2018/10/15

「改めて教師は生徒の将来の可能性を生かすこともつぶすこともできる職業なのだと痛感した」


学部一年生のある授業で、以下の二つの動画を見て少し討論しました。以下は、授業後の書き込みの一部です。












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■ 今日の講義を受けて、改めて教師は生徒の将来の可能性を生かすこともつぶすこともできる職業なのだと痛感した。講義内で見たTEDの動画で、病気の女の子と医者のエピソードがあった。「一般的」には、「普通」は、といった平均的な思考を取っ払い、子供の未来を信じて自由にさせたという点で、私には衝撃的なエピソードであった。おそらくだが私を含め多くの日本人は(もしかしたら世界中の人が)この「平均」というもので何でもはかる傾向にあるのではないだろうか。その例はモデルの身長であったり店の1日当たりの売り上げであったりと、例を挙げればきりがない。

 無論、教育の分野においても、この「平均」の考え方は存在しており、教師はしばしばそれで物事をとらえることがある。ただ、講義内でも先生がおっしゃったように、平均的な人などいないわけで、平均で何でもはかるのはよくないことである。授業の形も、みんなの理解度はそれぞれ異なっていて、ペースだって違うのに、一斉授業をし、家で宿題をさせ、テストを実施し、点数をつけ、わかっていなかったとしても次に進む。私は今日の講義を受け、このスタイルを変える必要があると思った。まさにTEDの動画でもあったように、「家の建設で85%、90%の段階で次に進んでいる」のが現状であるからだ。

 この意見に対し、今日の講義内での意見交換の時には、100%を目指すのがきつくて嫌になるから…、といった否定的な意見が多かったのだが、私個人の意見では、ものすごくこの考えには賛同する。私はこうしてわからないものをわからないままにすることで、苦手意識が生まれ、学ぶのが嫌になると考えるからだ。経験上、苦手だと感じたものはあまり勉強したくなかった、あるいは無理やり覚えたのに対し、興味がある、理解ができたと感じたものは学んでいて楽しいし、もっともっと知りたいという欲求があった。この、もっと知りたいと思う飽くなき欲求こそが将来の夢への手掛かりになるのではないだろうか。今の教育システムはこの可能性をつぶしているのではないだろうか。

    私の高校時代の話になるのだが、周りにはこれを将来したい、と胸を張って言えている人はほんの少ししかおらず、ほぼ大多数が安定した職業に就きたいという人が多かった。もしかしたら、これは教育システムの影響があるのかもしれない。このまま安定しているといわれる職業について、激動する時代の変化に対応していけるとは、私は思えない。今後は個人個人の知的な好奇心、個性が求められると思う。私は将来教える子供たちの可能性をつぶすような教師にだけはならないように、教育の在り方について、考えていきたい。



■ 私は、今回の講義を受けて『無意識的なコンプライアンス』というものがいかに恐ろしいものであるかを思い知った。「なぜ、独裁主義はいけないのか?民主主義の方が良いのか?」という先生の発問に対する答えを中心とし、今回の講義を通して考えたことを述べていこうと思う。

 まず、講義中の先生の発問に対する答えを簡潔にまとめると、「独裁主義に陥ると多くの人々は思考を停止し、少数の人々の脳に頼り切ってしまうことになる。多くの人々の脳が使われることは無い。そして、少数の人々の脳もしばしば間違った決断を下すからである」と表せる。民主主義の特徴は、「三人寄れば文殊の知恵」ということわざで例えられるのではないだろうか、と考えた。今までの歴史を鑑みた際、やはり平常時には独裁的な政治ではなく民主的な政治の方が、よりよい結果を生むものであるように思う。しかしながら、日本の学校社会、特に学級や授業において、一歩間違うと独裁主義的な側面を持つようになるのではないか、と私は考える。

 児童・生徒が板書を自身のノートに書きうつし、教壇に立っている先生の話を黙って聴いているような授業風景を思い浮かべてみてほしい。これは、今の典型的な日本の教育現場での授業風景であると言えよう。近年、「アクティブラーニング」ということが叫ばれるようになり、児童や生徒による話し合い活動やペアワークが徐々に増え始め、授業形態が変化していることも確かではある。

    しかし、どの活動も子どもたちが「先生が言ったとおりにただやっている」だけであったら、これらの活動はいかがなものだろうか。教室は生徒たちが授業中に主体的に挙手をし、反論や質問をすることが普通ではないという空気が漂い、先生の言うことが絶対となってしまう。このまま「先生の言うことが絶対である」と子どもたちが感じ、思考を放棄して先生の言うとおりに何事も進めてしまうようになると、これは教員の独裁主義となってしまうのではないだろうか。独裁主義になる、というのは知らず知らずのうちに子どもたちから思考する機会を奪い、更には彼らの可能性を潰してしまうことになりかねないように考える。

 「独裁主義に陥る危険性がある」、教員を志す者として、現在の学校社会でこのような危険性があるということを認識しておくことは非常に大切であるように思った。また、自分自身も常に様々なことに対してアンテナを張り、思考するということを忘れないでいたい。



