先日は、「異教科間で対話し共同できる教員の育成に関する研究」の
ホームページについてお知らせをしましたが、その研究に直結している授業の一つである「教科教育学研究方法論」の第一回目の授業が先日行われました。異なる10の教科を教える専修(講座)の大学院生 (M1) が一同に集まり、自分の専門の枠組みを超えた対話を行う授業です。
以下は、教英の院生による授業の感想の一部(抜粋)です。現代社会に対応できる力を育てるための敎育を志向する院生の気持ちが少しでも伝わればと思い、ここに転載します。
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■ 私は今年の三月まで現職の教諭として働いていたが、講義を聴きながら、教科の枠を超えて、組織として働くことの重要性を再認識した。教育は人間教育であって、特定の教科の成績を伸ばすというのは、ほんの一面に過ぎない。また複雑化、複合化する社会において、教師一人一人が複合的な見方をし、生徒を育てるためには、教科内の人間関係はもちろんのこと、それ以外の同僚ともしっかり対話をして関係を築き、みんなで取り組んでいくことが不可欠だと思う。
■ はじめに「他教科の教育について考える意義」であるが、本講義が例えば英語科教育学、物理教育学や数学科教育学という題名ではないところにその問いへのヒントはある。「教科教育学」研究方法論というネーミングには、この講義の達成目標である「異教科で対話し、協働できる教員の育成」という意図が明確に込められているからだ。我々は、今日の複雑化・複合化する社会と向き合ううえで、「教師としての教育の目的はどこにあるのか」について再考しなければならないというのはもはや自明である。あくまで「教科」とは便宜上の枠組みであって、「どんな人間を育てていくのか」こそが本質的な問題であるからである。その意味で本講義は大変に意義深い。なぜなら、対話によって他教科についての理解を深めることで、自分の教科を考え、捉え直し、理解することにつながるからである。またそうした方法は、一つの教科では対処できない「教科と教科の間にある問題」を提示し、考えるきっかけと方向性を示してくれる可能性をもちあわせているのだ。
■ 教師にしても学校でいかに自分の教科の授業をするかということはもちろん大切です。しかし、社会から切り離され存在にならないためにも、社会の情勢や教科外のことにも目を向け、自分にできることは何か、さらには自分の専門性を活かせることとは何か、ということを様々な社会事象に対して考えることも重要だと感じました。英語教師はただ「英語」を教えるわけではありません。それは他の教科においても同様であり、より複雑化する社会において、他教科についての理解も深め、協働していくことの必要性がますます高まっていくことについても、先生方のお話を聞いて納得しました。せっかく多くの教科を研究する大学で学べているので、在学中により多くのことを積極的に、周りの人から学んでいきたいです。
■ はじめに、自分の教科だけではなく、他教科について考える意義として、「教員同士が協働し、よりよい物を生み出すこと」だと考えた。私も沢山の先生方がおっしゃっていたように、自分の教科を学ぶだけではとても狭い視野になってしまい、多様化し複雑化する社会における諸問題を一つの視点だけから解決することは不可能だと考えている。そのような中での「協働できる教員」とは、単に教員としての業務を支え合うことだけではなく、自分の持つ専門的な知識と、他の専門的な知識を取り入れ、生徒がよりよい社会を生きていくための土台にするために、互いに良い影響や新しい発見をもたらすように日々取り組んでいくことだと思う。今回の学生同士の対話の中では、自分の全く知らない世界の話、とくにより論理的な理系の話から、自分が今「何も知らない」ということに気付くことができ、今後何を学んでいかなければならないのかの指針になった。
■ 今日の講義のメインクエスチョンは、「○○科教育学ではなく、なぜ教科教育学研究方法論なのか」という、本講義の目的に関わるものでした。
本講義の具体的目標は、「異教科で対話し、協働できる教員育成」であり、その理由としては、二つが挙げられました。一つは、「複雑化/複合化する社会と向き合う」必要があること、つまり、例えば自然災害など、一つの教科だけで対処できない問題や教科と教科の間にある問題に取り組む必要があること、もう一つは、「一人の人間の成長と向き合う」ことが必要であることです。
