2018/05/28

英語教育小論文コンテスト(締切6/30)は、国外在住者の方からの応募も可能ではあります(ただし最優秀賞受賞の場合の招待旅費・宿泊費は支出できません)

英語教育小論文コンテスト(10代・20代が考える英語テストのあり方)の応募資格(日本国在住)についてお問い合わせをいただきました。

他にも同じような疑問をおもちの方もいらっしゃるかもしれませんので、ここにその問い合わせへの回答の一部を転載します。結論から申しますと、国外在住者の方々も応募は可能です。


「国内在住の者」という応募資格は、最優秀論文賞を獲得した場合に広島大学英語教育学会シンポジウム(2018/7/22)にご招待する旅費・宿泊費を海外在住の方には予算的に保証できないので設定したものです。

日本国内にお住まいの方でしたら、どこにお住まいの方でもなんとか予算を出して広島大学にご招待しますが、国外となりますと居住地もさまざまですので、そのお約束ができず、応募資格に「日本国在住」を加えている次第です。

ですから、もし、最優秀論文賞を獲得された場合に学会シンポジウム参加のための旅費・宿泊費の支給の権利を放棄されてもよいとのことでしたら、ぜひご応募ください。(実際に広島大学に来ることができなくても、設備的に可能でしたらスカイプ等での対話も考えられます)。

ご承知のように、昨今、大学入試英語テスト改革の行方が各方面で議論されております。全国各地の多くの学習者に多大な影響を及ぼす改革ですから、当然のことかと思います。

こういった背景を踏まえ、私たちとしては、大学入試英語テスト、およびその他の各種英語テストに関する若い世代の声をお待ちしております。応募資格(日本国在住)については以上説明しましたとおりですので、もしよければぜひご応募ください。

締切は6/30です。皆様のご応募を心よりお待ちしております。





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【お知らせ】


第2回英語教育小論文コンテスト
10代・20代が考える英語テストのあり方


最優秀者には図書券一万円を贈呈の上、
広大教英学会シンポジウムにご招待!

締切:2018年6月30日(土)





チラシ画像をクリックすると拡大します。
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2018/05/17

教英ホームページが新たに始まりました!


広大教英の新たなホームページが新しいURLで始まりました。




広島大学教育学部英語教育学講座ホームページ



これに伴い、これまでのホームページおよびそのURLは使用を停止しました。

もし皆さまの中で、これまでのホームページをリンクやブックマークなどでご登録なさっていらっしゃいましたら、ご面倒でも上の新URLでご登録しなおしてくださいますようお願いします。

しかし、看板を換えても中身が同じままではどうしようもありません。

これを機会に、教育・研究活動をさらに推進しようと思っています。
これからも広大教英をどうぞよろしくお願いします。




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【お知らせ】


第2回英語教育小論文コンテスト
10代・20代が考える英語テストのあり方


最優秀者には図書券一万円を贈呈の上、
広大教英学会シンポジウムにご招待!

締切:2018年6月30日(土)





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2018/04/26

第2回英語教育小論文コンテスト -- 10代・20代の皆さん、英語テストのあり方についてご意見をください!

 
広島大学教育学部英語教育学講座では、昨年度に引き続き、英語教育小論文コンテストを開催します。第2回目となる今年度のテーマは、「10代・20代が考える英語テストのあり方」です。

英語教育に興味を抱く10代・20代の皆さん、ぜひ以下の要領であなたの声を聞かせてください。




チラシ画像をクリックすると拡大します。
チラシ画像のPDF版ダウンロードはここをクリックしてください。





第2回
英語教育小論文コンテスト

10代・20代が考える
英語テストのあり方


■ 趣旨

 大学入試・高校入試から、学校内での定期テスト・実力テスト・小テスト、さらに学校外での模試・資格検定試験・・・英語教育は他の教科以上にテスト漬けであるように思えます。

 そんなさまざまな英語のテストは、皆さんの学びを豊かにしていますか?テストで皆さんの学びは広がり深まっていますか?テストは皆さんの学習意欲を高めていますか?皆さんは英語テストのあり方に満足していますか?改善したいテストはありませんか?廃止すべきテストはありませんか? 新設したいテストはありませんか?

