2016/10/12

「英語教師のためのコンピュータ入門」(教英の学部1年生対象)の授業感想の一部

以下は、先週の「英語教師のためのコンピュータ入門」(教英の学部1年生対象)の授業感想の一部です。


英語教師のためのコンピュータ入門
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/10/2016_4.html


先週は第一回の授業で、諸説明・諸連絡などもあり、あまり授業内容を進めることができませんでしたが、それでも以下の四つの記事を中心に考察と討議を行いました。


■ 自分が理解できないことに出会った時に
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/10/blog-post.html
■ 考える・調べる・尋ねる
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/04/blog-post_13.html
■ 井上智洋 (2016) 『人工知能と経済の未来』 (文春新書)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/09/2016.html
■ 西垣通 (2016) 『ビッグデータと人工知能』 中公新書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/10/2016.html

教英の授業に興味をお持ちの皆さん、どうぞ下の感想を読んでみてください。




*****



■ <この授業を受けて 記しておきたい大切だと思ったこと>

「 何かを学ぶとき、「つまらないなあ」ではない、柔軟な考え方をもって向き合うことが大切だ。だるだると「学ぶ」のは、きっと、しっかり自分で向き合っていることにはならない。(つまり、それが学びだとはいえない。)経験に対する準備を怠らず、絶えず経験を省み、考え、そこから学ぶ。絶えず学ぶことで、学び方・変わり方を習得していこう。そうすることによってまた、次の反省が生まれる。
 『学ぶことは人生である』とは、上記のとおりであると感じる。
 この授業では、コンピューターと英語で、コンピューターと英語によって、学ぶ。ここでの 学ぶ と一緒に、新たな発見をしながら、自然とコンピューターのスキルも、英語のスキルも磨かれていく。
 いうまでもなく、予習復習が大切である。」
 
 この授業では、触れる材料を通してなにか共通のメッセージを感じるように思う。クラスメイトの意見を聴き、みんなの新しい姿に触れる。興味深く、おもしろい!考え考え、自分で言語化していき、人にわかりやすいように、面白さが伝わるように発信できるようになりたい。この授業では、この練習がたくさんできる!授業づくりの大切な約束はしっかり守りつつ、自由に自由に、等身大に、考え考えしていこう。たくさん考えての失敗、これからのための失敗ならばよし!といったことを考えることができた。どちらかといえば、感じることができた かな、と思う。



■ 今回は初回の授業ということもあり、ガイダンスの時間があったわけだが、そこで先生のお話を聞いただけでも、夏休みをほぼサークル活動のみに費やし、休みボケをしていた自分に、英語を再び勉強する気をしっかり起こさせるのに充分だった。

  〜前半〜
 今回読んだ記事は「自分が理解出来ないことに出会った時に」「考える・調べる・尋ねる」ということだったが、私はこの二つの記事を通して「人に頼る勇気が必要である」ということを感じた。もちろん、できないからといってすぐに頼っているようでは人は成長しない。できないことに出会った時、自分に何が足りないのかを分析し、それを克服する努力をしていくことが大切であることは言うまでもないと思う。しかし、まだまだ学ぶことが多い学生には、どうしても限界が生じてしまうだろう。その時に、その問題を放っておくのではなく、人に頼って尋ね、自分の知識や見解を広げていくことも大事なことだと思った。

 〜後半〜
 僕自身が人工知能などのITに関して詳しく勉強しているわけでないので、自分の知りうる限りの知識で振り返りをしたいと思います。同じことを淡々と繰り返す機械的作業の効率に関しては、人間よりも機械の方が効率が良いと思う。現在、色々な仕事がどんどん機械に任されるようになってきていて、世界の産業はどんとん発展を遂げている。そうして機械が人間から仕事を奪っていった時に、機械にできない人間の強みを考えていかなければならないと思う。

 僕が現時点で思いつくのは、①予想外のことに対応できること②自ら進んで動けること③完全・完璧でないこと(人間味があること)である。 ①に関しては、基本的にコンピュータは事前にプログラムされたことしかできないため、プログラムされてない想定外のエラーが起きた時には、どうしても傍にいる人間の修正が必要になる。対して人間は、日常は想定外の連続であるし、想定外のことが起きた時に自分で対応策を考えて動くことが出来る。②に関しては、①にも通じることがあるが、プログラムしていたこと(人間ならば予定していたこと)が終わった時に、次に何をすべきか、何をすればいいかを、人間は考えて動くことが出来る。自律的に、積極的に動いていけるのも人間の強みだろう。③に関しては、少しピンポイントな話になるかもしれないが、絵画や音楽などの芸術は、完璧過ぎても人の心に響かないという説がある。そういった人間らしい芸術を作っていくことができるのは人間だけだろう。機械を有効に活用し、人間は人間の出来ることをして、上手く機械と共存していくことで世界はより良く改善していくのではないだろうかと思った。


