以下は「コミュニケーション能力と英語教育」の授業で、「異文化間コミュニケーションとしての翻訳」について講義した際の学生さんの振り返りの一部です。講義の中では「英語の授業は英語で行うことを基本とする」という方針についても扱いました。
学生さんは学生さんなりに批判的に考えています。文科省の肝いりで「思考力・判断力・表現力」を本当に育てようとするのなら、少なくともこういった学生さんの思考・判断・表現を抑圧してはいけないと思わされます。
*****
■ 英語の授業一つとっても,最近は観察の観点が「いかに英語を使っているか」という部分にあると感じています。授業コメントの多くは,先生は日本語を20分も話していた,とか,生徒が英語を10分しか使っていなかった,オールイングリッシュでやっていたのが素晴らしい,などです。しかし,今回の授業で分かったことは,英語使用とは何かということです。
今の英語授業での英語使用というものは,パターンプラクティスや新出単語の繰り返し練習なども含めているように思えます。しかし,ドリル,パターンプラクティスは言語産出や言語再生ではあっても言語使用ではありません。そのような練習段階が必要でないといっているわけではなく,それがあたかも言語使用のように認識されていることに疑問を覚えます。
実習でも,専ら使用言語は英語であることが求められました。少ない英語の時間のなかで,生徒が少しでも英語に触れる機会を多くとるという,クラッシェンのインプット仮説に基づいているようでした。実際に英語で授業をしてみて感じたことは,教科書を開くのも,誰かを指名するのも,本時の目標を伝えるのも,プリントを解かせるのも,答えを聞くのも,ほとんどがクラスルームイングリッシュといういわばすでに定型化している英語を繰り返しているだけで,なんだか生徒とコミュニケーションを取っている感じがありませんでした。
これは実習だからということもありますが,本時案・細案で,生徒の反応まで事前に予測して決定して,その通りに進めます。そこで行われるコミュニケーションといえば,生徒の答えが自分の求めているものと合っているかそれとも違っているかという反応くらいです。コミュニケーション能力を養うはずの授業なのに,本末転倒な感じがします。
訳読式の授業は今やoutdatedであり,批判の的にされていますが,今回の授業を通して,必ずしも訳読式の授業が悪いというわけではないと感じました。翻訳というものが,英単語に当てはまる日本語をただパズルのように並べ替えて当てはめるだけのものであると捉えられているのが問題であると感じました。そのように捉えられているから,多くの英語学習者が,「日本語で言いたいことが英語で表現できない」という悩みを持っているのではないでしょうか。それ故日本語の母語干渉が顕著に現れるのではないかと感じました。
ここでも「語り合い」というものが重要だとペアで話しました。ここでの語り合いは,異言語間の語り合いです。英語を分析的に理解することはしばしばありますが,日本語の分析的理解が極端に欠けていると感じました。翻訳とはまさに言語間の語り合いだと認識しました。最後のポートフォリオを通して,この授業をしっかりとまとめたいです。
■ --英語教師って日本語文法の知識なしにできるの?
