以下は大学院のある授業の振り返りの文章の一部です。DeweyのDemocracy and Educationの第一章の抜粋を読みました。このような文章を書いてくれる大学院生を私は誇りに思っています。
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今回印象的だったのは、一つ目に「生きること」とは自分以外のすべてのものと相互に関わることによって、自分を自分で変え続けていくこと、二つ目に「社会」がtransmissionやcommunicationそのものであるということ、三つ目に「社会」は単にそこに属する人々が共通する目的を持っているだけで成り立つものではないということだ。この三つの点は密接に関わっている。
「生きること」は、さらに生物的な意味での「生きること」と社会的な意味での「生きること」を分けることができるかもしれない(もちろん人間にとってはこの二つはほぼ不可分である)。社会的な意味で「生きている」生物は他にもいるかもしれないが(群れで生きている哺乳類やハチやアリなどの社会性昆虫などもいるので)、最も社会性の高い生物は人間である。厳密な意味で言語を習得できるのが今のところ人間だけであることも、人間の「生きていること」が持つ社会的な意味が非常に強いことから考えると納得できる。
個人が「生きること」により他人と関わる際に与える影響は一方通行ではない。この関わりに参加した両方、関わった人数が多ければその全ての人間が影響を受ける。このように個々人が「生きること」によって他の人間に影響を与え与えられる関係が「社会」であり、コミュニケーションの場である。
こうした意味での「社会」を本当の意味での社会だとすると、一般的に社会として捉えられている集団の中には社会として成り立っていないものもあるかもしれない。学校の教室で頻繁に会ってはいるが、お互いにあいさつ程度しか関わりが無い生徒同士はどうか?普段頻繁に関わりがあるわけではないが、会うと必ずあいさつして、学校のことなどを聞いてくれるご近所のご老人との関係性は?色々な関係性を「社会」という観点から見直してみると、漠然としていた関係性が明らかになるだろう。
以上を踏まえて、私個人の変容と、自分が所属して早5年目になる教英という集団について考えてみたい。
1. 自分自身の個人的な変容
(省略)
2. 英語教員養成機関としての教英の変容
英語教員養成機関として教英について考えると、自分が学部で受けてきた教育の中で違和感の残る点がいくつかある。また、その違和感の元が未だに批判的に検討されていないことが余計に強い違和感となっている。そのうち代表的なものとして、授業を英語のみで行えることが最終的には理想であると考えられている点である。私たち教英の学生は、入学当初にこの考えに触れ、驚き、その斬新さに憧れる者と違和感を持つ者がそれぞれ自分なりに考えてきた。私は当初、このいわゆるall Englishの考え方に完全に否定的だった。少なくとも自分が教育を受けた学校教育の現場で実行するにはイメージが全くわかなかった。それは自分自身が当時ほとんど英語をしゃべることができなかったことにも関連している。そもそも自分たちが上手く話す自身が無いのに、英語で授業を教えるという実感が全く無かった。この辺りは単に自分の主観に過ぎなかったのだが、当時は素直に拒否反応が出たのだった。
しかし、最も大きな違和感の元は、誰もall Englishの授業が最も理想的であることに対し、納得のいく説明を与えてくれなかったことだ。「文部科学省で決めたこと」「これからの時代はグローバルの時代だから」といった理由がだいたい説明に使われていたが、これがall Englishの授業実施の明確な理由になっていないことは明らかだった。数年後にお世話になった教育実習でも同じようなall Englishの授業を求められた。さすがに日本語の使用を完全に禁止する先生は現場にはほぼいらっしゃらなかったが、all Englishの授業を正当化する説明は聞けずじまいだった。
私は現在all Englishの授業を完全に否定するつもりはない。英語に触れる機会が多いことが学習者にとって良い経験になることは事実であり、現に私自身が中学高校のときは英語をコミュニケーションに用いることが極端に少なかったので、それを踏まえると状況しだいで良い点も多い。しかし、all Englishの授業が「最も理想的だ」という考えには今でも反対である。そもそも学習者のL1を効果的に使用して学習を補助しようとする姿勢に欠けているし、母語話者の習得環境への憧れのようなものが無批判に存在していると感じる。
こういった諸々の理由から、この授業方針に未だに十分な根拠を提示しない教員養成機関としての教英には不信感すら感じる。もちろん他の部分で優れた取り組みが為されていることが事実なのだが、自分が入学したときからこの状態が全く変わっていないのだとしたら、それは教員養成機関として「生きている」、また健全な「社会」として成り立っていると言えるのだろうか。また、次の世代の学生たちを迎えるに当たってこの状況は好ましいものなのだろうか。私個人としては、自分が所属しているこの教員養成機関としての教英が社会的な意味で「生きること」を経験するべきだと考えている。
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