以下は、学部三年生の授業「英語教育とコミュニケーション能力」で野口三千三氏と竹内敏晴氏の言語観について共に考えた際の学生さんの感想です。
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■ 言葉が選ばれる前の原初情報の段階を大切にしなければならない、言葉選びを大切にしなければならないというお話がありました。この時、予備校の先生に言われてハッとした言葉を思い出しました。「君たちは語るものがないのに、語る練習ばかりしてきたんだね」。英語の応答にて、1人の生徒がありきたりな回答をしたということで、先生はため息交じりにそうおっしゃいました。厳しいお言葉だと思いますが、僕を含め誰も何も言い返せませんでした。たどたどしくても良いから自分の言葉で自分だけの想いを語れるような生徒を育てなくてはいけない、そして、生徒が一人一人の想いを伝えるための言葉を身につけられるような授業づくりが必要だと思いました。
■ これまで自分が受けてきた教育を振り返ってみると、この言葉を話したい衝動が内面に生じるような授業や講義はそれほど多くなかったように思います。特に高校時代は、授業内において生徒が声に出すのは答えだけであるようなものも中にはあったと思います。その答えには自分の中身は関係しておらず、どうしても言葉にしたいと思うこともなかなかありませんでした。そういった言葉はどうしても無機質的なものであったと思います。
今回の講義を受けて、もっとそれぞれの想いがのった声を教室内に生み出すことが大事だと感じました。そのためには、教師が「教えるのだ」「学習者をコントロールするのだ」という姿勢で臨むのではなく、学習者と向き合い、時には一緒になって学びに向かうことが大切だと感じました。
■ 野口三千三の考えの中で、「すべての言葉は体の直接体験に結びつく。心・体・言葉・声のすべては、体の中身の変化である。」というものがあった。その点で見ると、英語の授業では自分の体・心の状態にぴったりと合った言葉を探す訓練が蔑ろにされているような気がする。
コミュニケーションが重要視されるようになり、昔の文法を中心とした授業よりも、生徒が話したり聞いたりなどコミュニケーション活動が授業に多く取り入れられている。具体的には、教科書の場面やシチュエーションを想定して、本文を使って練習し少し変えてやってみよう、というのが多い。しかしその活動は本当にコミュニケーション活動と言えるかどうか疑問に思う。
授業でのコミュニケーション活動は自分の体・心の状態にぴったりと合った言葉を探す訓練であるべきだと思う。現状でのコミュニケーション活動は、何も考えずとも与えられたセリフを発せば乗り越えられるようなものになっている。そのような活動では、英語を話す発音練習にはなるが、コミュニケーション能力は育成できないと思う。そのため授業でのコミュニケーション活動は、より自由度の高く、生徒が考えて生徒自身が表現したいことを表現するようなものにするべきだ。またそのような授業を通して、自分が表現したいことを自分の言葉で表現しようとする、言葉選びを大切にする生徒を育てることも目指されるべきだ。自分が教師として授業をする際も、そのような点を顧慮したコミュニケーション活動を導入したいと思う。
■ これは教育実習の初めての授業で盛大に失敗したことによる恐怖からであったのですが、実習中私の授業中の目標というものはなんとか授業を終わらせるということになってしまい、そんな考えを持っていれば当然なのですが授業中もとりあえず間違いのないように、当たり障りのないことを述べようとしてしまいました。当時は自分のことで精一杯だったため考えられませんでしたが今生徒たちの反応を振り返れば、自分は全く「声」というものを生徒たちに届けるということができていなかったと思います。それどころかユマニチュードの考えで言うところの人間らしく扱う、目を合わせるといった行為すら自分は生徒そのものに恐怖を感じてしまい、出来ていなかったように思います。
■ また、これは別のことだが、アルバイトをしている塾で中学生に英検対策をしていた際に生徒に「英検のライティングでテーマが与えられていても特に書きたいことがない」と言われ、英検では個人のライティングの内容が評価される訳ではないから自分が自信をもって使える英語で文法ミスをしないように書けばいいという広義の言語の本質からそれた客観的評価のみに焦点を当てた思考に侵されていたことに気が付くとともに、そのような問題ばかりでは生徒の英語学習のモチベーションが下がることを危惧した。
■ ことばの運用については言うまでもなく日常会話はいつも口をついて出てくるし、毎度どの言葉を選択しようと考えることはない。しかし野口は選択されなかった言葉(原初情報の段階のもの)こそ大切にしなければならないという。それが本当の意味でことばを大切にするということであるらしいのだが、それはとても難しいことではないだろうか。すでに言ったように日常で用いられることばは吟味されるものではないし(相手との関係性にもよるが)、そうしていてはむしろその場の会話に不自然な時間を生じさせてしまう。
ただこの年頃になって私は、自分の言葉選びに変化が生じてきているのを感じることがある。相手に伝えたい本心をなるべくそのまま伝えることができるようなことばを発してきていると思う。では一方でこれまで使ってきてそして選ばないようになったことばは何であるのかを考える機会を持つことしてみようと、野口の考えに触れて思った。
■ また、竹内氏の教師と生徒の関係は「主体⇔主体」という言葉にハッとしました。私が生徒や教える人の前に立つとき、変に意識して上から言葉を投げかけたり教師だから全てわかっているつもりで話したりすることがあったことを思い出しました。そうして肩に力が入り、きつく言ってしまったりしたときはほとんど私の声・ことばは届いていませんでした。教師も生徒も「主体⇔主体」であると考え、一緒に学び教えあう存在だと理解し、一方的な需要と供給の関係ではないことを分かっていれば生徒との関係性やじぶんのことば、そして相手のことばをよく考えるようになると思います。教師として、機械に教えているのでなく、生徒という人間と共に学んでいるということを忘れるべきではないと思います。
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