以下も学部一年生の書き込みの一部です。「これまでの英語教育の意義は急速に失われているのではないか」という危機感が若い世代には強いようです。
画像はWikipediaよりコピーしました。
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予習の課題を読むうちにふと「手段の目的化」という言葉が浮かび上がってきた。言語とは本来コミュニケーションをするための道具、つまり「手段」に過ぎないわけであり、その言語を使って我々は多くのコミュケーションの中で様々なものを生み出していくのである。
しかし、今の英語教育現場はどうだろう。明らかに英語を流ちょうに使いこなすことを目的としたカリキュラムであることは明白である。そのために我々は味気のない単語帳や何の興味もわかないような内容(もちろんトピックによって例外はあったが)の教科書を駆使して英語を使いこなすことを目的とした授業を受け続けていたのだ。これでは我々の学びの意欲はわかない。
さらに追い打ちをかけるように、グーグル翻訳をはじめとする機械翻訳の目覚ましい進化がこのイズムに基づいた英語教育の意義を消し去ろうとしている。あまりにも輝かしい進化が、我々から単語や文法を事細かに覚える必要性を奪っていきつつあるのだ。このままでは英語教育自体の存在意義も問われかねない。由々しき事態は静かに、しかし確実に現代教育観に試練を与えているといえよう。
さて、この英語教育現場に横行する「手段の目的化」をどう解消していくべきか。まず教材を変えるべきであろう。電子辞書や機械翻訳を備えたタブレット等を片手に英語文学を読んでみる、これも一つの方法であると私は思う。ほかには、有名な日本語のテキストをいかにして英訳するかという授業やオノマトペなどがよく発達した日本語の文をどう英訳するか考えるといった授業も一つの手段として考えられる。
ともあれ、大事なことは「英語を用いて何を学ぶか」である。英語そのものを勉強する時代はとうの昔に終わったとみてよい。次なるステップの学びは英語という武器の使い方である。そのためには我々はその武器そのものの特徴について深い知識を持っている必要があるし、その武器をよく使わなければならない。武器を危なげなくかつ美しく使えるようになってからこそ、教えられる立場に初めて立つことができるのではないだろうか。
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