私自身の言葉で要約すれば、これからの教育は、社会のニーズと、教育を受ける側である個人のニーズのどちらも踏まえて行われる必要があり、それを可能とする教員の養成が必要であること、そしてその手段として異教科との対話が位置づけられます。したがって必要なのが「○○科」という枠にはまらない「教科教育学研究方法論」です。
では、教育界で私自身がこれからどのような役割を果たしていきたいか、というと、私は、英語教育を専門としますが、学部では社会学に関心を持ち、どちらかというと枠にとらわれず学際的に、興味を持ったことすべてを学んできました。そのため、講義のはじめに八木先生がおっしゃっていたような「自分の教科ではやらないから」という考えを持つ人がいることの方が驚きでした。英語は言語であり、言語とは、コミュニケーションの媒体です。言い換えれば、伝えたいこと、問いたいことがなければ、言語だけを学んでも意味はないということです。教育実習などでこれまでに私が出会った英語が好きな生徒には、とにかく英語ばかりを勉強する生徒も中にはいましたが、いつか教壇に立った時には、言語とは何をするためのものなのか、伝えられる教師になりたいと思います。
最後に、今日の講義を聞いて疑問に思ったこととしては、次の二つがあります。まず、どの教科も、その教科内容を他者に伝えていくという、最も大きな枠組みは共通であることから、教科教育学も教育学の一部です。では、①なぜ「教育学研究方法論」ではないのでしょうか。また、②一つの教科だけで対処できない問題の例として挙げられたのは災害への対応でしたが、他に例はあるのでしょうか。これから考えてみたいと思います。
■ 今回は2つの震災というテーマをもとに対話をしたが、このテーマに限らずとも世の中にあるすべての物事は何らかの形で複雑な要因が関わり合っている。科学的に分析することができれば、社会学的に考察することもできる、あるいは芸術として表現することも可能である。このことはとても基本的なことのようにも思えるのだが、教育という文脈において考えてみると、意外と私たちはそのことを無視している、あるいは気づいてさえいないのかもしれない。教科教育学はそのような狭い、偏った考え方に対して新たな視点を与えてくれる学問であると、初回の授業を通して考えた。
教育界で自分が果たす役割とは何かを考えてみたとき、まず自分のフィールドについて十分な知識を備え、適切に語ることができなければならない、と今回の対話を通して感じた。英語科である以上、言語を通して人を育てるということに貢献することが自分の最も重要な役割であると考える。今回は震災をテーマに語ったが、生活におけるあらゆるテーマ・文脈において、言語が、英語がどのような役割を果たすのかを理解し、その活用の仕方について適切に指導していかなければならない。柳瀬先生が授業中におっしゃっていたように、英語について知っているだけでは役割を果たせているとは言えない。生徒が英語を使って何かできるようになって初めて英語教師としての役割を果たすことになるのだが、そのためにはより広い知識を備えている必要がある。つまりそれは教育においては、他教科の理解につながると考えられる。
他教科の教育について知ることで、ある物事においてどのように様々な分野が関わっているのかを知ることになる。その結果、自分の教科がどのような役割を担っているのか、より広い視点から見えることになる。生徒の人間としての成長という複雑な過程を考えたとき、他教科で培える点、自分の教科で培える点がより具体的にイメージできるのはないかと思う。お互いがお互いを知ることで、教科の枠を超えた協働が可能になり、生徒の人間としての教育により幅広い可能性を与えることになる。この点において、他教科についての理解というのも意義深いものになるのではないかと考える。
■ 私が今回の講義を通して再認識したことは、一つに、この世のあらゆる出来事は、様々な要因が複雑に絡み合っているということである。今回の対話のテーマである「大災害」がそうであるように、何か一つの教科知識では対処できない問題が世の中には多く存在する。私たちの頭の中にある知識体系は “unbounded” である。例えばどこまでが世界史領域でどこからが地理領域かといったものは、本来はっきりした境界線を持つものではない。教科学習は情報をインプットする際に、似た学習領域をまとめたものに過ぎない。そうすることによって、私たちは情報を整理して理解することができ、頭の中の知識の体系づけが容易になる。しかし、本来自分の知見を広げ深めるための教科学習が、かえって自分の考え方を固執させてしまっていることが多くあるのではないか。私自身がそのような状態に陥っていると感じた例を以下に述べる。