■ まずこの授業に関して、自分自身の英語や教育に対する考え方に大きな影響をもたらす授業になるであろうと感じた。なぜなら、みんなが一つのテーマに対して考え、それぞれの意見を交換し合うことができるため自分のperspectiveを広げることができると感じたからだ。

 前半
「自分が理解できないことに出会ったときに」無関心になったり、怒りを抱いたり、冷静に問いを立てたりするといった例が挙げられていた。私はこれらに加えて不安感を抱くことがあるのと同時に、理解できない問題に対して一つずつ「なぜ?」と問いを立てていくうちに理解できないことが多いという事実に直面して余計に自信を無くしてしまう。しかし今回の授業を通して、それは自分自身の中で理解できないことへの劣等感というものを知らず知らずのうちに感じていたからだ、と気づくことができた。そしてその劣等感を払拭してさらに問い学び続けることがこれからの人生を形成する基盤となるということを学んだ。

 後半
「人工知能」に関して最も印象的だったのは、中学校や高校の教員は小学校の教員よりも人工知能に代替されやすいということだ。前期でM先生の教養ゼミで学んだが、なぜ人工知能に教職を奪われることが自分の中で望ましくないと思うのか未だ明確にはわからないけれど、そうならないために英語教師を目指すうえで英語を学ぶ意義や楽しさ(what to)をどのように(how to)生徒に伝えていくかをこれからもっと考えていかなければならないと実感した。


■ 達成感を得るためには自分で努力をする必要があると考えた。どう努力するかというのが、自分で「考える・調べる・尋ねる」ことによるものだ。学習している際に一番記憶に残っていると感じるのは、何事に対しても人や答えばかりに頼らず、まずは自分自身で考え、調べた時であった。たとえその際に、結局理解できなかったとしても自分で考えたことは忘れにくいものである。高校生の時、数学で三項間漸化式が何度やってもうまく答えが導き出せなかった時、数学の先生の解法を何度も真似をして似た問題を複数解いた。そのうちに解法の理解が深まり、応用問題まですらすら解けるようになった。自分で何度も考えていくことは、本当に重要だと思った。教師になった時、生徒たちが時間をかけてでも自分で考え、時には調べるという時間を十分にとるべきだと思った。それは授業時間に限らず家庭学習の時間も含めてだ。と同時に、生徒が質問しやすい環境・先生になるべきだと思った。


■  現在広島大学の茶道研究会に所属しているのだが、最初は入部したばかりにもかかわらず割り稽古も何かをしてほしいという指示もなかった。今でこそ言えるが、当初は高校生気分が抜けておらず、完全に受け身の姿勢でいた。茶道はお道具がたくさんあり、お稽古を始める前の掃除や準備で1時間ほどかかる。準備や後片付けの仕方をなぜ教えて下さらないのだろうと思いながら、他の1年生と部屋の隅に座っていた。しかし、目の前で先輩方が働いているのに何もしないわけにはいかないと思い、自分にできることがあるか訊いた。質問をすることで高校まで習ってきた茶道との違いを発見することにもつながったし1年生だけでも準備ができるようになった。私は人にわからないことを尋ねることにあまり抵抗はないが、たまに訊きすぎたなあと反省をすることがある。尋ねる前に自分で考え、調べる回数をもっと増やしていきたい。



■ 「自分が理解できないことに出会った時に」を読んで
 私は、(1)一切の努力を放棄し無関心になる、(2)不機嫌になり理解できないことに対して怒りをぶつける、(3)冷静に「どういうこと?(what is that?)」、「なぜ?(why is that?)」と問いを立てることは、人が理解できないことを理解するまでに経る過程ではないかと考えた。私は高校生の頃、数学が大の苦手であった。まず、私は理解できない問題に直面した時に「どうせ分からない」という気持ちが先に出てしまい、分かろうとする努力をせず考えることを放棄していた。そうするとできない自分に苛立ちはじめ、数学に対して怒りの気持ちを向けていた。しかし、気持ちを切り替え一度冷静になり考えてみると自分がなぜ分からないのか、この問題はどういうことを問うているのかと自問自答していくうちにその問題を理解し、数学と向き合うことができるようになった。このように、(1)から(3)全てのプロセスを階段のように踏んでいくことが大切なのだと思う。多くの人は(1)や(2)で止まってしまい理解できずに終わるのではないだろうか。また、(1)や(2)の経験がない人はもう一度冷静に考えてみようという(3)の気持ちも起こらないかもしれない。教育の視点から考えると、学習者が理解できないことに直面した時に(1)や(2)の段階で終わってしまわないように、また、(3)に自ら気付くことのできない学習者のために指導者が(3)へ導いていくことが大切だと思う。一度冷静に考えることを学ぶと、学習以外の場面でも理解できないことに直面した時に冷静に考える力がつくのではないだろうか。



