第四タームの新しい授業(学部3年生向けの「コミュニケーション能力と英語授業)の冒頭で、導入として人工知能 (AI) の進展や衆愚政治とSNSなどの話をして、考えることの大切さを訴えようとしました。
そういった話の一つに「二重ループ学習」 (double-loop learning) を入れましたが、結構この話が心に残ったようで、授業の振り返りではこの話題が多かったです。
以下にその一部を掲載します。
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■ 今日の授業で最も印象深かったのは3つの学習方法に関する内容です。①与えられた前提をもとに行動計画を立てそれを実行したのちに結果を知るが、その過程からは何も学習することのない「ゼロ学習」、②すでに備えている考え方や行動の枠組みに従って問題解決を図っていく「単一ループ学習」、③既存の枠組みを捨てて新しい考え方や行動の枠組みを取り込む「二重ループ学習」です。
広島大学に入学し、これまでに約50種類の授業を履修してきました。振り返ってみると、残念ながら多くの授業で「ゼロ学習」をしていたように感じます。単位習得のために一時的に勉強し、テストが終わるとすぐに忘れてしまう…。このような学習は無駄であると分かっていながらもズルズルと授業を受け、単位を取得し、今に至ります。しかし自分の好きな分野においては単一ループ学習あるいは二重ループ学習が自然に出来ているように感じます。
例えば、私が5歳の頃から今も続けているフィギュアスケートです。フィギュアスケートは頭の先から指先、足先まで、全ての部分をフル活用しながら4分間を滑りきる、肉体的にとてもハードなスポーツの1つです。持久力、筋力、体幹トレーニングは必須、その上少しの体重増加によりパフォーマンスに大きな影響が出ます。エディンバラに4ヶ月間留学していた時、氷上トレーニングが出来ない分、食事制限と過度な持久力トレーニング(1日16kmのランニング)により体重を減らすことがパフォーマンス維持に最適であると当時は考えていました。
帰国後ワクワクしながら4か月ぶりに氷上に立つと、あれだけ努力をしていたにも関わらず思うように体が動きませんでした。自分の体を車に例えると、ガソリン(体力)はあるけど車のボディー(筋力)が貧弱すぎて走れない(着地時に踏ん張れない)状況でした。私がパフォーマンス維持に最良の方法であると思っていたことが実は間違っていて、それプラス筋力トレーニングを行い、無理な食事制限をしなければよかったと大いに反省しました。その後私はそこで経験したことを活かしベストコンディションで試合に臨むことが出来ました。しかしさらにその後、ここまでストイックに考える必要はなかったのだと痛感しました。過度なトレーニングを行うことよりも、もっと楽しみ、リラックスして行うことが最も大切なことであると気が付きました。
このように自分の好きな分野に関しては単一ループ学習や二重ループ学習を気付かないうちに行っています。大学の授業は生きていく上で無駄なものは1つもありません。今後はポジティブに考え、より積極的に授業に取り組んでいこうと、今日の授業で考え直すことが出来ました。
■ 二重ループ学習についてですが,この学習法を授業中に知った時に,私は「ああ,もっと早く知っておければなぁ」と少し後悔することがありました。SSH (Super Science High school) だった私の高校ではグループで何かしらの研究をしなければなりませんでした。私のグループではより効率の良い水車作りに関する研究をしていましたが,どうしてもうまく計測が出来ない問題にぶつかりました。何度も水量を調節したり,水路の見直しを行って調整したりしても水車の動きが不安定すぎて思ったように発電量が計測できません。
結局その時は先生のアドバイスで水車自体の設計を一から見直し,ボールベアリングの導入や水車から発電装置(と言ってもただの小型モーターでしたが)の繋ぎ方を根本的に変えたりしてうまくいきました。この時は先生のアドバイスによって水車の設計を根本的に変えることによって研究がうまく進みました。水車の設計という前提を見直す発想が私にあったのならば,先生のアドバイスなしで研究を進めることができたはずでした。
