2017/05/22

「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り



5/20(土)に小口真澄先生(英語芸術学校マーブルズ主宰・代表講師)をお呼びして開催した「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」は大成功でした。関係者を除いても65名(注)の参加者が、さまざまなことを感じ、考えさせられた企画になったのではないかと自負しています。(注)当初は50名を上限としていましたが、参加希望が多かったので上限を上げました)。


5/20(土)に広島大学で、演劇的手法による
英語教育の無料ワークショップとシンポジウムを開催。


主催した側としては、この企画の知見を少しでも言語化し分析しなければと思いますが、言語化はいわゆる「研究者」の専権事項ではありません。参加者の皆さんにも「よかったら言語化して、それを共有させてください」とお願いしたところ、本日時点で3名の方が文章をお寄せいただきましたので、ここで共有させていただきます(書きたいと思っているがまだ書いていない方があれば、遠慮なく柳瀬にお送りください)。






さて、最初に紹介する文章は学部4年のTK君のものです。彼はメールで「久しぶりに振り返りを言語化しましたが、やはり言葉にしないとわからないことがありますね。言語化することの重要性を再認識しました」と書いてくれていましたが、たしかにその通りで、感性のレベルで経験したことを基に、それを逆に損ねてしまうことなく、丁寧に言語化することは、文章を書く本人にとっても、文章を読む読者にとってもとても貴重なことだと思います(特に、感性レベルの経験は月日が立つと文章化しにくくなることが多いのでまさに「貴重」だと思います)。



■ 学部生のTK君

 私は今回、広島大学で開催された小口先生のWSに参加させていただきました。それを通して感じたのは、小口先生は「人を育てる先生」だということです。

 WSで行われたのは、劇を通して英語を使いながら、みんなで一つの物語を完成させるという形式の活動です。2時間という長い時間、初対面の人たちと何か一つのものを作っていくというのは簡単なことではないはずですし、小口先生の手法がそれを簡単にしてくれる、魔法のような手法というわけでもないと思っています。「体と心を同時にアクティブにする」。明言されたわけではありませんが、これが小口先生の行う授業の目的であり、効果なのではないでしょうか。

 参加したのは大学生から現職の先生方まで、幅広い背景と年齢層の方々でした。行われた活動は、初対面の人と手をつなぎ、体を動かし、動きを考え、最終的に一つの劇を作るというものです。正直なことを申し上げますと、最初は恥じらいを感じ、早く終わってほしいと思ってしまいました。きっとそう感じていた人は少なかったと思います。しかし、そんなことお構いなしに小口先生のWSは進んでいきます。そして最後までやりきったときに気づきました。楽しくなっていたと。最初に感じていた恥じらい、不安などはなくなっていました。これはなぜなのだろうとWS後に考え、辿り着いた結論は、「小口先生によって、自然に心を開かれていった」ということです。気が付けば恥じらいはなくなり、不安も消え去り、終わった後に残るのは爽快感と達成感。少しずつ周りの人への信頼感が高まり、協力できるような関係になっていくのを感じました。

 私は小口先生の手法の神髄や、理論について深く理解できているわけではありませんが、これだけは言えるのは、「頑張って、一生懸命なことが恥ずかしくないと気づかせてくれ、そしてそれが当たり前となる環境を作る」ことが、この手法、そして小口先生の素晴らしい力だということです。

 「発言できない生徒へのアプローチ」。これは私が教育実習を通して感じた、学校の授業における大きな困難点の一つです。発言ができない生徒が当たりまえのように教室にいるなかで、先生はどう接すればいいのでしょうか。発言できないのにはいくつか理由があると思いますが、その中でも「間違えたら恥ずかしい」というのは大きな理由の一つです。これは先生に対してよりも、自分以外の生徒に対するものだと思います。誰かが「そんなこと思わなくてもいいよ。自信を持って!」と口で伝えて解決できるものではないというのは、私でもなんとなく理解できることです。しかしそうなると、どうやって解決したらいいのか。この疑問に対する答えを示してくださったのが、まさしく小口先生です。小口先生は、自分がとにかく情熱を示し、芯のある声で話し、一生懸命に私たちと接する姿勢を貫いていらっしゃいました。その姿勢、そして接し方に、気づけば影響を受け、私たちは初めて会った人達と一緒に劇をやりきることができました。

