以下に引用するのは、下の章を使った授業を受けた院生さんの感想の一部です。
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■ OT君
第11章ではこのような表現があった。
“a mere verbal formula, a set of catchwords used to render thinking, or genuine theorizing, unnecessary and impossible”
この表現が示すように思考の伴わないあるいは伴わせることのできないような表現や言葉の使い方が現在の英語教育において非常に多いのではないかと感じる。私たちはことばを教える教師として十分なことばの使い方ができているのだろうか。ことばをただ記号として扱い、その意味をなおざりにしてはいないだろうか。
今学期は授業研究に関する授業をとっていたこともあり、公開授業研究会にできるだけ参加しようと思っていた。2学期以降このような公開授業研究会は様々な全国の様々な地域で行われており、インターネットで調べても多くの研究会の情報にアクセスできた。しかし、それらの情報を見ていて困ったことがあった。ウェブページには実施される日程、学校、研究授業のテーマなどが記されているのだが、授業のテーマの部分を見てもいまいちどのような実践を行うのかわからないのである。実践内容の例を挙げると「主体的・対話的な学びを促す授業の工夫」「知識・技能を活用した思考力・判断力・表現力の育成」「論理的思考力・表現力を身に着けさせるための指導の工夫」「生徒の主体的な学びを促す授業の工夫」などなどである。これらの文言は少なからず見られた、というよりも多くはこのような表記をしていた。公開授業研究会として行っている以上、これらは学校外の人に向けて発信されている情報である。しかし上の文言を見て「へえ、独自の実践で面白そうだな。行ってみようかな」となる人がどれぐらいいるのだろうか。僕はこれらのテーマを見たときにどのような実践なのか全く想像することができなかった。同時にどのような意味を持ってこれらのテーマを設定したのか、疑問も覚えた。
この例でも当てはまると思うのだが、ことばの上だけで成立する観念や概念ばかりが知識として教育の中で流布しており、何となくその意味もよくわからずに使用しているように感じられる。本来重要なのは、ことばが私たちの生活においてどのような意味を持っているのかということである。空気中にぽかんと浮かんだような概念としてのみことばを使っていては、ただ無味乾燥なことばとしてしか存在しないだろう。上の例でいうと、思考力は思考力でもどのような文脈(例えば文章を書くこととか)における、どのような類の思考力(例えば推敲して文章をよりよくするとか)を想定しているのか教師の方で提示できていない。したがって思考力ということばがただ存在しているだけで、見た人がそこに具体的な意味を感じ取ることができないのである。教師や学校がそれをできないでいて、生徒に求めるのは難しいのではないかと思う。(言語)教師である以上ことばに対して敏感な態度をとれるようにしなければならない。
■ MT君
第11章の内容は、私にとって非常に耳が痛い内容でした。
第11章でデューイは、「経験」に能動的な「試み」と受動的な「受け入れ」という二つの側面を認め、「経験から学ぶ」とは、私たちの行動とそれが導く結果をつなぎ合わせ、その関係性に異議を認めることであるとしています。さらに、その行為と結果の間に「思考」を介することによって、私たちの経験はより知的で豊かなものとなり、将来的な「ねらい(aim)」に向かって活動を続けることができると述べられていました。
よく、「何事も経験だ」と言われますが、その言葉はとりあえず考えなしで行動することを推奨するものではありません。その行為とそれが導きうる結果との間に思考を巡らせず気まぐれに行動する、または惰性で行動するならば、その行為は経験と呼ぶことはできません。自身の生活を振り返って、いったいどれほどの行動が私の「経験」となっているかと考えると、少し憂鬱な気持ちになりました。
教育についても同様で、例えば自身が行った授業を省みても、その中で生徒は思考を伴う「経験」をすることができていたと自信を持って言うことはできません。例えば、およそほとんどの中高で行なわれている "Repeat after me” を私も授業の中で取り入れていましたが、それは生徒の思考を働かせるどころか、生徒の身体を心から引き離す機械的な活動であったと反省しました。一斉授業の中で単なる音声復唱を繰り返し、自宅学習で音読をするよう促すことは、生徒に機械的な習慣を押し付け、英語学習とは無機質なものであるという印象を持たせることに繋がりかねません。単に "Repeat after me” とするのではなく、生徒がその例文を頭の中で描き意味を持たせられるような場面設定や言葉がけを十分にする、そして今音読をするということによって将来の自分にどのような変化が現れるかということを生徒自身が考えるきっかけを与える必要があったと今になって思いました。
■ FO君
第11章でデューイは「経験と思考」に関する議論を行っていますが、その中で彼は心身二元論を徹底的に批判しています。デューイによる心身二元論批判にはいままでの授業において私たちが批判的に見てきたものが数多く含まれているように思えます。
心身二元論は身体と精神を2つの切り離されたものとして考えます。今までの授業の予習や復習において私が述べてきた「生徒を容れ物とみなす教育観」はまさにこの心身二元論の考えに基づいています。生徒の身体から、ないしは生徒による学びから精神が引き剥がされた途端に、彼らは中身を満たすべき空っぽの容れ物と化します。このような人間感に基づいた教育が生徒を世界に向かわせることを否定している、ということは繰り返し述べてきたとおりです。
一方、生徒の身体と精神を切り離して考えるのではなく、それらがピッタリと重なりうるものだと捉える人間観が生徒を単なる「容れ物」とすることはありません。このような人間観においては、身体と精神はばらばらに切り離されたものとして存在するのではなく、身体そのものが世界を指向する意識である、と考えられます。ここでいう「世界を指向する」とは、デューイが第1章から繰り返し述べている通り、「生きること」や、本章でのことばを借りるなら、「経験すること」と言い換えることができると思います。
デューイは教育を、人が人として生きるために必要なものとして考えているため、教育について議論する際に、生きること(すなわち世界へ働きかけることで享受できる変容)についてことばをかえながら何度も語っていることがわかります。本章ではデューイは「どのように世界に働きかけるのか」ということに関して詳しく述べることで、「ただ活動すること」と「経験すること」の間に明確な区分を設けています。
これらの違いを私なりに一言でまとめるなら、前者と後者を隔てるものは思考の有無です。デューイは本章において、“Thinking, in other words, is the intentional endeavor to discover specific connections between something which we do and the consequences which result, so that the two become continuous.” と述べていますが、彼が思考をendeavor(努力)と言い換えていることには大きな意味があるように思えます。ここで言う「思考」とは明らかに何かを新しく生み出すこととは同義ではありません。デューイがここで用いている「思考」とは、上にも引用したように、私たちが何かをなすこととその結果との間の関係を明らかにし、それを継続的なものにする営みを指します。
