学部一年生の授業で、ある学生さんから「これまでの話とはあまり関係ないが、先生自身は、現在、学校で英語教育を行うことの意義をどう考えているのか?機械翻訳がますます発展する中、正直、学校英語教育は意義を失いつつあるのではないのか」という問いかけがありました。
私はその学生さんの意見を聞いた上で、私が日頃考えていた自分の意見を述べましたが、その応答は他の学生さんにも多少の印象を与えたらしく、以下の書き込みが授業用の電子掲示板にありました。
おざなりのことばをできるだけ使わずに書かれた、いい文章であるようにも思えましたので、ここに転載します。
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10月3日の講義で 一番印象深かったのは、「翻訳機能が発達した世の中で英語教育は必要か否か」という質問に対する先生の回答である。
言語を操ること、言語で意思を疎通させること、はたまた言語それ自体。日常的に行われている言語活動は、当たり前すぎて看過しがちだが、非常に美しく魅力的だ。
私自身 留学中、英語が上手く操れない期間は自分の声を奪われたような感覚に陥り、言語の必要不可欠性を痛感した。筆談にしてもらったり、辞書や翻訳機能に頼ったりすることで、自分の意思を相手に理解してもらうことはできたが、それはコミュニケーションとは かけ離れたものであり 非常に辛い思いをした。
しかし、一年間の留学も後半に差し掛かった頃から、少し欠陥はあるものの 言語を通してコミュニケーションが成立する場面が増え、充足を実感できた時の感動は、今でも忘れることはできないほど素晴らしかった。
言語は人の意思と意思の間を繋ぐ「手段」でしかないが、言語を手段として広がる世界は いつでも私に感動を与えてくれる。誰かの言葉に嬉しくなったり、傷ついたり、幸せになったり…と気持ちに変化を生じさせる言語は 私を退屈させることはないし、言語によって生かされていると感じることは多々ある。(コースの性質上 英語に焦点を当てることが多いが、もちろん 日本語も決して例外では無い。)
英語教育は、英語”を”教えるのが通例となっていて 本来の言語の役割や喜びを体感する手前で学習が終わっている。言語を操るために 英語”を”学習する過程を飛ばすことはできないが、英語”で”広がる世界を体験するところまで 英語教育の内容を拡張することができたなら、この先も 英語教育の存在意義は保持されるだろう、と私は思うのである。
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皆さんは、現代における学校英語教育の意義についてどう考えますか?
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