2018/11/28

「英語を使って学ぶ」


以下も学部一年生向けの「英語教師のコンピュータ入門」の感想の一部です。

中高年の私などからすれば、若い頃に現在のようなインターネット環境が欲しかったと願ってやみません。

なにせある程度の英語力とインターネットに接続したデバイスさえあれば、無料でもかなり学べるのですから・・・

少しでも学生さんが知的な感性・意欲を高めて学んでくれますように・・・

 この動画は、複数の学生さんが面白いと言っていたものです。
新しい流れが大きくなりますように。


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■ 今回の授業で、自分が教員になった際に必要になるであろう、いや、使えなければならないアプリについて学んだ。自分は今まで教養ゼミやコンピュータ入門で先生から教わったアプリをいくつか選んで試してみたが、どうしても有料版には抵抗があった。また、自分のスマートフォンは課金ができないように設定されているため、元々の設定を変える手間が、英語に対する心の壁を築いていたのかもしれない。結局、NYTimesも無課金で利用しているため、限られた数の記事しか読めていない。

 正直なところ、お金に関する話はあまり快くは思わないが、自分が英語を生業にすると考えると、服を買う前に勉強道具を買えという話になってしまう。しかし、やはり人間であるため、好きなことへの欲に負けてしまう。それがいけないのだと思う。服は一時の満足かもしれないし、英語に関するものは買っても一時使えずじまいかもしれない。あまり魅力を感じないままかもしれない。だからといって、何も行動を起こさなかったのはいけないことだったと思った。反省した。

 もし今英語に関するものに魅力を感じないのならば、それこそ問題である。英語を生業にしようとしているのに、英語に魅力を感じないのは、危機感の欠如か、現実逃避か、無駄な馴れ合いのせいだろう。高校の頃は参考書を買うのに何の抵抗も無かった。勉強するのがむしろ楽しく感じることも多々あった。寝る間も惜しんでがむしゃらに科目を問わず勉強した。あの頃のように、知的好奇心をもっと駆り立てて、「知」に対して喜びを感じられるようになりたい。

 そのためにどうすればいいのか、自分なりに考えた結果、ひとつ、答えらしきものが見つかったので、記しておきたい。(今回の授業では風邪でまったく声が出せず、考えを人に伝えられなくて少しイライラしていたため、ここに書きたいだけです。許してください。)
 私は大学に入ってきて、全学必須の科目が英語のみであり、自分の専門も英語であるがために、ほとんど英語だけを勉強せねばならぬ環境におかれている。中国語も少しは勉強するが、机に向かったら英語しか見ていない。自分の知的好奇心が落ちているのは、理系科目の欠如のせいではないかと、今日の授業中に思った。

 久しぶりに数字と向き合って、Excelで情報処理をして、正直とても楽しかった。授業中にあった偏差値か点数か、という話にも関係するが、自分は数学が苦手だと思っていたが、周りのレベルや自分の理想が高すぎただけなのではないかと思った。中学の時は数学ができたのに…と思うことが多かった理由もこれだと思う。

 今までは5教科をバランスよく学習していたため、勉強に飽きることなく、どこまでも「知」を追求することができたのだろう。そこで、教英に来た以上やはり英語は捨てられないので、「英語を使って学ぶ」というのは自分にいかに向いているかに気づいた。「英語を学ぶ」では、飽きっぽい私が続けるのは難しいだろう。そもそも英語というのは言語であり、必然的に英語が表す「話の中身」が必要であるが、その「中身」がつまらなければ、学習意欲が起きないのである。となると、「中身」のある、もし日本語訳で読んでも感嘆する、もしくは何かしらの知識を得られる文章と向き合うとよいのかもしれない、と思った。

 結論、Khan Academy やTEDである。先生が今までおっしゃっていた着地点と、(ずっと言われ続けてきたにもかかわらず、現状何もできていない自分の)自己分析による着地点が同じなのは、正直悔しい。自分がやらなっかたのが悪いだけだが。しかし、人から言われるよりも、自分で感じたことの方が身に付きやすいし継続しやすいのも事実である。自分で導き出した結論がそれなら、腹を括ってこれから懸命に取り組もうと思う。倒れない程度に…(笑)





Feynman learning stragegy in three points


学部1年生向けの「英語教師のためのコンピュータ入門」という授業では、エクセルを使って偏差値などの値を出す課題もやります。ただ、その際は、ただ結果を出すだけでなく、なぜそのような計算をしなければならないのか(他の計算では駄目なのか)を徹底的に考えて語り合ってもらいます。

その方針を示すため、授業冒頭では、物理学者のRichard Feynmanの "FEYNMAN learning stragegy in THREE POINTS"を紹介しました。




以下は、それに関する学生さんのコメントの一部です。文系だからといって数理的・論理的思考を疎かにしてよいわけではありません。学生さんには幅広く学んでほしいと常々思っています。


Feynman氏の写真はWikipeidaからコピーしました。



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■ ここからは上記の内容とは異なる話題なのだが、今回の授業で一番印象的だった、Richard Feynmanの3つのlearning strategyのうち、 1つめの Continually ask "Why?" について 自分の考え、意見を述べていきたい。

 これについてだが、日本人は、というと誇張するような表現になってしまうのだが、少なくともこういった「なぜそうなるのか?」について自問したことがある生徒は少ないと自分は思うのである。(仮にいたとしてもそれがContinuallyだったかと言われるとそうではないはずである。)なぜなら教育者の多くは「なぜか?」ということについて授業で触れることはなく、知識を大量に与え、詰め込ませるといういわゆる「詰め込み式」の授業を展開しているからである。

 このような中で学んでいると、自らある事柄に関して学ぼうとする知的好奇心は自ずと消滅していく。こういった知的好奇心の日本と他の国の差を実際に体験したことがある。自分が外国に行ってツアーに参加した際のことである。その時は博物館を回っており、途中で質疑応答の時間が設けられてあった。そのときに同じツアーに参加していた幼稚園生の団体が、皆一斉に手を上げていた。あまりの迫力に驚いた。こういうことは日本ではまず見かけないだろう。だがこの姿勢こそが自分たちに足りない要素だと今実感する。学び続ける姿勢を忘れずに持ちたいと思う。


■ 次に、「学ぶときの頭の使い方」についてである。これは主に授業中に先生が紹介された" FEYNMAN learning strategy in THREE points "を聴いて考えたことである。

 >1. Continually ask " Why? "
 >2. When you learn something, learn it to where you can explain it to a child.
 >3. Instead of arbitarily memorizing things, look for the explanation that makes it obvious.

 この3つは、貪欲に学ぶために必要不可欠であるように感じられる。"Why?"と問い続けることの無い学びというのは「受動的な学び」もしくは「単純な暗記」ではないだろうか。そして、この「受動的な学び」を続けていると、何故そうなるのかという道筋を説明できなくなる。これでは、学んでいる意味がほとんどなくなってしまうのではないか、と考えた。「思考する」ことを身につけるために、私たちは学んでいるのではないだろうか。

 ただ、暗記をしてテストで点が取れるだけが偉いのではない。自分なりに考えて、"Why?"と問いながら学びを深めていくことにこそ、真の意義があるのではないかと考えた。だからこそ、目先の点数を上げることだけにとらわれることなく、考えながら学ぶことに重きをおいた教育が行われることは非常に重要であるように感じた。


■  先日の授業で言われたことを受けて、改めて自らの論理的思考力の欠如を感じるとともにそれを手に入れた時にいかに自分の考え方が豊かになるかがすこし見ることができたように感じた。自分でもそう思うが私は数学的な論理を元とした考え方をするタイプの人間ではなく、もっぱら論理的な思考プロセスは周りの人間の意見から表面的に取り込み、自らの感性と周りとのかかわりの中で生まれるひらめきだけを頼りにしてきたようだ。

