2017/11/10

二名の大学院生による(比較的正直な)高校・大学生活の述懐


以下はデューイの『民主主義と教育』を読む授業で書いてもらった授業振り返りの文章です。ここにあげた二人は、国立大学・公立大学に入学し、国立大学の大学院に入ったという経歴をもっていますが、そのような経歴をもつ二人が比較的正直にーといいますのも、授業に関して教員が読む文章に対してまったく正直に話をすることなど不可能ですからー書いた文章から、高校・大学教育の一側面について知ることができると思い、ここに掲載します。






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   今回の講義では、8章の「教育におけるねらい」という章を扱った。講義では様々な議論が行われたが、ここでは自分の体験をもとに、考えたことや感じたことをまとめようと思う。

 まず始めに、ここでは「ねらい」について色々な話が行われた。そもそも、「ねらい」というものは、外部から定められた時に教育の「ねらい」は語ることが出来ないと述べられていた。また、これについては、外部からではなく生徒自身が自発的に芽生え、保持するというものであった。ここで議論に上がったのは、内発的に「ねらい」が湧き上がるために、ロールモデル〈憧れ〉となる人物が必要ではないか?というものが挙がった。これについて、私自身「確かにその通りだ」と思う節があった。

 私が高校3年生の頃、進路学習の一環として「先輩たちから学ぶ」という時間が何回か設けられていた。恐らく、他の人もこのような時間があったと思うのだが、卒業生で大学に進学した人を招いて、自身の高校時代の勉強法や受験、そして進学後はどのようなことをしているのかなどを話してもらうといった時間であった。一見、ためになりそうな時間であるが、正直なところ私にとっては、彼らの話は聞いても何のためにもならなかった。

 というのも、毎回講話に呼ばれる人は、高校時代に学年で上位5名以内に常にいて、T大やK大というような名門国公立大学に合格した人ばかりで、彼らの勉強法や進学後の話を聞いても何にも共感せず、私たちからかけ離れ過ぎており、話の中で将来のためになるものが1つもなかったのだ。話の終わりに学年主任から「先輩もこんなにいい進路を進んでいるのだから、みんなもいい大学、特に国公立に合格できるように頑張ろう!」と言われた時には、心底がっかりしたのを思い出した。ここで選ばれた卒業生は、教師(学校)にとっては素晴らしいロールモデルであったのだろうが、ほとんどの生徒にとってはこれっぽっちも憧れないロールモデルであったのだろう。講話の後に進路に向けて真剣に考えなおしたり、勉強法を変えたりした生徒は、私のクラスでは全く見られなかった。

 また、同じく高校2年生の時、私の所属していた学科では英語ディベートの授業があった。ディベートは勿論、英語でのディベートなんてしたこともなかったため戸惑ったが、導入では「犬と猫どちらが優れているか」「宿題を廃止すべきか否か」といったような、比較的簡単な題材で楽しく授業を行えていた。しかし、やっと慣れてきた矢先、担任から「みんな慣れただろうから、今日からは『日本で死刑制度を廃止すべきか否か』についてずっとディベートをすることにしよう。」と言われ、かなり困惑したと同時に、一気にやる気が失せた。というのも、この学科の生徒の中から毎年英語ディベート大会に出場するという決まりがあり、担任はそのディベート大会に向けて学校から「出来る」生徒を選出するために、大会の議題である『日本で死刑制度を廃止すべきか否か』というテーマを指定したのであった。これについては、後々担任から大会についての説明があった際に「所詮こういうことか」と、さらにがっかりしたのを思い出した。

 高校での経験は悪いロールモデルの例であったが、大学では良いロールモデルを身近に経験した。私が大学生の頃、3年生から4年生にかけて、ゼミでの講義が開始された。このゼミについては、色々なゼミがある中から、自分の興味のあるゼミ(教授)を選択し、実際に見学したり面接を受けたりして学びの場を得るというシステムであった。誰もが必ずしも受講したいゼミに入れるわけではなく、教授と実際に話して、お互いに目的が合えば受講を許可されるというものであったため、とてつもなく場違いな学生はおらず、比較的似たような目的を持つ者が集まる場であった。特に、私の所属したゼミは「英語教育ゼミ」というもので、教職の授業を追加で取っていても、将来的には必ず教員になることを志望する学生が集まるゼミであったため、私と同学年は私を含んで2名しかいなかった。また、先輩も3名しかおらず、他のゼミに比べてかなり少人数のゼミであった。

 そのためか、教授は「他学年で同時に講義を行うことでお互いに刺激になるから」という理由で、3・4年合同のゼミを週1回実施した。教授の言うとおり、身近に同じような目的を持つロールモデル〈憧れ〉となる人がいたため、「自分もそうなるために頑張りたい」「どうすれば彼らに近付けるのか?」という思いのもと、内発的な目的や目標を持つことが出来た。その先輩達は勿論であるが、指導してくれる教授もまた、少し離れてはいるものの、私にとってはまた別のロールモデルとなっていた。その教授にも違うローモデルがあり、色々な角度や視点を持つロールモデルに囲まれた空間であった。

 通常の講義では特に何も刺激にならず、同じクラスの友人の中には、私のロールモデルとなる人はいなかった。同じ学科に属しているならば、似たような目的を持っているはずなのだが、中には特に何も考えていないような学生もいたため、特に必修のクラスでの授業は非常にやる気を削がれ、(言い方は悪いが)馬鹿馬鹿しかった。大学4年間で唯一楽しみであったのが週1回の合同ゼミであった。自分が4年生になり、後輩が入ってきた時も、後輩が違う角度からのロールモデルとなり、また違った刺激となったと共に、自身がより多くの繋がりを持てていることを感じていた。思い返せば、同学年のクラスメイトとゼミ生との仲を比べれば、未だに繋がりがあるのはゼミ生と教授との繋がりの方が強く続いている。

