2017/10/18

人工知能、メディア、身体、美といった論点を英語教育と絡ませながら共に考えました。


以下は、学部1年生向けの授業(英語教師のためのコンピュータ入門)の振り返りの一部です。この日の授業では、人工知能、メディア、身体、美といった流れで講義をし、折々に学生さん同士での話し合いの機会を設けました。





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■ うかうかしていられない。前半のAIに関する講義を受けて私はこのように感じた。
AIの導入が本格的に始まるにつれ、人間の職は無くなっていく。AIがさらなる進化を遂げれば、より一層人間の職は無くなる。こうした循環の中、我々に一体何ができるだろうか。

これを考えたときに、私の脳内に浮かんだのはAIでもできるような単純な情報提供ではなく、生徒の複雑かつ人間的な感情を理解し、親身になって寄り添うという事である。

AIというのは莫大な量のデータを集約したものであるから、そのデータに基づき、最適な情報を提供することはできる。しかしAIは、人間が抱える本人にとってすら漠然とした感情に対する対処法は知らない。なぜなら、そういった感情を経験したことがないからである。

そのため、人とかかわる職に就こうとしている身として、今のうちにたくさんの経験をして、感情の豊かな人間になり、AIには対処できない部分を磨いていきたいと思う。


■ 授業中に先生が発せられた「AIが進出して人々の職を奪うような世の中になった時に、自分たちが教師としてどのような教育(キャリア教育)を行ったらいいだろうか」という問いに対して、正直自分には明確な答えが思い浮かばなかった(人間と機械の違いは感情を持っているか否かだと漠然とは思ったが)。グループでの議論や、先生や皆の話を聞く中で、やはり対話が人間にはできると思った。先生の話にもあったように、例えば勉強意欲がわかないような生徒に対して寄り添って話を聞くというのは今の段階ではAIでも厳しいのではないかと思う。

いずれ人生相談のような類もAIはできるようになるとゾッとしたが、それでもやはり心と心のコミュニケーションができるのは人間の大きな長所だろう。それに関連して、表情についての話があったが、人間が気持ちを伝える上で表情は大きなウエイトを占めることを再認識した。予習課題でもあったが、SNSの多用により面と向かった、表情を使ったコミュニケーションが少なくなっていると自分でも実感するため、少し話はそれるが、表情を用いたコミュニケーションをしていくためにも、SNSに依存することなく、うまく活用できるようにしていきたい。


■ キャリア教育に関しては、大半の仕事がAIに奪われるという将来があり、そんな未来で人間がAIと違うことが「感情がある」ことだけだとしたら、残るのは情緒あふれるもの、伝統的な技術を必要とするものだろう。教室でロボットとの会話は無機質でおもしろくなかったと言う人が多かったことを考えると、きっと感情に訴えかけるもの、エンターテイメントの需要が今よりも高まるのだと、私は思う。そうなると、英語教育に演劇をとりいれ、表情豊かに英会話ができることの必要性も高まるかもしれない。どちらにせよ、コミュニケーションにおいては、棒読みは、いくらそれが母語ではないにしろ、良いことでもない。いくら文法や語彙がよくてもそこに感情がないのなら、それは完ぺきな他言語使用とは言えないと思う。




■ まず、前半のAIについて。今回の授業で、AIの発展に伴い、英語教育やキャリア教育の内容に変化が生じることは間違いないと感じた。そして自分なりには、英語教育は、現行の英語を学ぶことを主目的とした内容から、理論の組み立て方 (英語圏の人々の思考は、日本人より理論的だと耳にしたので) やディスカッションにおいての自分の意見の伝え方等の、英語をツールとして使いこなす練習を目的とした内容へと変わっていくのではないかと考えた。

キャリア教育に関しては、良くも悪くもAIの影響によって将来の職の選択肢が激変しているであろうから、予想すら立たなかったのが正直なところである。しかし、自分が高校で受けたキャリア教育の一つにあった課題研究というものは、かなり有意義だった。これは、自分が興味のある分野の現状を知り、問題点を見つけ、自分なりの答えを出すという内容で、主体的な行動力や思考力なしには成立しない。そして、グループで書き上げた論文を大勢の生徒の前で発表する頃には、将来のビジョンを鮮明に描けている生徒も数多くいた。AIが発達した社会で生き抜くには、思考力や創造力が大きな鍵となると授業で学んだので、この課題研究という活動は将来のキャリア教育にも通用するものだと感じた。