 これまではいわば借り物の数学的論理で生きていくこともできたし、「ノリ」で様々な事態を乗り切ってこれたのも事実である。しかし一方、これから来るであろう未来社会という誰も予想がつかない荒波をさばいていくためにますます求められていくのは間違いなく総合的な力であり、そこには自らの武器である人文社会的思考力や、今はまだ持ち合わせていない数学的論理力が含まれていることは、これまでの授業やそのほかの事例からもおぼろげながらわかってきたことである。

 数学的な論理なしで社会に出るということは一体どういうことなのであろうか。それは今社会問題にまで発展している教職のブラックさにも通じるのではないだろうか。現在の長時間労働や休日返上で行われている教員という仕事は、今でこそやっと問題視されてきたことだが、それでもいまだ解決には程遠い。それほどこの問題が根深いものであるということなのであろうが、何がこの問題をここまで深刻化させたのだろうか。

 その原因の一つとして考えられるのは細かいところをほったらかしにしていった教育現場の態度である。少しの残業は確かにどの業種でも必要になる場面は存在する。しかしあまりにも例外的な残業を認めるあまり、いつしか傍から見れば大変異常な状態が教育現場の当たり前になり、さらに長時間労働をはじめとする問題は深刻化するという負の轍にはまっているのである。

 これらの問題を改めるために求められるのは数学的な論理に基づいた思考ではないだろうか。いくつかの正解以外を良しとしない厳格な態度を性質上持つ数学的な姿勢を、正解などない自由で不明瞭な態度を性質として持つ人文的な姿勢に組み込み、二種類の思考回路を使い分ける必要があるように思えてならない。

 また、教員の負担軽減を目的として、昨今開発され続けている効率化ツールを使いこなすことが一つの解決策であることは明白であるが、効率化を最大化させるためにも、数学的思考は重要性を帯びてくるのではないだろうか。この人と人との関係が要となる子の教員という職種の性質上、すべてを機械化することは不可能である。しかしExcelをはじめとする効率化ツールは数学的論理に基づいてくる作られているために、教員やほかの業種をこなすうえでは最低限の論理的思考力は持ち合わせておく必要があるだろう。

 ではその論理力を養うためには何が求められているのだろうか。まず大きな養成法としては数学という学問に親しむことである。思えば私は小学生の時分から算数を苦手としていた。そして算数が数学という名の科目に代わり、もっぱら論理によってのみ答えが導かれるような次元にまで高等化したその学問はもはや私が集団授業のスピードについていけるレベルのものではなくなっていたように思われる。しかし今は、時間に猶予もあり教科書さえあれば自由に数学を学ぶことができる環境である。せっかく英語文科系コースに在籍しているのだから、それこそ数学を英語で学ぶのも一つの有効な手だろう。ともあれ、私には時間と伸びしろがある。何の業種に就くにせよ、豊かに生きるためには武器は多いほうがいい。大学四年間で今持っている自分の武器を強化するとともに、新たな武器を手に行きたいと考える。


2018/11/27

この状況において学習者は、知性を働かせることなく、与えられたお題に対して手持ちの表現でいかに早く要求された語数を書き終えるかという機械的な活動をしているにすぎません。


先日、DeweyのDemocracy and Educationの以下の章を使った授業を行いました。


Experience and Thinking (Chapter 11 of Democracy and Education)


以下に掲載したのは、ある院生の振り返りです。


折しも12/9(日)に開催します広島大学英語教育学会の一般公開企画(14:10-16:30)の中の「対話の集い」では「英語資格試験を問い直す」というテーマで参加者全員が語り合います。



学会員(広大教英卒業・修了生)はもとより、一般の方々も奮ってご参加ください。

12/9(日)に広島大学英語教育学会を開催します。
一般公開企画「英語資格試験を問い直す」には会員でない方も参加できます!






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■ MT君

 今回の講義では、英語教育における「こころーからだ」の関係性について中心的に話し合いました。本論では外国語教育においてテストが学習者の「こころーからだ」に与える影響について考察します。
  
 これまでの章で何度も言及されてきた通り、デューイは教育において「こころ」と「からだ」を別物だとする心身二元論的な考えに対して否定的な立場を取っています。第11章の中では、意味から切り離された機械的な音読を例に以下のような批判がなされています。
 

But if they originally learned the sensory-motor technique of reading -- the ability to identify forms and to reproduce the sounds they stand for -- by methods which did not call for attention to meaning, a mechanical habit was established which makes it difficult to read subsequently with intelligence.

 
 すなわち、学習者の「こころ」を切り離した機械的な訓練を日常的に行ってしまうと、その訓練が習慣化されてしまい、それ以上「こころ」を付け足した知的な活動をすることが困難になってしまうといえます。
 
 この批判は、英語教育の文脈において多く当てはまるのではないでしょうか。例えば、多くの大学試験の英語の問題で自由英作文が課されています。正誤の基準が明確な記号問題や和/英訳問題とは異なり、答えが一つに定まらない自由英作文を課すことにより、受験者の「論理性」や「創造性」の一側面を測るためです。

 しかし実際には、多くの受験者が学校や塾で教わった「型」通りの「減点されない英作文」を書いているにすぎないという話を以前聞いたことがあります。“I agree with the idea that ... . I have two reasons. First, ...  Second, ... . Therefore, I believe that ... ” といった解答が何枚も並ぶようです。ともすれば、自分の主張や理由を表す表現ですら、幾つかのパターンを暗記しているという場合すらあります。

  この状況において学習者は、知性を働かせることなく、与えられたお題に対して手持ちの表現でいかに早く要求された語数を書き終えるかという機械的な活動をしているにすぎません。そのような状況が習慣化されてしまうと、今後学習者がライティングにおいて知性を働かせることが困難になってしまいます。すなわち、学習者の「こころ」を置き去りにした機械的な訓練が繰り返されることによって、本来学習者が「創造性」を発揮する場であるはずの自由英作文が、学習者の「創造性」を殺す結果へと繋がりかねないのです。
  
 「テストを入れたら能力が伸びる!」という考えは教育を訓練としてみなしてしまい、かえって学習者の知性を抑圧してしまうことにつながりかねません。知性のない活動に成長は伴いません。2020年の大学入試への外部試験の導入は、上で挙げたような問題を4技能全てにおいて引き起こしかねません。目先の点数ばかりを追いかけた指導は、却って学習者の成長を妨げてしまいかねないことを教師となる我々は自覚しておかなければなりません。

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追記

以下は、学会員専用の企画についてのチラシです。









2018/11/20

「いま・ここ・わたし」を離れたことば


以下に引用するのは、下の章を使った授業を受けた院生さんの感想の一部です。


Experience and Thinking (Chapter 11 of Democracy and Education)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/11/experience-and-thinking-chapter-11-of.html





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■ OT君

第11章ではこのような表現があった。

“a mere verbal formula, a set of catchwords used to render thinking, or genuine theorizing, unnecessary and impossible”


この表現が示すように思考の伴わないあるいは伴わせることのできないような表現や言葉の使い方が現在の英語教育において非常に多いのではないかと感じる。私たちはことばを教える教師として十分なことばの使い方ができているのだろうか。ことばをただ記号として扱い、その意味をなおざりにしてはいないだろうか。

今学期は授業研究に関する授業をとっていたこともあり、公開授業研究会にできるだけ参加しようと思っていた。2学期以降このような公開授業研究会は様々な全国の様々な地域で行われており、インターネットで調べても多くの研究会の情報にアクセスできた。しかし、それらの情報を見ていて困ったことがあった。ウェブページには実施される日程、学校、研究授業のテーマなどが記されているのだが、授業のテーマの部分を見てもいまいちどのような実践を行うのかわからないのである。実践内容の例を挙げると「主体的・対話的な学びを促す授業の工夫」「知識・技能を活用した思考力・判断力・表現力の育成」「論理的思考力・表現力を身に着けさせるための指導の工夫」「生徒の主体的な学びを促す授業の工夫」などなどである。これらの文言は少なからず見られた、というよりも多くはこのような表記をしていた。公開授業研究会として行っている以上、これらは学校外の人に向けて発信されている情報である。しかし上の文言を見て「へえ、独自の実践で面白そうだな。行ってみようかな」となる人がどれぐらいいるのだろうか。僕はこれらのテーマを見たときにどのような実践なのか全く想像することができなかった。同時にどのような意味を持ってこれらのテーマを設定したのか、疑問も覚えた。