■ 10月5日前半の授業では「自分が理解できないことに出会ったときに」と「考える・調べる・尋ねる」について学んだ。

 それについての記事を読む中で最も印象に残っていることは、「自分が理解できないことに出会ったときに」の反応の1つである(1)「一切の努力を放棄し無関心になる」である。自分自身、この反応を作り上げてしまったことがあるからだ。

 私は高校時代数学が苦手だった。初期の頃はなんとかして理解ができるように努力をしていたが、学年が上がり教師が代わって「できない者は置いていく」というような形式の授業になった。その時期から自分の中で急激に意欲が減っていったことを覚えている。頑張っても理解できず、やっと解けたと思ったらいつの間にか授業は3歩も4歩も進んでいる。スピードだけでなく問題の難易度もどんどん上がり、この先生とこの授業には付いていけないと感じた頃、自分は考えることを止めた。弁解するわけではないが、自分のように思考を放棄した生徒は他にもいた。

 その授業から全く離れた今になってできる限り客観的に考えた上で、この努力放棄を生み出したのはやはり前述した教師と授業形式だろう。できないなりに理解を諦めてなかった生徒を突き放していく授業、とは言い過ぎかもしれないが少なくとも生徒の意欲を剥ぎ取ってしまったのは確かだと思う。

 そして恐らく、そもそも初めから理解をしようとせず無関心な態度を取っていた者よりも、なんとかして努力していた(記事中(3)「冷静に問いを立てる」の反応をとっていた)が結果その努力を放棄してしまった者の方が、その後同じ問題に対する拒否感が強いのではないだろうか。「努力を尽くしても自分にはできない。だから取り組む意味はない」という考えを持ってしまうように思う。

 個人的ではあるが以上の経験から、生徒を伸ばす役目を持っているはずの教師が生徒に(1)の反応を覚えさせてしまう場合があると考える。授業中どなたかが「反応は(1)⇨(2)⇨(3)の順に変化していくのではないだろうか」と発言されていたが、自分のように逆に変化する可能性もたくさんあるのではないだろうか。

 この経験は自分自身が生徒であった頃の実体験であるため、この先教師になった場合慎重に思慮し続けなければいけないと思う。



■ 私が10月5日の授業で一番疑問に思ったのは、今の教育で果たして、いずれ来るであろうコンピューターの時代に人間が立ち向かえるのかということです。授業でも話しましたが、私は空港のレンタカーでバイトしているために外国の方と接する機会が多くあります。その中で感じた事は、今でこそバイトの同僚や、社員の方が外国の方とコミュニケーションが取れない時に、大学で英語の専攻だからと助けを求められますが、大方のことはコンピューターで対処できるということです。例えば、ナビゲーションシステムはワンタッチでいろいろな言語に切り替えられ、契約書や保険の案内などもワンクリックで多言語のものに変換できます。私たちがわからない言語の方がいらっしゃっても、コールセンターにより対応できるというものがあげられます。つまり、ここで言いたいのはコンピューターで大半のことがこなせる時代に、人間ができることは限られてくるということです。いつかコンピューターの時代がきて、ロボットの最低賃金が人間の最低賃金を下回ったとしても、人間を選ぶメリットはどこにあるのだろうと考えさせられました。それが思いつかない今の状況が一番いけないということにも気づかされました。



■ 今、人工知能の性能はどんどん発達しており、翻訳機能の正確性も向上を続けている。そんな中で、言語教育が目指すべきなのは、言語教育の本質や意義を教えることだと思う。文章にも述べられているように、1つの単語でも様々な意味、使い方がある。また、客観的数値では表せないものを、言語教育を通して掴むことができるのではないかと思う。それが何かは、まだ分からないし、1つと決まっていることもないと思うが、将来絶対に見つけたいと考える。