■ よく、”学校は失敗する場所”、”教室は失敗する場所”という言葉を聞く。確かに子供のうちは失敗しても大人(教師)によって守られており、社会的責任を問われることはまずない。しかし、実際の教室では多くの子供たちが失敗を恐れ、自分の可能性をつぶしてしまっている気がする。例えば、授業中は自分の考えを述べることも多いが、多くの場合子供たちは教師に求められている答えを出そうとする。そして、教師が求めている答えこそが必ず正しいといったような風潮があると思う。人と違った答えは受け入れられる場合もあるが、批判されてしまう可能性も秘めているからである。

 講義中にふと、高校の時の国語の授業が思い浮かんだ。私が受けていた授業では、主人公の心情を説明する記述問題などは、何人かが答えを黒板に書き、先生が少し訂正し解説を加えながらみんなの考えを聞いていくスタイルだった。しかし授業の最後に配られる模範解答が最も完璧な回答というイメージがあり、テスト前は多くの人が模範解答を覚えていた。人と違った考え方をする人はむしろ歓迎されるべきだと私は思う。その人の違う角度からの意見によって私たちが気づかされることも多くあるからだ。




■ 私は、今回の授業で先生が口にされた「日本の生徒は空気を読みすぎである」という言葉に深く共感した。私は高校の時にニュージーランドに留学し、実際に現地の高校生と一緒に授業を受ける機会があった。彼らの学習意欲は行動から現れるものであり、先生の質問に積極的に答えたり、わからないことがあったらその場で質問したりするなど、活発で楽しい授業だったことを今でも鮮明に覚えている。

    しかしながら、帰国後に改めて日本の授業を受けると、失敗や周りの目を恐れて発言や挙手を避けるような姿勢に自分がなっていたことを思い知った。たしかに、空気を読むことは必ずしも悪いことではない。周りの意見に同調することで自分の意見を生みだす手間が省けるし、突飛な考え方を持った異端者だと思われることもない。しかし、グローバル化が進む現代、革新的な意見や積極性は絶対的に必要となってくると思う。ひとりひとりの個性的なアイデアこそが目まぐるしく変動する時代に必要不可欠なのだ。






研究倫理、とくにオーサーシップについて(ある学生さんのレポートから)


以下は、卒論・修論・博論を書く学生に行う「研究倫理教育講習」の一環で、ある学生さんが書いたレポートの一部です。研究倫理に関する意識を高めるため、その学生さんの同意を得た上で、ここに掲載します。






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『科学の健全な発展のために』
「セクションⅣ 研究成果を発表する」


 我々研究者の持つ学問・研究の自由は、社会から付託されているものであり、その意味では研究者は自身の興味関心によって研究を行っていくにしても、そのあり方や成果、倫理的配慮について適切に判断を行うことが不可欠である。

 「セクションⅣ 研究成果を発表する」では、オーサーシップ、出版、引用に関わるルールが紹介されている。これらのルールは、もしも認識していなければ、知らずに犯してしまうようなものが多い。例えばオーサーシップに関しては、オーサーとしての資格がない者にオーサーシップを与えてしまうギフト・オーサーシップ、出版に関しては一つの研究を複数の少研究に分割して出版するサラミ出版などである。

 研究倫理に関わる様々なルールに違反することは、知らなかった・そのようなつもりはなかった、という言葉で済ますことのできる問題ではない。研究者一人の認識不足や悪意が、その研究者が属する研究者共同体の信用を損なう恐れがあることを十分に確認しておきたい。

 また、オーサーシップや出版に関して本書でも懸念されているのは、教授と大学院生の力関係によって生じる問題である。研究倫理に関する認識不足の教授が、大学院生の論文投稿の際にサブ・オーサーとして掲載されることを当たり前のように求めることもあるかもしれない。

 確かに、本書でも紹介されている、論文の著者として掲載される4つの条件のうち「研究の構想・デザインや,データの取得・分析・解釈に実質的に寄与していること」、「論文の草稿執筆や重要な専門的内容について重要な校閲を行っていること」、「出版原稿の最終版を承認していること」の三つに関しては、長期間に渡って院生を指導している教授であれば、満たしていると捉えることができるのかもしれない。

 しかし、やはり研究者としての主体が大学院生にあり、教授は共同研究者ではなく単なる助言者に過ぎないという前提で行われた研究ならば、ここでサブ・オーサーの権限を教授に与えるのは誤りである。少なくとも4つの条件のうちの一つである「論文の任意の箇所の正確性や誠実さについて疑義が指摘された際,調査が適正に行われ疑義が解決されることを保証するため,研究のあらゆる側面について説明できることに同意していること」が満たされないかぎりは著者として名前をあげてはならないことが『科学の健全な発展のために』が定めていることである。

 研究倫理に関する規定はすべての研究者が熟知し厳守すべきものではあるが、研究者間の力関係を前提として、犯さざるを得なかった違反もあるはずである。若手研究者には、厳格なルールの周知を行っていくのみではなく、上記のような力関係を前提とした研究倫理違反に関わった際に、誰に・どのように助けを求めることができるのか、そうした相談ができる諸機関についての周知も行っていくべきだと考えた。



2018/10/12

"Democracy and Education"の第一章を読んだ大学院生 (M1) の感想


以下は、Deweyの"Democracy and Education"の第一章を読んだ大学院 (M1) の授業についての感想の一部です。

John Dewey (1916) Democracy and Education 
(デューイ『民主主義と教育』の目次ページ)