この例でも当てはまると思うのだが、ことばの上だけで成立する観念や概念ばかりが知識として教育の中で流布しており、何となくその意味もよくわからずに使用しているように感じられる。本来重要なのは、ことばが私たちの生活においてどのような意味を持っているのかということである。空気中にぽかんと浮かんだような概念としてのみことばを使っていては、ただ無味乾燥なことばとしてしか存在しないだろう。上の例でいうと、思考力は思考力でもどのような文脈(例えば文章を書くこととか)における、どのような類の思考力(例えば推敲して文章をよりよくするとか)を想定しているのか教師の方で提示できていない。したがって思考力ということばがただ存在しているだけで、見た人がそこに具体的な意味を感じ取ることができないのである。教師や学校がそれをできないでいて、生徒に求めるのは難しいのではないかと思う。(言語)教師である以上ことばに対して敏感な態度をとれるようにしなければならない。



■ MT君 

第11章の内容は、私にとって非常に耳が痛い内容でした。

 第11章でデューイは、「経験」に能動的な「試み」と受動的な「受け入れ」という二つの側面を認め、「経験から学ぶ」とは、私たちの行動とそれが導く結果をつなぎ合わせ、その関係性に異議を認めることであるとしています。さらに、その行為と結果の間に「思考」を介することによって、私たちの経験はより知的で豊かなものとなり、将来的な「ねらい(aim)」に向かって活動を続けることができると述べられていました。
 
 よく、「何事も経験だ」と言われますが、その言葉はとりあえず考えなしで行動することを推奨するものではありません。その行為とそれが導きうる結果との間に思考を巡らせず気まぐれに行動する、または惰性で行動するならば、その行為は経験と呼ぶことはできません。自身の生活を振り返って、いったいどれほどの行動が私の「経験」となっているかと考えると、少し憂鬱な気持ちになりました。
 
 教育についても同様で、例えば自身が行った授業を省みても、その中で生徒は思考を伴う「経験」をすることができていたと自信を持って言うことはできません。例えば、およそほとんどの中高で行なわれている "Repeat after me” を私も授業の中で取り入れていましたが、それは生徒の思考を働かせるどころか、生徒の身体を心から引き離す機械的な活動であったと反省しました。一斉授業の中で単なる音声復唱を繰り返し、自宅学習で音読をするよう促すことは、生徒に機械的な習慣を押し付け、英語学習とは無機質なものであるという印象を持たせることに繋がりかねません。単に "Repeat after me” とするのではなく、生徒がその例文を頭の中で描き意味を持たせられるような場面設定や言葉がけを十分にする、そして今音読をするということによって将来の自分にどのような変化が現れるかということを生徒自身が考えるきっかけを与える必要があったと今になって思いました。



■  FO君

第11章でデューイは「経験と思考」に関する議論を行っていますが、その中で彼は心身二元論を徹底的に批判しています。デューイによる心身二元論批判にはいままでの授業において私たちが批判的に見てきたものが数多く含まれているように思えます。

 心身二元論は身体と精神を2つの切り離されたものとして考えます。今までの授業の予習や復習において私が述べてきた「生徒を容れ物とみなす教育観」はまさにこの心身二元論の考えに基づいています。生徒の身体から、ないしは生徒による学びから精神が引き剥がされた途端に、彼らは中身を満たすべき空っぽの容れ物と化します。このような人間感に基づいた教育が生徒を世界に向かわせることを否定している、ということは繰り返し述べてきたとおりです。

 一方、生徒の身体と精神を切り離して考えるのではなく、それらがピッタリと重なりうるものだと捉える人間観が生徒を単なる「容れ物」とすることはありません。このような人間観においては、身体と精神はばらばらに切り離されたものとして存在するのではなく、身体そのものが世界を指向する意識である、と考えられます。ここでいう「世界を指向する」とは、デューイが第1章から繰り返し述べている通り、「生きること」や、本章でのことばを借りるなら、「経験すること」と言い換えることができると思います。

 デューイは教育を、人が人として生きるために必要なものとして考えているため、教育について議論する際に、生きること(すなわち世界へ働きかけることで享受できる変容)についてことばをかえながら何度も語っていることがわかります。本章ではデューイは「どのように世界に働きかけるのか」ということに関して詳しく述べることで、「ただ活動すること」と「経験すること」の間に明確な区分を設けています。

 これらの違いを私なりに一言でまとめるなら、前者と後者を隔てるものは思考の有無です。デューイは本章において、“Thinking, in other words, is the intentional endeavor to discover specific connections between something which we do and the consequences which result, so that the two become continuous.” と述べていますが、彼が思考をendeavor(努力)と言い換えていることには大きな意味があるように思えます。ここで言う「思考」とは明らかに何かを新しく生み出すこととは同義ではありません。デューイがここで用いている「思考」とは、上にも引用したように、私たちが何かをなすこととその結果との間の関係を明らかにし、それを継続的なものにする営みを指します。

 私たちがなすことに対するその結果はまさに今、私たちの眼の前に明らかな形で提示されているものではありません。ですから私たちがなすことがもたらす結果やそれらの関係を考えるときに、私たちは過去の記憶を引っ張ってきて、それを元にするなどして、まだ起きていないことを予想する必要があります。この時に明らかなことは、私たちはそうするときに「いま・ここ・わたし」を離れているということです。言い換えるなら、思考とは「いま・ここ・わたし」から離れた場所に自身を投射する力を意味します。いま、この場から離れた私以外のもの(過去/ 未来の私、ないしは他人)がどのように感じるのか、ということにまで意識を延長してみる、そんな力がここで言う思考である、と私は解釈しました。

 このように私たちは今この場にいる私以外のものに自身を投射して、そこから自身の行動やそれに伴う結果を思考することができるのですが、そうして思考したものは常に不確かさを身にまとっています。まだ起こっていないことに関する予測をたてることができても、それを断言することはできません。このような状況をデューイは “Where there is reflection, there is suspense.” ということばで表現しています。私たちが「単なる活動」ではなく「経験」をしようと試みるとき、あるいはその経験をより良いものにしようと試みるとき、「いまここにいるわたし」を離れて多くのことに意識を向けます。しかし、そこから得られた予測は私たちの中に確固たる真実として刻まれるのではなく、それが明らかになるときが来るまで「宙ぶらりん」の状態で保持されます。世界に働きかけ、多くのことに意識を向ければ向けるだけ私たちはこの「宙ぶらりん」を抱えて生きることになります。だからこそ私たちに必要なのは「正しい/ 正しくない」の判断を急ぐことではなく、その判断を「一時保留」にする能力であり、これがまさに「わからなさとの向き合い方」なのだと思います。



■ KK君

Dewey argues that nature of experience consists of both active and passive aspects. We take initiative to try something, and we undergo the corresponding results. Through those results which may be disappointing or delighting, we learn something that is connected with ourselves. Thus, all the experience becomes a process of learning. If we rethink the status quo of the current education from this perspective, we will realize that it is so hard to find real experience in ongoing education because active trying is absent in vast majority of the cases. Teachers are disproportionately inclined to passive instructions, so students are operated to accept certain results, bad or good. In this way, they never really get involved in the experience, for they are not the owners of their feelings, and consequences mean nothing important for them. Only when students are active to try something, can they pay attention to the corresponding result, in which they also actively find the connection among things, and learn to attach the meaning to the things.