素朴に放たれた疑問であるが故に、余計にこの言葉が心に突き刺さる。英語が話せるようになろうと思って、あるいは英語教師になりたいと思って「よし、日本語文法を勉強しよう!」と思い立つ人がどれだけいるだろうか。それだけ、英語と日本語は切り離されたものとして考えられているのである。
英語を習得するために英文法を学ぶのは至って普通だ。そんなこと当たり前すぎて何を言っているんだと言われてしまうかもしれない。ただ、私たち日本人が英語を知ろうとする時、その身が日本語の染み付いた身体であるということもまた、当たり前すぎて忘れられてしまうような事実である。英語を勉強する時だけ自分自身をリセットできるわけもない。英語モードになっているようで、実際のところ強化された習慣からは逃れられないのである。
第二言語習得において、母語の転移がしばしば学習者を悩ませる障害となるということはよく聞かれるが、負の転移を正の転移にしてしまえばいいのではないだろうかということだ。一つ目の言語に関する経験と知識を、二つ目の言語習得に生かすのである。しかし、その一つ目の言語というのは気付いたら話せてたという、まるで形ないもののようで、無意識のうちに身に付いた何かを分析的に捉えることは難しい。そこで、一つ目の言語と二つ目の言語とを比較できるだけの知識やら能力やらが必要になってくるのである。「ことばへの気づき」を重視した教育の出番だ。
少し話が逸れるようだが、私は初等教育教員養成コースにいて、三年次から国語ゼミに配属された。研究室分けがなされ、今お世話になっている担当教員はこの授業でも一度さらっと名前の出た先生である。その先生は、卒論は何をしてもいいとおっしゃった。ただし蝶の標本だけはやめてくれと。…というのは先生のご冗談だが、要はどんなことも全ては「ことば」につながっているということである。
ここで言う「ことば」の捉え方こそが、英語を学ぶあるいは教える際にも同じようになされるべきものなのではないかと思った。英語と日本語を比べるといっても、決して一対一の等号で両者を結びつけようというのではないから。英文和訳をしようということではないから。ここでは、同じ「ことば」として違う「言葉」を見ようとする。
英語だ英語だと言って全てを英語で塗り替えようとするのは、少なくともここ日本の、学校教育において歓迎されるものなのだろうか。授業も試験も英語で行おうという考えは、少々安直すぎやしないかという気がしてくる。いずれにせよ、目の前の子どもたち、目に映る現実世界から目を逸らしてはいけない。そしてちゃんと、対話をしよう。
■ 授業の中で、ある心理学者の方が、英語教師は日本語文法を知らなくても免許を取得できるということに驚かれたというお話があったが、言われる通りおかしなことだと言われて気づいた。英語の元々の文法を知らず、英語で授業をしたら解決するという風潮は少し幼稚に感じる。外国語を学ぶ上で母語干渉があるのは当たり前で、その母語干渉が悪影響を及ぼさないためには、自然に文法の違い、表現の違いに気づくのは難しいところがあるので(何年かかるかわからない)、やはり日本語文法とのわかりやすい比較が生徒には必要だろう。
また、日本の社会の中で英語をきちんと使わないといけないのは5%と言われており、小学校の「外国語活動」を英語習得路線で考えるのではなく、英語という外国語 (および可能ならば他の外国語) を通じて対照言語学的に言語に対する理解と洞察を深める路線で考えることは、より真剣に検討されるべきであろう、という話があった。私もこの説には賛成だ。
しかし英語をよく知らず、英語が絶対に必要だと思っている有識者ばかりが話し合うから、その路線は英語習得に向けて進んでおり、実際に教育実習や授業見学で拝見したのは、英語塾に通っている子どもたちが楽しい授業で、それ以外の子はついていけず嫌いになっている状況だった。(たったの3校しか見ていません)この話を聞いて私が思ったのは、英語の対象言語学的理解を深めるには、授業の中で子どもたちにカルチャーショックをいくつも与え、日本語との違いを染み込ませていくことが有効なのではないかと思う。他の言語を理解するときにその国の文化についても知っていくが、その際に何かカルチャーショックのようなものを経験すれば、その違いを身をもって感じることができるのはないだろうか。
