2018/10/15

「改めて教師は生徒の将来の可能性を生かすこともつぶすこともできる職業なのだと痛感した」


学部一年生のある授業で、以下の二つの動画を見て少し討論しました。以下は、授業後の書き込みの一部です。












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■ 今日の講義を受けて、改めて教師は生徒の将来の可能性を生かすこともつぶすこともできる職業なのだと痛感した。講義内で見たTEDの動画で、病気の女の子と医者のエピソードがあった。「一般的」には、「普通」は、といった平均的な思考を取っ払い、子供の未来を信じて自由にさせたという点で、私には衝撃的なエピソードであった。おそらくだが私を含め多くの日本人は(もしかしたら世界中の人が)この「平均」というもので何でもはかる傾向にあるのではないだろうか。その例はモデルの身長であったり店の1日当たりの売り上げであったりと、例を挙げればきりがない。

 無論、教育の分野においても、この「平均」の考え方は存在しており、教師はしばしばそれで物事をとらえることがある。ただ、講義内でも先生がおっしゃったように、平均的な人などいないわけで、平均で何でもはかるのはよくないことである。授業の形も、みんなの理解度はそれぞれ異なっていて、ペースだって違うのに、一斉授業をし、家で宿題をさせ、テストを実施し、点数をつけ、わかっていなかったとしても次に進む。私は今日の講義を受け、このスタイルを変える必要があると思った。まさにTEDの動画でもあったように、「家の建設で85%、90%の段階で次に進んでいる」のが現状であるからだ。

 この意見に対し、今日の講義内での意見交換の時には、100%を目指すのがきつくて嫌になるから…、といった否定的な意見が多かったのだが、私個人の意見では、ものすごくこの考えには賛同する。私はこうしてわからないものをわからないままにすることで、苦手意識が生まれ、学ぶのが嫌になると考えるからだ。経験上、苦手だと感じたものはあまり勉強したくなかった、あるいは無理やり覚えたのに対し、興味がある、理解ができたと感じたものは学んでいて楽しいし、もっともっと知りたいという欲求があった。この、もっと知りたいと思う飽くなき欲求こそが将来の夢への手掛かりになるのではないだろうか。今の教育システムはこの可能性をつぶしているのではないだろうか。

    私の高校時代の話になるのだが、周りにはこれを将来したい、と胸を張って言えている人はほんの少ししかおらず、ほぼ大多数が安定した職業に就きたいという人が多かった。もしかしたら、これは教育システムの影響があるのかもしれない。このまま安定しているといわれる職業について、激動する時代の変化に対応していけるとは、私は思えない。今後は個人個人の知的な好奇心、個性が求められると思う。私は将来教える子供たちの可能性をつぶすような教師にだけはならないように、教育の在り方について、考えていきたい。



■ 私は、今回の講義を受けて『無意識的なコンプライアンス』というものがいかに恐ろしいものであるかを思い知った。「なぜ、独裁主義はいけないのか?民主主義の方が良いのか?」という先生の発問に対する答えを中心とし、今回の講義を通して考えたことを述べていこうと思う。

 まず、講義中の先生の発問に対する答えを簡潔にまとめると、「独裁主義に陥ると多くの人々は思考を停止し、少数の人々の脳に頼り切ってしまうことになる。多くの人々の脳が使われることは無い。そして、少数の人々の脳もしばしば間違った決断を下すからである」と表せる。民主主義の特徴は、「三人寄れば文殊の知恵」ということわざで例えられるのではないだろうか、と考えた。今までの歴史を鑑みた際、やはり平常時には独裁的な政治ではなく民主的な政治の方が、よりよい結果を生むものであるように思う。しかしながら、日本の学校社会、特に学級や授業において、一歩間違うと独裁主義的な側面を持つようになるのではないか、と私は考える。

 児童・生徒が板書を自身のノートに書きうつし、教壇に立っている先生の話を黙って聴いているような授業風景を思い浮かべてみてほしい。これは、今の典型的な日本の教育現場での授業風景であると言えよう。近年、「アクティブラーニング」ということが叫ばれるようになり、児童や生徒による話し合い活動やペアワークが徐々に増え始め、授業形態が変化していることも確かではある。

    しかし、どの活動も子どもたちが「先生が言ったとおりにただやっている」だけであったら、これらの活動はいかがなものだろうか。教室は生徒たちが授業中に主体的に挙手をし、反論や質問をすることが普通ではないという空気が漂い、先生の言うことが絶対となってしまう。このまま「先生の言うことが絶対である」と子どもたちが感じ、思考を放棄して先生の言うとおりに何事も進めてしまうようになると、これは教員の独裁主義となってしまうのではないだろうか。独裁主義になる、というのは知らず知らずのうちに子どもたちから思考する機会を奪い、更には彼らの可能性を潰してしまうことになりかねないように考える。

 「独裁主義に陥る危険性がある」、教員を志す者として、現在の学校社会でこのような危険性があるということを認識しておくことは非常に大切であるように思った。また、自分自身も常に様々なことに対してアンテナを張り、思考するということを忘れないでいたい。



■ よく、”学校は失敗する場所”、”教室は失敗する場所”という言葉を聞く。確かに子供のうちは失敗しても大人(教師)によって守られており、社会的責任を問われることはまずない。しかし、実際の教室では多くの子供たちが失敗を恐れ、自分の可能性をつぶしてしまっている気がする。例えば、授業中は自分の考えを述べることも多いが、多くの場合子供たちは教師に求められている答えを出そうとする。そして、教師が求めている答えこそが必ず正しいといったような風潮があると思う。人と違った答えは受け入れられる場合もあるが、批判されてしまう可能性も秘めているからである。

 講義中にふと、高校の時の国語の授業が思い浮かんだ。私が受けていた授業では、主人公の心情を説明する記述問題などは、何人かが答えを黒板に書き、先生が少し訂正し解説を加えながらみんなの考えを聞いていくスタイルだった。しかし授業の最後に配られる模範解答が最も完璧な回答というイメージがあり、テスト前は多くの人が模範解答を覚えていた。人と違った考え方をする人はむしろ歓迎されるべきだと私は思う。その人の違う角度からの意見によって私たちが気づかされることも多くあるからだ。




■ 私は、今回の授業で先生が口にされた「日本の生徒は空気を読みすぎである」という言葉に深く共感した。私は高校の時にニュージーランドに留学し、実際に現地の高校生と一緒に授業を受ける機会があった。彼らの学習意欲は行動から現れるものであり、先生の質問に積極的に答えたり、わからないことがあったらその場で質問したりするなど、活発で楽しい授業だったことを今でも鮮明に覚えている。

    しかしながら、帰国後に改めて日本の授業を受けると、失敗や周りの目を恐れて発言や挙手を避けるような姿勢に自分がなっていたことを思い知った。たしかに、空気を読むことは必ずしも悪いことではない。周りの意見に同調することで自分の意見を生みだす手間が省けるし、突飛な考え方を持った異端者だと思われることもない。しかし、グローバル化が進む現代、革新的な意見や積極性は絶対的に必要となってくると思う。ひとりひとりの個性的なアイデアこそが目まぐるしく変動する時代に必要不可欠なのだ。






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