 このコンテストは、英語教育の第一の当事者としての10代20代の皆さんから英語テストのあり方についての率直な声を求めるものです。傾聴すべき意見をあげてくださった人を表彰するだけでなく、その意見を広く世間に伝えます。最優秀賞受賞者は、7月22日(日)に広島大学で開催される広島大学英語教育学会にご招待します(旅費支給)。学会ではシンポジウムを開催し、その意見がもつ可能性について検討します。

 英語教育に対して発言したい10代20代の皆さん、ぜひ英語教育小論文コンテストにご参加ください。共に日本の英語教育を変えましょう!


■ 対象者(小論文コンテストに応募することができる人)

U-19の部
:日本国在住の10代(未成年)の人
U-29の部:日本国在住20代(20-29歳)の人
※年齢は、表彰式・シンポジウムが開催される2018年7月22日時点の年齢とします。


■ テーマ

日本の英語テストを改善・改革するための提案、考察、批判など


■ タイトル

応募者が自己決定


■ 執筆言語

日本語


■ 分量

1000-2000字程度(U-19部門)
2000-4000字程度(U-29部門)


■ 締切

2018年6月24日(日)6月30日(土)深夜(郵送の場合は当日消印有効)
※ 締切日を変更しました(2018/04/30)


■ 提出形式

ワープロ原稿を電子ファイル送付。それが不可能なら手書き原稿を郵送。


■ 記入必須情報

氏名(匿名可)、年齢、メールアドレス
※ 所属学校・機関名や住所などの記入は不要です。

■ 賞

最優秀賞
:1名に賞状と図書カード(10,000円)と受賞式出席のための旅費(注)

優秀賞:U-19の部とU-29の部のそれぞれ1名に賞状と図書カード(5,000円分)

奨励賞:若干名に賞状

(注)旅費は、広島大学内規に準じて定めるもので、バスや鉄道(新幹線・特急も含む)、もしくは遠距離の場合は飛行機の普通席往復旅費です。日帰りが不可能な場合は宿泊費も支給します。ただし、タクシーや自家用車を利用した場合はその旅費を支給できませんので、ご注意ください。



■ 授賞式

2017年7月22日(日)午後 広島大学教育学部K102教室
https://www.hiroshima-u.ac.jp/access/higashihiroshima
※ 広島大学のキャンパスは広いキャンパスなので下の地図もご覧ください。
バスをご利用の場合は「広大北口」で降りると一番わかりやすいかと思います。
https://www.hiroshima-u.ac.jp/access/higashihiroshima/busstop_higashihiroshima/aca_3

 授賞式は広島大学英語教育学会の公開イベントの一環として開催し、英語教育学講座代表による講評、最優秀論文の代読、賞状と賞品の授与、受賞者のスピーチを行います。また、授賞式の後に、最優秀受賞者も含めてのシンポジウムを行います。詳細は後日「広大教英ブログ」でお知らせします。

広大教英ブログ


■ 連絡・送付先

広島大学教育学部英語教育学講座事務室
739-8524 
東広島市鏡山1-1-1広島大学教育学部
「英語教育小論文コンテスト」受付・大石
y-oishi1107@hiroshima-u.ac.jp




関連記事(昨年度(第1回)の様子)

小論文コンテストの記事が英字新聞The Japan Newsに掲載されました
http://hirodaikyoei.blogspot.jp/2017/07/the-japan-news.html

英語教育小論文コンテスト「10代・20代が創る未来の英語教育」の最優秀賞は、大阪府の岸本陵汰さんに決定しました
http://hirodaikyoei.blogspot.jp/2017/07/1020.html

U-19賞・U-29賞・審査員特別賞の受賞者発表です
http://hirodaikyoei.blogspot.jp/2017/07/u-19u-29.html

広大教英の学部生・大学院生9名が、小論文最優秀賞受賞者をシンポジウムで迎えます
http://hirodaikyoei.blogspot.jp/2017/07/9.html

英語教育小論文コンテストの佳作受賞者を発表いたします
http://hirodaikyoei.blogspot.jp/2017/07/blog-post_19.html

2018/04/24

「まずは学校がテストのあり方、子供たちへの評価のあり方をもっと柔軟に広げ、多様性や個性、創造性を伸ばす環境でなければ、子供も教師もクリエイティブにはなり得ないだろうと考える」


