以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Educationの第一章の抜粋を読みました。この学生さんのように、他大学から教英大学院に進学してくれた人がどんどん教英を活性化することを私は望んでいます。
ちなみに以下の文章の最後の方に出てくる「byではなくinの関係性」というのは、Deweyの以下のことばを基にしたものです。
Society not only continues to exist by transmission, by communication,
but it may fairly be said to exist in transmission, in communication.
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第1回目を終えて、正直かなり難しかったが、今回の講義を経て私が考えたことや感じたことをまとめたいと思う。
今まで、教育と民主主義を関連付けて考えたことがなかった為、Deweyの考えを読んでもいまいちピンと来ていないのが現状だ。ただ、1章を読み終えて何かが私の中で引っ掛かっており、きっと何か私の中で共感したのではないかと思っているところだ。
今回の章で特に印象深かったのは、コミュニケーションというものが社会や教育の中でいかに重要な役割をしているかに気付けたということである。これは、先生が授業中に仰っていたことなのだが、「日本の教育目的は個人主義的傾向が強いが、外国の場合は民主主義的な教育目的も多く見られる」という言葉に強く共感した。というのも、私の経験を振り返ってどう思う節が多々あったからである。
私が高校1年生の時、幸運なことにアメリカの高校へ約1ヶ月交換留学に行くことがあった。そこでは、現地の生徒に交じって一緒に授業を受けていたのだが、日本の教育とは異なり、現地の学校では授業の方法から教師と生徒の関係性まで目を疑うほど異なっていた。というのも、私の母校はバリバリの進学校で、「授業中は教師の言うことは絶対」「授業はひたすら先生の言うことを覚え、何も口出さない」というような学校であり、授業中に何かを相談したり、教師と議論したりといったコミュニケーションはほぼ無かった。
しかし、アメリカの高校では生徒と教師が互いに意見し合い、授業中に生徒同士で考え、目標に向かって取り組む姿が数多く見られた。授業に参加してみて驚いたのは勿論であるが、初めて授業を楽しいと思った瞬間であった。クラスにおける教師と生徒の立場はほぼイコールで、授業内にはコミュニケーションの場がいつでも設けられていた。縦のみならず、横のコミュニケーションも取れていたため、クラス全体で1つの同じ目標に向かって歩んでいる印象であった。初めて、クラスという社会集団のなかで私が存在していることを実感したのである。
帰国してからは、いかに日本がコミュニケーションのない一方向の教育をしているのかを痛感した。高校のみならず、大学でも同じような状況であった。大学に関しては、特に自分の進路に向けて選択した学校なので、自分と似たような目標を持った学生と、それをサポートする教員の関係性が出来たものだと思っていた。しかし、実際は教員のやりたいこと専門分野を扱った授業に、ただ耳を傾け、ノートをとり、単位のために受講するようなものばかりであった。期待していたものの、残念ながら教員と学生の間にコミュニケーションはなかった。ただ、唯一「一集団で一目標に向けて全員で働きかけている」と少人数のゼミではうまくコミュニケーションが作用し、教員と学生が繋がっていた。この時から思っていたが、いかに日本が一方向な教育をしているか、双方向の教育をすれば互いに高め合えることになるのになぜ実践しないのか疑問であった。
一方向な教育と双方向な教育では、全体が一集団となれるか否かに違いがある。それを左右するものが「コミュニケーション」であると私は考える。ここでも述べられていた通り、コミュニケーションや伝達をbyではなくinの関係性を保つことがポイントとなるのではないだろうか?コミュニケーションをとることで、お互いに共有するものや違う考えを理解し受け入れることが出来、それを認識しながら一集団で生きることが、現代の日本の教育においてかけている部分ではないかと考えた。
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