2017/05/09

対話について学び続けています

以下は、学部4年生向けの授業「現代社会の英語使用」の受講者の感想の一部です。この授業では英語使用に関する話題を題材にして、スピーチと対話を実践し、それらの技術を高めようとしています。

この授業で身につけた技術が、将来に職場や日常生活で活きることを願っています。







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■ 「完璧な発言を続けていくことが目標ではない。」授業の最後に先生がおっしゃったことが今回の対話の反省を端的に表しています。

対話とは全員の意見をすり合わせていきながら一つの真実・目標に向かっていくものであるならば,いきなり一人の人がその真実に最も近づいたことを言うのは極めて稀であるはずです。ある人の発言に対して補ってあげたり,違う視点を与えたりすることが大切で,それが続いて初めて対話が成り立つわけです。なので,「完璧な発言をすることは目標どころかほとんど不可能に近い」という考え方をするべきではないでしょうか。

そして,その考えを持った上でとにかく発言をする。例えその発言に訂正すべき点が多くあったとしても,他の人がその意見を補ってくれるんだという気持ちを持っておくことが大事です。それをするために,いくつか注意しなければいけないことがあると考えます。


■ 小さな確認が重要であるように感じた。対話においては、他の人との意味がまったく同じではなくても、意味が類似すればいい。その意味の差異を見出しそれについて考えることで新たな発見が生まれる。しかし、確認なしに進む小さな認識のずれが、対話が進むにつれて大きなものになってしまうように感じた。

自分自身を振り返ってみると、歳を重ねるにつれて、「わからない」ということを「わからない」、と言う、大切で当たり前のことを欠いてしまっているように思う。わかったふりや、なんとなくわかった気になっていることはとても恐ろしいことである。自分が発話することについても、ときどき言葉を発するのが怖いと感じる。論点がずれ、話があちこちに飛び、筋道をたてて話すということが十分にできていない。しかし怖がってばかりいては何もできないし上達もしない。教師になって失敗するより学生であるいまのうちに多くの失敗と経験および反省とそれに基づいた実践をしていきたい。

今回の談話をする中で考えたことは、子どもたちに知識とそれに基づく思考力を、多くの失敗と挑戦を、と思う一方で、私自身はそれをできているのか、ということである。いまの思った通りにできないもどかしい気持ちを忘れずに、学生ではなく教師としての意識を持ち、子どもたちと接する準備を急ぎたい。


■ 今回はまるで反省文になりそうだ。はじめからそう思うとなんだか書くのも憂鬱なものであるがそんな回があってもいいだろう、成長のきっかけにすべくしっかり反省したいと思う。

 教師だって、人間だから失敗もするだろうし子どもの前に立つからと言って完璧であるわけもない。お手本であるべき必要性もあるが、それは完成した間違いのない形ではなく、むしろ完璧でない人間の姿としてのお手本であるべきなのだと思う。弱さだけじゃない、それと向き合う強さを見せるのであって強さだけじゃない、誰もがもつ人間の弱さをさらけ出して、かっこつけず、反省して成長していく姿というのも、お手本としての一側面なのではないかと思ったりもするこの頃である。

 さて、まずスピーチについて振り返っていこう。すべての反省点は、これまでずっと、“自己中”であったことに依拠するだろう。対人コミュニケーションに及んで私が私がと、自分の話しかしていないということに言われるまで気付かないとはなんとも恥ずかしいことである。自分が聞いてほしい話であることは大前提としていいだろうが、同時にそれが相手の聞きたい話でなければならない。それなのに、いつまでも自分本位に喋っているばかりではただの自己満足に終わってしまうのである。優しい相手は、にこにこして聞いてくれるのかもしれないが不毛な時間であるうちはスピーチとは言えないだろう。自分にとって、よりも相手にとって重要かどうか、必要であるかどうかということを念頭に置く必要がある。考えてみれば、いや考えなくとも相手本位の姿勢がコミュニケーションの基本だということは誰にでもわかる当たり前のことであるはずだ。