学部4年生向けのある授業で、下の動画資料を使って学校教育と創造性について討議しました。

敎育に関するKen Robinsonの動画


たまたま私が今朝読んだThe Guardian / The Observerの記事も、権力化したテストの弊害について報告しています。


Must do better? Why parents plan boycott of school Sats tests


この記事でも紹介されているMore Than A Scoreのホームページは下です。


More Than A Score


テストに振り回される学校教育が子どもの創造性を潰しているかもしれないという可能性について学校教育関係者はもっと真剣に考え、行動するべきかと思います。

下の文章は受講したある学生さんの感想です。





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 前回の授業でKen Robinsonの動画を見て、教育について根本的に考えさせられる動画であったため、家で動画をもう一度見返し、更に彼のもう一つのビデオ“How to escape education’s death valley”を視聴した。

 Ken Robinsonが話す一言一言や例が自分が受けてきた一部の教育が公に暴かれているような気がして、時に心が痛かったが、本当に核心をついていると感じた。“How to escape education’s death valley”の中の言葉を借りて言うとしたら、”education is based on not diversity but conformity.”という状況はまさに今の学校教育で起こってしまっていることなのではないか。あくまで個人の到達点や何ができないかを確かめるものであるはずのテストが、いまやある人の能力を狭い基準で評価することに必死になりすぎて子供たちの創造性や個性の多様性を奪うことさえある。

 私自身も、ある時期、画一化された狭い評価基準・テストによって価値観を洗脳されかけた一人なような気がする。実は、小学校5年生頃から学校の中にある“評価”や“通知表”という存在の大きさに気づき始め、恥ずかしい話だが、通知表に書かれている評価基準を熟読し、その項目に合わせて教科の勉強をするようになってしまった。狭い評価基準に合わせて勉強するから成績は効率よく上がるし、通知表の数値にこだわる父がそれを見て喜んでくれるのが嬉しかった。

 成績評価という存在に過敏に反応し始めたきっかけが完全に父にあるとは言えないが、私の父は彼自身が受けて来た(昭和の受験戦争真っ只中の)学校教育、人生経験の影響を強く受けてきたせいか、私の学校の成績、とりわけ受験科目のテストの点数やクラス順位、通知表で一喜一憂する人であった。もちろん父にも色々な側面があり、私が興味を示したことは何でもやらせてきてくれた人なので感謝もしている。

 しかし、よくよく考えると、父も学校の狭い評価教育によって創造性と個性の大切さを忘れてしまった一人なのではないか。当時は私の成績表を見て喜ぶ父の顔を見てほんの一瞬だけ安心と喜びを感じていた。しかし、私はそれ以外ではテストや通知表の数字に支配されているがあまりに、本来の学ぶことの面白さや自分自身の興味や好奇心が奪われているような気がしてならなかった。本当は成績表には載らないあの側面が気になるのに、別の特技があるのに、学校からのテスト評価と親からの評価を気にしてばかりで好奇心が充分に発揮できないこともあった。いつも完璧でなければならないことの圧力に負けて、失敗から学ぶということも忘れていた。

 しかし、幸い私は生来退屈だと感じることは長く続かない気性で、通知表の評価基準を見てそれに合わせて勉強するといった全く楽しいと感じられなかった勉強方法はいつの日か止めていた。ただ、今このように親子代々学校教育のテストと評価に影響された身として振り返ると、テスト・評価というのは使い道を間違えると本当に恐ろしいものに変わりうると感じている。

上記のような経験があったからか、Ken Robinsonの言葉は本当に説得力がある。


And part of the problem is, I think, that the dominant culture of education has come to focus on not teaching and learning, but testing. Now, testing is important. Standardized tests have a place. But they should not be the dominant culture of education. They should be diagnostic. They should help.