今回の授業を通して再確認したことは,学校で教えたい本当のことは教科内容というよりも「社会でよりよく生きる術」を生徒に身につけてもらうことだということです。前述の水車に関する研究においても,先生が私たちに学んで欲しかったことは決してボールベアリングの摩擦係数でもグルーガンを用いた水路の補修でもなく,どうやって研究を進めていくか,もっと究極的にはどのようにして学んでいけばいいのかということであったように思います。
特に高等学校の先生になると教科に関する高度な知識を有していて,それを生徒に教えることが主となってしまいそうですが,最も大事な目標はその教科を通じて生徒に生きる力を身につけてもらうことです。今回の授業で先生がおっしゃっていた学習方法に関することはそういう力に結びつくことであったと感じます。卒業までまだ時間はありますので,まずは自分の学習形態を見直していかなければいけないと痛感しました。
■ 電車の運転手・車掌、レジ係、新聞配達、ガソリンスタンド、参議院議員、専業主婦、交番の警察官、教員。さて、今私が列挙した職業は一体何でしょうか?これらは、オックスフォード大学の論文で「10~20年以内になくなる職業」として記載されていたものの一部です。私達が注目すべきは最後に挙げた教員でしょうか。
私的な意見ですが、人工知能が人間の役割の代わりを果たすようになればなるほど、人と人との直接的なコミュニケーションの価値は上がっていくのではないかと思います。ですからここで言う、「人工知能に取って代わられるであろう教員」とは「単に知識の伝達しかできない教員」を指しているのではないかと思います。教員以外の仕事に関しても、私達の生活に極めて身近なものが無くなる可能性があるとされています。仕事のあり方が大きく変わりつつあるこの世の中で、その変化についていけず(あるいはその変化にすら気づかず)一方的に知識を与えることしかできない教員が生き残れないのは至極当然なのかもしれません。
ただ、忘れてはいけないことは、現時点では人工知能は1を100にすることはできても0から1を作り出すことはできないということです。Amazonの倉庫で大活躍している機械も現時点では人間がいくつかのパターンやルートといったサンプルを与えない限り動きはしないのです。社会性・創造性・身体性がない職業は近い将来機械に取って代わられる、ということは裏を返せばそれらを必要とする仕事はまだ人間に任されているのです。
教員になって社会性・創造性・身体性のある子どもを育てていきたいのなら、自分自身がそれらを有していなければ話になりません。人間の生活を豊かにするはずの人工知能が人間の職を奪い、人々の豊かな生活を蝕んでいる、と現代の科学の進歩を皮肉るのではなく自らがそういった社会でも生き抜けるほどにタフでありたいものです。
今回の授業で最初に触れたのはDouble-loop learning(二重ループ学習)でした。予習の段階では正直、「へー、そんな考え方もあるんだなぁ」としか思っていませんでしたが、授業で実際に「今までどのような二重ループ学習をしてきたか」を思い返してみて驚きました。私が「これは二重ループ学習だ!」と自信を持って言える経験は一つしかなかったからです。22年間生きてきてたった一回しか前提から何かを見直した経験がなかったのです。
今回の授業の後半でも触れられたカントも「コペルニクス的転回」という言葉を口にしました。「天体が観察者の周囲を運行するのではなく、天体は静止し、その周りを観察者が運行する。」と主張したコペルニクスも、「そもそも」という点に着目し180°違った観点で物事を見たのだなと思います。そして、その考え方は確かに必要なものだったのだなと思います。ある意味では「前提を見直す」という行為は大変挑戦的なものであるように感じます。私は年を重ねるにつれて私自身がどんどん保守的になっているように感じています。まだ若いうちに行き詰まったら前提から見直してみる、という習慣を身に着けたいです。
■ 根本的な考え方を再検討し,再入力するという前提変更を取り入れた二重ループ学習は,自分のこれまでを振り返ってみても,「あ,あの時のあれは二重ループ学習だったんだ」とすぐに思い付きませんでした。なかなか思い当たる節がないということは,私が自分の思考や学習順序を構造的に紐解いた経験がないのか,そもそも二重ループ学習をしたことがないのか,もしかすると両方なのかもしれないと感じました。
