以下も学部3年生用の「英語教育とコミュニケーション」の授業の感想です。この回では、アレントの「複数性」の概念を取り上げました。
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■ 私は今回話題にあがっていた「政治」を教師の「授業」に置き換えて考えてみました。そう考えると、「制作」とは、教師が学習者を操作の対象に据えて、教師がしたいこともしくは価値観を教師主体で学習者に押し付けることではないかと考えました。そしてその前提として、学習者を操作できるものとして捉えることで、その行為までも完全に予測できるものだという考えがあるのだろうと思いました。
しかし、人間は全くとして同じ人はいないため、複数性において人間を捉えるべきだと考えると、その人間がかかわりあう行為はどう発展していくかどう帰結するかは予測不可能であり、学習者の行為を完全に予測するのは無理だと考えられます。つまり、必ず教師の思い通り・予測通りになるとは限らず、というよりもむしろ予測不能な事態はしばしば起こるものなのだと思います。そういった予測不能な事態が起こった時に、どう教師が関わっていくかが大切なのだろうと思いました。
予測していなかった事態に対して自分の考え方において〇か×かを決めそれで終わりとするのではなく、それがもつ価値について考え、他の子たちの学習の契機にならないかを考えるステップが必要だと思いました。学習活動においても教師の一方的な教えこみや一人で完結する「制作」ではなく、それぞれの学習者が様々な視点・観点から物事を捉え、語り合って全員で作り上げていくという形が大切なのではないかと思いました。
■ 後半部分のアレントの意味理論のうち、人間の複数性について考えたことをまとめようと思う。私たち人間は一人では決して生きておらず、互いに異なり矛盾することもあるかもしれない複数の人間の中に生きていることが、私たちが人間であるための重要な条件の一つである。また、人間が複数で存在するということは、人間が集い語り合う公共的空間があることを必要とする。そのような公共的空間では、基準や共通分母が共有されているわけではない。一つの物事が多くの観点と視点から観察され、なおかつその観点に基づき人々が語り合うことができる。
これらのことを理解しようとした時に、今まで受けてきた授業を思い返してみると、授業の中で教室という空間は人間の複数性を担保したものだったのか、公共的共存は達成されていたのか、とても疑問に思ってしまった。生徒は先生が求めているであろう答えや反応を示し、ただ先生が先導する流れに乗っていただけだったのではないだろうか。少なくとも教室は、一つの物事が多くの観点や視点から考えられ語り合われるような空間ではなかったように思った。
私が小学生の頃に“KY”という言葉が流行ったが、この言葉が表すように、日本人はその場の空気をとても大切にする、大切にしすぎているのではないだろうか。波風を立てないようにその場の雰囲気や流れに乗って行動する。そのような心持ちでは、独自の個性を持った人たちが語り合いなどできるはずもない。英語の授業においてコミュニケーションが重要視される中で、授業においてはそのような日本人の特性を取り払い、公共的共存が達成された上でコミュニケーション活動が行われるべきであると思う。どうやったら教室において公共的共存を達成を達成できるのか、人間の複数性を担保できるのかはわからないけど。
■ 人は皆、独自性を持っている(内面の性格や特性のことだと理解しました)が、違いを持ちながらも平等に生きている。皆が均質であれば、人びとの間で差異は生まれないが、コミュニケーションも生まれなくなる。違いがあるからこそ、相互理解のために、なにか行動を起こしてお互いに理解しようとしている。
アレントの複数性という考え方を通して、英語や日本語といった緩い同質性があるからこそ、私たちはコミュニケーションをし、そのやりとりを楽しむことができると思う。他人の話に共感したり、笑ったりできるのは自分ではしないようなことを他人がしていたり、自身の周りでは起こらなかったことを聞いたりできるからだ。それも差異性だと思う。だからこそ、英語教育の中で、コミュニケーションの楽しさや同一・同質ではない他者との相互理解について教えることができると思う。
■ 感想:教員養成コースにも哲学の授業(または哲学的に考える機会)があるべきだと思う。教員を志す学生も(理想的には全ての人が)哲学というものを専門外、不必要に思わないような環境、認識づくりをすべき(大学、またそれ以前の学校教育の責任?)。哲学なんて、と思っている人も自覚していないだけで、どんな人も問いただせば奥底に哲学があり、誰も無関係ではいられないはず。