  Another very sensational argument from Dewey is dualism of mind and body. I held a strong empathy while I was reading the comment on Japanese Education from Professor Yanase. Back in China when I was a primary school student, all the teachers told me to be quiet and remain put as much as I could because this is what a good child should behave like. So I tried my best to keep the back straight and fold my arms in front me on the desk. Apart from the pain resulted from keeping the same posture for a long time, I kept hiding my true feelings or facial expressions even when I felt something so interesting or so exciting that I wanted to shout out loud or just jump from my seat. This similar way of class education is still prevailing and ongoing, and the concept of mind-only education has got the best of teachers and students for a long time. However, as an exciting mind is ready to look for an equally exciting body, mind becomes disappointed and sorrowful because of the separation forced upon them. Thus, mind can never work well if body participation is missing. There is no such as a thing called mind-only education, for mind and body always go hand in hand.





「帰ってきたヒトラー」と「時計じかけのオレンジ」


学部一年生向けの「英語教師のためのコンピュータ入門」では、とても基本的なものではありますが、いろいろな課題をコンピュータを使ってやってもらっています。課題としては「大学時代にやりたいこと」など、学生さんの意欲や興味に即したものにしようとしています。

そういった学生さんの中に、ヒトラーについて不用意な言及をした学生さんが一人いましたので、ヒトラーの言及を無思考的にタブー化するのではなく、人間の世の中を考える上で重要な(そして危険な)ことばとして考えるように短く助言しました。

以下は、その学生さんからの授業振り返りです。学部一年生といった若い時代に、いろいろと広く(そして深く)教養をつけてくれればと願っています。



 



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今回の授業の冒頭部分でヒトラーというトピックの扱いについて指摘されたとき、無知が招いてしまう大きな誤解の危険性を垣間見たように思う。私自身としてはヒトラーがある種センシティブなトピックに分類されることは重々承知していたつもりではあったが、より詳細に誤解を招くことのない脚注をつけることを怠ることの恐ろしさを強く実感し(そもそもヒトラーの個人演説とdialecticsを同一カテゴリーの中に入れていた時点でことの繊細さを重々承知していたわけではないのではないかと思うが)、これが失敗の許される授業現場でよかったと心底安堵した。

 ここで私が先日作成したスライドにこの場を借りて注釈しておくと、私自身ヒトラーの思考に傾倒するつもりは毛頭ないし、ファシズムについて深い見識を持ち合わせているわけでもないが、彼の演説力には無知な私にもわかるほど目を見張る工夫が凝らされており、それを応用することで学級経営に必要な統率力の向上に役立つのではないかという考えのもとリストアップした。決して彼の価値観に触発されたという理由ではないことを明記しておく。

 ところで今回の授業後に彼の経歴をザッピングしてみるうちに、なぜそのようにあまりにもゆがんだ正義を遂行してしまったのか、という疑問とアドルフ・ヒトラーという人物自体に対する興味を自らのうちに感じた。彼を題材とした映画や彼の著書を通して全く自分に共通点のない思考回路を知っておくことは多様な生徒を扱ううえで必要なことであり、どんな規模であれ繰り返されかねない歴史を二度と繰り返させないためにその事例を学ぶことは重要である。長期休みの合間にでも紹介されていた「帰ってきたヒトラー」等を見て理解を深めようと思う。




映画といえば、個人的な話ではあるが「時計じかけのオレンジ」を先日借りて観てみたときに感じたことを、授業の振り返りという本筋とは外れるが覚書程度に書き留めておこうと思う。以前から興味があり、いつか観ようと思っていた映画であったので個人的に非常に楽しんで観ることができたが、作中で鮮烈に描かれていた悪人矯正のプロセスを見ているうちにいきすぎた抑制によって降り注いだ主人公の苦難は教育現場でも起きかねないのではないかという危惧が頭をもたげてきた。つい最近まで主流であった多様性を排斥した画一的な教育に、社会が今もなおとらわれているのであれば、この事態は十分起こりうる。例えば少し騒がしい子供、例えば人と話すことが苦手な子供、例えば勉強はできないが一つのことにすさまじい集中力を放つ子供たちにそれらしい病名をつけ、投薬などの治療を試みて万事解決としているケースはこれにあてはまり、現在もなおこびりついた問題であると私自身とらえている。

 作中、主人公である彼は最終的に自らの性質(ここでは自分らしさを指している)を取り戻すことができたが、はたして映画のように社会に病気というレッテルを貼られた人々は全員救われていくだろうか。個人の性格という根本的な問題をひとまとめにして掃き捨てるような扱いをしていてはいつまでたってもこの問題の解決という方向に事態が傾くことはないだろう。教員不足が叫ばれている現状ではもはや理想論にすぎないのかもしれないが、少なくとも教育現場では少しでも生徒一人一人について個別の接し方をするべきではないだろうか。「教育が変われば社会が変わる」、そんな言葉を信じてみる時代がついに訪れたのかもしれない。



2018/11/19

平成30年「教員採用セミナー」(英語教育学講座主催・広島大学後援会共催)


  3年生を対象とした「教員採用セミナー」が,吉賀忠雄先生と中川明香先生を講師にお迎えして,今年も開催されました。

吉賀先生は,広島県廿日市市立大野学園(大野西小学校・大野中学校)の校長先生を最後に定年退職されて,今年から本学の教職大学院で教鞭をとっておられます。教育委員会の要職を歴任された経験や現在のお立場から,教員の仕事の特徴や,予測不可能なこれからの時代の教員に期待されることなどを,お話くださいました。締めくくりには,AEDの普及を訴えるビデオを見せてくださり,教職というのは,何より大切な児童生徒の命を預かる仕事であることへの自覚も促されました。




 中川先生は,広島県立総合技術高等学校に勤務されてまだ数か月の,初任の先生です。「教師って大変?」「教師って楽しい?」など,3年生が最も知りたいことを取り上げて,1年目の教員生活について話してくれました。働き方改革が進みつつある学校で,いろんな場面で生徒から歓びを得ていることを紹介し,生徒のためにしていることは,「全部自分に返ってくる」と語ってくれました。そして,採用試験対策の具体例を挙げて,教員採用試験を目指す後輩を激励してくれました。

教育実習を終えたばかりのこの時期に,教職をより深く理解し,やりがいを想像することで,卒業後の進路選択に大きな弾みがついたことと思います。3年生の皆さんには,終盤に差し掛かった大学生活を,さらに充実したものにしてほしいです。

最後に,このたびの講師をお引き受けくださった吉賀忠雄先生と中川明香先生に,心からのお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

(樫葉みつ子)



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 教英を卒業し,教職について半年。毎日に必死で,先ばかり見て走ってきたところでしたが,同じ英語教師を目指す後輩に向けてお話をする機会をいただき,私も今までの自分の仕事を振り返ることができました。また,将来や英語教育について真剣に考えている後輩と話す中で,逆にこちらが刺激を受けました。

 当日は,「やっぱり教師ってブラック?」など,私自身が教員になる前に不安に思っていたこと,そして教師となった今,日々生徒からもらっているたくさんのやりがいや喜びについてお話しさせていただきました。

 後輩の皆さんに改めてメッセージを送るとしたら,やはり,私はぜひ教英で学んだあなた方に英語教師になってほしいのです。英語を学ぶ喜びや楽しさを知っていて,それを生徒に実感してもらう方法を最高の環境で学んだ皆さんと出会えたなら,生徒はきっと英語が好きになるだろうなあと思います。そして,教英卒業後全国各地でご活躍中の先輩方,皆さんと共にこれからの英語教育を担ってゆけるのなら,この未熟な卒業生にとってこれほど心強いことはありません。

(中川明香)










教員は生徒を教育する環境の一部であり、全体ではない


以下はDeweyのDemocracy and Educationの第10章を読んだ授業に参加した大学院生の振り返りの一部です。



Interest and Discipline (Chapter 10 of Democracy and Education)