 人工知能などの機械と人間の違いについても、文章で述べられている。機械は、あらかじめプログラミングされていることに基づいて、動作する。アップデートも定期的にあり、最新の技術も備わっている。しかし、その機械の想定外・守備範囲外の事態が起きた場合、適切な対処は難しい。一方、人間は日々、1分1秒ごとにアップデートされている。We learn from reflecting on experience. と言われるように、自分が経験したことを省みて学ぶだけでなく、今自分がいる現実世界で、今自分が見ているもの聞いているもの触れているものからも学べる。そこから、新たな発見もできる。そこは、機械と人間の決定的な違いであると学んだ。

 今回の授業で4つの文章を読み、多くのことを学ぶことができたと同時に、自分がいかに何も考えずに生活しているか、無知であるのかを改めて痛感した。また、このままでは教師になる資格はないと思った。大学生活をより有意義なものに、将来に繋げるために、今自分ができることを継続していきたいと思う。もちろん、この授業も意欲的に取り組んで、様々なことを吸収していきたい。



■ 『人工知能と経済の未来』の記事を読んで

 人間には「心」があるが、機械には「心」はない。教育の観点から述べると、私は教育は学力を伸ばすことだけが目的なのではなく人の「心」を育てる場所であると思う。「心」が育たなければいくら計算ができていても知識を持っていても、将来会社で他人と協調性を持ちながら仕事をすることはできず、人の「心」に訴えるようなプレゼンテーションを行うことも不可能だと思う。また、旅行英会話程度は翻訳機が行ってくれるので学ぶ必要はないのではないかという文章があったが、私は旅行英会話は現地の人に道を聞いたり助けてもらったりするための単なる「道具」ではないと思う。旅行英会話も人と人とのコミュニケーションである。コミュニケーションは「頭」だけでは成立しない。言葉に感情が伴い、相手に伝わることではじめてコミュニケーションは成立するのだと思う。私が高校生の時は英語の授業のはじめに隣の人と会話をする時間があった。私だけでなく、クラスの誰もが話す内容とともにその時の気持ちが自然と表情に表れ、言葉だけでなく表情で自分の内側の気持ちまで相手に伝えようとしていた。したがって、私は、旅行先の人々が困っている観光客を助けようと会話をしている一方で、こちらは何も考えず機械を使い、こちらの感情は無であるという状況はおかしいと思う。もし私が観光客に道などを外国人観光客に聞かれ、一生懸命教えようとしているが相手は機械を使い、目を見ることや思考を巡らせながら頑張ってこちらに伝えようとする努力をしていなかったら寂しい気持ちになると思う。このような状況に陥らないために、私は英語教育は知識の習得への偏りや感情の伴わない会話の練習ではなく「心」を育て、「感情」を生かす授業へと進化していくべきだと考える


■ 人工知能関係の文章二つを読んで、教師という職がAIに取られてしまう事態が起こらないためには、どのような教師が求められるのか気になった。まず、現在の教師、特に英語教師の姿を見ると、英語を学ぶ授業というよりはセンター試験の英語の攻略法を学ぶ授業を行っているように感じる。実際に、私の通っていた高校は県内では進学校の部類に入り、受験勉強に重きを置いた授業を行う高校であった。しかし、そもそもセンター試験とは四択マーク形式のテストで、採点も機械が行っている。機械が採点するようなテストのためにわざわざ人間が英語を教える必要があるのだろうか。採点が機械なら教えるのも機械で十分ではないかと思う。したがって、これからの授業では英語を学ぶ、具体的に言えば本文に述べられていたように、人間の言語に特徴的な言語記号の意味解釈を広げていくような内容を学べるようにするべきだと感じた。加えて、AIにはできないことで人間の教師がするべきことがもう一つある。それは、先生と生徒間のコミュニケーションを大切にしたり、英語は楽しいのだということを生徒に感じさせたり共感させたりすることだ。


■ 人工知能に「代替可能」かもしれないとされている高校・中学校教師にできることは、生まれる利益や合理性だけではなくて、人間の固有性というか、人の感性 (言葉と密な関係であると考える) とそれにより生み出されたもの (言語文化もそうである) に価値を見出せるような人を育てることではないだろうか。つまり、生徒の感性を育てられる教育、教師である。そして、感情をもって個別の状況に対応できる人間の教師は、たとえBasic Incomeが必要により導入された「生かさず殺さず」の世だとしても、存在意義があるのではないか(人の感性が生き残っている限りだが)。