私たちは,前提を変更するときに,恐怖や不安を覚えます。特に,その新前提が,自分の知識にある,「前提と成り得るもの」の中にないとき(つまりは,新前提と成り得るものを,誰かがしていたと聞いたこともないし,もちろん自分でもしたことがないとき),その恐怖や不安は膨らみ,やっぱりやめておこう,となってしまうように思えます。「誰かがしていたと聞いたこともない」と前述しましたが,私たちは成功例を探し,それに安堵します。新前提を,有名なあの先生も授業に取り入れて成功していた,あの本に書いてあった,など保障を探してからでないとなかなか取り入れようという気になれません。教育実習で,教科書に取り入れられている活動がつまらないと感じた人が,自分なりにオリジナルの活動を考えに考えましたが,指導教官の先生に採用されることはなく,結局教科書の活動をそのまま取り入れると,なにもダメだしされることなく案が通った,という話を聞きました。教科書という教育現場では覆されないであろう前提に頼って,楽をしてしまう,考えることをやめてしまうこともあるようです。
また,自戒を込めて言うと,前提が悪いのはわかっていても,そもそものアイデアがなく,どう変更したらよいかわからないこともしばしばあります。そのアイデアというものは,学校で教わったり,読書経験であったり,その他メディアなどから影響を受けて生み出されるもののように思えます。「考える」とはその様々なアイデアを統合したり,捨象したりなど試行錯誤が伴う行為のように思えますが,私たちほとんどが,「1600年には何が起こったでしょう」という質問に,「関ヶ原の戦い」と暗記したことを答えるというような方法でしか自分の知識や考えを試されてこなかったのではないでしょうか。授業でしたこと,先生が教えてくれたこと,テストで求められたことしかできないのです。そう考えると,教育の責任の大きさを改めて痛感し,今後生徒に教える立場に就こうとしている私たちは非常に重要な役割を担うことになる,と少々怖気づいてしまいました。
■ ダブルループラーニングという単語は初めて知りましたが、何か結果が出た際に自らの行動計画の前提に立ち返るという考え方は、自分としてはストンと落ちた気がします。自分は今までダブルループラーニングをしてきただろうか?と振り返ってみましたが、前提を変える、という大胆なアクションを自分が取っているはずもありませんでした。なるべくリスクの高いことはしないように、という意識が根付いているので今までの自分は単一ループ学習の繰り返しだったのかもしれません。何かに行き詰ったときに根本的なところを変えていこうとするのはとても勇気のいる行為ですが、失敗しないようなビジョンを見据えた上での前提変更、という賢い立ち回りができるように、「先を見据える力」は育てていきたいなと思いました。
■ 本講義ではいくつかの意見交換を行いましたが、その中で印象的だったのは「二重ループ学習」についての議論でした。自身が行ってきた二重ループ学習について考えるとき、先生に紹介されたとおり、私たちのグループでは「これまで私たちが変えることができた前提などあったのだろうか」「そもそも私たちが変えられる前提とはなんなのか」という考えに至りました。
なぜそういう考えにまとまったかというのを改めて考えてみると、自分は基本的に与えられた環境(前提)を享受し、そこで自分が生きやすいように行動計画をして実行していくことはあっても、その環境に疑問を感じることがなかったからなのだと思います。また、自分がその環境を変えたつもりになっていても実際はだれかの影響、助言などがあるなど自分一人でそこまで至ったかと思うと正直怪しいものがたくさんあることも挙げられます。しかし、これから教師になるものとしてはそこにある環境をそのまま受け入れて収まるだけでは務まりません。何かの改善を図るためには前提を変える決心がとても重要になるというお話もあり、自分の受動的な姿勢を見直していきたいと思いました。
■ ゼロ学習と単一ループ学習とは異なり、二重ループ学習では、「前提」を変更することが加わる。前提はしばしば頭にこびり付いて離れない。自分で決定した前提というのは自分自身の経験や信念と深く繋がり合っているため、自分の思考や行動そのものをメタ認知できなければ、自らの経験から気付くということは容易にできるものではないと思う。前提から間違っていることを他人に指摘されることはあっても、自分ではなかなか気づけないのはそのためだ。