もし私が小学校時代に戻れるのならば、テストや評価は彼が言うようなものであってほしいと思う。

 Ken Robinsonのスピーチの中には他にもたくさん共感するところや学ぶところがあったが、現実的に考えると、まずは学校がテストのあり方、子供たちへの評価のあり方をもっと柔軟に広げ、多様性や個性、創造性を伸ばす環境でなければ、子供も教師もクリエイティブにはなり得ないだろうと考える。

次回の授業では、クラスのメンバーは現在の学校のテストや評価のあり方に関してどのようなことを考えているのか耳を傾けてみたい。

2018/04/23

論文におけるストーリーラインの重要性:院生によるまとめ



以下は「学術文章の書き方とその指導法」(広島大学のすべての研究科の大学院生に開かれた授業)を聴講したある教英院生による文章です。「赤ずきん」の例が面白く、皆さんにも(小)論文執筆の際の情報選択の重要性が直観的にわかっていただけるかと思い、ここに掲載します。




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  今回の講義では、読み手を想定した文章を書く際に、物語として自分の主張(主題)を読み手にわかりやすく伝える手順について学んだ。読み手が「分かりやすい」文章とは、ストーリーラインが一本につながるよう、情報が過不足なく選択、配列された文章である。本稿では、そのストーリーラインの重要性について、記述する。
 
 極端な例かもしれないが、「赤ずきん」の物語の途中に、狼の生態についての記述が突然出てきたとしよう。その狼の情報は、事実かもしれないし、ひょっとしたら生物学的に価値がある情報かもしれない。しかし、物語全体を通して読むと、狼の生態の話は必要のない情報である。それどころか、その話があることによって、物語全体のストーリーラインがぼけてしまい、読み手は困惑してしまうだろう。

 私自身、文章を書く際に同じようなことをしてしまっていると反省した。私は今まで文章を書く際には、調べたことや思いついた考え、使いたい表現を全て書き出し、それらをできるだけ多く文章の中に盛り込むことができるようなテーマを設定し、ストーリーラインを立てていた。書いているうちについつい文章に愛着が湧いてしまい、情報を削るという行為を怠ってきたように思う。

  しかし、そのように建てられたストーリーは首尾一貫しているとは言えない。文章において一番重要なのは、テーマ(主張)であり、書き手はそれが十分に伝わるよう情報を取捨選択、配列する必要がある。書き手はどの文章項目がどのような役割をしているか、明確に説明できなければならない。
 
 では、一貫したストーリーラインを作るために、どのような手順を踏む必要があるだろうか。自分なりにまとめたものを以下記述する。
(1) テーマを設定する
 まずは何よりも大事なことだが、自分が文章を通して伝えたい、ストーリーラインの核になるようなテーマを、一文または一語で設定する。
(2) 書き出す
 設定したテーマに関連する情報を、できるだけ多くブレインストーミングし、書き出す。(この段階では情報選択はしなくても良い。)
(3) カテゴライズ
 書き出した情報にキーワードをつけ、関連性がある情報同士を、視覚的にカテゴリー分けする。
(4) カテゴリー内の情報を整理する
 それぞれのカテゴリー内の構造が明確になるよう、情報を整理する。その際に、必要が無い情報は勇気を持って捨てる。
(5) アウトラインの作成
 カテゴリー間の構造を明確にし、テーマに沿う形で配列する。
(6) 文章化
 アウトラインを作成したら、それに従い、一度物語全体を声に出して語ってみる。問題なければ、文章化する。
 
私の場合特に、情報の取捨選択を怠っているように感じる。脈絡の無い情報に溢れた文章は、「お勉強ノート」と化してしまう。以上の手順を踏むことによって、「お勉強ノート」は「物語」へと姿を変えることができるのでは無いだろうか。



2018/04/17

異なる10の教科を教える専修の大学院生が自分の専門の枠組を超えた対話を行う授業


先日は、「異教科間で対話し共同できる教員の育成に関する研究」のホームページについてお知らせをしましたが、その研究に直結している授業の一つである「教科教育学研究方法論」の第一回目の授業が先日行われました。異なる10の教科を教える専修(講座)の大学院生 (M1) が一同に集まり、自分の専門の枠組みを超えた対話を行う授業です。

以下は、教英の院生による授業の感想の一部(抜粋)です。現代社会に対応できる力を育てるための敎育を志向する院生の気持ちが少しでも伝わればと思い、ここに転載します。






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■ 私は今年の三月まで現職の教諭として働いていたが、講義を聴きながら、教科の枠を超えて、組織として働くことの重要性を再認識した。教育は人間教育であって、特定の教科の成績を伸ばすというのは、ほんの一面に過ぎない。また複雑化、複合化する社会において、教師一人一人が複合的な見方をし、生徒を育てるためには、教科内の人間関係はもちろんのこと、それ以外の同僚ともしっかり対話をして関係を築き、みんなで取り組んでいくことが不可欠だと思う。