 また、有用性以外を目的とする学びについても考えた。とても抽象的な例になってしまうが、誰でもある点までは達することができても、そこから先に進める人とそうでない人が出てくることがある。その違いは、有用性以外の学びの有無 (自分の言葉で換言するなら、どれだけ寄り道や回り道をしているか) にあるのだと思う。

 そして最後に、シンギュラリティの話題から、AIの発展について考えた。AIの行き過ぎた発展により、人間が機械に支配される社会はもちろん恐ろしいものだ。しかし、私はそれと並ぶ程に、理系があまりにも注目されている (文系学部への予算が減らされているのは、理系への期待の裏返しだとも捉えている) 今日の社会を怖く感じている。AIを含む技術の発達によって、確かに生活は豊かになり、救える命は増えるだろう。だが、その技術が悪用された時に適用される法律は十分に整っているだろうか。また、クローン技術に代表されるように倫理的なジレンマは存在する。それなのに、今の社会はリスク<効率と結論づけて文系をないがしろにしているように私は思える。文系と理系の二院制がこの先続くのかが不安でならない。

 次に、後半のメディアについて。英語学習と音の結びつきをグループで話し合った際、英語劇や感情を込めた音読等、さまざまな経験が出てきたが、その一方で本気を出すのは恥ずかしいことだという教室独特の雰囲気は、どのメンバーも共感できた。授業を通じて言語的な身体の獲得を目指すためには、まずこの雰囲気をいかに取り払うかを考える必要があると再認識させられた。

また、私の場合は、長年校外で英語を教わっていた先生が特に英語の音を大切にされていて、その先生のことが思い出された。彼女は、単語の意味が分かっていても正確な読み方が分からなければその単語を知らないのと一緒だ、と私が教わり始めた頃からおっしゃっていた。他にも音読の際には感情が入っていなかったら何度でも読み直しをさせられた。このような彼女の教育によって、何かを得られた感覚はずっとあったが、それが何なのか、今回の授業を通じて少しずつ言葉に表せそうだ。

 もう一つ印象的だったのが、美についてである。授業中にも美に対する考え方が個々で違っていたように、美しさを感じる対象は人それぞれで幅があってもいいのではないか、というのが私の考えである。しかし、以前に比べて各々の美の感覚に自由度がなくなってきている、または他者ありきなような気がする。これは私が前々から感じていたことなのだが、フォトジェニックやおしゃれコラージュという語を頻繁に耳にする現象が物語るように、近年のSNSユーザーの中には他者から「いいね」をもらいたい一心でフィルターやコラージュアプリを駆使して「美しい」作品を仕上げる人も少なくない。

しかし、「いいね」の数が果たして美しさの指標なのだろうか。同じ花火を見ても、SNS用の写真撮影に夢中でレンズ越しにしか花火を見ない人と、パンという破裂音の響きを体で感じながら一瞬しか咲かない花を自分の目で眺める人とでは、後者の方に魅力を感じてしまうのは私だけだろうか。私は決してそのようなSNSユーザーを否定したいわけではない。ただ、他者の反応ありきで成立する美は、自分の心に基づいた美なのかと疑問に感じる。自分の信念を貫いた美こそ、多様性や創造力の根本になるのだと私は思う。

 この点で、有用性以外の学びは大切だ。「私は画家になるつもりはないから、美術の授業は要らない」などと言っている場合ではない。私は今までに同様のことを何度も聞いたことがあるし、実技教科が軽視される傾向は多くの教育現場でも見られると思う。しかし、そうではないのだ。今回の授業、そして授業後のお話を振り返ってかみしめたことである。





■ 最初の話題である、人工知能について。人工知能が今後さらなる発展を遂げ、人間を凌駕する労働力となったとき、人間にできる仕事は何か、AIには不可能で、人間には可能なこととは何か、そのような未来で私たちの生徒や子供たちが生き抜いていくために私たちができることはなにか。なかなか難しく、90分の授業で簡単に答えを見出すことのできない問いかけではあるが、そもそも予想される未来に真正面から向き合い、考えていくことが大きな第一歩なのではないかと感じられた、そんな授業だった。

個人的には、「こういう教育をしたらいいのではないか」「こんな授業をしたら」とみんながいろんな案を出した上で、先生がおっしゃった「そのような授業を受けていない君たちがどうやってそうしていくのか」という言葉が胸に刺さった。

