学部1年生向けの「英語教師のためのコンピュータ入門」という授業では、エクセルを使って偏差値などの値を出す課題もやります。ただ、その際は、ただ結果を出すだけでなく、なぜそのような計算をしなければならないのか(他の計算では駄目なのか)を徹底的に考えて語り合ってもらいます。
その方針を示すため、授業冒頭では、物理学者のRichard Feynmanの "FEYNMAN learning stragegy in THREE POINTS"を紹介しました。
FEYNMAN learning strategy in THREE points:— Richard Feynman (@ProfFeynman) October 17, 2018
1. Continually ask "Why?"
2. When you learn something, learn it to where you can explain it to a child.
3. Instead of arbitrarily memorizing things, look for the explanation that makes it obvious. pic.twitter.com/2BxMOMNUyE
以下は、それに関する学生さんのコメントの一部です。文系だからといって数理的・論理的思考を疎かにしてよいわけではありません。学生さんには幅広く学んでほしいと常々思っています。
Feynman氏の写真はWikipeidaからコピーしました。
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■ ここからは上記の内容とは異なる話題なのだが、今回の授業で一番印象的だった、Richard Feynmanの3つのlearning strategyのうち、 1つめの Continually ask "Why?" について 自分の考え、意見を述べていきたい。
これについてだが、日本人は、というと誇張するような表現になってしまうのだが、少なくともこういった「なぜそうなるのか?」について自問したことがある生徒は少ないと自分は思うのである。(仮にいたとしてもそれがContinuallyだったかと言われるとそうではないはずである。)なぜなら教育者の多くは「なぜか?」ということについて授業で触れることはなく、知識を大量に与え、詰め込ませるといういわゆる「詰め込み式」の授業を展開しているからである。
このような中で学んでいると、自らある事柄に関して学ぼうとする知的好奇心は自ずと消滅していく。こういった知的好奇心の日本と他の国の差を実際に体験したことがある。自分が外国に行ってツアーに参加した際のことである。その時は博物館を回っており、途中で質疑応答の時間が設けられてあった。そのときに同じツアーに参加していた幼稚園生の団体が、皆一斉に手を上げていた。あまりの迫力に驚いた。こういうことは日本ではまず見かけないだろう。だがこの姿勢こそが自分たちに足りない要素だと今実感する。学び続ける姿勢を忘れずに持ちたいと思う。
■ 次に、「学ぶときの頭の使い方」についてである。これは主に授業中に先生が紹介された" FEYNMAN learning strategy in THREE points "を聴いて考えたことである。
>1. Continually ask " Why? "
>2. When you learn something, learn it to where you can explain it to a child.
>3. Instead of arbitarily memorizing things, look for the explanation that makes it obvious.
この3つは、貪欲に学ぶために必要不可欠であるように感じられる。"Why?"と問い続けることの無い学びというのは「受動的な学び」もしくは「単純な暗記」ではないだろうか。そして、この「受動的な学び」を続けていると、何故そうなるのかという道筋を説明できなくなる。これでは、学んでいる意味がほとんどなくなってしまうのではないか、と考えた。「思考する」ことを身につけるために、私たちは学んでいるのではないだろうか。
ただ、暗記をしてテストで点が取れるだけが偉いのではない。自分なりに考えて、"Why?"と問いながら学びを深めていくことにこそ、真の意義があるのではないかと考えた。だからこそ、目先の点数を上げることだけにとらわれることなく、考えながら学ぶことに重きをおいた教育が行われることは非常に重要であるように感じた。
■ 先日の授業で言われたことを受けて、改めて自らの論理的思考力の欠如を感じるとともにそれを手に入れた時にいかに自分の考え方が豊かになるかがすこし見ることができたように感じた。自分でもそう思うが私は数学的な論理を元とした考え方をするタイプの人間ではなく、もっぱら論理的な思考プロセスは周りの人間の意見から表面的に取り込み、自らの感性と周りとのかかわりの中で生まれるひらめきだけを頼りにしてきたようだ。
これまではいわば借り物の数学的論理で生きていくこともできたし、「ノリ」で様々な事態を乗り切ってこれたのも事実である。しかし一方、これから来るであろう未来社会という誰も予想がつかない荒波をさばいていくためにますます求められていくのは間違いなく総合的な力であり、そこには自らの武器である人文社会的思考力や、今はまだ持ち合わせていない数学的論理力が含まれていることは、これまでの授業やそのほかの事例からもおぼろげながらわかってきたことである。
数学的な論理なしで社会に出るということは一体どういうことなのであろうか。それは今社会問題にまで発展している教職のブラックさにも通じるのではないだろうか。現在の長時間労働や休日返上で行われている教員という仕事は、今でこそやっと問題視されてきたことだが、それでもいまだ解決には程遠い。それほどこの問題が根深いものであるということなのであろうが、何がこの問題をここまで深刻化させたのだろうか。
その原因の一つとして考えられるのは細かいところをほったらかしにしていった教育現場の態度である。少しの残業は確かにどの業種でも必要になる場面は存在する。しかしあまりにも例外的な残業を認めるあまり、いつしか傍から見れば大変異常な状態が教育現場の当たり前になり、さらに長時間労働をはじめとする問題は深刻化するという負の轍にはまっているのである。
これらの問題を改めるために求められるのは数学的な論理に基づいた思考ではないだろうか。いくつかの正解以外を良しとしない厳格な態度を性質上持つ数学的な姿勢を、正解などない自由で不明瞭な態度を性質として持つ人文的な姿勢に組み込み、二種類の思考回路を使い分ける必要があるように思えてならない。
また、教員の負担軽減を目的として、昨今開発され続けている効率化ツールを使いこなすことが一つの解決策であることは明白であるが、効率化を最大化させるためにも、数学的思考は重要性を帯びてくるのではないだろうか。この人と人との関係が要となる子の教員という職種の性質上、すべてを機械化することは不可能である。しかしExcelをはじめとする効率化ツールは数学的論理に基づいてくる作られているために、教員やほかの業種をこなすうえでは最低限の論理的思考力は持ち合わせておく必要があるだろう。
ではその論理力を養うためには何が求められているのだろうか。まず大きな養成法としては数学という学問に親しむことである。思えば私は小学生の時分から算数を苦手としていた。そして算数が数学という名の科目に代わり、もっぱら論理によってのみ答えが導かれるような次元にまで高等化したその学問はもはや私が集団授業のスピードについていけるレベルのものではなくなっていたように思われる。しかし今は、時間に猶予もあり教科書さえあれば自由に数学を学ぶことができる環境である。せっかく英語文科系コースに在籍しているのだから、それこそ数学を英語で学ぶのも一つの有効な手だろう。ともあれ、私には時間と伸びしろがある。何の業種に就くにせよ、豊かに生きるためには武器は多いほうがいい。大学四年間で今持っている自分の武器を強化するとともに、新たな武器を手に行きたいと考える。
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