今日の授業では、英語第一主義のその後がどうなるのかをたくさん想像したように思う。先生がブログで書かれていたアフリカの例もそうですし、広大にいるアジア人留学生に話を聞いても、私立の学校だけで1年生から行われており、それ以外の学校は母国語で授業を行っているという話を聞いた。その格差をなくすのが1番だと思うが、簡単そうに見えて簡単ではないのだと感じた。日本で良い実践例を作り上げるしかないのだと思う。その中で役立てるよう、この授業を活かしていきたい。
■ 個人的に英文和訳に関して興味があるということもあり、今回の授業では翻訳についての話が非常に興味深かったです。私自身、受験期に論述形式のテストで何度も英文和訳問題に遭遇しました。当時の私は「攻めた訳し方をして点を落とすぐらいなら、守りにいって確実に点を稼ごう」という考え方で問題を解いていたため、問題の英文を自分でも違和感を感じるほどの日本文に変えていました。
言い換えると、単語帳、文法書で覚えた(覚えさせられたものが多いですが)訳し方を疑うことなくそのまま用いて機械的に英語を日本語に変える単なる作業をしていました。このように機械的に英文を訳していた受験生は私以外にも相当な数いるのではないのでしょうか。また、合格を勝ち取らせるため、点数を稼がせるために、機械的に訳すのが一番だと言わんばかりの指導をしていた教師も少なくないのではないでしょうか。
私は「守りにいって点数を稼ぐ」ことが正しいやり方だと思い込んでいたため、記述模試の答え合わせをする際に、いつも英文和訳問題の模範解答に違和感を感じていました。「こんな攻めた訳し方をしてよいものなのか」、「これが満点の解答なのか」と。模範解答のような自然で違和感の全くない訳し方がしたい、できるようになりたいという感情はもちろんあったのですが、その度に私はそれをしたら減点されるかもしれないという現実に押しつぶされていたのだと思います。
実際、記述模試の英文和訳問題は基本的に長文の中の一文に下線が引いてあり、その一文を訳すという形式であるため、訳すためには当然ながら前後の文脈を理解していなければならないのですが、仮に文脈が理解できていなくてもその下線の引かれた一文にわからない単語、文法が用いられていなければ、機械的な訳し方をすることで、満点をとることも十分可能でした。
このような、攻めた訳し方をすれば大幅に減点される可能性が高いが、守りにいけば減点を最小限に抑えられる上、満点の可能性もあるという採点システムでは、受験生が攻めた訳し方をしようとしないのは当たり前ともいえます。
試験の採点システムがこのような機械的な訳し方(=受験のための便利な道具)を生んだといっても過言ではないのかもしれません。採点基準に「文章の自然さ」という項目を入れれば良いのではという意見もあるようですが、この案には諸々の問題があります。採点に平等性が確保されなければいけない試験で、そのような採点項目を含む採点基準を採用すれば、どうしても採点者の主観が入ってしまい、十分な平等性が実現されません。
しかし、そもそも英文和訳を含む、記述形式の問題を採点する際に主観が入ってしまうのはやむを得ないことなのかもしれません。そう考えると、採点項目として、機械的な訳を防ぐための項目を入れることも意味のあることに思えます。
卒論で英文和訳について調べていこうと考えているので、上記のような点についても深く考えていこうと思います。
■ 二点目は、置き換え訳と翻訳について、授業を通じてもう一度考え直した。言語そのものに着目し、英語の公式に従い訳をする置き換え訳と、言語そのものだけでなく言語使用的、相手意識的な観点に従い訳をする翻訳。
「今までの英語教育で成功を収めた訳を今の英語教育は全否定している」という主張がブログ記事にもあったけれど、「訳」を否定している人々の殆どは、この後者の翻訳の意味・概念を正しく理解していない、または知らないのではなかろうかと思う。なぜならば、もし気持ちや相手意識(分かってほしいなどの期待)を持ってコミュニカティブに訳をするという翻訳の役割を知っていたならば、コミュニケーション能力の育成を目的とする外国語教育において、それが否定されるはずがないからである。
訳と言ったら我々日本人の中に最初に出てくるのは前者の置き換え訳であり、その置き換え訳を以て訳としている。そのような考えを持つ人が英語教師になれば、コミュニカティブな「翻訳」をできるようになる生徒は必然的に現れない。このように、あらゆるところに存在する言葉一つ一つの意味をしっかり分析し、しっかり理解しておかないと、このように生徒の伸びしろを捨ててしまうことに為りかねない。
幸運にも私は「訳」の二種類の違いを知ることができたので、将来後者の「翻訳」を授業の中で取り入れる試みを行いたい。そして、否定されている「訳」の名誉を挽回したいと思う。またそのためには、先ほぞも述べたように、まず訳について、自分なりの教育方法を確立していかなければならないと思っている。