■ 今回の授業で印象的だったのはゼロ学習・ループ学習に関する話です。ゼロ学習・単一ループ学習からなかなか抜け出せず、進歩が無いまま伸び悩んでしまうという現象は教育現場に限らず様々な場面で見受けられると思います。とりわけ一定の成果をあげることができた場合には、その成果に満足してしまい、さらなる成果を得るために、ループの中に大きな変化を起こすことをためらってしまうことがあると思います。特にループの前提を変えることは単一ループの状態では安定していたものまで失う可能性が生じるため、勇気をもった決断が必要になります。私は、前提を変えることはある意味恐いことで、その発想を持つ段階にまで至らない人が少なくないという話を聞いて、確かにそうだと思いましたし、また前提を変える以前に、前提を疑うこと自体が大抵の人にとって難しいのではないかなと思いました。
■ 教師という立場から、文科省から出された指針や過去の研究に沿って、教授、評価をしていくのは仕方がないことだとは思います。しかし、そこですぐに正解に飛びついて思考をとめてしまってはAIと同じです。人としてできる「思考する、他人とそれをすり合わせる」ことをやめてしまってはいけません。常に問い続け、考えることが教師にも重要なことだと考えました。
■ 今、リッカ・パッカラ著の『フィンランドの教育力—なぜ、PISAで学力世界一になったのか―』という本を読んでいるのですが、フィンランドはPISAにおいて優秀な成績を残しているにも関わらず、国内ではそのことが話題にあがることはほとんどなかったと言います。文章を読む限り、フィンランドの教師は、PISAの結果を上げるためではなく、ただ一生懸命、出来るだけ多くのものを子どもたちに与えたいという思いで教師という仕事に喜びと誇りを持ちながら取り組んでいることがよく分かりました。
その背景には、国民が皆厚い信頼を置く教師のレベルの高さというのもあると思います。フィンランドでは修士号を取得しなければ教師にはなれず、そのカリキュラムも非常に良く出来ていて、一年生の時から毎年教育実習があるそうです。さぞかしハードな学生生活なのだろう…と思いましたが、著者のリッカ・パッカラさんは、大学五年間の授業はとても楽しかった、と書かれています。その大変さよりも、学ぶことの楽しさ、教えることの喜びが勝る。教師としてあるべき姿勢を、大学生活の中でじっくりと養ってこられたことがとてもよく伝わってきます。
また、教師の先生方は日頃から「子どもに何かを与えるには、まず自分が豊かになる必要がある」と考えており、何らかのトレーニングを年に一度受けているそうです。例えば、コンピューターが各学校に導入された際には、授業を他の人に変わってもらいながら先生方はトレーニングを受けたそうです。これは、先生がおっしゃっていた、「教採に受かって教師になれるかどうかではなく、どんな教師になるかが大切だ」ということをフィンランドの教師のみなさんは常に考え、行動していることを物語っています。
誰もが教育は重要だと考え、教師のレベルの水準を上げ、誰でも無償で教育を受けることのできる環境を整えた結果、気づいたらPISAで一位をとっていた、という国と、PISAでの順位をあげるために小手先だけ教育内容を変えてきた、という国のどちらの未来が輝いているかは、一目瞭然だと思いました。
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先日は、学部一年生の感想を掲載しましたが、その感想と上の感想には違いがあるでしょうか?もし違いがあまりないとしたら、思考力や表現力などにおいて広島大学の教育が功を奏していないことになります。私としても、読み返してみたりして考えたいと思います。
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二重ループ学習についての学部一年生の感想
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ダブルループラーニング (double-loop learning 二重ループ学習)についての私的まとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/11/double-loop-learning.html
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