■ はじめに「他教科の教育について考える意義」であるが、本講義が例えば英語科教育学、物理教育学や数学科教育学という題名ではないところにその問いへのヒントはある。「教科教育学」研究方法論というネーミングには、この講義の達成目標である「異教科で対話し、協働できる教員の育成」という意図が明確に込められているからだ。我々は、今日の複雑化・複合化する社会と向き合ううえで、「教師としての教育の目的はどこにあるのか」について再考しなければならないというのはもはや自明である。あくまで「教科」とは便宜上の枠組みであって、「どんな人間を育てていくのか」こそが本質的な問題であるからである。その意味で本講義は大変に意義深い。なぜなら、対話によって他教科についての理解を深めることで、自分の教科を考え、捉え直し、理解することにつながるからである。またそうした方法は、一つの教科では対処できない「教科と教科の間にある問題」を提示し、考えるきっかけと方向性を示してくれる可能性をもちあわせているのだ。


■ 教師にしても学校でいかに自分の教科の授業をするかということはもちろん大切です。しかし、社会から切り離され存在にならないためにも、社会の情勢や教科外のことにも目を向け、自分にできることは何か、さらには自分の専門性を活かせることとは何か、ということを様々な社会事象に対して考えることも重要だと感じました。英語教師はただ「英語」を教えるわけではありません。それは他の教科においても同様であり、より複雑化する社会において、他教科についての理解も深め、協働していくことの必要性がますます高まっていくことについても、先生方のお話を聞いて納得しました。せっかく多くの教科を研究する大学で学べているので、在学中により多くのことを積極的に、周りの人から学んでいきたいです。


■ はじめに、自分の教科だけではなく、他教科について考える意義として、「教員同士が協働し、よりよい物を生み出すこと」だと考えた。私も沢山の先生方がおっしゃっていたように、自分の教科を学ぶだけではとても狭い視野になってしまい、多様化し複雑化する社会における諸問題を一つの視点だけから解決することは不可能だと考えている。そのような中での「協働できる教員」とは、単に教員としての業務を支え合うことだけではなく、自分の持つ専門的な知識と、他の専門的な知識を取り入れ、生徒がよりよい社会を生きていくための土台にするために、互いに良い影響や新しい発見をもたらすように日々取り組んでいくことだと思う。今回の学生同士の対話の中では、自分の全く知らない世界の話、とくにより論理的な理系の話から、自分が今「何も知らない」ということに気付くことができ、今後何を学んでいかなければならないのかの指針になった。


■ 今日の講義のメインクエスチョンは、「○○科教育学ではなく、なぜ教科教育学研究方法論なのか」という、本講義の目的に関わるものでした。

本講義の具体的目標は、「異教科で対話し、協働できる教員育成」であり、その理由としては、二つが挙げられました。一つは、「複雑化/複合化する社会と向き合う」必要があること、つまり、例えば自然災害など、一つの教科だけで対処できない問題や教科と教科の間にある問題に取り組む必要があること、もう一つは、「一人の人間の成長と向き合う」ことが必要であることです。

私自身の言葉で要約すれば、これからの教育は、社会のニーズと、教育を受ける側である個人のニーズのどちらも踏まえて行われる必要があり、それを可能とする教員の養成が必要であること、そしてその手段として異教科との対話が位置づけられます。したがって必要なのが「○○科」という枠にはまらない「教科教育学研究方法論」です。

では、教育界で私自身がこれからどのような役割を果たしていきたいか、というと、私は、英語教育を専門としますが、学部では社会学に関心を持ち、どちらかというと枠にとらわれず学際的に、興味を持ったことすべてを学んできました。そのため、講義のはじめに八木先生がおっしゃっていたような「自分の教科ではやらないから」という考えを持つ人がいることの方が驚きでした。英語は言語であり、言語とは、コミュニケーションの媒体です。言い換えれば、伝えたいこと、問いたいことがなければ、言語だけを学んでも意味はないということです。教育実習などでこれまでに私が出会った英語が好きな生徒には、とにかく英語ばかりを勉強する生徒も中にはいましたが、いつか教壇に立った時には、言語とは何をするためのものなのか、伝えられる教師になりたいと思います。