私たちがなすことに対するその結果はまさに今、私たちの眼の前に明らかな形で提示されているものではありません。ですから私たちがなすことがもたらす結果やそれらの関係を考えるときに、私たちは過去の記憶を引っ張ってきて、それを元にするなどして、まだ起きていないことを予想する必要があります。この時に明らかなことは、私たちはそうするときに「いま・ここ・わたし」を離れているということです。言い換えるなら、思考とは「いま・ここ・わたし」から離れた場所に自身を投射する力を意味します。いま、この場から離れた私以外のもの(過去/ 未来の私、ないしは他人)がどのように感じるのか、ということにまで意識を延長してみる、そんな力がここで言う思考である、と私は解釈しました。
このように私たちは今この場にいる私以外のものに自身を投射して、そこから自身の行動やそれに伴う結果を思考することができるのですが、そうして思考したものは常に不確かさを身にまとっています。まだ起こっていないことに関する予測をたてることができても、それを断言することはできません。このような状況をデューイは “Where there is reflection, there is suspense.” ということばで表現しています。私たちが「単なる活動」ではなく「経験」をしようと試みるとき、あるいはその経験をより良いものにしようと試みるとき、「いまここにいるわたし」を離れて多くのことに意識を向けます。しかし、そこから得られた予測は私たちの中に確固たる真実として刻まれるのではなく、それが明らかになるときが来るまで「宙ぶらりん」の状態で保持されます。世界に働きかけ、多くのことに意識を向ければ向けるだけ私たちはこの「宙ぶらりん」を抱えて生きることになります。だからこそ私たちに必要なのは「正しい/ 正しくない」の判断を急ぐことではなく、その判断を「一時保留」にする能力であり、これがまさに「わからなさとの向き合い方」なのだと思います。
■ KK君
Dewey argues that nature of experience consists of both active and passive aspects. We take initiative to try something, and we undergo the corresponding results. Through those results which may be disappointing or delighting, we learn something that is connected with ourselves. Thus, all the experience becomes a process of learning. If we rethink the status quo of the current education from this perspective, we will realize that it is so hard to find real experience in ongoing education because active trying is absent in vast majority of the cases. Teachers are disproportionately inclined to passive instructions, so students are operated to accept certain results, bad or good. In this way, they never really get involved in the experience, for they are not the owners of their feelings, and consequences mean nothing important for them. Only when students are active to try something, can they pay attention to the corresponding result, in which they also actively find the connection among things, and learn to attach the meaning to the things.
Another very sensational argument from Dewey is dualism of mind and body. I held a strong empathy while I was reading the comment on Japanese Education from Professor Yanase. Back in China when I was a primary school student, all the teachers told me to be quiet and remain put as much as I could because this is what a good child should behave like. So I tried my best to keep the back straight and fold my arms in front me on the desk. Apart from the pain resulted from keeping the same posture for a long time, I kept hiding my true feelings or facial expressions even when I felt something so interesting or so exciting that I wanted to shout out loud or just jump from my seat. This similar way of class education is still prevailing and ongoing, and the concept of mind-only education has got the best of teachers and students for a long time. However, as an exciting mind is ready to look for an equally exciting body, mind becomes disappointed and sorrowful because of the separation forced upon them. Thus, mind can never work well if body participation is missing. There is no such as a thing called mind-only education, for mind and body always go hand in hand.