前にも紹介しましたように、現在、修士課程の一年生は「教科教育学研究方法論」という授業で、10の異なる教科の教員・院生と共に学んでいます。
前回の授業では、特に社会科の教員による問題提起が興味深かったようで、院生の皆さんもいろいろ考えさせられたようです。
以下、よかったら皆さんもお読みになり、これからの学校(英語)教育のあり方について考え直してみたらいかがでしょうか。
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■ 話を社会科の話題提供に移すと、私が改めて重要だと感じたことは私たち一人ひとりの主体性でした。中高生だったころの私は世の中に正解は1つしか無いと思っていたと思います。その正解は教科書や先生、メディア、もっというと国家から与えられていたものでした。しかし、そうした情報や視点に一端待ったをかけ、「正しい / 間違っている」という二択ではなく、「なぜ」「どのようにして」、さらには情報を鵜呑みにしていた自分を客観的に見る力を養うことが本当に必要なことです。教科書を批判的に読むという授業実践などもこうした力をつける一つの方法であり、これは私が中高生のときにはほとんど見かけなかった実践です。
ただし、以上のような批判的な視点を生徒に持ってもらう取り組みにも注意点はあります。中高生に限ったことではありませんが、唯一の正解が得られないことに耐えられない人は多いと思います。どの考え方、情報も絶対的に正しいわけではないと言われていると、やはり誰しも不安になってしまいます。何を信じればよいかわからずに不安の渦中に投げ込まれてしまうと、むしろ極端な意見や情報に流されてしまう危険性もあります。このような事態を防ぐために私たちに何ができるのでしょうか。この問題は社会科に限らず、すべての科目に当てはまります。私自身は今回の講義だけではその答えが出せなかったので、今後の課題に追加しておきたいと思います。
■ 社会科の方からのお話しが強烈で食い入るように聞いていました。何が一番自分の中に強烈だったかというと、「教えている内容を疑え」というメッセージに対してでした。教師にとって教科書は、教える内容はそこに書いてあるし、順序もそれに従えばいいしと、何かと教授には都合がいいものです。しかしそれには、何かしらのイデオロギー的要素や国家による情報統制に影響されてはないだろうか。そのような目で教科書を見たことはありませんでした。
確かに戦時中の日本で、英語の教科書における内容は軍事色が強かったものであったが、あれは国定教科書であって、検定制度に代わった今はもうないと考えていました。そのような統制された教科書あるいは教師によって育てられた子供たちはある程度画一化されてしまい、その教育に対してあるいは社会に対して違和感を覚えられる子が果たしてどれだけいるだろうか?ましてやグローバル人材を育成するなどと躍起になって盛り上がっているが、今の矮小化・多様化している世界で、“日本的”考え方をもった人が対応していけるのだろうかという疑問を持ちました。もし、違和感を持てる子がいたとしても握りつぶされるでしょう。(中略)
こういった状況の中で必要なのは、広い視野をもった教師の存在であると思います。アンテナを張り巡らし、得られた情報を客観的、批判的に鑑み、情報の取捨選択を行う。生徒には1つの考え方だけが正解というような提示の仕方ではなく、生徒に投げかけ考えさせることを行えるような教師像が今求められているのではないかと感じました。今日ではメディアも統制されているような認識があるので、日本のメディアだけに頼らず海外のメディアからも情報を得ることが大切です。
■ 社会科の話題提供の中で,「現実問題と教室の中で教わっていることには大きな隔たりがある」という話があった。子どもたちが「どうせ役に立たない」と思うことの原因の一つかもしれないと思った。また,学校での学びにおいて,「教師の判断基準」が目標・内容・方法を左右してしまう,「子どもの社会文化的状況」が質や量を左右してしまうという話を聞いて,教師が子どもたちに与える影響は計り知れないものがあるということを強く実感した。
教師それぞれが持つ判断基準に統一されたものはないはずだ。しかし,だからと言って個々の教師が暴走することがあってはならないし,全員が杓子定規に同じ判断基準を持っていては,子どもたちが築く社会は創造的なものにはならないであろう。それゆえに,教師同士が互いの価値観や判断基準について議論する必要もあるし,子どもたちに対しては,自分で判断し,考えるような投げかけをしていく必要があると考える。
■ グループ内対話の成果を発表する際、これまでの授業では時間の都合から単に話し合ったことについての発表と、それに対する簡単なフィードバックが担当の先生より与えられるだけでしたが、今回はグループの意見に対して複数の先生が意見を述べられ、それに対し別グループの学生が意見を述べ、それに対し別の先生が…というような、大きな単位での相互交流が作動しているのが見られました。つまり、今回の授業ではグループという小さな単位での対話のみならず全体という大きな単位での対話が起こっていたのではないかと考えられます。
なぜこれが面白いのかというと、学生たちがそれぞれの知見を活かして対話したことを共有するだけでも良い対話になるのですが、そのなかに学生たちよりもはるかに多くの知見を有する先生方が参与することにより、対話の深みがぐっと増していると考えられるからです。恐らくこの講義がより知的に面白くなるための要件として、先生方が適切なタイミングで対話を「ひっかきまわす」ことが重要なのだと思います。
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