最後に、今日の講義を聞いて疑問に思ったこととしては、次の二つがあります。まず、どの教科も、その教科内容を他者に伝えていくという、最も大きな枠組みは共通であることから、教科教育学も教育学の一部です。では、①なぜ「教育学研究方法論」ではないのでしょうか。また、②一つの教科だけで対処できない問題の例として挙げられたのは災害への対応でしたが、他に例はあるのでしょうか。これから考えてみたいと思います。


■ 今回は2つの震災というテーマをもとに対話をしたが、このテーマに限らずとも世の中にあるすべての物事は何らかの形で複雑な要因が関わり合っている。科学的に分析することができれば、社会学的に考察することもできる、あるいは芸術として表現することも可能である。このことはとても基本的なことのようにも思えるのだが、教育という文脈において考えてみると、意外と私たちはそのことを無視している、あるいは気づいてさえいないのかもしれない。教科教育学はそのような狭い、偏った考え方に対して新たな視点を与えてくれる学問であると、初回の授業を通して考えた。

教育界で自分が果たす役割とは何かを考えてみたとき、まず自分のフィールドについて十分な知識を備え、適切に語ることができなければならない、と今回の対話を通して感じた。英語科である以上、言語を通して人を育てるということに貢献することが自分の最も重要な役割であると考える。今回は震災をテーマに語ったが、生活におけるあらゆるテーマ・文脈において、言語が、英語がどのような役割を果たすのかを理解し、その活用の仕方について適切に指導していかなければならない。柳瀬先生が授業中におっしゃっていたように、英語について知っているだけでは役割を果たせているとは言えない。生徒が英語を使って何かできるようになって初めて英語教師としての役割を果たすことになるのだが、そのためにはより広い知識を備えている必要がある。つまりそれは教育においては、他教科の理解につながると考えられる。

他教科の教育について知ることで、ある物事においてどのように様々な分野が関わっているのかを知ることになる。その結果、自分の教科がどのような役割を担っているのか、より広い視点から見えることになる。生徒の人間としての成長という複雑な過程を考えたとき、他教科で培える点、自分の教科で培える点がより具体的にイメージできるのはないかと思う。お互いがお互いを知ることで、教科の枠を超えた協働が可能になり、生徒の人間としての教育により幅広い可能性を与えることになる。この点において、他教科についての理解というのも意義深いものになるのではないかと考える。


■ 私が今回の講義を通して再認識したことは、一つに、この世のあらゆる出来事は、様々な要因が複雑に絡み合っているということである。今回の対話のテーマである「大災害」がそうであるように、何か一つの教科知識では対処できない問題が世の中には多く存在する。私たちの頭の中にある知識体系は “unbounded” である。例えばどこまでが世界史領域でどこからが地理領域かといったものは、本来はっきりした境界線を持つものではない。教科学習は情報をインプットする際に、似た学習領域をまとめたものに過ぎない。そうすることによって、私たちは情報を整理して理解することができ、頭の中の知識の体系づけが容易になる。しかし、本来自分の知見を広げ深めるための教科学習が、かえって自分の考え方を固執させてしまっていることが多くあるのではないか。私自身がそのような状態に陥っていると感じた例を以下に述べる。
 
 「明日大災害が起きたとして、教師(研究者)として何ができるか」という題目を見たとき、恥ずかしながら私は困ってしまった。「英語ができて何になるのだろう。」そのような考えが拭えなかった。その後、普段関わる機会のない他教科の先生方や学生の知見を聞いて、自分が今まで考えたこともなかったような意見や考え方を知り得ることができた。知っていることが違えば、こうも世界の見方が違うのかと衝撃を受けた。「英語」という枠組みにとらわれて凝り固まっていた私の頭が、他者との対話によって少しほぐされたように感じた。確かに、「英語」という言語の知識そのものでは何も解決できない。伊藤穣一さんがされたように、科学などの他の領域を助ける、英語科にはそのような役割もあるのではないだろうか。英語科に限らず、すべての科目が、固執することなくお互いの不足しているものを補い合えるような関係性にあるべきではないだろうか。私はすべての科目のエキスパートになることはおそらくできないが、「対話」を通して世界を広げることができると確信することができた。