言語教育について根源的に考えた上で、日本の英語教育について具体的に考える授業にしたいと思っています。







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MT君

 私は、教育学部で4年間英語教育学を学び、実際に教師として教育を施す立場にあったにもかかわらず、「教育とは何か」という本質的な問いについて深く考えることをしてきませんでした。ここでは、今回の講義内容から、現段階で私が解釈した「教育とは何か」という問いへの答えを記述し、その後英語教育においてどのようなことが求められるかについて記述します。
 
 デューイの主張を踏まえ、私は「教育(Education)」とは学校教育という文脈においては「他者の学習(Learning)を促すこと」であると認識しました。この場合の「学習(Lerning)」とは学習者が、自分とは異なる(または変化し続ける)周りの環境へと適合できるよう、自分自身を変容させることであると解釈できます。このように書くと、ごく当たり前のことのように思えるのですが、学校現場で私が生徒として受けた授業、または教師として行った授業を省みると、それらすべてが生徒の「学習」を伴った「教育」と呼べるかについては疑問が残ります。単なる知識技能の伝達にとどまる授業は、それを通じて生徒自身が変容しない限り、教育とは言えないのではないでしょうか。例えば、統語的手続き重視の文法指導や機械的なトレーニングのみに終始した授業を通じて、生徒は「学習」することはできるのでしょうか。そのような教師-生徒の関係は、teacher-teacheeの関係に過ぎません。教師は生徒を"teachee"ではなく、"learner"にする教育を施す義務があります。そのような意味で、教師の役割は「自律した学習者(autonomous learner)」を育てることであると言えます。「自律した学習者」とは、単なる自学自習ができる生徒を指すわけではありません。「自律した学習者」とは、自ら「学習」できる者、すなわちに、新しい環境に対して自らを柔軟に適合させるべく変容を続けることができる者が「自律した"学習"者」と呼べるのだと今回の講義を通じて考えました。
 
 それでは、生徒の学習を促すために、英語教育ではどのようなことが求められるのでしょうか。学習指導要領において、日本の英語教育の目標は「コミュニケーション能力」を育成することとされています。一般にコミュニケーション能力とは、4技能(読むこと、聞くこと、書くこと、話すこと)を指し、昨今では大学入試への外部試験導入などにより4技能育成への熱はますます高まってきています。しかし、「コミュニケーション能力」とは、単に4技能を均質に伸ばせば育まれるほど単純なものなのでしょうか。さらに言えば、4技能育成の行き着く先、すなわち「上手に読む/聞く/書く/話す」とはどのようなものなのでしょうか。デューイの “commnication” という言葉の捉え方を参照することで、これらの問いについて何か手がかりを得たように思います。( もちろん、 デューイの言う “communication” と 英語教育の文脈における「コミュニケーション能力」は全く同じものを指すわけではないが、根っこの部分は同じであると私は考えます。)

 コミュニケーションとは共通理解(common understanding)に参加することであり、その意味ですべてのコミュニケーションは教育的であるとデューイは言います。共通理解に参加するとは、単なる一方的な情報の移送とは異なり、自身の経験と他者の経験をすり合わせ、それにより両者が変容を遂げるということであると解釈しました。そのように考えると、「上手に話す/書くとは」必ずしも難しい言葉を使って流暢に語ることではなく、自分の経験を相手の経験に同期することができるよう、自己をメタ的に見つめて伝えること、「上手に聞くこと/読むこと」とは、自分と異なる経験を持つものの主張を理解することと言えるのではないでしょうか。4つの技能は、そのようなコミュニケーションを成立させるために必要な能力に過ぎず、技能の育成のみに終始すべきではないと私は考えます。

 昨今の能力偏重とも言える日本の英語教育で、デューイが提唱するような教育観を見直すことには大きな意義があるように思えます。








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FO君

 デューイは『民主主義と教育』を、「人間が生きること」とはどのようなものかを述べることで始めています。デューイの考えを一言でまとめるなら、「人間が生きること」とは世界(あるいは環境)に働きかけることによって行われる自己刷新のプロセス、と言えるかと思います。人は自らすすんで世界に語りかけ、その中で自己の変容を経験することで自己を維持します。もちろん、世界への働きかけを通して私たちが経験できることは自己の変容だけではありません。私たちは世界に働きかけ、自己の変容を経験するのと同時に、世界の方も変えていきます。私はデューイのこの考えに触れたときに、これこそコミュニケーションなのではないかと思いました。

