以下は、DeweyのDemocracy and Educationを読んでいるある院生の授業振り返りの一部です。
この画像は下の院生とは異なる院生の予習ノートです。
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デューイによると教育は、学習者集団の中で生まれる共感を通して達成されるものである。ここで注目すべきは、教育は、集団がそこにあるだけでは成り立たず、そこに共感が不可欠であるということである。この違いを際立たせるためにデューイは、「教育」と「訓練」という言葉を用いている。つまり、前者が、異なった背景を持つ個人が、自らの思考と意思に基づいて共感的集団をなして、ある概念を獲得しようとしている学習状態を指す。これに対して、後者は、異なった背景を持つ個人が思考と意思を持たずに、個の集合体をなしてある概念を記憶しようとしている学習環境である。
以上を基に、英語教育の現状についても考えてみたい。現在、英語科においてCEFR等の枠組みに沿った英語力の向上が急がれているのは広く知られているだろう。つまり、より多くの英語の知識・技能を効率よく定着させることが直近の目標として掲げられている。しかも、その目標は、授業時間数への配慮などがされないまま小中高ともに大きく引き上げられる見通しだ。そして、その成果を一般的な英語の技能試験で数値化しようとする動きすら見られる。このような状況に置かれる学習者集団(教師・生徒)は、デューイが言う「教育」・「訓練」どちらに進むのだろうか。私は、その答えは明確であると思う。
もう一点私が感じていることは、そもそも今掲げられている目標は、本当にこれからの未来を生きる子供たちの為になるのだろうかということである。AIの機能が日々向上していくこの時代に、子供たちが今「訓練」されている力が人間にしか持つこの出来ない固有の力と言える時代は、そう長く続かないような気がしてならない。もしそんな時代が来たとしたら、彼らには人間固有の言語力として一体何が残るのかを、今一度私たちはよく考えるべきではないだろうか。子供たちを一時の政策のエビデンスの為に「訓練」するのではなく、彼らに未来で活かせる「教育」を提供しなければならない。
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