■ 授業中、先生方のお話や他教科の学生との対話、また感想に何を書こうかと考えている中である国語科の学生さんのことを思い出していました。彼女とは偶然アルバイトで知り合ったのですが、その日はアルバイトの方が忙しくなく、何気なく卒業論文の話をしていました。彼女は自身の卒業論文を、源氏物語にみられる衣服による感情の表現をテーマに執筆するつもりだ、と言っていました。僕は、恥ずかしいことに、日本の古典作品をあまり読んでこなかったため詳しいことがあまりわからず、「そういった研究は今までにも多くなされてきたのか」というありきたりな質問をしました。彼女いわく、光源氏が女性に衣服を送る場面の感情描写を研究したものはあると思うが、衣服自体から読み取れる感情を題材とした研究はそれほど多くない、とのことでした。僕は、なぜそのような研究に着目したのか、ということを尋ねて彼女の返答に驚かされました。彼女は国語科の免許を取ると同時に家庭科の副免許を取得するために、家政の授業も受けている、とのことでした。そして、家政の授業を通して学んだ知見を少しでも卒業論文に活かしたくてこのようなテーマにしたそうです。僕はその時、一つの研究が教科の枠を飛び越えた瞬間をみた気がしました。「家庭科の副免許をとっていなかったら、このテーマは思い浮かばなかったと思う」、と彼女は付け加えていました。学部生の頃から僕は、なぜ他教科の生徒と一緒に学ぶ必要があるのか、大変疑問に思っていました。全く知らない人と話し合いやグループ活動をして一体何になるのか、と恥ずかしながら本気で思っていました。そのため、彼女の話を聞いた時はまさに赤面する思いでした。僕はなんの理由もなしに自分の世界を狭めていたのだと、彼女の言葉に気付かされました。

今回の授業でも、他教科の学生との対話を通して教科という枠を越えた思考を見ることができました。僕たちのグループは教科ごとに、大きな問題に直面した時どのように自分の教科を活かすことができるかを発表していき、それに対してフィードバックがあれば自由に述べる、という形式で対話を進めていったのですが、このフィードバックが大変興味深かったです。例えば、保健体育の学生さんが発表した後に、造形の学生さんが「災害時に正しい身体運用を知っているだけでも、生き延びることができる可能性は変わってくるよね」というフィードバックをしていました。保健体育の学生さんは少し驚いた様子で、そういわれるとそうだよね、といった反応でした。その学生さんは今までそのように体育を考えてこなかったから少し驚いていたのだと思います。ここにも、教科という枠組みを越えたやり取りを見ることができました。

僕たちは何かを考える時、僕たち自身の「思考様式」という檻に閉じ込められているのかもしれません。これは僕たちにはどうすることもできないことでしょう。問題なのは、僕たちがそういった思考の檻の中に居ることに、自身では気づけていないことにあると思います。教科を越えたやり取りは僕たちが何かを考える時にいかに「縛られているか」と言うことに気づかせてくれます。檻を壊すとまではいかないにせよ、「対話」というものが僕たちに、思考の檻にいながらにして「檻ごと転がる」方法を教えてくれるのではないでしょうか。


2018/04/16

『トップジャーナル395編の「型」で書く医学英語論文』を共著出版した石井達也さん(博士課程後期)に寄稿してもらいました。


 教英院生(博士課程後期)の石井達也さんがこの度、本学の河本健教授と羊土社から『トップジャーナル395編の「型」で書く医学英語論文〜言語学的Move分析が明かした執筆の武器になるパターンと頻出表現』を共著で出版しました。

 以下は、その石井さんに寄稿してもらった文章です。石井さんに見習い、教英の他のメンバーも積極的に研究の機会を求め続けたいと思います。石井さん、忙しい中の寄稿をありがとうございました!