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■ MT君

  私自身も含め、教師の多くが、教えることが好きで、教えたいという感情をどこかで持っています。教えやすい環境を整えるために、規則を設定し生徒の行動を制限し、宿題を課し学習進度を揃えるということが一般的に行われています。学級を集団としてとらえる場合、そのような規則や課題が有効に機能する場合ももちろんあるのでしょうが、そのような場合には、集団を構成する生徒一人一人に十分目を向けることができず、生徒一人一人「観察する」ということがおざなりになってしまうのではないでしょうか。重要なのは「教師が教える」ことではなく「生徒が学ぶ」ことです。
 
 優れた実践者の多くは「教えない」授業を行っているといいます。「教えない」と口で言うのは簡単ですが、何も考えずに「教えない」授業を実践しようとすることは、無秩序な学級を招きかねません。優れた実践者は、生徒をよく観察し、教師と生徒の間に人間的な関係性を築いているからこそ、「教えない」授業が可能になっているのだと思います。その結果、生徒一人一人の興味を尊重することができ、「こころー身体」が一体となった指導を行うことができているのではないでしょうか。我々は優れた実践者から、形骸的な授業方法を一般化して取り入れようとするのではなく、彼ら彼女らがどのような目で生徒を観察し、どのような指導の軸を持っているかということを学ぶ必要であるのではないでしょうか。



■ FO君

  第10章でデューイは主に、興味と自制について述べていますが、授業では特に学習者の興味について多く話し合いましたので、ここでは特に興味についてまとめて今回の振り返りとさせていただきます。

 デューイが学習者の興味について深く掘り下げたのは第10章が初めてですが、彼は今までの章でも興味について触れています。例えば、第2章においても、興味や関心は物理的な運搬によって学習者にもたらされるものではなく、学習者が身を投じている環境からの作用によって生まれると述べています。つまり、デューイは、興味や関心といったものは直接的な伝達や文字通りの注入は不可能である、と主張しています。この考えは第10章においても述べられている上に、現在の英語教育に目を向けるにあたって大変重要な考えになってくるように思えます。

 “Interest and concern mean that self and world are engaged with each other in a developing situation.” とデューイは第10章で述べていますが、この一文には彼が、興味や関心を「自身と世界が共に発達する中に立ち現れるもの」、として捉えていることが読み取れます。環境が教育するのであり、教員のできることはその環境を整えることだとデューイは述べていますが、より語弊のないのように言うなら、教員は生徒を教育する環境の一部であり、全体ではない、ということを主張しています。このような環境と学習者の関わりの中に彼らの興味や関心は生じうるのですが、この考えに依拠したときに私は、現在教育に限らず、多くの場面で口にされている「興味づけ」ということばに違和感を覚えるようになりました。

 先にも述べたとおり、興味とは決して「モノ」として存在し、物理的な運搬ができるようなものではなく、実感として私たちの中に浮かび上がってくるものです。しかし、「先生が生徒に興味づけをおこなう」と言ったときには、なにか先生が目に見える「モノ」を生徒に手渡しているような印象をうけます。例えば、最近ではよく英語の授業でICTを用いていたり、たくさんの活動で構成されている授業を見かけたりします。そしてこのような「ICT」や「活動」を「興味づけの道具」としている授業は数多くあります。この事自体には私はなんの違和感も抱いていません。これらは授業を作る上での工夫としてカウントされてしかるべきでしょう。私が違和感を持たずにいられないのは、このような工夫それ自体が生徒の興味としてカウントされている状況に対してです。

 学習者の興味とは与えられるものではなく、自然と立ち現れるものです。ICTを用いるなどして、生徒が学びの中に興味を見つけることは十分に起こりうる事ですし、それがICTの本来の使われ方でしょう。授業中の活動や教師が生徒にご褒美として与えるスタンプやシールなども然りです。これらを媒介に学びにまで意識が伸び、そこに興味が生まれたときに先程いくつか例に挙げた「装置」は正常に機能していると言えるでしょう(もしも、ICT、活動、スタンプ、シールに対する意識がそこから広がらないなら、それは「学び」に対する興味とは言えないでしょう)。私が感じる違和感は、教師の「関心」がICTを使うこと、活動を行うこと、それ自体にしか向いていないのではないか、という疑問に起因しているように思えます。

 授業においてICTを用いたり、多くの活動を取り入れたりすることにはもちろん意味があります。今までの章でも繰り返し述べられてきたことですが、教師が生徒を「容れ物」とみなし、一方的に一杯一杯の状態にするのでは、彼らは知識は得るかもしれませんが世界には目を向けなくなります。このような事態を避けるためにICTや活動などは大きな役割をもっています。このような舞台装置を用いて生徒が象牙の塔に籠もってしまうのではなく、世界に語りかけるように教師は促します。そして、そうして語りかけた世界と自己との交わりの中に生徒は興味を見出します。それは実物としてのなにかを掴むようなものではなく、何かにのめり込んでいるという実感として感じられるものです。このように、ICTや活動などが担える役割は「学習者を世界に向かわせる」ことであって「学習者の興味そのものになる」ことではありません。

 このことを忘れて、「活動をすること」、「ICTを用いること」それ自体に興味があるとする生徒の興味や関心に対する軽薄な理解は、それらを用いることそれ自体を目的としてしまいかねません。つまり、「ICTを使うこと」、「活動を行うこと」に意味があるという間違った考えを導いてしまう恐れがあります。手段であったはずのものが、その本来の目的を忘れ、目的と化してしまうことを私は「形骸化」と呼びますし、そうなった途端にあらゆる手段はその教育的能力を失うと強く信じています。そして、形骸化された手段を何度も押し付けられた生徒はきっと「なんでそんなことしないといけないのか」、「それをしてなんになるのか」という疑問を投げかけてくるでしょう。

 私は、このようにして教育に傷つけられてきた生徒は数多くいるのだろうな、と予習の際に思ったのですが、授業ではより恐ろしい考えが私の中に浮かび上がりました。それは、自身の行動に興味や関心が欠落しているということに気づいていない生徒が相当数いるのではないか、ということです。特に大学受験などに力を入れている進学校などにおいては「とにかくやる」という姿勢がデフォルトになっています。そのため、生徒は自身の行っていることに自身の関心や興味が無い状態に疑問を持つこともなく、「それでもやるのが普通」という態度を知らず知らずのうちにとってしまいます。この姿勢に必ずついて回る危険は、以前にも指摘したとおり、「受験」というゴールが終わった途端に学びそのものが終わってしまう、というものです。私はこのような押しつけを「抑圧」ということばを用いて表してきましたが、現在の生徒たちは自身がこのような抑圧下に身をおいている、ということにすら無自覚であることが、往々にしてあるのではないでしょうか。

 興味や関心が伴わない学びがデフォルト化してしまうことの危険性に教師は明らかに気づいておく必要があるのですが、それ以上に、その危険性に生徒自身も気づくこと、そしてそのような抑圧を受けているかもしれない、ということを彼ら自身が自覚することがこれからの教育に求められなければなりません。「興味のない学び」による抑圧からの解放は、「自身が抑圧下にある」という自己に対する気付きに始点を有します。この振り返りの冒頭でも述べたとおり、教師は生徒が学びを拾い上げる環境の一部であり、全体ではありません。そのため、教師にできること限られているはずです。教師はいかなる状況であっても、どのような生徒に対してでも、興味を直接的に与えることができる、という考えには私は賛同できません。だからこそ教師は、生徒を知識で一杯いっぱいの状態にするのではなく、「関心のない学びをしている」ということに彼ら自身が気づくことができるような、風通しの良い環境を整えることに注力する必要があるのではないでしょうか。