「明日大災害が起きたとして、教師(研究者)として何ができるか」という題目を見たとき、恥ずかしながら私は困ってしまった。「英語ができて何になるのだろう。」そのような考えが拭えなかった。その後、普段関わる機会のない他教科の先生方や学生の知見を聞いて、自分が今まで考えたこともなかったような意見や考え方を知り得ることができた。知っていることが違えば、こうも世界の見方が違うのかと衝撃を受けた。「英語」という枠組みにとらわれて凝り固まっていた私の頭が、他者との対話によって少しほぐされたように感じた。確かに、「英語」という言語の知識そのものでは何も解決できない。伊藤穣一さんがされたように、科学などの他の領域を助ける、英語科にはそのような役割もあるのではないだろうか。英語科に限らず、すべての科目が、固執することなくお互いの不足しているものを補い合えるような関係性にあるべきではないだろうか。私はすべての科目のエキスパートになることはおそらくできないが、「対話」を通して世界を広げることができると確信することができた。
■ 授業中、先生方のお話や他教科の学生との対話、また感想に何を書こうかと考えている中である国語科の学生さんのことを思い出していました。彼女とは偶然アルバイトで知り合ったのですが、その日はアルバイトの方が忙しくなく、何気なく卒業論文の話をしていました。彼女は自身の卒業論文を、源氏物語にみられる衣服による感情の表現をテーマに執筆するつもりだ、と言っていました。僕は、恥ずかしいことに、日本の古典作品をあまり読んでこなかったため詳しいことがあまりわからず、「そういった研究は今までにも多くなされてきたのか」というありきたりな質問をしました。彼女いわく、光源氏が女性に衣服を送る場面の感情描写を研究したものはあると思うが、衣服自体から読み取れる感情を題材とした研究はそれほど多くない、とのことでした。僕は、なぜそのような研究に着目したのか、ということを尋ねて彼女の返答に驚かされました。彼女は国語科の免許を取ると同時に家庭科の副免許を取得するために、家政の授業も受けている、とのことでした。そして、家政の授業を通して学んだ知見を少しでも卒業論文に活かしたくてこのようなテーマにしたそうです。僕はその時、一つの研究が教科の枠を飛び越えた瞬間をみた気がしました。「家庭科の副免許をとっていなかったら、このテーマは思い浮かばなかったと思う」、と彼女は付け加えていました。学部生の頃から僕は、なぜ他教科の生徒と一緒に学ぶ必要があるのか、大変疑問に思っていました。全く知らない人と話し合いやグループ活動をして一体何になるのか、と恥ずかしながら本気で思っていました。そのため、彼女の話を聞いた時はまさに赤面する思いでした。僕はなんの理由もなしに自分の世界を狭めていたのだと、彼女の言葉に気付かされました。
今回の授業でも、他教科の学生との対話を通して教科という枠を越えた思考を見ることができました。僕たちのグループは教科ごとに、大きな問題に直面した時どのように自分の教科を活かすことができるかを発表していき、それに対してフィードバックがあれば自由に述べる、という形式で対話を進めていったのですが、このフィードバックが大変興味深かったです。例えば、保健体育の学生さんが発表した後に、造形の学生さんが「災害時に正しい身体運用を知っているだけでも、生き延びることができる可能性は変わってくるよね」というフィードバックをしていました。保健体育の学生さんは少し驚いた様子で、そういわれるとそうだよね、といった反応でした。その学生さんは今までそのように体育を考えてこなかったから少し驚いていたのだと思います。ここにも、教科という枠組みを越えたやり取りを見ることができました。
僕たちは何かを考える時、僕たち自身の「思考様式」という檻に閉じ込められているのかもしれません。これは僕たちにはどうすることもできないことでしょう。問題なのは、僕たちがそういった思考の檻の中に居ることに、自身では気づけていないことにあると思います。教科を越えたやり取りは僕たちが何かを考える時にいかに「縛られているか」と言うことに気づかせてくれます。檻を壊すとまではいかないにせよ、「対話」というものが僕たちに、思考の檻にいながらにして「檻ごと転がる」方法を教えてくれるのではないでしょうか。