    第一章のなかで、デューイは「全てのコミュニケーションは教育的である」と述べていますが、ここでの「コミュニケーション」には普段私たちが用いている「コミュニケーション」ということば以上の意味合いが明らかに込められています。コミュニケーションということばはあまりに有名であり、およそどんな人でもこのことばを知っています。「コミュニケーションとはなにか」と聞かれると、「コミュニケーションはコミュニケーションだ」とトートロジーを用いることなしには答えることが難しいぐらい、私たちの生活にはコミュニケーションということばが身近にあります。しかし私は、そのことばが実体を持たずに独り歩きしているような印象を受けます。フェイスブックの誕生によりその意味を剥奪されてしまった「友だち」ということばを聞いたときに感じる違和感に近いのかもしれません。私たちが普段用いているような意味合いでの「コミュニケーション」が全て教育的であると言えるのか、私はひどく懐疑的です。デューイが「コミュニケーション」ということばを用いて表したかったことはこのような形骸化された意味でのやり取りではなく、自らの変容と世界の変容の両方を導いてくれるような血の通ったやり取りであるように私には思えました(デューイ自身は “all communication(and hence all genuine social life) is educative” と述べていますが、私はデューイが単にコミュニケーションとだけ言うのではなく、all genuine social lifeと付け加えていることに大きな意味があるように感じます)。

 人間は自己刷新を通して自己の維持を行う、と述べましたが、これは人が集まり、集団を形成したときにも同じことが言えます。集団を維持するためにも私たちは一人ひとりがそれぞれのやり方で世界に働きかけます。「集団を維持する」ということは、社会的集団の究極の目標であると言って差し支えないかと思いますが、人間はそういった目標に無関心な状態でこの世に産み落とされます。デューイはこのようにして生まれてくる社会の「未成熟な」メンバーに、集団としての目的や慣習を教えることができるのは教育だけであると述べています。そして、だからこそ教育が必要であると述べます。私たちは教育を通して、社会の未成熟なメンバーに「自ら世界に語りかけること」を教えます。そして、個々人が世界に関与することで集団を維持します。ここで言う「世界」は私たちを取り巻く環境のことです(デューイも “environment” を用いていました)。

 授業中のディスカッションでは autonomous learner ということばが多くの友人の口から飛び出ました。このautonomous learner こそ、自ら世界へ働きかけ(世界とコミュニケーションを図り)、その中で自己の変容も世界の変容も経験していく人のこと指すのではないでしょうか。そして、そのような人を育むために教育は行われなければならないのではないでしょうか。偶然、授業とは関係のないところでパウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』を読んでいたのですが、50周年記念版には三砂ちづるさんによるまえがきがあり、そこで彼女はこのように述べていました。


フレイレにとって識字を始めとする能力の獲得とは、尊厳を欠く労働現場に学生を送ったり、「キャリア」を積んだりする準備のためのものではなく、セルフマネージできる、すなわち、それぞれが自らの意思で人生を送っていけるようになるための準備なのである。(p.21)



 私たちはこれから学校内外で多くのことを教えることになると思います。そのとき私たちが忘れてはならないことは、なにを教えるにせよそれら全てが「生徒が自らの意思で彼ら自身の人生を送っていける」ことに繋がらなければならない、ということであるように思います。







2018/10/09

「学び」あるいは「勉強」について


「英語教師のためのコンピュータ入門」という授業は、 学部一年生向けということもあって、いろいろな問題提起をして、学生さんに考え語り合ってもらうようにしています。

先日提起した問題の一つは、「学び」あるいは「勉強」についてでした。多動傾向のある私(笑)は、「忍耐力は、学びにおいて重要ではない。なぜなら放っておかれたらずっとそればかりやってしまうぐらいに好きなことを見つけ、それに没頭することが学びだから」といった私見を述べました。

以下はその意見に対する反対意見、賛同意見、あるいは独自の見解です。







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■ Aさん


今回の授業で疑問に思ったことを一つここで述べようと思う。

「好きなものはやれと言われなくても自分から進んでやる。」という先生の言葉についてである。

確かに、好きなものには自然とハングリー精神が湧いてくるものだ。

しかし世の中好きなものばかりではない。現に私も小学生の頃は英語が好きではなかった。その私がなぜ英語教師になろうと思うほど英語を好きになれたのか。それはきっとやりたくない、しんどいと思うトレーニングをコツコツ続けたからだ。毎日取り組んでいると、自然に力がつく。力がつくと、できること・分かることが増える。できること・分かることが増えると、やりがいを感じて意欲的になる。私はその中で英語の魅力を感じ取った。

嫌いなものだと努力し続けるのには相当な力が必要である。でも、嫌いなものを好きになることができたら、それはその人の可能性を広げる糧となるだろう。私は子どもたちにその努力する力、忍耐力をつけるように指導することも重要だと思うが、いかがだろうか。


■ B君

 高校時代の受験勉強は、センター試験に向けて9教科も勉強せねばならず、そのことを嘆いていたのをよく覚えています。「日本史や化学基礎、生物基礎なんて、絶対将来使わないよなぁ」と思っていた私は、それらを勉強する理由を自分なりに考えてみることにしました。そして、学校の勉強はとても嫌で、しかしやらなければならないことをいかに自分の生活に取り込むか、そしてそれに耐えうる忍耐力を養うためにあるのだという考えに至りました。

 僕は、勉強が好きではなかったですが、大学進学のためには9教科勉強する必要があります。そのために、私は電車通学の時間には英単語の暗記、学校の自学の時間には入試の過去問を、というように、9教科の勉強を自分の一日の流れに組み込みました。そのために、自分のやりたいことを我慢しなければならなかったし、勉強ばかりの一日がこれからずっと続くのかと思うととてもつらかったです。しかし、そんな日々を乗り越えたことは自分にとっても自信になりました。子供のころから幸福に育ち、しかも正直勉強が大好きでいくらやったって精神的には全然きつくない、という人は社会に出てから大丈夫なのか、と思ってしまいます。もちろん今の社会から求めらる学力は周りよりも身につくかもしれませんが、精神的な忍耐力に関して言えば、勉強が好きなら、ゲームばかりしている子と変わりません。

