欠如している知識技能を伝達しようとしたり、機械的な訓練をあまりに強調することは、かえって生徒が潜在的に持つ学ぶ力を阻害する可能性すら秘めているのではないでしょうか。
■ NM君
われわれは子どもたちから積極的な活動を引き出したり喚起したりするには及ばない。生命のあるところには、すでに強く激しい活動力が存在しているのである。成長は、それらの活動力に対してなされた何ものかではなくて、それらの活動力がなすところのものなのである。
また、人はある行動を出来合いのものとして与えられるのではなくて、それを学習するときに状況の変化に従ってその諸要素を変更したり、それらのさまざまな組み合わせをつくったりすることを必然的に学ぶのである。ある行為を学習しているときに、他の情況においても役に立つ方法が発達するということによって、引き続く進歩の可能性が開かれるのである。なおいっそう重要なのは、人間が学習する習慣を獲得するということである。人間は学習することを学習するのである。
器質上の可塑性、その生理学的基礎が、年齢をとるにつれて減少するという傾向には疑問の余地はない。本能的に変わりやすく、しきりに変化する幼児期の行動、新たな刺激や新たな発展を好む心は、あまりにもたやすく「落ち着き」に変わり、そしてそれは変化に対する嫌悪や過去の業績へのもたれかかりとなるのである。習慣を形成する過程で知性を十分に使用することを保障する環境のみが、この傾向に打ち勝つことができる。
そして、学校教育の価値の基準は、それが連続的成長への欲求をどの程度までつくり出すか、さらには、その欲求を実際に効果のあるものにするための手段をどの程度まで提供するかということなのである。
■ KS君
I still haven’t thoroughly understood some of the similar concepts in this chapter but some of arguments from Dewey are really prospective and way beyond that time. They are universal truths which are applicable even nowadays.
Adults tend to stand at higher perspective to look down upon the children, so they jump to the conclusion that children are still immature, so we need to help them. However, from the moment we begin to think we should build them up, we are trapped in a hierarchical system. As Dewey mentioned in the third chapter, direction is all about redirection. Children’s curiosity toward certain things has been within their bodies, so the role of adults is to guide them through their instinct natures and never treat ourselves as an existence higher than them. Dewey also argued that we as adults are inferior to children in terms of many aspects, for we are losing them whilst we are growing up. This reminds me of a biblical scripture in Mathew: “Except you be converted and become as little children, or you shall not enter into the kingdom of heaven”. Never should we view ourselves as superior to children but rather learn from them, or we always treat children in the way as we treat pets, which need to be domesticated and disciplined.
I also found another very impressive argument from Dewey. A series of misunderstanding toward environment, immaturity and rigid habit are all resulted from misunderstanding toward growth. Growth itself is an end. It is not having an end. However, this is exactly what education is regarded as in schools. All the exams initially just attempt to test out what students have mastered so far end up being an end for all the subjects learning. Students study hard and try their best to reach the goal of exams, but finally when they reached it, they throw all the stuff away. This is why many students think education is limited in schools and everything comes to an end after the graduation. I think of a very extreme case in China. High school students rip off the textbooks and exam paper right after Gaokao (Chinese college entrance examination). This grandeur but miserable spectacle is just the result of current education which has distorted the real meaning of education. It is still a long way to before we can really conduct a lifelong education in which students learn learning.
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。