たしかに、「学習の目的を変える」という意見において、私のこれまでの学習スタイルを照らし合わせると、中学生のときは内申点が受験に響くから1年生のころから授業を真面目に受け、高校生のときは内申点が受験に関係ないから3年生だけ必死に受験のための勉強をして、先生方からもそれを望まれているように感じていたし、その期待に応えることが目的になっていたところもあり、将来これから実践していきたい教育を受けたことはないし、望ましい学習姿勢をもったこともない。

これまで教えていただいてきた先生方のせいにするわけではないが、「生きるための力」をつける、もしくはその重要性に気づかせられるような授業を受けた記憶はほとんどない。その経験がないのにどうやって自分が教える、教育する立場になればよいのだろう、と心が不安感でいっぱいになった。

ただこれに今気づかせられてよかったのだと思う。正直、私はこの授業を通して、今までの受けたことのある授業が、どんなに受け身な授業だったかを思い知らされている。この授業では、先生が問いやテーマを与えてくださり、私たちが主体的に考えることのできる授業形式になっている。こういう形式の授業を昔からずっと受けていたら、私の想像力、思考力等はもう少し高い水準にあったのかもしれないと感じる。先生の授業を通して、授業の内容も広く深い学びであると感じるが、授業の仕方も同時に学べているのではないかと受けるたびに思わされている。


■ 今回の授業を受けて、自分が得てきた知識よりも感覚の方がより良いものを生み出すことがあるのだと感じた。これまでは無難に人並みな意見を出して、目立たずに授業を終えようと考えていることが多かった。無感動に知識を詰め込むことに慣れてしまっているのだろうが、無感動よりも疑問を持ち、驚くような発見をすることでより学びは楽しくなるだろう。将来英語の教員になるのだからこの知識はいらない、なんて思わずにたくさんのことに触れて自分の感性を磨いていきたい。




■ マツダのデザインなどを例にとった「アート」の話題に関しては、「身近に感じた美」という難しい事項について考え、意見を交換したが、「美(アート)」について考えれば考えるほど、アートが軽視されており、受験に向けての勉強のみを重視している現在の日本の教育形態が浮き彫りになり、馬鹿馬鹿しいと思った。前半のAIに関する授業を踏まえても、これからの社会で重視されるべきは受験学力などではないはずなのに、未だにこのような形態をとっている日本の教育機関を恨めしく思うとともに、いかにしてそれを変えていくことができるか、われわれも考えていくべきだと感じた。


■ もう一つ印象に残った内容に”美意識”についての話がある。私は最近自分の周りにいる人として尊敬している人の多くが自分で絵をかいたり写真を撮ったりと創作活動にも熱心であるという共通点に気づき、それがなぜなのかしばし考えていた。前回の授業でアートと人のかかわりを知って私はずっとわかりそうで分からなかった答えに辿り着いたような気がした。自分独自の美意識や感覚、あらゆることを見極める目は、アートから培われ、そしてその力がその人自身を形成していくのだ。私自身を振り返ってみると昔は熱心に取り組んでいた絵画や読書などから”時間がない”と錯覚して遠ざかっていたが、これからはアートの世界に積極的に飛び込み、自分独自の美的感覚を磨いていきたい。


■ 今回の授業で私の班内でディスカッションが盛り上がったのは、「教育の現場における『美意識』とは何か」というトピックだ。一言に『美意識』と言っても、クラスメイトが持つエピソードはどれも多種多様で、大変興味深かった。私の持っていた視点とは違った角度からのアイデアは、私にとってより深く「美意識」について考える良いきっかけとなった。よって、今回の振り返りはクラスメイトが発表した「美意識」の視点から私なりに思考を広げてみようと思う。

まず「美意識は人によって異なる」といった定義づけについて、私もその意見に賛成である。しかし、私たち昨今の若者の間では、画一化された美に翻弄されたり、逆に多様な美の形を知り自尊心を取り戻したりといった二極化した風潮がネット上で顕著に見られるようになった。グローバル社会・高度情報社会は経済界に於いてだけでなく、私たちの「美意識」にも大きな影響を及ぼしたと考える。

SNSにのめり込む若者は、自分があげた写真についた“いいね!”の数を自分自身の価値とイコールで結びがちだ。人気アイドルやモデルの外見に似ていれば「かわいい」と友達からたくさんの“いいね!”をもらえるが、彼女たちが本当に欲しいのは“自信”なのではないだろうか。今にも倒れそうな自尊心を、有名人の真似をすることで得た高評価で極めて一時的な“自信”を作り、何とか保っているのではないだろうか。整形依存の人にも同じことが言える。