 シンポジウムでお話があったように、このやり方をすぐに普及させ、学校教育に浸透させていくことは簡単ではありません。なぜなら、経験者がほとんどいないから。しかし、逆に言えば経験した人なら、この手法の凄さに気づき、自分なりの解釈の上で実践につなげていけるのではないでしょうか。もちろん、小口先生のやり方をそのままコピーして他の人が実践しても成功はしません。ですがその本質を理解し、先生自身が体と心をアクティブにすることができれば、子どもたちもついてきてくれることでしょう。そして子供たちを成長させていくことができるのではないかと思います。

 この度はこのような貴重な経験をさせていただきありがとうございました。



次は、以前に小口先生のワークショップを経験した高校英語教師のMMさんによる文章です。「役者を一流とするのは、「呼吸」であり「間」である。観客が作り出す空気を読み、その呼吸を感じ、間をはかり、台詞をいう」といった認識から、「良い表現者は、瞬時にイマジネーションを無限に膨らませることができるという。これは我々教師の多くが不得意とするところではないだろうか。(中略) 生徒の自由な発想を育てるべき教師自身の想像力のなさが、教育の場での感動を奪ってしまっているのではないか」といった考察を経て読む最終段落は非常に重要な提言をしていると私は思います。丁寧な分析と考察に感謝します。


■ 高校英語教員のMMさん


 最初にこのような機会を作ってくださった柳瀬教授を始めとする科研の先生方に心から感謝をしたい。

 私が小口真澄先生(以下真澄先生)に出会ったのは10年以上も前である。出産をきっかけに学校という職場を離れ、子育てをきっかけに児童英語の世界に足を踏み入れたばかりの頃だった。真澄先生のレッスンを拝見し、英語ではない「何か」に惹かれて我が子を先生に託した。世の中を席巻している「英語ができる子になってもらいたい」という抽象的な欲求や、「自己主張ができる子に」などの欲求でもなかった。どちらかといえば、私自身が教師として、このような指導者の元で子どもがどのように成長するのかに興味を持ち、実験台として送り込んだと言う方がスッキリくるように思う。

 真澄先生ご自身が表現者としても一流である。役者として数々の舞台も経験されている。役者を一流とするのは、「呼吸」であり「間」である。観客が作り出す空気を読み、その呼吸を感じ、間をはかり、台詞をいう。今回のワークショップ中も、真澄先生はディレクターであり、役者であった。私たち観客は笑い、聞き入り、説得された。

 さて、我々教師を振り返った時、自分は生徒という観客の前に立つ演者だという自覚がある教師はどれくらいいるだろうか。教師の仕事の大部分は「語り」である。しかしそれができる教師は少ないように思う。「思わず聞いてしまう」説得力のある「語り」は、教員養成の過程においてもあまり重要視されていないように思う。

 真澄先生が長きに渡り全国各地で指導者へのワークショップをされながらも、同等の指導者が生まれていない要因は複数あると考える。

 まず受講者の演劇に関する知識・技術・経験が圧倒的に少ないこと。教育に携わる人で、同時にドラマや演劇を専攻した人は少ない。学生時代演劇部に所属した経験があるとしても、本格的に学んだ人は希少である。元々演者としての才能を持つ者もおり、それが学校という場で開花することもあるが、それでも技術や知識がなければ、相手の感情を引き出すことや心を動かすことは難しい。しかし学校行事において、舞台発表は欠かせないものである。そこに「ドラマメソッド」が活かされれば良いが、それができる教師は少ない。その点においては、幼稚園保育園の先生方の方が、長けている方が多いように思う。