■ 今日前半の授業を受けて第二言語を学ぶ時の母語干渉について考えました。日本語の「は」と英語のisについて、1年生もしくは2年生の時に履修した柳瀬先生の授業の復習でももしかすると書いたことがあるかもしれませんが、私の弟(英語は得意ではない)は以前“I like sport is baseball.”という英文を書いていたことがあります。この一文には色々問題はありますが、おそらく弟はisを日本語の「は」と捉えており、「I like sport(私の好きなスポーツ)is(は)baseball.(野球です)」と言いたかったのだろうと考えられます。
このような文法的間違いから、英語と日本語の違いについて生徒が気づく事ができれば英語科の教養的価値が高まるのかもしれません。そして、授業中に柳瀬先生がおっしゃっていた通り、英語教師自身も国語教育や日本語教育についてもっと理解を深める必要があると思いました。
英語教育の目的が英語を流暢に話せる日本人の量産でない限りは、言語の中に現れる日本文化、欧米文化をもっと生徒に感じてもらえるような授業が求められるべきだと思います。今や「英語といえばアメリカ・イギリス」と言う時代ではありません。世界中でそれぞれの国の英語が話されており、それぞれが母語の影響、母国の文化の影響を受けながら「英語」という言葉を借りて自分達を世界に表現しています。発音、イントネーション、文法はもちろん相手に伝わる程度には正確さも必要ですが、世界中の人と簡単に関わることができる今の時代に日本人として英語を話すこと、その中身の充実が求められているのかもしれないと思いました。
授業の後半を受けて、経済界の敎育界への影響を考えされられました。経済発展のために英語は不可欠だから英語の授業を英語で、ないしは大学での授業は英語でということに対してはあまりにも安直な考えなのではないかと思いました。第一言語と第二言語の習得方法は同じようにいきませんし、50分の英語の時間だけ使用言語を英語にしても頭の中の思考は日本語で行われます。第2言語を使う時の私達の頭の働きは第一言語を使用するときとは全く別物なのです。第2言語を習得したからと言って、ネイティブスピーカーや、バイリンガルの方とは脳の使い方が異なるということを意識する必要があると思います。
また、英語の授業の中でよく気になるのが、中学生や高校生にもなると、第一言語であれば抽象的なことやかなり難しいことも思考、議論することが出来ますが、英語の授業になると「好きな国を紹介しよう」などといった易しいトピックが多く、思考の点においてはあまり深まりを感じられないことが多いということです。思考が深まらないというのは、例えば教科書の定型文を取り出し、国名の部分やその国の有名な建築物の名詞のみを入れ替える作業のみを行っていることが多いように感じられるからです。
ここで思い出したいのが田尻悟郎先生の授業実践です。田尻悟郎先生の授業でもトピックは「私の宝物」という比較的易しいものでしたが、先生の生徒さんたちは自分とまっすぐ向き合い深い思考を行う事ができていたように感じられました。ただ教科書本文の一部の単語を変えて話しているのではなく、一人一人自分の言葉を探して話しているような印象を強く感じることが出来ました。
同じトピックでも教師のアプローチひとつで生徒の思考を深いものにすることはできるのではないかと思います。そしてその時の頭の中の使用言語はきっと母語になるでしょうが、そこで自分が考えたことを一番適切に表現することができる英語、「からだ」から出る言葉を探していくことが生徒たちの学習につながるのではないかと思いました。
この授業では普段の生活の中では、あたりまえのこととして見過ごしていたものを哲学の観点から考え直すことが出来ました。授業外の課題でも自分のお気に入りの本を見つけることが出来たので嬉しく思います。ありがとうございました。
■ これまでの授業を通して、自分の知識や経験がいかに浅いかを痛感するとともに、聞いたことをすべて正しいと受け入れるのは安易だと感じました。いままで変だと思わなかった多くのことが違和感や疑問点を抱くものに変わりました。子どもたちに考える力を育てる前に、自分自身も考える力をつけていきたいです。その前に多くの知識を、自分が納得のいく形で自分の中で貯蓄できればと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。