第二回英語教育小論文コンテスト(「10代・20代が考える英語テストのあり方」)の最優秀賞は19歳の清水一生さんに決定しました。清水さんには賞状と賞品(図書カード1万円分)をお送りします。また、延期された広島大学英語教育学会のシンポジウムには清水さんのご都合さえつけばご招待させていただこうと思っております。
以下に審査員コメントと清水さんの作品を掲載します。作品は縦書き原稿用紙に手書きされたものを、ワープロに変換する際に一部の漢数字をアラビア数字に換えた以外は原文のままです。
審査員コメント
清水さんは、これまで定期的に英語資格試験を受けてきましたが、年々成績は上がっているにも関わらず、自分の英語力の伸びを今一つ実感できないままであると訴えています。また、まわりの英語学習者も同様で、英語資格試験の成績向上によってプライドばかりが高くなり、かえって真の英語力向上が妨げられているのでは、と逆説的な論を展開しています。そこで清水さんは、「現在の日本における英語資格試験は全て廃止すべきである」という大胆な案を提示しつつ、代わりにグローバル社会により相応しい英語資格試験の導入を唱えています。特にスピーキング力を測るこれまでの面接試験は「あまりにも形式的」であるとし、これからの時代で求められるスピーキング力に即した面接試験の開発が喫緊の課題であると指摘しています。個人的な体験に基づきつつも、大胆で刺激的な論が展開されており、最優秀賞に値すると判断しました。
作品
我々を映し出す試験という鏡
清水一生(19歳)英検、GTEC、TOEICにIELTSと今日では様々な英語資格試験にあふれている。身の回りでは「グローバル化」といった言葉や「英語が必要な世の中」などといった声が後を絶たない。そんな中、果たして本当にこれら資格試験は「グローバル社会」を生き抜く人材を育成しているのだろうか。
私が初めて英検を受験したのは中学二年の頃である。当時の私は英語がこの上なく好きで、かなりの情熱を注いだのを覚えている。初めて受験した級は三級で、一次試験をパスし、二次試験の面接にも合格した。しかし、どこか満足感や達成感がなかった。面接試験があまりにも形式的で試験官とのやりとりが機械的すぎると感じたためだった。このような試験で受験者の能力を測ってよいのか、という疑問を隠せなかった。私は今冬で19歳になるが、あの当時からその疑問を抱いてきた。私が思うには、英検といった現在の資格試験を通して人々の英語の読み書きの能力は向上する可能性は大いにあるが、必ずしも英語を話す能力は上がるものではないということである。
中学生の頃、ALT(外国語指導助手)である先生と英会話をする機会が何度もあった。しかし、彼らとの会話を楽しむことはもとより、自分の言いたいことを表現することさえ意のままにできなかった。残念なことにこの状況は高校卒業まで続き、今に至る。取得した英検のグレードは年々高くなってきているのにも関わらず。加えて、自分のようにペーパーテストのスコアは高いが、人と面と向かって会話となると、英語が途端に話せなくなり、戸惑い、ついには赤面するような人を今まで何人も見てきた。
英語資格試験の面接においては、事前に策を練り、練習を重ね、本番では形式に従って機械的に受け答えをするだけという流れがここ数十年は繰り返されてきたように思える。反対に、英検の一次試験での「読む・書く・聞く」の能力を問う試験では、これら三要素が十分に育成されるため、受験者の力も向上する傾向にある。また、二次試験とは違って、試験制度も2016年を境に改変された。言うまでもなく、二次試験については変更されなかった。
では、英検などの試験を通じて私達は何を測るのか。「私達が持つ総合的英語力」、「グローバル社会に対応するための英語力」。これらは無論、多くの人が答えるであろう内容である。しかし、どうだろうか。この先、社会はグローバル化するわけだが、その社会で必要となる英語力の根本を築くのは「話す力」だと私は思う。今、迫り来る社会では、仕事をするにも何かをするにも英語を話す力が求められる。まして、そんな社会で生き抜いていくにはなおさらである。このような観点から、現代の人々は英語検定試験を通じて、グローバル社会で‘本当に’必要な「話す力」が育成されず、正しく測られていない、と私は考える。
興味深いデータがあるため、紹介したい。(注)かの有名なTOEFLテストに「話す」試験が導入されて以来、日本人の英語力がアジアで底辺という結果が出された。日本人と「話す力」の乏しさが露呈されたと言える。現代の日本では英語、英語と口うるさく言い、英語力向上のためにあらゆる計画を推し進めているにも関わらず、アジアで最底辺という現状だ。つまり、現在の英語教育制度では不十分であるということが分かる。
私は提案する。現在の日本における英語資格試験は全て廃止すべきである、と。現在の試験制度では仮に「資格」を取得する人が多くなるとしても、彼らの多くにはプライドや「自分には資格相応の英語力がある」といった過剰な自信だけが備わってしまい、いざ社会に出ると、彼らの英語力は全く通用しない、歯が立たないものであると社会から痛烈な評価が下されることを私は危惧する。そして私もその一人となる過程を辿っているのかもしれない。このように主張しておいては何だが、解決策ないしは打開策を即座にはひらめき難いのも現実である。巷では、2020年の教育改革、大学入試制度の変革の方針も明確に示されている。人ではなく彼らを取り巻く環境を変えることも大切ではあるが、やはり教育者である英語教員にも変革を起こし、彼らに本当に必要とされる資質にも目を向けてほしいと願う。
私は、教員を志す者の一人で、近い将来、教鞭をとり、目まぐるしく発展する社会で生きるのであろう。果たして、数年後の未来にはどんな世界が広がっているのであろうか。英語教育に大きな変革は訪れているのだろうか。はたまた、現状突破はされないでいるのか。様々な思いを巡らせながら、今日も私は歩み続ける。
(注)https://www.google.co.jp/amp/s/diamond.jp/articles/amp/96206
清水さんおめでとうございます。
清水さんのこの作品を一つの契機にして、よりよい英語教育づくりを目指してゆきたいと思います。
この英語教育小論文に直接的・間接的に関わってくださった皆様に心より御礼申し上げます。
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