一方、SNSのポジティブな面については、やはり多様性に満ちた美の形を知ることができる面ではないだろうか。例えば、日本で醜いと見なされがちな太った体は、インドでは富の象徴として、また南米ではセクシーとして好意的に見られている。話は少し変わるが、私は人生の最大のゴールの一つに「自分自身を愛せるようになること」をあげている。画一化された美によってコンプレックスの塊となってしまった女性たちに、そのような形でSNSの恩恵を受け、無条件に自分を愛せるようになって欲しいと思うし、私もそうなりたいと思っている。





■ 機械やAIなど技術の進化によって、教師の役割はどうなるのか?この問いの答えを考える前に、まずAIにはできず、人間だけができることを考えてみる。私が思いついたのは、新たなアイデアを生み出すことや、相手の気持ちに共感することである。 AIには身体がないので、仮に人間が経験したことを大量に集めて、人生相談をすることができるとしても、こういうことがあったという”事実”は伝えることができるが、その時その人がどう思い、どう考えたかということは伝えることができない。対して人間である私たちは、自らの身体で経験したことを伝え、子供の学習へ対する意欲を高めることができるのではないかと思う。また、AIは過去のデータを元にして全てを考えるが、人間は未来を想像することができる。この想像力こそが人間をAIと根本的に分けるものではないかと思う。楽観的な考え方だが、仮に人間がドラえもんのような人間を超えるロボットを生み出してしまっても、その時にはその問題を解決する発明がされているかもしれない。結論として、教師の役割は、この想像力を育成することではないだろうか。

役に立つ以外の学びの意味とは?この問いに対する私の答えは、未知なるものと出会う機会を与えるということである。私自身も感じていたが、学校での学びでは、誰しもが”やらされている感”を感じながら勉強したことがあるのではないだろうか。しかし、この”やらされている”ことによって、子供の将来の可能性は広がると思う。どういうことかと言うと、食わず嫌いと同じで、「数学は難しいから嫌いだ」という風に最初から決めつけて、ある教科に苦手意識を持つ生徒は多いと思う。しかし、その教科をずっとやらされている中で、ふとそれを学ぶことの楽しさにふれ、この分野についてもっと学びたいと思うことがあるのではないだろうか。つまり、学びが次なる学びへと導き、その個人の性格を形作る知識の一部と出会う手助けとなると私は思っている。

身体から意味(情動)が生まれてくるということには、なるほどと思わされた。英語落語で先生が演じられていたように、離れた場所から声をかける場合や、ささやき声で話す時、その状況や場合に応じて、実際のコミュニケーションでは言葉より体が先に動くことがある。やはり英語の授業においては状況設定を行い、実際のコミュニケーションに近づくようにしないといけないと思った。しかし、意見があったように、現在の英語の授業の多くでは、生徒は恥ずかしがったり、周りを意識して、自分自身の持つ優れた発音を隠したり、感情をこめておおげさに会話をすることは少ないと思う。そこで、教師が自ら実践することはもちろん生徒が感情を豊かに英語を話すことができる環境づくりを日頃から行うことが重要になってくると思う。また、ボランティアでも感じたが、アイスブレイクの効果は絶大だと思っている。授業についての知識だけでなく、授業をスムーズに進めるための、教科以外の知識を今のうちに学んでおかなければいけないと思う。柳瀬先生のお話の中で、周りを全く見ておらず、潜入した先生に気づかない教師がいたとあったが、目線を合わせる、周りを見れるかどうかは教師としてとても重要なことだと思う。これらのことをしなければ、教師から生徒への一方的な指導になり、機械が授業をしているのと相違ない。人間の教師であるからできることを、意識しながら、授業を行わなければいけないと思う。 

美とは何か?美とは言葉では表せないものだと思う。私の場合、”美”と言われて考えるのは、大自然を見た時に感じる感情と、なにかをやり遂げた時に感じる喜びに似た感情である。美の定義は人によって違うものだと思うが、私はかねてよりどんな人間でも、何か美しいと感じる瞬間はあると思っている。多くの国があり、様々な問題があるこの世の中だが、言葉で表せない”美”は世界共通のいわゆるメディアで、この美を感じることができることは、とても重要だと思う。生徒がこの美を豊かに感じさせることができる教師になるために、いろんな経験をつんで、様々なものを見ていきたい。





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