2017/10/12

英語科で繰り広げられるコミュニケーションには、デューイが描く、参加者の変容を促すような要素が入る隙などほとんどない


以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Education第一章の抜粋を読みました。若い人の批判的思考によって、しっかりと英語教育が改革されることを私は望んでいます。




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今回は、デューイの「コミュニケーション」観(一部から解釈)と英語科のコミュニケーションを比較し、この比較について私自身の考えをまとめ講義の復習とする。

 まず、デューイの「コミュニケーション」観の特徴を私は、参加者の内的変容を促すものと解釈した。ここで言う内的変容とは、参加者の中で、新たな知の獲得、既知の事項の捉え方の変化等が起きることを指す。例えば、ある事項について、コミュニケーションの中で、他者の異なる考え方に触れ、それを自らの考えと併せて新たな価値観を得ることなどが、ここでいう内的変容であると考えている。つまり、デューイが言うコミュニケーションが成立する条件は、参加者がその中で「本音」、あるいは「実体験」を他者とやり取りすることではないだろうか。なぜなら、本音や実体験を抜きにして、コミュニケーションの参加者の内的変容など期待することが出来ないからである。

 次に、英語科で見られる「コミュニケーション」とは、どのような特徴があるだろうか。現在、英語科では、コミュニケーション活動の充実が叫ばれているが、こうした活動の実態は、事前にインプットされたテキストの内容や教師が指定(誘導)した内容を英語に乗せることにとどまっているのではないだろうか。こうした実態を踏まえると、やはり先述のデューイで見たような「コミュニケーション」とは、無視することが出来ない隔たりがある。ましてや、このような入念に仕組まれた活動の中で、相手の話に反応(驚き、アイコンタクト、相槌)を示すように指示された時の生徒たちの戸惑いは容易に想像できる。

 以上のように英語科で繰り広げられるコミュニケーションには、デューイが描く、参加者の変容を促すような要素が入る隙などほとんどない。勿論、到達度目標の著しい引き上げを受け、効率的に言語知識を定着(暗記)させることは、現場の事情として十分に理解できる。しかしながら、そこであきらめてしまっては、EFL環境にある日本の子供たちの貴重な第二言語に触れる機会をあまりにも味気ないものにしてしまうのではないだろうか。私自身、教員を志すものとして、将来出会う生徒たちにほんの少しでも多く、本当の意味での自己表現・他者理解を伴ったコミュニケーションの機会を提供できるよう努力したい。

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