 次に、ディレクターとしての勘と経験値の少なさがある。真澄先生は、経験的にも本能的にも、感情感覚のどこが絡まっているのかが分かり、それを解く天才である。ワークショップの中で何度も人が変化していく様を目の当たりにし、私自身も変化してきたのだが、何度見ても自分が習得できるものではないように感じる。真澄先生が言語化できるのであれば私たちも学ぶことができるのだろうが、その人その人に合わせてその場で感じるものを元に指示されているので、本人が言語化できるものではないだろう。教員や英語講師達が生徒を通して発表する舞台は、保護者や関係者という非常に守られた空間である。観客は知っている子どもを見ることが目的であり、「観客として楽しむ」ことが目的ではない。しかし真澄先生が関わってきた舞台は違う。料金も発生しており、観客はそれに見合うエンターテイメントを求めてくる。厳しい条件の元、多くの感動を作り出してきた真澄先生とは、経験値が違いすぎるのだ。


 さて、本題に戻る。我々英語教員、英語講師は舞台人を育てようとしているかといえば否である。私たちはあくまで「生徒が英語をより円滑に習得できるためには何が大切か」を考えている。言葉の特性上、感情を無視するわけにはいかないので、 真澄先生のように感情を伴った「言葉」を教えられれば、もっと子どもたちは本質的に英語を習得するのでは、と考える。しかし現状は「文字情報」を伝えることで精一杯。演者としての技術もないため、その英文が持つ「ドラマ性」を伝えることも難しい。感情を持って「言葉」を教えることは、感性を鍛えなければならないことが多すぎて、教員自身がよほどの熱心さを持っていなければ手をつけられる部分ではない。「受験に合格させる」ことが仕事であり、知識が重要で、感情や心は点数にならないので重要視しない。教科指導の観点で捉え、英語という文字情報を押し付けることに努力する。

 だが、教室は舞台である。教師という役者と、生徒という観客で成り立つ。外からの介入を受けない独立した舞台で、観客の心を捉える教師が生徒と共に感動する場所である。心が動かなければ、意欲が生まれない。感動は葛藤の解消から生まれる。日々の授業に葛藤の解消があれば、新たな意欲が生まれてくるのではないか。

 我々が体験したワークショップの中にも、幾つもの葛藤があった。「暗闇のワーク」では、条件の厳しさが葛藤を生み、それを解消することで心が動いた。心が動くことで信頼や安心が生まれ、体が緩んだため、歌声が大きくなったように思う。心が動きにくい場合は、あのような非日常的な場面設定を演出することも大切なのではないか。これは役者を養成する分野で多くあるワークであり、このような手法をより多く教師が持つことで、生徒の心をより動かすことができるのではないかと考える。

 良い表現者は、瞬時にイマジネーションを無限に膨らませることができるという。これは我々教師の多くが不得意とするところではないだろうか。例えば、今回のワークの中で真澄先生から何度となく「表現」を求められた。しかし私たちのほとんどは固まってしまい、何をしていいのか分からなくなった。カメラを構えた時の「ピースサイン」のように、ガッツポーズや手を広げるなどのありきたりのポーズで答えてしまう。これは自分たちが本来自由である発想を縛ってしまっているからだと考える。生徒の自由な発想を育てるべき教師自身の想像力のなさが、教育の場での感動を奪ってしまっているのではないか。

 英語DEドラマのようなワークを体験することで、発想の柔軟さを鍛え、役者として自分を解放することを訓練する。このことがまず、教師という人前に立つ仕事に必要なことだと考える。そのまた一歩先として、ディレクターとしての視点で生徒の心を意図的に動かすこと、感情のもつれを解くことを技術として身につけていくことが、これからの教師に大切になってくるのではないだろうか。教師としてそのような基礎を持っておけば、英語だろうが社会だろうが教科に関わらず教室には感動が生まれると思う。

