「コミュニケーション能力と英語教育 」という学部生向けの授業で、本日、野口三千三氏や竹内敏晴氏の身体的言語論を扱います。
その授業用スライドでは、竹内氏の以下のことばも引用しています。
この[=医者が患者を人格ではなく身体機械として扱う] 構造は学校教育の現場でも原理的に同じだ。 子どもは教員によって操作される対象であって、荒れるとかイジメとか不登校とかは学校という機械の部品の故障に相当する。大急ぎでデータを集め、分析判断して対策を執行する。生きている子どもの、からだの異議申し立てだと感じる発想がない、のだ。(竹内 1999, 18)
操作される物体としてあつかわれてきたからだは、他人のからだを操作すべき物体としてしか見ないだろう。相互に働きかけるものとして自覚すること、自分を相手に手渡すこと、ここから出発することができるだろうか。(竹内 1999, 19)
こういった見解を受けて、MY君は、子どもに「自分たちは対象・客体化されている」と思わせてしまう授業観察者について書いてくれています。
MY君
よく、授業研究の際、授業を観察するときの立ち方について考えることがあります。授業を、教室のどこかに立って観察するということは、子どもは見られているという印象を受けるということです。しかも、授業の観察者は子どもとの人間的なかかわりを抑制し観察することしかできないので、子どもは事実上自分自身が観察の対象・客体となっているということに気付くでしょう。
私は無機質なまなざしを向けたいとは思っているわけではないですが、特に外部から学校に入るときには子どもは観察者のことを深くは知り得ない、怪しい存在のままです。ワークシートを見えないように隠す子の気持ちがよくわかります。それでも授業の観察者はワークシートをどうにか覗いて子どもがどんなことを考えているかを知ろうとします。子どもにとても申し訳ないという気持ちを持ちながらも、ビデオカメラを置き、またそこに立っています。
教室の環境ということで考えれば、教師と子どもの関係だけでなく、こうした他の人間の存在が子どもに影響を与えていることも考えていく必要がありそうです。今のところ、私はこの状況に対してやむをえないということしか言うことができないですが、常に考え続けていなくてはいけないと思っています。
こういった点にも気をつけて授業研究を進めなければと思います。MY君、よい気づきをありがとうございました。
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