以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Educationの第一章の抜粋を読みました。この学生さんのように、現職教員の方が大学院に学びに来てくださると大学院の学びがより現実的になりますので、本当にありがたいです。
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今日の授業を振り返り,これまで私が使ってきた「コミュニケーション」という言葉は,一体何だったのだろうという気持ちでいっぱいになった。「あなたにとってコミュニケーションとは?」と聞かれたら,「人と人とが関わり合うこと」という程度のことしか答えられなかっただろうし,「コミュニケーション」について深く考えることもなかった。
しかし,今日の授業を通して,「コミュニケーション」について私の考え方が変わったことは確かなことだ。これは,私にとってDewyの言う”renew”なのかもしれない。今,「あなたにとってコミュニケーションとは?」と聞かれれば,「コミュニケーションとは互いに成長すること」と答えるだろう。これは,Dewyの言う”To be a recipient of a communication is to have an enlarged and changed experience.”を私なりに解釈したものだ。
これを踏まえて,教育現場での教師と生徒間の「コミュニケーション」について考えていきたい。教師と生徒は,学校という同じ空間の中で多くの時間を共有しているが,「コミュニケーション」に費やしている時間はいったいどれくらいあるのだろうか。1日の流れをざっとではあるが挙げてみると,朝のSHR,授業,帰りのSHR,クラブ活動と教師と生徒が接する時間は長い。しかし,この大半が「情報の伝達」に終わっているのではないだろうか。
例えば,朝のSHRと英語の授業について考えてみる。朝のSHRでは,簡単な挨拶をして,1日の連絡事項を伝える。ここに,「コミュニケーション」は存在しない。しかし,次のように変えてみるとどうであろうか。朝のHRでは,挨拶を交わし,連絡事項を伝える中で,生徒の顔を一人ひとり確認して,いつもと違った様子はないかを伺う。ここで気になる生徒がいれば,後で話をする。話をすることで,生徒は内に溜めていたものを吐き出し,気持ちを楽にして,1日のスタートを切ることができるかもしれない。
次に,英語の授業について考えてみる。単語を覚えることや,文法を覚えることに重きを置いた授業展開は,まさに「学びを記号で伝える」ことに他ならなない。ここにもやはり,「コミュニケーション」は存在しない。しかし,同じ単語や文法でも,その単語や文法を実際に使える場面を増やすような授業展開を行うことで,生徒にとって,その単語や文法は記号ではなく,自分のリソースとしての英語になるのではないだろうか。
教師が,生徒が必要とするものに目を向け,そのために行動すれば,生徒は変わる。つまり,教師による働きかけで,生徒は成長するのだ。しかし,ここで成長するのは生徒だけではない。教師もまた,成長しているのだ。これが,今の私が考える教育現場における「コミュニケーション」である。
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