 「文化」が生活から遠くなり、スマートフォンの普及で生活体験が減り、静かな時間が奪われ、心が動きにくい世の中になった。だからこそ、教育者は心を動かす存在でなくてはならない。そのためには技術が必要で、自身も表現者として自分を高める必要がある。ICTなど舞台道具は増えても、教室という舞台で感動を生むことができる表現者は教師であると考える。




次は、ラボ・パーティで指導をしているKRさんの感想です。ラボ・パーティの実践については、私は非常に興味をもち、その縁で以下のような講演もさせていただきました。


ラボ・パーティ50周年記念行事で学んだこと、
およびそこでの私の講演スライド



KRさんは、上記のようなラボの活動を日頃指導しているテューターとして小口実践について振り返りました。

以下のようなことばは私にとってはとても印象的でした。

「文科省が生きる力、アクティブラーニングなどを重視すると打ち出し研究が少しずつ進んでいると思いますが、現実は結局、目に見える力や得点、偏差値であることが免れない現実です」。

「とにかく、英語教育研究者の方々に、言い方は変かもしれませんが、結果的に英語力を育てるには、土台になる体験が必要なんですと声を大にしてこういうことが大事なんだと言ってくださることは、変な英語加熱ブームに一石を投じ、教育が変わる一歩になると信じています」。

今回の企画で参加者が経験したことは、「小口実践」や「ラボ実践」という個別の枠組みを超えて、「英語教育の身体性」あるいはそれに類する一般的な枠組みで考え、学校英語教育の改善に貢献したいと私は考えてます。


■ ラボ・テューターのKRさん

 お世話になります。昨日参加させて頂いた ラボ・テューターの梶山と申します。

 これからの世界に羽ばたく子どもたちを育てるには、子どもたちも、子どもの教育に関わる大人(教師、大人、コミュニティ)も、人間としての基礎、土台として、しっかり心を耕す体験を積む必要があるということを、改めて確認し、また、それを、参加者の方々と共有できたことが、励みになりました。ありがとうございました。

 昨日、受講したような演劇教育や物語で心を動かす体験は、自分の心や頭の中で感じている感情や気持ちを引き出す、人と関わりながら考え、他人の考えというエッセンスを受け入れることで、自分自身の中の気持ちを掘り起こすことができる、人が人として生きていくうえで大事な力を養う活動だと考えます。

 特に幼いうちからこのような体験ができる環境にある子どもたちは、自己肯定観を高め、心が豊かになり、自分自信も深みのある人間として成長し、その結果、相手も受け入れられる人になるでしょう。

 一方で、まだ多くの保護者(特に我が子への教育に熱心な人ほど)は、幼少期より英語検定で高いレベルの合格を目指すために、PCなどで単語やフレーズを叩き込ませたり、結果がすべてですからと、上記のような心を耕す活動に寛容になれない現状もあります。実際、我が子が私立進学高校に通っておりますが、国公立大学に進学のために、一日7時間授業の中で毎週テストに追われ、〇進ハイスクールでは、1800個の英単語を、入学したての高1の子たちに1カ月で暗記するまでテスト。センター試験対策には、単語を覚えることで長文のわからない箇所がクリアになるので、これが一番の近道ですと保護者を集めて指導されていました。

 文科省が生きる力、アクティブラーニングなどを重視すると打ち出し研究が少しずつ進んでいると思いますが、現実は結局、目に見える力や得点、偏差値であることが免れない現実です。中3の次男もやむを得ず塾に入れました。小学校でも、宿題がどんどん増えているそうです。全国学力到達テストなどが始まり、管理が厳しくなっているからだと思います。

 そんな現実があっても、私が信じているのは、その子どもたちが家庭やそれまでの教育の中で心を耕した経験がしっかり土台にあるかということです。この体験がその子の伸びしろの支えになっているということです。

 とにかく、英語教育研究者の方々に、言い方は変かもしれませんが、結果的に英語力を育てるには、土台になる体験が必要なんですと声を大にしてこういうことが大事なんだと言ってくださることは、変な英語加熱ブームに一石を投じ、教育が変わる一歩になると信じています。