 この世を好きなことだけやって生きていけるとは、私は思いません。ですから、私は勉強というのは一般的には難しくて、嫌で、自分なりに意味を見出すことが難しいものであることも、勉強をする理由なのではないかと思います。また、だからこそ、義務教育という形で、社会に出る前の子供たちに立ちはだかっている。そして、忍耐力に加えて、生涯を通して必要となる思考力を身につける。これが学校の勉強の本質的な意義であると私は思います。


■ C君

 先生がおっしゃるように、世界の急速な変化は近年著しく進んできているため、時代の変化についていくためにも『勉強をしよう』というのは疑いの余地がないほど正しいことである。しかし、私はどうしても『勉強』という単語に抵抗がある。

 最近ある本を読んで感じたことだが、『勉強する』ことと『学ぶ』ということは根本から違うのではないかということである。勉強とは、読んで字のごとく『強いて勉める』つまり精一杯努力をするということではあるのだが、語源を調べたところ商人の値下げの例も書かれていた。そのことから、書かれてはなかったものの多少なりと『嫌々ながら』頑張るというニュアンスも含まれるのではないかと考えた。反対に『学び』については、その本の中では「自分の興味関心があるものに没頭して得られるもの」という記載のされ方であった。この区別の仕方は非常に納得がいった。今までの経験から考えて見ても、社会的規範だとか情報の集め方だとかは自分の関心のある分野から得たものの方が圧倒的に多いからである。しかし、一人の人間としての自立をしなければならない年齢に達した今では、勉強も生きるために必要であることは言うまでもない。

 このような理由で私は、将来自分がつくであろう高校教員、あるいは義務教育課程における教員に求められることは、生徒に『学ばせる』こと、もっと言えば『何かに没頭させる』ことではないかと考える。もちろん好きなことだけやれば良いというわけではないが、先生がラグビー部OBの方を例に出したように、没頭する経験は後の人生において非常に重要だと改めて感じた。大学生活は比較的自由が与えられているため、この機会に4年間は好きなことに没頭していこうと思う。


■ D君

やらされていると感じてしまうがゆえに勉強することが嫌いになり、結果として「学ぶ」ということを学ばないまま大人になっていく子供たちが多いという指摘について意見を述べたい。やらされている、つまり他律の中で行うものは基本的には苦痛を多少なりともなうものである。なぜならそれをやっている本人たちが楽しめていないから、であることは明白であろう。これに対して自律的に行うもの、ここでは自らが楽しいと感じて行うものであるが(授業中ではサッカーの例が出た)、人々によっては疲れ果てるまでこの自律的に行うものを楽しみながら遂行するだろう。ただ、自らがやって楽しいかどうかということだけで成果が大きく違ってくるのである。教育者を志すものとしてこれを促す、「学ぶ喜び」を体感させることの重要性を把握しておくことは寛容であると感じた。授業中に「キノコ博士」と呼ばれた少年が出てきたが、彼はその「学ぶ喜び」を知っているという点で大変優れた人物であるといえよう。


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学校に行かず、自分の「好き」を突き詰める―中3のキノコ博士:山下光君と母仁美さんに聞く「自分らしい生き方」とは
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■ Eさん

私は学習できる環境にいます。大学に通わせてもらい、学習に必要なものも与えてもらっています。やりたいことを好きなだけさせてくれる両親は、私のすることに口を挟まないし、反対することもなく見守ってくれます。学びたいことを好きなだけ学ばせてくれます。

私は勉強を強制されたことがありません。中学生の頃、全く勉強しない時期がありました。勉強をしなくてもとりあえず高校に上がれる安心感と、四則演算さえできれば数学なんてできなくても生きていけるという中学生特有のひねくれた考えのおかげで勉強する意欲をなくしました。その時でも両親は何も言いませんでした。

私はその時、最初は楽しかったけれど、しばらくするとなんとなく寂しくなりました。確かに数学ができなくても生きていけるけれど、知識があまりに乏しいことに不満を覚えるようになりました。学んだことが自分の知識になることが学ぶ喜びであり、その喜びを味わいたいがために勉強するのだということに気づきました。そして、学んだことに無意味なことなど一つもなく、生きていく上で、生きるために働く上で、学ぶことは必須なのだと知りました。今回の授業で、Lifelong Learningの話を聞いて、まさにそうだと同意しました。


■ Fさん

 今回の授業を受けて、「学ぶ」ということについて考えてみた。私たちはたまたま大学に通っているため、学習しなさい、学びなさい、と言われると学術的な学びになってしまう。しかしそれだけが学びだろうか。生涯学習とは一生学問に触れていなさいということなのだろうか。そんなに頭が良くて勉強ができる人は偉いのだろうか。私はこのような社会の風潮が今の日本をだめにしていると思う。エリートなんてただ勉強ができるだけの人たちの集まりだと思っている。勉強ができるのはそんなに偉いのだろうか。

