以下はデューイの
Democracy and Educationの第四章を題材にした授業の振り返りです。大学院では英語教育について根底的に考え直すことを目指しています。
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■ FO君
デューイは第四章で教育の到達点について、“educational process has no end beyond itself; it is its own end” と述べています。このことばは現在の日本の英語教育に辛辣に突き刺さるのではないでしょうか。予習でも書いたとおり、現在の日本の英語教育では、TOEICや英検、大学合格など教育からは離れたところにそのゴールが設定されているように思えます。今回の授業では、ではなぜ教育からおよそ離れた場所に教育のゴールを設定してしまうことは避けられなければならないのか、ということについて多くの意見を交わしましたので、授業を通して考えたことをまとめて振り返りとさせていただきます。
予習でも触れたのですが、TOEIC、英検、大学入試といったゴールは静的なもので、一度学習者が目標としている点を超えると、彼らを学びに追いやる効力は途端になくなります。つまり、ある一点をもってして学びは完了してしまう、ということです。教育以外のものに教育の到達点を措定することの最初の弊害はまさにこのことに見られます。
デューイは、教育とは発達(成長)することであり、成長することとは生きることである、と述べています。人は生きている間は成長するものである、という考えは第四章で初めて出てきた考えでではなく、第一章においては「人は絶えず自己刷新を行うことで生命を維持する」と述べられているように、言い方を変えて繰り返し述べられてきたことです。大胆な翻訳を試みるなら、「人は生きていることを通して学び、学ぶことを通して生きている」と言えるかと思います。
この考えに反し、先程から挙げている各種テストは学習者に「どこかで学びは終わる」という考えを植え付けてしまいます。学校の定期考査などでも、テストの数週間前になるとバタバタとテストに向けた学習を始める生徒が、テストが終わった瞬間に勉強をやめてしまうことは生徒が「どこかで学びは終わる」と考えている確たる証拠であるように思えます。
外的な要因が教育の到達点となることのもう一つの弊害は学習者の「知らないこと」に対する反応にまざまざと現れます。こちらも予習で少し触れたのですが、「テスト」という外的要因が教育の到達点となった瞬間に、そのゲームにおけるプレーヤーは「知らない」という態度を取ることが許されなくなります。なぜなら、「知らない」ということはテストにおける減点を意味するからです。「知らないでいること」や「わからないでいること」が罪とされる環境において生徒は自分自身を自由に表現できるはずがありません(「わからない」と言えば有無を言わさず減点されてしまうから)。
そして、「自身を自由に表現できない」ということは学習者を学びの主体から引きずり下ろし、受動的に学ぶことを彼らに強いることになります。受動的に学ぶばかりでは生徒は内向的にならざるを得ない、ということは今までの授業を通しても繰り返し語られてきたとおりです。自ら環境に働きかけることを否定された生徒からすると、世界は常に与えられるものであり、与えられた世界こそが全て、となります。
もちろんこれは学校の学びにおいても言えることです。内向的になることを義務付けられた生徒は「知識」が口元まで運ばれるのを待つようになります。デューイのことばを借りるなら、彼らは知性からはおよそ切り離された「悪い習慣」によって知識ばかりを詰め込もうとします(デューイがこのような状況を、「私たちが習慣を所有しているのではなく、習慣が私たちを所有している」と明らかな形で表現したことには強い意味を感じます)。
教育の到達点が固定された静的なものであってはならないのと同様に、ここで言う「知性」も単に「何かを知っている」という落ちつたものではありません。それは、「自分にはまだ知らないものがある」ということを自覚した際の表情であったり、その「知らないもの」と付き合う際の所作であったりにありありと表れます。「知らないもの」を恐れ、そこから目を背けるようにして暮らしてきた人は未知との遭遇に体をこわばらせます。対して、「知らないこと」と向き合うことを恐れない人は、その遭遇に目を輝かせて思わず微笑んでしまうでしょう。
このように、知性とは「自分の知っていること」ではなく、むしろ「自分のまだ知らないこと」にその軸足をおいています。つまり、知性とは「他人」、ないしは「知らないもの」、より大きく「環境」に自身を規定して初めて生まれる考えであって、それらとうまく付き合っていくことを指すのだと思います。
現在の英語教育ではこの「わからなさとの付き合い方」があまりにも軽視されているように思えてなりません。人が人として生きていく限りにおいて世界は不思議なもので溢れています。その時々の自分が持ちうる度量衡でははかることができないものなど世界にはいくらでもあります。私はそれでいいのだと思います。世界は多くのwonderで溢れているからこそwonderfulであり続けます。このような世界において生涯学び続けることができる生徒を育てるためには私たち自身が「わからなさ」や「知らないでいること」に寛容になる必要があります。そして生徒たち自身もそれらに対して恐怖を覚えずにすむような環境を整えることが今の教育には必要なのではないでしょうか。
■ OT君
学校で行われるべき学習とは”learn to learn”あるいは”habits of learning”といったような、学習習慣を身に着けることにあると学んだ。しかし学校教育という制度によって社会の浅薄な一部分にのみ学びが方向づけられているのではないか。あるいは機械的な学習を繰り返すことが学校で身に着けられる習慣になっていないか。学校教育という場の特異性から、学びの課題について考えたい。