 年齢も性別も違うのに、なぜ未だに繋がりを持ち続け、未だに良い刺激を受けているのだろうか?私の考えとしては、似たような目的やねらいを持っており、それをゼミという環境の中で共有し、共感し、お互いに良い刺激を得ることが出来ているからではないかと思う。関係性は勿論、私たちの中で教授に決められたわけでもなく、自然に決定した「ねらい」は、私たちの現状に基づいたものであったからだと考える。また、個人や状況に応じて、少しずつ変更されていたというのも理由の一つだと考える。高校時代のような、自身からかけ離れ過ぎた「ねらい」やロールモデルは何の意味も持たない。かえって無駄で逆効果なものになるかもしれない。ある「ねらい」を持つために、私たちは常に柔軟な変化をしながら、私たちの現状に基づいた「ねらい」を設定しなければならないなと、今回の講義を経て痛感している。






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 今回の授業のテーマは,「教育における目的 (aim)」だった。私は,自身の中高生(特に高校生活)を振り返りながら,学校教育における目標の捉え方,またあるべき目標の捉え方について論じたい。

 Deweyは8章で,日本語の「目標」にあたる英語として,”aim”, “outcome”, “end in view”, “foresight”などを挙げている。これらの言葉に共通している概念に,”future direction”すなわち将来への「見通し」を含んでおり,”flexibility”なすなわち「柔軟さ」を持っていると考えている。しかし,現在の学校教育は,”aim”を達成するための”target”に偏重しており,そうした事態がもしかすると子供の自発性・自立を阻害しているのではないかと私は自分の経験から痛切に感じる。子どもは”target”を達成することに必死で,達成した後の姿を想像しない,あるいは想像できない。たとえるなら,目隠しをして言われるがままに作業をこなすが,目隠しを取ると,自分が全く知らない世界に放り投げられている状況ではないだろうか。

 私の高校生活を振り返ると,三年間偏差値をいかに上げるか,いかに(世間で言われる)いい大学に入るか,そのことばかりを気にしていたような気がする。友人とは模試の点数を比較してどちらの方が点数がいいとか,どれくらい伸びたかとかそういった話で持ち切りだったし,点数が低いと自分はなんてダメな人間なんだろうと自分のふがいなさにやる瀬なかった。極端な言い方をすれば,自分という存在を確かめるのに点数の良しあしという物差ししかなかったのかもしれない。友人に点数で勝つため,いい点数を取れば学校で褒められるため,真面目に勉強していればいつか報われるためといった動機のもと勉学に励んだ。しかし,目の前に襲い掛かってくる模試や競争に疲弊していたし,大学入学後のことなんか考える余裕はなかった。自分自身を勉強に奮い立たせていた動機も大学受験突破という”target”のための”target”に過ぎなかったのかもしれないし,こうした”target”が自分を小さく狭くしてしまったのかもしれないと考えている。実際,大学入学後サークルや部活,バイトなど高校生活にはない「自由さ」に最初は戸惑ったし,右往左往してしまった。自分がどうすればいいのかふるまい方が分からなかったのを今でも覚えている。

 上記に述べたエピソードはあくまで,私の個人的な体験であり,多くの中高生がこうした状況にあるとは思わない。しかし,真面目に学校の課題をこなしたり,学校でよい成績を取ったりしている生徒ほど,学校という環境を出た後に自分自身を見失ってしまうのではないかと私は考えている。

 だからといって,私の高校の先生方の教育方針が間違っているとか,現在の教育を否定するわけではない。高校の先生方も勉強には熱心であったし,様々な面で支えてくれた。従って,受験(あるいは卒業など)といった目の前に迫ってくるものに対処するだけではなく,将来の自分の姿を思い浮かべながら「自分」(aim) を見つけるために教師としてできることを考えていきたい。

 第一に子供の得意な分野を見つけそれを生かすような進路を考えることが重要であると考える。これは当たり前のようでいて,実際実行するのは難しいのではないだろうか。どうしても偏差値から逆算したり,学校の進路実績を上げたいという思いが強く働きすぎたりすることもある。生徒の好みに合った分野を紹介したり,得意分野を生かす指導を行ったりすることで生徒の側にも内からあふれる「自信」が芽生えてくるのではないかと思う。この芯からあふれ出る「自信」を持つことは,生きていく上で,絶対にその人にとって強みになると考える。

 第二に,さまざまな人のエピソードを語ることである。ただでさえ,学校教育それ自体が閉鎖的だと揶揄されている。受験で成功した秀才ばかりを集めてそのエピソードを語らせるのは生徒を逆に卑屈にさせたり思考を狭めたりしてしまうかもしれないし,学校教育の一つの目標(target)の押し付けになりかねない。私が教師であれば,自分の失敗談をはじめ,大学時代の経験を語ったり,異分野,他分野で活躍している人のエピソードを語りたい。そうすることで,生徒には「高偏差値=いい人間」という価値観を離れ,多様な価値観を持つこと,将来の自分の姿を想像すること,またそうした様々な生き方を知ることで,生徒にとって勉強することの本当の目的  (aim) を見出すことにつながるのではないかと信じている。



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