2018/11/12

教育における目標設定について


以下は、Deweyの Aims in Education (Chapter 8 of Democracy and Education) をテーマにした授業を受けた大学院生の振り返りです。

私は常に非人間化されるのは生徒である、と思っていましたが、デューイを読み進めるにつれて、「非人間化」の被害者は生徒だけでなく、抑圧を施している教師自身も非人間化のプロセスを歩んでいるのではないか、と思うようになりました」や「ここで問題となるのは、多くの場合、教員の怠慢が教育を非人間化のプロセスへと陥れているのではなく、彼らの勤勉さがこのような事態を引き起こしている、ということです」などというFO君の指摘などについては、いろいろと考えさせられます。






■ FO君

 第8章でデューイは教育の目的がその外部に設定されることについて激しく批判しています。また、教育の目的とはどのようなものであるべきかについても詳しく述べています。授業での皆さんの意見を参考にしながら、自身の考えをまとめて振り返りとさせていただきます。

 教育の目的が教育そのものから離れた場所に設定されることの危険性については予習や前回の振り返りでも述べたとおりです。教育の外部に措定された静的な目的(各種外部試験や大学入試など)は人の学びを終わらせる力を持っています。つまり、目的としている基準を超えてしまうと学習者は学ぶことをやめてしまいます。授業でもこういった試験などが目的となることの危うさについて話し合ったのですが、多くの意見を交わす中で、試験が存在することそれ自体ではなく、テストが持つ「学びを終了させる圧力」に教師が無自覚であることに問題の所在があるように思えてきました。

学習者に学びの終着点(そのようなものは存在しないのだけれど)を見せてしまうようなものが目的となっている教育においては、決まって学びのプロセスではなく学びのプロダクトが強調されます。このような環境では「テストで目標とする点は取れなかったけど、学ぶ過程で私のことばはこんなに豊かになりました」という発言はなんの意味も持ちません。そこで評価されるものは「どのような道を歩んだか」ではなく、「どこにたどり着いたか」のみです。

学びのプロセスではなく、プロダクトが過度に評価される教育観において生徒は常に「知識の容れ物」としての扱いをうけます。良い生徒とは黙って情報を詰め込まれる容れ物であり、良い教師とは、多くを容れ物に詰め込むことができる教師、となってしまいます。今までに何度も述べてきたように、このような「詰め込み型」の教育では、生徒にとって世界とは常に与えられるものであり、自らが関わり、変革を目ざすものではなくなってしまいます。多く詰め込まれることが良いことだという価値観は生徒の考える時間を否定します。このようにして抑圧の教育は成立してしまいます。

今までの授業の予習や振り返りで、私はこのような教育を「非人間化のプロセス」と呼びました。私は常に非人間化されるのは生徒である、と思っていましたが、デューイを読み進めるにつれて、「非人間化」の被害者は生徒だけでなく、抑圧を施している教師自身も非人間化のプロセスを歩んでいるのではないか、と思うようになりました。個人が個人として自己を表現すること、思考を巡らせ感じたものを感じたように伝えること、これらが否定されている環境が当たり前とされていることそれ自体が理不尽な暴力です。このような暴力が「全き人間であること」の条件と合致するとは私には思えませんので、この「暴力」を行っている教師も「よりよい人間であること」からは遠ざかっているように思えます。ここで問題となるのは、多くの場合、教員の怠慢が教育を非人間化のプロセスへと陥れているのではなく、彼らの勤勉さがこのような事態を引き起こしている、ということです。

パウロ・フレイレは『被抑圧者の教育学』のなかで、抑圧されるものは抑圧するものの中に人間としてのロールモデルをみてしまう、と述べています。多くの教員はおそらく今の生徒と同じような抑圧を受けてきたのではないでしょうか。私たちにとって悲劇的なことは、抑圧下にありながらも「たくさん詰め込まれた人」を聡明であると私たち自身が信じていることです。そのため、思考することをやめてでも多くを詰め込こんだ(詰め込まれた)という経験が、「成功体験」として自身の中に記録された瞬間に、自身が受けた抑圧をすっかり忘れてしまうのです。

 たくさん知っているけど考えることができないような教師が果たして自身の取り組みに批判的になれるのでしょうか。私は随分と懐疑的です。抑圧を受けながらも、その「抑圧の結果」に社会から成功体験の判を押された教師は、彼がなされてきたことを自身の生徒にも一生懸命に行うでしょう。そこには悪意はなく、善意のみがあります。教師は、「生徒の人生をめちゃくちゃにしてやろう」という破壊的感情をもって生徒と接するのではなく、多くの場合、生徒の将来を心から願って彼らと接しています。

それでもやはり「思考しないでいること」を見過ごす訳にはいきません。なぜなら私たちは多くの無思考が、私たちが耳を塞ぎ、目を閉じたくなるような悲惨な事件を引き起こしてきたことを知っているからです。

 イェルサレムでのアイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アレントは、アイヒマンの罪は思考するという営みを停止したことにある、と考えました。アウシュビッツ収容所で起きたことは今の私たちにはトラウマティックなもの、として記録されています。しかし、私たちが忘れてはいけないことはアイヒマンが平凡な人間であったという事実です。悲劇を招いたのは、決してひとつの巨悪ではなく、考えようとしなかった多くの凡人です。そして、当時、ナチスに傾倒していた人間全員がアイヒマンになり得たのです。

 アレントの例を極端だと思う方もいらっしゃるかもしれません。確かに、当時のドイツの文脈を無視してこのことについて論じることは適切では無いかもしれません。しかし、考えないでいること、考えることを放棄すること、が凶悪な事件を引き起こしてきたことは歴史が証明きたとおりです。それだけ無思考を貫くことは危険なのです。それにもかかわらず、私たちは「考えない人」を大量に作り上げようとしています。考えないようになることも、考えないことを強いることも、どちらも同じく非人間的な営みなのです。

教育の外部にその目的を設定することは、学びの終わりを告げかねません。そして、そのような目標が生徒に求めることは、往々にして「考えること」ではなく「点数をより多く摂ること」です。そして、より高得点をとることが支配的な価値観となった瞬間に「考えること」は障害物とみなされ否定されます。教育の外にその目的を設定することはこのように、教師も生徒も、その両方を非人間化する力を持っています。私たちはこの危険性を自覚しておかなければなりません。

 では教育の目的とはどのようなものであるべきなのでしょうか。それは明らかに、常に人を学びへと向かわせるものでなくてはなりません。ある発見がまた別の発見を導いたり、ある問いに対する答えがまた別の問いを生み出したりするように、教育の目的とは恒常性を持つ「固定された」ものではなく、常に変わり続ける動的なものであるはずです。今までに何度も述べてきたとおり、人が人として生きることは世界と深い関わりの中で自己の変容や世界の変容という形の学びを繰り返すことを意味します。そしてここで言う「世界」とは、動的であり、常に変わり続けるものです。このような世界との関わりの中で「学ぶ」という営みの目的が静的なものであるはずがないことは明らかです。そしてここでの「学び」とは誰かが誰かを教育するのでも、個人が個人を教育するのでもなく、世界それ自体が、その中に飛び込んだ人間に求めるものです。デューイが述べている「環境が人を教育する」という知見はここにも見て取ることができます。

 知識を詰め込まれるだけの生徒は主体的に世界との関わりを持つことを諦めるようになり、与えられた情報が世界の全てだと思うようになります。ここでいう「世界」も静的で固定されたものです。それはピタリと止まってしまっています。このような世界において、人間が自己以外のものに興味を示し、思考を巡らせ、想像力を働かせることができるとは思えません。人が自由に思考を巡らせることができるときには決まって他者との交わりがあります。言い換えるなら、人は他者との関わりにおいて初めて自由になることができます。ここで行われる学びは、絶えず変わり続ける環境と私たち人間との関わりに始点を有していて、そしてその環境に応じて絶えず変わり続ける目的によって支えられている、と言えるのではないでしょうか。