 子育てをしながら、ラボ・テューターという活動を通じて、試行錯誤の毎日ですが、やはり、ラボ教育活動が大事にしているのは、心の土台を育てる部分だと実感しています。そこに英語力が結びつくということを、もっと、ラボ教育センターも理論的に言葉にできなければいけないし、活動自体も研究していきたいと思っていますので、今後ともこのような機会にぜひ、参加させて頂き学ばせて頂ければと存じます。よろしくお願いいたします。



 お忙しい中、振り返りを共有してくださった上の三名の方、そしてもちろん、本当にお忙しい中、科研予算・大学規定での交通費・宿泊費・薄謝しか出せなかったのにこのような企画にご協力いただけました小口先生に厚く御礼を申し上げます。

 私としては今回の経験をできるだけ分析・言語化することで、小口先生からのご厚意に応えたいと思います。他の参加者の皆さんも、よかったら感想をお寄せください。





追記(2017/05/24)

大学院生のA君からも感想が寄せられましたので、ここに掲載します。いろいろな話し合いの中で、「感情を込めろ!」という命令は「やる気を出せ!」という命令と同じように無用で無効だということを私たちは確認しあいましたが、A君もそういった点について触れています。


 これまでに演劇的手法を取り入れた英語の授業を受けたことはなく,新しい気付き・学びが多い時間になりました。

 英語教育と感情についての話の中で,「感情が沸き起こるまで待つ」という言葉に非常に感銘を受けました。私自身には英会話学校で教えているくらいの乏しい指導経験しかありませんが,その中でさえも,「学習者が気づくまで待つ」ということは難しいことのように感じています。この「待つ」ことの難しさから,教師があらかじめ意味や用法を教えてからそれに取り組ませる形式の授業構成が多くなるように,自己の反省も踏まえて感じました。特に今回のような感情を表現する活動においては,英語そのものの理解だけではなく,感情をうまく表現することにも練習が必要な場合があります。「待つ」ことができなければ,教師が思う「正解」を提示し,それを学習者が消化不十分の状態で取り組むことになるように感じました。

 ここでこの「待つ」ことに関して,私は以下の3つの段階があるように感じたのでここで述べていこうと思います。それは,インプット型の言語面の理解を待つ段階,アウトプット型の表現面での表出を待つ段階,最後に動機づけなどにおける,学習者の準備ができるのを待つ段階の3つです。これは段階的に達成できるわけではなく,演劇的な学習を効果的に成功に導くにはすべてが必要なもののように考えています。

 土曜日のシンポジウムでは,言語と学習者について,学習内容との関連から,具体的な指導方法についてまで議論が深まりました。一方で,表現面に関して,実践してみての感想は出たものの,具体的な指導方法は議題に上がらなかったように感じました。これは今回のワークショップに参加した多くの人が英語教育に関わりがあり,前者2つについては指導方法の具体的なイメージまで浮かびやすかったものの,後者の表現に関してはあまりイメージがわきにくかったためと思います。私は今回のワークショップにとても感銘を受けて,是非とも自分の授業でも将来実践してみたいですが,残念ながらこの表現面の指導について自信がなくて実践できるようには感じられませんでした。今回のような素晴らしいワークショップを受けて・見て,憧れを抱いても,それを指導できるようになるまでにはギャップが存在します。そのギャップを埋めていくことが実践を普及するためには必要のように感じました。

 その実践方法・指導方法に興味をもって,日曜日の昼食会では質問をさせていただきました。限られた時間であったため具体的な1事例1事例についてお聞きすることはできませんでしたが,まずは実践してみる,子どもを過小評価しないことと(信じること),変えてもよい設定と変えてはいけない設定を明確にすること,を学びました。拙い理解と技能になりますが,将来的には自身も実践をしてみたいと感じるとともに,指導方法も知っていきたいと感じました。

 この度は貴重な機会をいただいて,本当にありがとうございました。







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また、このコンテストの授賞式
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