 私は、違う意味で学ばないことは愚かなことだと思う。しかし「学ぶ」という単語に対して私なりの解釈をしたうえでだ。たとえば、学校の勉強などせずに大好きなサッカーばかりをしている人がいるとしよう。この人は学ぶことをしない愚かな人だといえようか。親や教師はこの人に勉強を強要すべきだろうか。私はそれは違うと思う。たしかに社会生活を営む上での最低限の知識は必要だろう。しかしそんなのは意外と勝手に身につくものである。そんなくだらない理由でその人の才能を潰す方が私は愚かだと思う。その人はサッカーの戦術や技術を日々のトレーニングの中で「学んで」いるからだ。

スーパーのレジ打ちのパートをしている主婦はどうだろうか。この人は勉強をしていないから愚かなのだろうか。私はそれは違うと思う。家事もパートの仕事も、日々の失敗から「学び」、二度と同じ失敗を繰り返さないように改善策を探し出す。勉強しかできない人より、よっぽど立派だと思う。生まれたばかりの乳児でさえ、言語や体の動かし方を自分の力で修得していく。世の中に学ばない人などほとんど存在しないのだ。

 もちろん、私は教員を目指しているため、生涯を通して学問と、英語と向き合う必要がある。それは十分に理解しているため、もっと本を読み、視野を広げ、英語力の向上のために努力しようと思う。しかし、ただ知識量が多く英語ができるだけの教員にはなりたくない。もっと様々なことに挑戦し、学問の面だけでなく、他分野に関しても幅広い視野を持った教員、人間になりたい。なぜなら、学校で教える生徒の全員が学問を生業にするわけでもなく、そもそも大学に進学するわけでもないからだ。私たちがこうして学問に向き合えているのも、学問ではない分野で日々「学び」を重ね、その身を削って努力してくれている人が、学問に触れている人よりもはるかに多くいるおかげだということを忘れてはならない。

 このようなことを書きましたが、決して私が勉強から逃げたいからでも、先生方を非難したいからでもありません。むしろ私は小学校から大学まで、先生方や環境には恵まれてきたと強く感じています。


■ Gさん

 私は、今回の講義を通して、自分の教育や英語に対する考えがひどく甘いことに気付かされた。中でも、特に印象に残っているのは、「 " Lifelong Education "ではなく、" Lifelong Learning "である」という先生の言葉だ。私は、先生のその言葉について、じっくりと考えた。

 まず初めに、" Lifelong Education "と" Lifelong Learning "の違いについて述べたいと思う。どちらも、「生涯学習」と捉えることができるかもしれないが、この2つには決定的な違いがある。講義中、先生がおっしゃられていたが、" Lifelong Learning " というのは、 「自発的に学ぶ(能動的に学ぶ)」ことなのだ。それに対して、" Lifelong Education "は、「受動態で学ぶ」と表せるのではないかと私は考える。「能動」と「受動」という点で、この2つにおける学びの姿勢は全く正反対のものであるように思う。では、何故 " Lifelong Learning " であるのだろうか。

 人々にはいつまでも先導し、守ってくれるような人が存在するわけではないからである、と私は考えた。私たちはこれまでの人生を、親や周囲にいる大人、そして教員に甘えることで導かれ、そして守られて生きてきた、と言っても過言ではないと私は思う。しかし、社会に出てからはそんなことがあるはずもない。自分で自分自身の行動の責任を取っていかなければならないのだ。その上、親や教員になると、自分の子どもや児童・生徒たちを導く立場となる。そのためにも、ただ与えられた課題や問題を解法に従って機械的に解決するだけではなく、自ら課題や問題を見つけ、それについてじっくりと考えることが大切なのであると考える。これに関連して、先生のブログ記事『考える・調べる・尋ねる』を読んで私は以下のようなことを感じた。

 社会に出て、「手取り足取り教えてください」などという甘えは通用するわけない、ということである。自分で考えて動く力が求められるのである。その力の基盤として「学ぶ方法を学ぶ」という教育の1つの目的があげられるように思う。しかし、学校教育を通して「学ぶ方法を学ぶ」ことができているのかといわれると、私はそうは思わない。私は小・中・高の間、学校教育を受けてきたが、私も含め児童・生徒たちはこのことを全く意識しておらず、「なんで勉強しなくてはならないのだろう」といいながら勉強していたことをよく覚えている。勉強をする理由として「受験があるから」などの目先の目標に向かうことが多く、自分の将来を見据えたような発言は耳にしたことがあまりなかった。意識せずとも、自然に身についている友人もいたように今考えてみると思うが、大半はただただ高得点をたたき出すためや、赤点を回避するためなどに囚われ、「学ぶ方法を学ぶ」ことに辿り着いていなかったように思う。

 私は、小学校高学年から高校生で「学ぶ方法を学ぶ」ことを児童・生徒たちに伝えていくべきであると考える。小学校高学年から、と私が考えたのは、小学校低学年・中学年では、学校生活を通して小さな社会での経験を積むことが最優先ではないかと思ったためである。また、このことを実施していくにあたって、現在の学校教育の評価方法も見つめなおすべきであると考えた。関心・意欲・態度、また児童・生徒の努力を評価材として、もっと成績に反映するべきであるように思う。これらは、テストの点や実技と比較して非常に目に見えにくく、評価しにくいものであると感じ、まだ具体的に方法が思いつくわけでもないのだが、様々な形で評価していけるようになるとよいのではないかと考える。