 スピーチをする際には、その原稿を考える。が、その構成の組み立て方についてもまた、自己中であったがために間違った考え方をしていたように思う。大切にしなければならなかったのは単なる起承転結的順番なのではなく、論理的とはいっても、相手の論理を組んだものにするのがスピーチであるということを知った。そしてそれは、相手の思考の流れを考えることであって、まるで子どもたちの思考の流れに沿った授業づくりをするのと同じではないかという気がした。

 対話も同じで、自分の意見をふりかざすのではいけない。しかし、こちらはチームプレイである。個人がそれぞれの役目を果たさなければ、もちろん集団として成り立たない。そういう意味で、私たちはまだ集団になりきれていない。一番の問題は何かといえば、間違いなく皆が黙り込む時間がそれを語っているだろう。あの静かな時間は必要な間、ではなく必要以上の沈黙であったといえる。本当であれば、小さな間が流れている時間も含め対話は進んでいるのであるが、沈黙の多い場合は時が止まってしまっている。まるで一つしかないマイクを順番に回して、次は誰の手に渡るものかと伺っているような空気であった。その間、それぞれが自分の中で次なる最善の発言を考えている。考え過ぎだ、という先生からのお言葉は図星だった。そうじゃなくて、もっと、今独りで考えていることを皆で考えることがしたい。自分の答えを言い合うだけではなくて、その途中を共有できたらいいと思う。他人に聞こえないように押さえ込んでいる心の声を、外に出せるような雰囲気が私たちには必要だった。


■  集団討論ではチームプレイの中での個人の活躍を見ている。日本人は定義を曖昧にしたまま話すのが得意であり、私はその典型であると感じた。わからなくても話の流れに逆らうよりは合わせる方を選択してしまっていた。わからないことや、疑問に思うことを、話の流れを遮ってまで聞いたり確認したりすることは、自分はグループの他のメンバーより劣っていると示しているようなものだと思っていた。しかしグループ内での再確認、共有という立場でうまく質問をすれば、これはチームプレイの一つになる。大切なのはタイミングと言い方で、話がわからないまま流れに従うことの方が自分を最終的には追い込むことになることを学んだ。話の流れを止めることになるため発言するとき、勇気のいる行動であるが身につけたい技術の一つである。努力したい。

 今回、グループのメンバー全員が黙ってしまうことが多く見られた。その時、自分は笑って、他のメンバーと顔を見合わすばかりだった。難しい内容なら「難しいですね」。これだけでいいのにどうして口に出せないのか。誰かが話を進めてくれるだろうと考えているのである。また、ある程度話を回している人が存在していたときどうしてもその人に期待を寄せてしまう自分がいる。そこでこそチームプレイの中の個人の活躍の見せ所だと思った。

 反省ばかりではない。対話中相手の表情を見る余裕が取れるようになってきた。今までは自分は話に参加できていることを示すため少し大げさに頷いたりしていた。相手が話しやすいようにという意識もあったが、自分は対話に参加していることを示すことが目的だった。回数を重ねると対話の仕方が少しずつ身についてきたのか、当たり前のように頷いたりすることができるようになり、その分意識して周りを見ることができるようになってきた。そうすると、対話中の相手の表情からある程度流れの予測がついてくる。同じような意見を持っているのだな、とか、何か疑問に思っているのかな、など次の展開が読める。おかげで随分と楽になる。自分が発言している時も一緒で、相手にどれだけ理解されているのか、表現の仕方は適切か、など表情から自分の発言を振り返ることができるようになった。(少しずつ)

 そして、以前は内容を受けてそれを踏まえての自分の意見を瞬時に発することができなかった。今までは「自分はこう思う。」という意見を述べるに過ぎなかった部分が多かったが、「あなたの意見のこの部分が自分の意見と似ていて」など相手の意見を踏まえた内容を話せるようになってきた。 

 もしこれが教員採用試験での集団討論なら、それは試験であり、合否が決まる場であるけれど、自分を他のメンバーよりも良く見せようというより、このメンバーで今から「いい対話」をしよう、と考えることも自分の余裕につながるのかな、などと思った。(そんな余裕が持てるまで努力したい)





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