■ MT君

 我々が日常生活で使う「目標」という言葉は、多くの場合デューイが『民主主義と教育』の中でいう “end" に相当する言葉であると考えられる。 “end” は、それ単体で存在するものではなく、学習者に内在する活動のねらい(aim)に向かって活動するための1つの具体的な到達点に過ぎない。すなわち、具体的な到達目標とは本来、将来的なねらいがあって初めて設定されるものである。
 
 教育の場面のみに限らず、ビジネスや日常生活の場面でも「目標を持つ」ことは重要視されている。確かに、具体的な達成目標を立てることは、そこに向かって活動する原動力となりうるし、そこに到達した時の達成感は誰しもにとって嬉しいものである。しかし、我々は「目標を持つ」ということをあまりに賞賛するがあまり、そのことが引き起こしうる問題について盲目的になっているのではないかということを、今回の講義で考えた。
 
 目標が抱え得る問題点の1つとして、その目標が達成されたか否かでそれまでの取り組みが評価されてしまうということが考えられる。目標に向かって取り組むうちに本来のねらいを見失ってしまい、具体的到達目標を達成することにのみが活動の動機となってしまうことがしばしばある。そのような状況において、人々は、目標を達成することこそが全てで、それまでの活動は手段にすぎないという考え方に陥ってしまう。
 
 例えば、高校の吹奏楽部が「コンクールで金賞を取る」という到達目標を設定したとする。個人としては「楽しく演奏したい」というねらい(aim)を持った奏者が、コンクールで金賞を取るために日々厳しい練習にも耐え、難しいパッセージが吹けるようになるように練習する。その日々の練習は「コンクールで金賞を取る」ための手段にすぎないのである。実際にコンクールで金賞をとれたのなら日々の努力が「報われた」と感じ、結果が銀賞だったならば「報われなかった」と感じてしまう。この場合、このコンクールの一夏で奏者は成長を遂げたと言えるだろうか。
 
 これまでの章でも述べられている通り、成長(growth)とは、日々の生活で自己を変容させ続ける過程そのものであり、その成長を方向づけるものとしてねらい(aim)が存在する。デューイは、日々の活動で何かを成し遂げた結果ではなく、ねらいに向かって活動する過程そのものこそが重要であるとしている。もし、「コンクールで金賞を取る」という他者から押し付けられた到達目標により、自己のねらいが妨げられているのであれば、コンクールを終えた後に残るのは金賞/銀賞という結果のみである。そのように考えると、そもそも「報われた/報われなかった」という考え自体がデューイの主張に反しているように思える。奏者は「楽しく演奏する」というねらいに向かって日々練習をする過程そのものに意味を見出すべきである。日々の活動が個人のねらいに沿うわないのであれば、人々はその活動に意味を見出すことはできず、そこに成長は見込めない。
 
 英語教育においても、同様のことが起こり得るのではないか。学習者の現状やねらいを考慮せず、「〇〇できるようになる」という技能面の到達目標を外部から与えることは、却って学習者の成長を妨げてしまう可能性もある「〇〇できるようになる」を強調しすぎると、そこに行き着くまでの過程が手段として捉えられてしまうためである。その結果、〇〇できるようにならなかった場合、それまでの活動に意義が見出せなくなってしまう。そのような状況は、学習者自身の英語学習のねらいが、外部から与えられる到達目標と乖離している際に起こりうる。 「6年間も英語を勉強したのに話すこともできない。学校英語は意味がなかった」という人が多いのは、そこに理由があるのではないだろうか。
 
 学校(クラス)という組織において、集団としての到達目標を設定するのことは時として求められる。そのような場合、学習者のねらいを無視した到達目標を設定することは、以上に挙げた問題を引き起こしてしまう可能性がある。集団を統率する教師は、学習者一人一人の多様性を認めた上で、それらを包括する到達目標を設定し、彼らの日々の活動を豊かにするような環境を整えることが求められるのではないだろうか。


2年生が1年生向けに教英留学プログラムの説明会を開催してくれました





教英には、2年次前期にイギリスのエディンバラ大学へ約4カ月間留学するプログラムがあります。毎年、この時期から来年度にこの留学プログラムに参加する1年生を募集し始めます。7月までエディンバラ大学へ留学をしていた2年生が、留学を検討している1年生に留学体験について話をしてくれました。

エディンバラ大学での授業やホスト・ファミリーとの生活についてはもちろんのこと、エディンバラのおすすめのお店など様々なことについて話を聞かせてくれました。1年生にはとてもよい刺激になったと思います。今年度このプログラムに参加した2年生はみんな大きく成長して戻ってきてくれました。来年度参加する1年生もイギリスで様々な経験をしてきてほしいと思います。

(西原)

2018/11/02

「人は生きていることを通して学び、学ぶことを通して生きている」


以下はデューイのDemocracy and Educationの第四章を題材にした授業の振り返りです。大学院では英語教育について根底的に考え直すことを目指しています。






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■ FO君

 デューイは第四章で教育の到達点について、“educational process has no end beyond itself; it is its own end” と述べています。このことばは現在の日本の英語教育に辛辣に突き刺さるのではないでしょうか。予習でも書いたとおり、現在の日本の英語教育では、TOEICや英検、大学合格など教育からは離れたところにそのゴールが設定されているように思えます。今回の授業では、ではなぜ教育からおよそ離れた場所に教育のゴールを設定してしまうことは避けられなければならないのか、ということについて多くの意見を交わしましたので、授業を通して考えたことをまとめて振り返りとさせていただきます。

 予習でも触れたのですが、TOEIC、英検、大学入試といったゴールは静的なもので、一度学習者が目標としている点を超えると、彼らを学びに追いやる効力は途端になくなります。つまり、ある一点をもってして学びは完了してしまう、ということです。教育以外のものに教育の到達点を措定することの最初の弊害はまさにこのことに見られます。

 デューイは、教育とは発達(成長)することであり、成長することとは生きることである、と述べています。人は生きている間は成長するものである、という考えは第四章で初めて出てきた考えでではなく、第一章においては「人は絶えず自己刷新を行うことで生命を維持する」と述べられているように、言い方を変えて繰り返し述べられてきたことです。大胆な翻訳を試みるなら、「人は生きていることを通して学び、学ぶことを通して生きている」と言えるかと思います。

 この考えに反し、先程から挙げている各種テストは学習者に「どこかで学びは終わる」という考えを植え付けてしまいます。学校の定期考査などでも、テストの数週間前になるとバタバタとテストに向けた学習を始める生徒が、テストが終わった瞬間に勉強をやめてしまうことは生徒が「どこかで学びは終わる」と考えている確たる証拠であるように思えます。

 外的な要因が教育の到達点となることのもう一つの弊害は学習者の「知らないこと」に対する反応にまざまざと現れます。こちらも予習で少し触れたのですが、「テスト」という外的要因が教育の到達点となった瞬間に、そのゲームにおけるプレーヤーは「知らない」という態度を取ることが許されなくなります。なぜなら、「知らない」ということはテストにおける減点を意味するからです。「知らないでいること」や「わからないでいること」が罪とされる環境において生徒は自分自身を自由に表現できるはずがありません(「わからない」と言えば有無を言わさず減点されてしまうから)。

 そして、「自身を自由に表現できない」ということは学習者を学びの主体から引きずり下ろし、受動的に学ぶことを彼らに強いることになります。受動的に学ぶばかりでは生徒は内向的にならざるを得ない、ということは今までの授業を通しても繰り返し語られてきたとおりです。自ら環境に働きかけることを否定された生徒からすると、世界は常に与えられるものであり、与えられた世界こそが全て、となります。