 また、" Lifelong Learning ”の基盤を学校教育を通して作り上げることにおいて、「活字離れ」という問題はとても深刻なものであるように感じる。教養の広さや、物事を深く考えて感じる力は、本や新聞を読むことによって主に培われるように考える。だからこそ、1冊でも多くの本に触れてほしいと思うが、なかなかそうはいかない。私は子どもたちが本を読むようになるためには、家庭での環境づくりが必要であるように感じる。私自身、幼いころに母が読み聞かせをしてくれたり、頻繁に図書館に連れて行ってくれたりしてくれたこともあり、本を読むことが好きである。このように、家庭の環境1つで変わることもあり、学校だけで完結をすることは難しいこともあるため、家庭の協力が" Lifelong Learning "の基盤づくりには不可欠になると考えた。まずは、私自身がより本を読むようにし、どちらの立場になった時でも子どもたちが本に触れる機会を多く作っていけるようになりたいと感じる。


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授業を通じて、さまざまな意見、特に自分とは異なる意見を理解し、そこから自分を変革する力を(私自身を含めて)培いたいと思います。



機械翻訳がますます発展する現在、学校英語教育の意義は失われているのではないか?



学部一年生の授業で、ある学生さんから「これまでの話とはあまり関係ないが、先生自身は、現在、学校で英語教育を行うことの意義をどう考えているのか?機械翻訳がますます発展する中、正直、学校英語教育は意義を失いつつあるのではないのか」という問いかけがありました。

私はその学生さんの意見を聞いた上で、私が日頃考えていた自分の意見を述べましたが、その応答は他の学生さんにも多少の印象を与えたらしく、以下の書き込みが授業用の電子掲示板にありました。

おざなりのことばをできるだけ使わずに書かれた、いい文章であるようにも思えましたので、ここに転載します。







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10月3日の講義で 一番印象深かったのは、「翻訳機能が発達した世の中で英語教育は必要か否か」という質問に対する先生の回答である。

 言語を操ること、言語で意思を疎通させること、はたまた言語それ自体。日常的に行われている言語活動は、当たり前すぎて看過しがちだが、非常に美しく魅力的だ。

 私自身 留学中、英語が上手く操れない期間は自分の声を奪われたような感覚に陥り、言語の必要不可欠性を痛感した。筆談にしてもらったり、辞書や翻訳機能に頼ったりすることで、自分の意思を相手に理解してもらうことはできたが、それはコミュニケーションとは かけ離れたものであり 非常に辛い思いをした。

 しかし、一年間の留学も後半に差し掛かった頃から、少し欠陥はあるものの 言語を通してコミュニケーションが成立する場面が増え、充足を実感できた時の感動は、今でも忘れることはできないほど素晴らしかった。

 言語は人の意思と意思の間を繋ぐ「手段」でしかないが、言語を手段として広がる世界は いつでも私に感動を与えてくれる。誰かの言葉に嬉しくなったり、傷ついたり、幸せになったり…と気持ちに変化を生じさせる言語は 私を退屈させることはないし、言語によって生かされていると感じることは多々ある。(コースの性質上 英語に焦点を当てることが多いが、もちろん 日本語も決して例外では無い。)

 英語教育は、英語”を”教えるのが通例となっていて 本来の言語の役割や喜びを体感する手前で学習が終わっている。言語を操るために 英語”を”学習する過程を飛ばすことはできないが、英語”で”広がる世界を体験するところまで 英語教育の内容を拡張することができたなら、この先も 英語教育の存在意義は保持されるだろう、と私は思うのである。


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皆さんは、現代における学校英語教育の意義についてどう考えますか?




2018/10/05

12/9(日)に広島大学英語教育学会を開催します。一般公開企画「英語資格試験を問い直す」には会員でない方も参加できます!







この夏に豪雨災害により延期した広島大学英語教育学会ですが、以下の要領で開催します。午後には一般公開企画もありますので、会員の方々はもとより英語教育に興味をお持ちの生徒・学生・英語教師・一般市民の方々もぜひお越しください。


■ 名称: 広島大学英語教育学会

■ 日時: 2018年12月9日(日)10:00-16:30
※ ただし一般公開企画は 14:10-16:30

■ 場所: 広島大学教育学部K104教室・K102教室
https://www.hiroshima-u.ac.jp/access/higashihiroshima
https://www.hiroshima-u.ac.jp/access/higashihiroshima/busstop_higashihiroshima/aca_3
※ 広島大学東広島キャンパスは文字通り「広大」なので(笑)、初めてお越しの方は十分に地図などで場所をご確認ください。