 私が学んでいるアクセシビリティの考え方も、これから社会に出ていく子供の感性をはぐくむ助けにはなれないだろうか。子供の感性(もちろん教師のものも)を育てるには、英語教師の視点だけではなく、複数の分野での協力が必要に感じる。これからも、(一見)他分野(に思えること)でも学習を深めて生かしていきたい。


■ <人工知能と経済の未来>

 人工知能やロボット等により、日本の労働人口の49%がとってかわられるかもしれないことや、代替可能性の低い職業の中に小学校が入っているが中学校教師・高校教師が入っていないことに少し恐怖を感じた。前期のパッケージの授業で「社会福祉と貧困」というものをとって、正規の職がなく日雇いで生活している人のドキュメンタリー番組を見たりや非正規雇用労働者数の推移を学んだ。現在の時点でも非正規労働者の数は多いと感じたのにさらに多くの人が失業してしまうとなると、日本の経済に大きな影響を与えるとともに、貧困の状態は家系で連鎖しその状態から抜け出せる確率が非常に低いことを学んだが、今言われている子供の貧困も負の連鎖として続いてしまうのでは枚かと考える。

 また、将来機械翻訳ができるようになることも遠くなく、「旅行用英語」などができれば、多言語の習得は必要なくなるかもしれないという意見に対して、自分の言語が通じないところで生きていくためには必要ないかもしれないが、生きていく中で自分の糧になるもの、例えば日本や日本語では得られない感覚や価値観など、をえるためには必要だと考える。授業内で隣の人と意見を言い合うときに、汎用型AIで英会話の練習をすることができるようになりそれから返事が返ってきたら怖く感じるという話になった。コミュニケーションするときは、言語だけでなく話す人のその場の心情も必要であり、コミュニケーションの楽しさといえば、自分の言ったことに対して、(コンピュータであれば状況に合わせた何通りかの決まった返事が返ってくるであろうが) 人間である相手は、自分が予想もしなかったことを返してくることがあることではないだろうか。



■ 「西垣通(2016)「ビッグデータと人工知能」中公新書」について

ここではまとまりなく、箇条書き的に書く。

・もしもIT化が進んで1つの業務まるまるAIが行うようになったとして、そのAIが重大なミスをした場合、その責任の所在はどこにあるのだろうか。

・汎用AIは人間の脳を元に作られているとのことだが、AIの情報量のほうが多いし成長速度もより速いだろう。人間は他の民族、他の宗教、他の人種を疎んじ、自らがより優位だと考えがちで、場合によってはそれが原因で争ったりするものである。そんな人間の脳を元にしてつくられたAIが同じような発想に至ったら....と妄想してしまう。

・自分たちがより機械的な人間になってしまうかもしれないことに危機意識を持つことも必要だが、AIがより人間的になることにも注意すべきだと思う。柳瀬先生は、芸術、文学方面のものは人間特有のものである、という意見であったが、私は大衆的な絵や文学ならAIでもつくれるのではないかと思う。もうすでにビッグデータを通してAIは人間に受けるものはなにかを把握し始めているし、死んだ人の人格をその手紙の文章などから再現するデジタルクローンが開発されつつあるなど、より人間に近づいてきている。

・AIが科学や文学など新しいものを生み出す力を持つかもしれない。その時に人間の存在意義はどこにあるだろうか。

・機械の論理空間が限定的で、人間の論理空間は書き換え可能な無限のものということには納得がいかなかったが、人間は現在の時点で生きているもので、機械は過去に囚われているものだ、という説明は面白いと思った。人間はいつか死ぬし、(自己啓発本に書いてありそうなことだが)人生は1度きりである。そのため常に現在に判断の重点が置かれる。また、人間は忘れることができる(私はそれにたびたび悩まされます…)。そのため過去に囚われすぎることがない。その一方で、機械には(部品の消耗はあるものの)永遠の命があり、過去の出来事を完全に記憶している。そのため現在に対してそこまで執着心がない。

・人間は本当にオートポイエティック・システムといえるだろうか。生まれる前に遺伝子の情報から大体の姿かたちが決まり、生まれた後は必ず近くにある環境から影響を受け、多くの社会にいる子供は言語を通じて教育を受ける。自ら能動的に動くといってもその範囲はかなり制限されているように思える。

・コンピュータ採点による試験は人間性をみれないからだめだという意見があったが、センター試験レベルでの試験ではコンピュータ採点のほうが手間的にも公正さ的にも妥当だと思う。ただ、コンピュータ採点の試験で人間性を見るのは間違っていると思う。

・機械やAIは人がより生きやすくなるためのツールであるはずで、それがより効率的に有用にはたらくことはよいことのはず...である。





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