2018/11/20

「帰ってきたヒトラー」と「時計じかけのオレンジ」


学部一年生向けの「英語教師のためのコンピュータ入門」では、とても基本的なものではありますが、いろいろな課題をコンピュータを使ってやってもらっています。課題としては「大学時代にやりたいこと」など、学生さんの意欲や興味に即したものにしようとしています。

そういった学生さんの中に、ヒトラーについて不用意な言及をした学生さんが一人いましたので、ヒトラーの言及を無思考的にタブー化するのではなく、人間の世の中を考える上で重要な(そして危険な)ことばとして考えるように短く助言しました。

以下は、その学生さんからの授業振り返りです。学部一年生といった若い時代に、いろいろと広く(そして深く)教養をつけてくれればと願っています。



 



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今回の授業の冒頭部分でヒトラーというトピックの扱いについて指摘されたとき、無知が招いてしまう大きな誤解の危険性を垣間見たように思う。私自身としてはヒトラーがある種センシティブなトピックに分類されることは重々承知していたつもりではあったが、より詳細に誤解を招くことのない脚注をつけることを怠ることの恐ろしさを強く実感し(そもそもヒトラーの個人演説とdialecticsを同一カテゴリーの中に入れていた時点でことの繊細さを重々承知していたわけではないのではないかと思うが)、これが失敗の許される授業現場でよかったと心底安堵した。

 ここで私が先日作成したスライドにこの場を借りて注釈しておくと、私自身ヒトラーの思考に傾倒するつもりは毛頭ないし、ファシズムについて深い見識を持ち合わせているわけでもないが、彼の演説力には無知な私にもわかるほど目を見張る工夫が凝らされており、それを応用することで学級経営に必要な統率力の向上に役立つのではないかという考えのもとリストアップした。決して彼の価値観に触発されたという理由ではないことを明記しておく。

 ところで今回の授業後に彼の経歴をザッピングしてみるうちに、なぜそのようにあまりにもゆがんだ正義を遂行してしまったのか、という疑問とアドルフ・ヒトラーという人物自体に対する興味を自らのうちに感じた。彼を題材とした映画や彼の著書を通して全く自分に共通点のない思考回路を知っておくことは多様な生徒を扱ううえで必要なことであり、どんな規模であれ繰り返されかねない歴史を二度と繰り返させないためにその事例を学ぶことは重要である。長期休みの合間にでも紹介されていた「帰ってきたヒトラー」等を見て理解を深めようと思う。




映画といえば、個人的な話ではあるが「時計じかけのオレンジ」を先日借りて観てみたときに感じたことを、授業の振り返りという本筋とは外れるが覚書程度に書き留めておこうと思う。以前から興味があり、いつか観ようと思っていた映画であったので個人的に非常に楽しんで観ることができたが、作中で鮮烈に描かれていた悪人矯正のプロセスを見ているうちにいきすぎた抑制によって降り注いだ主人公の苦難は教育現場でも起きかねないのではないかという危惧が頭をもたげてきた。つい最近まで主流であった多様性を排斥した画一的な教育に、社会が今もなおとらわれているのであれば、この事態は十分起こりうる。例えば少し騒がしい子供、例えば人と話すことが苦手な子供、例えば勉強はできないが一つのことにすさまじい集中力を放つ子供たちにそれらしい病名をつけ、投薬などの治療を試みて万事解決としているケースはこれにあてはまり、現在もなおこびりついた問題であると私自身とらえている。

 作中、主人公である彼は最終的に自らの性質(ここでは自分らしさを指している)を取り戻すことができたが、はたして映画のように社会に病気というレッテルを貼られた人々は全員救われていくだろうか。個人の性格という根本的な問題をひとまとめにして掃き捨てるような扱いをしていてはいつまでたってもこの問題の解決という方向に事態が傾くことはないだろう。教員不足が叫ばれている現状ではもはや理想論にすぎないのかもしれないが、少なくとも教育現場では少しでも生徒一人一人について個別の接し方をするべきではないだろうか。「教育が変われば社会が変わる」、そんな言葉を信じてみる時代がついに訪れたのかもしれない。



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