先日、DeweyのDemocracy and Educationの以下の章を使った授業を行いました。
Experience and Thinking (Chapter 11 of Democracy and Education)
以下に掲載したのは、ある院生の振り返りです。
折しも12/9(日)に開催します広島大学英語教育学会の一般公開企画(14:10-16:30)の中の「対話の集い」では「英語資格試験を問い直す」というテーマで参加者全員が語り合います。
学会員(広大教英卒業・修了生)はもとより、一般の方々も奮ってご参加ください。
12/9(日)に広島大学英語教育学会を開催します。
一般公開企画「英語資格試験を問い直す」には会員でない方も参加できます!
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■ MT君
今回の講義では、英語教育における「こころーからだ」の関係性について中心的に話し合いました。本論では外国語教育においてテストが学習者の「こころーからだ」に与える影響について考察します。
これまでの章で何度も言及されてきた通り、デューイは教育において「こころ」と「からだ」を別物だとする心身二元論的な考えに対して否定的な立場を取っています。第11章の中では、意味から切り離された機械的な音読を例に以下のような批判がなされています。
But if they originally learned the sensory-motor technique of reading -- the ability to identify forms and to reproduce the sounds they stand for -- by methods which did not call for attention to meaning, a mechanical habit was established which makes it difficult to read subsequently with intelligence.
すなわち、学習者の「こころ」を切り離した機械的な訓練を日常的に行ってしまうと、その訓練が習慣化されてしまい、それ以上「こころ」を付け足した知的な活動をすることが困難になってしまうといえます。
この批判は、英語教育の文脈において多く当てはまるのではないでしょうか。例えば、多くの大学試験の英語の問題で自由英作文が課されています。正誤の基準が明確な記号問題や和/英訳問題とは異なり、答えが一つに定まらない自由英作文を課すことにより、受験者の「論理性」や「創造性」の一側面を測るためです。
しかし実際には、多くの受験者が学校や塾で教わった「型」通りの「減点されない英作文」を書いているにすぎないという話を以前聞いたことがあります。“I agree with the idea that ... . I have two reasons. First, ... Second, ... . Therefore, I believe that ... ” といった解答が何枚も並ぶようです。ともすれば、自分の主張や理由を表す表現ですら、幾つかのパターンを暗記しているという場合すらあります。
この状況において学習者は、知性を働かせることなく、与えられたお題に対して手持ちの表現でいかに早く要求された語数を書き終えるかという機械的な活動をしているにすぎません。そのような状況が習慣化されてしまうと、今後学習者がライティングにおいて知性を働かせることが困難になってしまいます。すなわち、学習者の「こころ」を置き去りにした機械的な訓練が繰り返されることによって、本来学習者が「創造性」を発揮する場であるはずの自由英作文が、学習者の「創造性」を殺す結果へと繋がりかねないのです。
「テストを入れたら能力が伸びる!」という考えは教育を訓練としてみなしてしまい、かえって学習者の知性を抑圧してしまうことにつながりかねません。知性のない活動に成長は伴いません。2020年の大学入試への外部試験の導入は、上で挙げたような問題を4技能全てにおいて引き起こしかねません。目先の点数ばかりを追いかけた指導は、却って学習者の成長を妨げてしまいかねないことを教師となる我々は自覚しておかなければなりません。
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追記
以下は、学会員専用の企画についてのチラシです。
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