 もちろんこれは学校の学びにおいても言えることです。内向的になることを義務付けられた生徒は「知識」が口元まで運ばれるのを待つようになります。デューイのことばを借りるなら、彼らは知性からはおよそ切り離された「悪い習慣」によって知識ばかりを詰め込もうとします(デューイがこのような状況を、「私たちが習慣を所有しているのではなく、習慣が私たちを所有している」と明らかな形で表現したことには強い意味を感じます)。

 教育の到達点が固定された静的なものであってはならないのと同様に、ここで言う「知性」も単に「何かを知っている」という落ちつたものではありません。それは、「自分にはまだ知らないものがある」ということを自覚した際の表情であったり、その「知らないもの」と付き合う際の所作であったりにありありと表れます。「知らないもの」を恐れ、そこから目を背けるようにして暮らしてきた人は未知との遭遇に体をこわばらせます。対して、「知らないこと」と向き合うことを恐れない人は、その遭遇に目を輝かせて思わず微笑んでしまうでしょう。

 このように、知性とは「自分の知っていること」ではなく、むしろ「自分のまだ知らないこと」にその軸足をおいています。つまり、知性とは「他人」、ないしは「知らないもの」、より大きく「環境」に自身を規定して初めて生まれる考えであって、それらとうまく付き合っていくことを指すのだと思います。

 現在の英語教育ではこの「わからなさとの付き合い方」があまりにも軽視されているように思えてなりません。人が人として生きていく限りにおいて世界は不思議なもので溢れています。その時々の自分が持ちうる度量衡でははかることができないものなど世界にはいくらでもあります。私はそれでいいのだと思います。世界は多くのwonderで溢れているからこそwonderfulであり続けます。このような世界において生涯学び続けることができる生徒を育てるためには私たち自身が「わからなさ」や「知らないでいること」に寛容になる必要があります。そして生徒たち自身もそれらに対して恐怖を覚えずにすむような環境を整えることが今の教育には必要なのではないでしょうか。



■ OT君

 学校で行われるべき学習とは”learn to learn”あるいは”habits of learning”といったような、学習習慣を身に着けることにあると学んだ。しかし学校教育という制度によって社会の浅薄な一部分にのみ学びが方向づけられているのではないか。あるいは機械的な学習を繰り返すことが学校で身に着けられる習慣になっていないか。学校教育という場の特異性から、学びの課題について考えたい。

 学校の特異性のひとつとして、教科が分けられていることが挙げられる。学校の教科は国語、数学、社会、理科などに分けられ、それぞれの教科内で学習する内容が決められている。国語では読み方書き方を学び、理科では天気や生物について学び、数学では四則演算や方程式を学ぶ。しかし本来世の中の事象というのは各教科のような独立した領域から説明されるものではなく、ひとつの物事に関して様々な要素が関連しあっている。例えば天気をひとつとっても、理科では天気図、数学では確率、国語(英語)では気象予報の表現、社会では天災など、複数の領域に関連している。

 教授効率を考慮して領域は分けられるようになったのだろう。ただ学習者にとってはそれぞれの事象は各教科内の独立した項目として存在し、諸々の事象の関連性とは、社会に実在するそれよりもずいぶん希薄なものあるいは存在しないものとなってしまう。二次関数は数学の教科書に、江戸時代は歴史の教科書に存在するものとして認識されるに終わるだろう。教科という枠組みを超えた教員間の連携がなければ、各教科で学ばれる内容は教科内でのみ成立する、社会からかけ離れた事象になりかねない。

 またテストの存在も学校教育を特異づけるもののひとつである。テストではある一定の期間に学校で教授された内容に関する知識や技能の習得度が問われる。テストは出題者が「これぐらいの知識技能は身につけておきなさいよ」と設定した目標に、生徒が到達しているかを測るものである。それらの目標は特定の人たちが、社会の一部分を切り取って決定している。そこに生徒の興味や関心といったものはほとんど反映されない。テストで社会の事象すべてを問うことなどできないから、こういった事実は仕方のないものだと認められている。

 教師もテストが測れるのは生徒の学習成果のごく一部で、テストがすべてではないことはよく知っている。しかしテストは社会において大きな意味を持っており、教師はテストで生徒がいい結果を残せるように必死に指導する。テストに向けて効率を上げるため、とにかく機械的に知識を身に着けさせる。このとき学習習慣や学びとは何かといったことなど考える余裕はなく、生徒は機械的な繰り返しのうちに学ぶことが何かわからなくなってゆく。このような悪循環の中で、habits of learningは身につくことなく、むしろ学習そのものが嫌になっていく。テストという目標を通過した生徒は次に何をすればいいのかもわからずそこで学習は終了してしまう。

 これらの事実を教師はまず意識することから始めなければならない。もしかしたら日々授業を行いながらこのことはひしひしと感じているのかもしれない。制度は変えられないが少しずつ学びを変革していく努力ができればと思う。


■ MT君

 ... 学びは教室の中のみで完結するものではない。デューイが第3節で "The inclination to learn from life itself and to make the conditions of life such that all will learn in the process of living is the finest product of schooling.” と述べていることからもわかるように、学びの本質はむしろ教室の外にあると言っても良いだろう。

  学校教育の中で教科の内容を生徒が習得する(acquire)こと自体を目的とするのではなく、その教科の内容を知ることにより、生徒が実生活の中での学びをより豊かにする(enrich)ことができる、すなわち学ぶこと学ぶ(learn to learn)ことができるような環境を整えることが教師の役割である。そのためにはまず、教師自身が教科の内容を真に楽しんでいる様子を生徒に見せることが必要であると、今回の講義を通じて考えた。

 デューイの論を踏まえた私の主張は、現在の日本の学校教育の風潮からしたら少し攻撃的な記述であるように思える。最後に弁明しておきたいのは、私は現在の目標達成型の授業観やCan-doリストが害悪で改められるべきものであると考えているわけではない。ただし、現在行なわれている学校教育を最良のものとして捉え、それが正義だと思い込むのではなく、それが抱え得る課題について教師が認識をする必要はあるのではないだろうか。


■ YRさん

  デューイが第4章で述べていることは、学校教育をこれまでよりも広い視野でとらえることにつながった。生きることは発達であり、教育の過程自体に終わりはなく、教育の過程とは、継続的な再構成、再構築、変転であるという主張と、講義での議論から次のことを考えた。

 学校教育が終了すると、教科や教育課程がなくなる。その枠組みがなくなっても、ひとりの人間が人生で発達・成長するために必要な芽は、子供(ここでは学校教育を受けている生徒とする)の時に様々な形態で発現しているのではないだろうか。教師の役割は、それを見つけて適切なguidance, direction, controlで働きかけることだと思う。

 しかし、教師がこの芽を見つけられなければ、さらに言うとそれに関心がなければ、学校教育はその人間にとって意義が薄れるだろう。故に、芽の形態に関する理解が必要である。特に、フィンランドのように国が教科の枠組みを外して教育を広くとらえるような学校でないのであれば、なおのこと教師が気づく必要がある。

 そのためのひとつの方法としては、学校教育を終えて現在生きている人間を、可能な限りで知ることがある。彼らが経験によってどのように自分を「再構成、再構築、変転」させているのかという視点で観察し、そのために必要な力は何であり、それはどうやって育てられるのかを考察してみる。すると、例えば、「忍耐力」、「柔軟性」、「好奇心」といったような、抽象的な概念が発見されるだろう。その要素を、英語教育で、授業で盛りこもうとすることが、日本の教育制度の中で働く教師にできることのひとつであると考えている。また、外部に出ることが少ない日常生活で、教師が身近に接することができる人間が、保護者である。彼らとの接点を、生きることの様々な観点を共有するという位置にも見つけたい。





大学院新入生ガイダンスを行いました

学部に引き続き、大学院新入生ガイダンスも行いました。新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます! こちらは学部と違って、やはりみなさん大人の落ち着きがあります!学部から大学院にそのまま進学した人、一度学部を卒業してしばらく教員をしてから大学院に戻ってきてくれた人など様々です。各...