 


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  この度、広島大学ライテイングセンターの河本健教授と共著で『トップジャーナル395編の「型」で書く医学英語論文〜言語学的Move分析が明かした執筆の武器になるパターンと頻出表現』を2018年3月28日に羊土社から出版しました教英・博士課程後期院生の石井達也と申します。出版に至った経緯とぼんやり考えていることを少し書かせて頂きたいと思います。

 他大学の文学部英文学科を卒業後、英語教師を目指して、2014年広島大学大学院修士課程に入学させていただきました。学部時代はHallidayの提唱する選択体系機能言語学を学んでいました。その関係でコーパスに興味があり、せっかくだったらと思い、修士課程開始半年後に休学し、コーパス言語学のメッカとも言える英国バーミンガム大学大学院の応用コーパス言語学コースに入学しました。広大は大変制度が整っているのでグリーン・ウィング教育奨学金を頂くことができ、英国では勉学に集中した日々を送ることができました。

 修士論文では、自分で医学英語論文をmoveごとに編集したコーパスを作り、分析をしました。moveとは平たく言えば「論の流れ」のことです。医学論文は先行研究によるとIntroduction、Methods、Results、Discussionから成り立っていることが多いのですが、更に細かく見ればそれぞれ3つ、4つ、2つ、3つの計12つのmoveに分けることが出来ます。この考えに基づき4誌395編の医学英語論文を12のmoveに分けた約130万語のコーパスを作成し、分析をしました。

 出版に至ることが出来たのは広大帰国後です。帰国後、教英の院生としての生活を再開しつつ、広大ライティングセンターで働かせて頂き始めました。その時に出会ったのがライフサイエンス分野の英語に関する数々のご著書がある河本教授でした。先生に修士論文を読んでいただき、新たな共同研究を提案させていただきました。同時に、半分冗談で「本にしませんか」とも提案しました。長年膨大なライフサイエンス系の論文抄録コーパスを解析してこられた先生の直感と私の分析とが一致したようで、少しずつ新たな研究の形が作られてきました。河本先生にはさらに、ライフサイエンス辞書コーパスと比較しつつデータを見直して頂き、出版社との交渉もしていただきました。

 ここで私にとって大切なことはコーパスデータで明らかになったことと長年論文を読んでこられた先生との直感が一致したことです。コーパス研究が盛んになりつつある中、長年の経験から導き出される直感がとても大切なのだということを強く再認識しました。このように広大の制度を利用した留学・広大でのご縁が本書の出版を可能にしました。これからもご縁を大切に1歩1歩成長できていければと思います。

 最後にぼんやりと考えていることを書いて終りたいと思います。僕自身、中高時代は勉強が“できる”ようになることを目標にしていたと思います。でも“できる”ようになるとはどういうことでしょうか。偏差値があがることでしょうか。確かにそれもあるかもしれません。でもぼんやり考えているのは、“できる”ようになるとは、「分からないこと」が増えていくことかもしれないということです。

 僕自身研究をするにつれて分からなくなります。ある日は分かったつもりになっても、次の日の朝に矛盾をみつけ、また分からなくなります。その繰り返しです。特に教英伝統の特研・講究では他者に発表を聞いてもらい、質疑をするので、矛盾にすぐに気づくことができます。この矛盾から生じる「分からない」という感情は、「知りたい」という感情になり、本を読むというサイクルになります。

 この感覚は現在中高教員として働かせて頂いていますが、とても大事ではないかと思っています。目の前の中学生・高校生が「分からない」と言った時、それはもしかしたら“できる”ようになる途中と思えるからです。「あ、駄目だ」と思って切り捨てることは簡単ですが、生徒の成長の機会と捉えることがきるのではと思います。僕自身、たくさん分からないことがあります。その結果、博士課程後期まで進学しました。多くの先生方、特に温かみをもって見守って下さる教英の先生方に改めてお礼を申し上げたいと思います。これからもご指導・ご鞭撻をよろしくお願いいたします。


追記(2018/04/17)
文章を一部修正しました。




教英・グローバルコモンズ共催イベント 大学院生が登壇

  2026年7月16日、教英と教育学部グローバルコモンズの共催で下記イベントが開催され、M1の上原壮司さんがパネリストとして登壇しました。 以下、上原さんからの報告です。 ====== 7月16日に教英とグローバルコモンズの共催で開催されたパネルディスカッション「Approac...