学校の特異性のひとつとして、教科が分けられていることが挙げられる。学校の教科は国語、数学、社会、理科などに分けられ、それぞれの教科内で学習する内容が決められている。国語では読み方書き方を学び、理科では天気や生物について学び、数学では四則演算や方程式を学ぶ。しかし本来世の中の事象というのは各教科のような独立した領域から説明されるものではなく、ひとつの物事に関して様々な要素が関連しあっている。例えば天気をひとつとっても、理科では天気図、数学では確率、国語(英語)では気象予報の表現、社会では天災など、複数の領域に関連している。
教授効率を考慮して領域は分けられるようになったのだろう。ただ学習者にとってはそれぞれの事象は各教科内の独立した項目として存在し、諸々の事象の関連性とは、社会に実在するそれよりもずいぶん希薄なものあるいは存在しないものとなってしまう。二次関数は数学の教科書に、江戸時代は歴史の教科書に存在するものとして認識されるに終わるだろう。教科という枠組みを超えた教員間の連携がなければ、各教科で学ばれる内容は教科内でのみ成立する、社会からかけ離れた事象になりかねない。
またテストの存在も学校教育を特異づけるもののひとつである。テストではある一定の期間に学校で教授された内容に関する知識や技能の習得度が問われる。テストは出題者が「これぐらいの知識技能は身につけておきなさいよ」と設定した目標に、生徒が到達しているかを測るものである。それらの目標は特定の人たちが、社会の一部分を切り取って決定している。そこに生徒の興味や関心といったものはほとんど反映されない。テストで社会の事象すべてを問うことなどできないから、こういった事実は仕方のないものだと認められている。
教師もテストが測れるのは生徒の学習成果のごく一部で、テストがすべてではないことはよく知っている。しかしテストは社会において大きな意味を持っており、教師はテストで生徒がいい結果を残せるように必死に指導する。テストに向けて効率を上げるため、とにかく機械的に知識を身に着けさせる。このとき学習習慣や学びとは何かといったことなど考える余裕はなく、生徒は機械的な繰り返しのうちに学ぶことが何かわからなくなってゆく。このような悪循環の中で、habits of learningは身につくことなく、むしろ学習そのものが嫌になっていく。テストという目標を通過した生徒は次に何をすればいいのかもわからずそこで学習は終了してしまう。
これらの事実を教師はまず意識することから始めなければならない。もしかしたら日々授業を行いながらこのことはひしひしと感じているのかもしれない。制度は変えられないが少しずつ学びを変革していく努力ができればと思う。
■ MT君
... 学びは教室の中のみで完結するものではない。デューイが第3節で "The inclination to learn from life itself and to make the conditions of life such that all will learn in the process of living is the finest product of schooling.” と述べていることからもわかるように、学びの本質はむしろ教室の外にあると言っても良いだろう。
学校教育の中で教科の内容を生徒が習得する(acquire)こと自体を目的とするのではなく、その教科の内容を知ることにより、生徒が実生活の中での学びをより豊かにする(enrich)ことができる、すなわち学ぶこと学ぶ(learn to learn)ことができるような環境を整えることが教師の役割である。そのためにはまず、教師自身が教科の内容を真に楽しんでいる様子を生徒に見せることが必要であると、今回の講義を通じて考えた。
デューイの論を踏まえた私の主張は、現在の日本の学校教育の風潮からしたら少し攻撃的な記述であるように思える。最後に弁明しておきたいのは、私は現在の目標達成型の授業観やCan-doリストが害悪で改められるべきものであると考えているわけではない。ただし、現在行なわれている学校教育を最良のものとして捉え、それが正義だと思い込むのではなく、それが抱え得る課題について教師が認識をする必要はあるのではないだろうか。
■ YRさん
デューイが第4章で述べていることは、学校教育をこれまでよりも広い視野でとらえることにつながった。生きることは発達であり、教育の過程自体に終わりはなく、教育の過程とは、継続的な再構成、再構築、変転であるという主張と、講義での議論から次のことを考えた。
学校教育が終了すると、教科や教育課程がなくなる。その枠組みがなくなっても、ひとりの人間が人生で発達・成長するために必要な芽は、子供(ここでは学校教育を受けている生徒とする)の時に様々な形態で発現しているのではないだろうか。教師の役割は、それを見つけて適切なguidance, direction, controlで働きかけることだと思う。
しかし、教師がこの芽を見つけられなければ、さらに言うとそれに関心がなければ、学校教育はその人間にとって意義が薄れるだろう。故に、芽の形態に関する理解が必要である。特に、フィンランドのように国が教科の枠組みを外して教育を広くとらえるような学校でないのであれば、なおのこと教師が気づく必要がある。
そのためのひとつの方法としては、学校教育を終えて現在生きている人間を、可能な限りで知ることがある。彼らが経験によってどのように自分を「再構成、再構築、変転」させているのかという視点で観察し、そのために必要な力は何であり、それはどうやって育てられるのかを考察してみる。すると、例えば、「忍耐力」、「柔軟性」、「好奇心」といったような、抽象的な概念が発見されるだろう。その要素を、英語教育で、授業で盛りこもうとすることが、日本の教育制度の中で働く教師にできることのひとつであると考えている。また、外部に出ることが少ない日常生活で、教師が身近に接することができる人間が、保護者である。彼らとの接点を、生きることの様々な観点を共有するという位置にも見つけたい。