■ スケジュール
09:30-10:00 (K104) 受付
10:00-10:40 (K104) 学会総会
10:50-12:00 (K104)    実践志向部門・座談会
「新任者教員の苦労と展望を語り合う」
 登壇する初任者教員
壬生川奏美(広島県福山市立手城小学校教諭)
高橋 伶奈(広島県三原市立第二中学校教諭)
重定 拓実(岡山県立倉敷工業高等学校教諭)
手島 英華(広島県立尾道東高等学校教諭)
 コーディネーター
樫葉みつ子(広島大学教育学部准教授)
12:00-13:00       昼食
各自でお取りください。
13:00-14:00 (K104)     研究志向部門・研究発表
「日本人英語学習者の不平発話行為運用に対する英語母語話者による適切性判断の分析」
梅木璃子(広島大学大学院生博士課程後期)
         
「日本人英語学習者が産出する英語移動表現の特徴と産出に困難を感じる表現の特性」
平野洋平(神戸市立工業高等専門学校准教授)
 14:10-14:30 (K102)    小論文最優秀作品発表
 ゲスト:清水一生さん(第二回英語教育小論文コンテスト最優秀賞受賞者)
 14:30-15:30 (K102)    対話の集い
「英語資格試験を問い直す」
一般参加者も含めて、参加者全員が対等な立場で語り合います。
 コーディネーター
 柳瀬陽介(広島大学教育学部教授)
15:30-15:40 (K102)    閉会行事
15:40-16:30 (K104)    情報交換会(ワンコインパーティ・500円)
茶菓子代500円でどなたでも参加できるパーティです。
忌憚のない話を楽しみたいと思います。ぜひご参加を!



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以下、主な行事のチラシも掲載します。






実践志向部門主催の座談会では、初任者教員の様子を率直に語っていただき、会員相互で知恵を共有したいと思います。これから教員を目指す学生会員が将来について学べる機会であることはもとより、先輩教員も初任者教員の本音を知ることにより学べますし彼ら・彼女らに助言をすることで充足感を覚えることもできるかと思います。一人でも多くの会員の皆様の参加をお待ちしております。









研究志向部門の研究発表では、新進気鋭のお二人の発表を聞きます。最新の研究成果について学びませんか。こちらも多くの会員の皆様の参加をお待ちしております。











一般公開企画は、14:10の「小論文最優秀作品発表」から始まります。受賞者の清水一生さんをお呼びし、作品で表現したかった意図を語ってもらい、次の「対話の集い」につなげます。

14:30から始まる「対話の集い」では、「英語資格試験を問い直す」をテーマに、会員・非会員の枠を超えて英語教育の今後のあり方について対等な立場で語り合います。

主な論点は、小論文最優秀作品で示された以下の三点です。
・英語資格試験は「グローバル社会」を生き抜く人材を育成しているか?
・英語資格試験の面接はあまりに形式的で機械的すぎないか?
・英語資格試験は過剰なプライドだけを与えているのではないか?

短い閉会式を終えたら、最後の一般公開企画である情報交換会(ワンコインパーティ)を15:40から開始します。「三人寄れば文殊の知恵」ではありませんが、「対話の集い」では語りきれなかったこと、および英語教育一般についてなどなど、気軽に話し合いたいと思います。

「来てよかった」と思っていただける学会にします。どうぞご参加を!





2018/10/03

「最強の読書会」が再開されます(月曜昼休み:学生プラザ一階)


管理人の都合で中止になった以前の「昼読」を引き継ぐような形で、スタートした総合科学部一年生の廣瀬詠太郎君による「最強の読書会」が、第三タームは月曜の昼休みに開催されることになりました。場所は前回と同じで学生プラザの一階です。





さきほど読んでいた本に、このような言葉がありました。

The new world of communication is blessing for the citizens of the world trained to think critically and knowledgeable about history.
But what about citizens who have been seduced by the world of life as entertainment and commerce?

Antonio Damasio 
"

私は旧世代に属しており読書をする文化を学ぶことができましたので、自分の時間がSNSに侵食され、私の意識世界が、他愛もない世間話と広告に満たされてしまうことに我慢がなりません。ですから、ある程度のSNS断ちをして読書に時間を費やすことができます。

しかし新しい世代の多くの人は、無自覚なままにSNSに誘導され、読書を始めとした知的習慣から遠のいているような気がします。卒業や受験のための最小限の読書を他律的に行うだけで、読書の喜びを知らないまま、ますますSNSにふけっているように思えます。

激変する世界状況を考えれば、知的習慣からの逃避は将来の自分を弱体化することに他ならないでしょうか。それによって本来もっていたはずの可能性を失うのは自分自身だけでなく、自分の家族、そして(教員の場合なら)自分の児童・生徒・学生です。

ここは一つ、意図的な習慣を作り、読書を楽しむ文化を学ぶ自己訓練を行うべきではないでしょうか。

若い世代の皆さんの参加を心からお待ちしています。

いや、古い世代の私が偉そうに言うことではありません。廣瀬君を始めとしたこの読書会のメンバーのように知的に目覚めて自律的に行動しようとする若い世代は確実にいます。

共に学びましょう!



教英・グローバルコモンズ共催イベント 大学院生が登壇

  2026年7月16日、教英と教育学部グローバルコモンズの共催で下記イベントが開催され、M1の上原壮司さんがパネリストとして登壇しました。 以下、上原さんからの報告です。 ====== 7月16日に教英とグローバルコモンズの共催で開催されたパネルディスカッション「Approac...